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イノセント

作者: 冷世伊世

――あれの身が人手に渡るとき、ぬしは死ぬであろう。


「忠興さまは(まじな)い師にそう言われたのです。私の身が人手に渡れば、自らは死してしまうのだと。ついにはその言葉を、今日まで信じてこられました」

 愚かしいこと。細川ガラシャはそう言い笑った。私は黙ってそれを見つめていた。

 さやけき夜のことである。

 屋敷の明かりはすでに落ち、部屋の中では蝋燭の(ともしび)が微かに揺れている。文机の前に座るガラシャは、先ほどから筆を休めることなく動かし続けていた。白く横長の紙へ一定の速度で文字が記されていく。彼女は夫、細川忠興への文をしたためているのだ。

 蝋燭の明かりに照らし出されたガラシャは美しかった。まだ幼さの残るそのかんばせには、見れば忘れがたくなる名状しがたい儚さがあった。それは触れれば壊れてしまいかねない刹那の美であり、けれど永遠に崩れないとも思わせるほどの極限の麗しさだ。文へ向けられている形良いその黒瞳はうるみ、頬はほんのりと上気している。ガラシャは微笑んで言った。

「どこの誰とも分からぬ呪い師の戯言を、あの方はいちばん大切なものとされたのです。結局、私を好いておられたわけではないのです」

「……そうでしょうか」

 私は口を挟まずにいられなかった。侍女として幼き日よりガラシャの側に従い、彼女のこともその夫、忠興のこともよく見てきた。忠興がガラシャを愛していないなどと、自らを含め屋敷の誰しも思わないことだ。唯一そう考える者がいるとすれば、それは目の前のこのガラシャに他ならないだろう。

 私は室内を見回した。豪奢なつくりのこの部屋には、珍かな宝玉や高価な茶器が所狭しと置かれていた。木棚の中や違い棚の上、しまいには置き場すらなくなった茶器の木箱が、部屋の隅に積まれている始末である。それらはすべて忠興からの贈り物だった。ガラシャが何度「必要ない」と断っても、忠興は一向に聞き入れず、彼の思うままに絶え間なく持ってくるのだ。さらには、ガラシャの部屋に飾られてある美しい生け花は日々新たなものと取り替えられるのだが、それを今までその可能な時には必ず、手ずから生けてきたのが忠興自身であった。息苦しいまでの好意をここまで寄せられて、なぜ「好かれていない」という言葉が出てくるのか。するとこちらの困惑を悟ったようで、ガラシャは吐息で笑い問うてくる。

「キヨ。愛とはなんでしょう」

「それは、……」

「物品をたくさん賜れば良いのか、執着されることが愛なのですか?」

 私は答えられない。こちらをちらとも見ることなく、ガラシャは変わらず文を書いていた。一定の速度で紡がれる紙の上の字は、彼女に似て完璧な美しさだ。

「私には分からないのです」

ガラシャは笑った。その声音は確信めいている。私はそれを聞いて直感した。彼女にはすべて分かっているのだ。

「……私には分からないのです」

 そう呟く顔は幸福にうるみ、かの人を想っているのだとひと目で分かった。ガラシャはもうずっと、出会った頃より彼女の夫、細川忠興を愛していた。



 ぱっとしない美丈夫。

 それが我が主の夫、細川忠興をはじめて見た時の印象だった。万人の目を引くガラシャに比べると、線の細い忠興はその横に並べばいかにも見劣りしてしまう。雅やかな芸事に造詣が深いと噂に高い忠興は、ガラシャとは反対に気の弱そうな、良く言えば優しげな風貌をしていた。気位の高いガラシャと上手くやっていけるのだろうか。古くから二人に仕える者たちは各々の胸中でそう感じていた。忠興の無表情に引き結んだ唇や言葉の少なさも、周囲を不安にさせる要因となっていた。ガラシャの近くに仕える侍女として、だから婚儀の夜、初めて過ごす夫婦の仲を心配に思っていた。閨の部屋で、侍女としての用向きを終え退室しようとした矢先に、忠興は仰天するようなことを言ってきたのだ。

「行くな。そこにいろ」

 本来であれば夫婦で過ごす部屋から「退室するな」と言われた。これはどういうことなのか、どうすれば良いのかと主を見てみれば、彼女は微笑んでいる。優しく頷いたガラシャは酒とつまみを用意するように私へ言ってきた。

「お話がされたいのでしょう?」

 ガラシャにそう聞かれ忠興は静かに頷いた。ほんのりと赤らむその顔は、少年のようなひたむきさで純粋にガラシャを見つめている。まるで手の平にのせた宝石を童が覗きこむように、飽きなくガラシャを見る忠興の目はうるみ、熱に浮かされたような色だ。私はほっとしたような呆れたような心持ちで、それでも言われた通りに酒とつまみを用意し、また部屋へと戻って来た。すると二人は何をするでもなく、部屋にあった小さな生け花を鑑賞して語らっているではないか。

「花が好きなのか? ならば、毎日届けさせよう」

「まぁ、毎日でなくとも構いません。時折見るから美しいのです」

「そなたには叶わぬ」

 粋に飾られた桜の花器を挟み、ひたすらに微笑んでいる忠興とガラシャは幸せそうだ。なんとも可愛らしい夫婦である。最初に目にした「細川忠興」という人物に対する印象は、その瞬間に真反対に塗り替えられることになった。二人は長く連れ添ってきたように、最初からとても仲睦まじかったのだ。



 ことがおかしな様相を帯び始めたのは、呪い師に忠興が会い、あの一言を告げられてからのことだった。

――あれの身が人手に渡るとき、ぬしは死ぬであろう。

 『あれ』とは、その場にいたガラシャのことである。

 忠興の横で話を聞いていた彼女は、それを聞いて少しだけその柳眉を動かした。微かに変わったその顔色は恐怖というよりも、呪い師に純粋な興味をもったように見えた。

戯言だ、と忠興は笑った。呪い師から無礼にも死の宣告をされながら、それを一笑にふすほどの余裕がまだ、その時の忠興にはあったのだ。

「なにも案ずることはない。それにお主はここにおる」

「えぇ、その通りですわ……」

 ガラシャはその一言に、なにか微かに付け足そうとして打ち消した。音にならなかったその言葉が何かは分からないが、彼女はいつも通りに美しく、けれど含みある顔で微笑んでいた。忠興はそんな様子をただ静かに、愛しむような瞳で眺めていた。その顔に僅かな疑念が抱かれはじめたのは、思えばその頃からだったように思う。



 またしばらくして、ガラシャがひどく塞ぎこむようになった。聞けば忠興と喧嘩をしたという。常に仲の良い二人のことだ、時にはこのような揉め事も必要だと周囲の者は冗談交じりにそう慰めた。

 曇天の今にも雨が降り出しそうな蒸し暑い日に、ガラシャは縁側に座り外を眺めていた。その口からはため息ばかりもれている。見かねた私が言葉をつくし慰めると、彼女はついに降り出した雨を見て言ったのだ。

「足りぬのです。忠興さまを傷つけるとは知りながら、もっと欲しくなるのです。だから私は……」

 茫洋とした瞳で何かを思い出すように、彼女は雨の向こう側を見ていた。優しく伸ばされたその白い手の平へ雨が落ち、跳ね返った水滴が大地に染み込んでいく。ガラシャは言った。まるで芽吹く緑が貪欲に水を吸うよう、いつまでも足らぬのだと。その言葉がいったい何を意味するのかもわからずに、その時は可愛らしい喧嘩だと思っていたのだ。思えば二人のそのような小さな揉め事は、その頃から絶えることがなくなった。忠興は変わらずガラシャへ愛情を注ぎながらも、時折なにかを恐れるような顔をするようになっていた。ガラシャはといえば、忠興に接する間はいつも通りでありながら、ふとその居ないときにだけ憂鬱げに顔を曇らせることが多くなっていた。梅雨の恵みが緑を芽吹かせるように、小さな原因の種は知らぬ間にすくすくと育っていたのだ。



 忠興が乱心したのは、それからすぐのことだった。

 カラリとした夏の日だ。ガラシャは、変わらず部屋へ届けられる生け花を眺めていた。その日届けられたのはまだ瑞々しい桔梗で、いろどりも愛らしく贈り手の愛情が込もっていると、私は側で微笑ましくそれを見ていた。すると突然、部屋の外から侍女たちの悲鳴が聞こえてきたのだ。足音荒く障子をあけ入って来たのは忠興だ。その瞳は血走っており、般若の表情で、息も乱れている。何事かと聞きかけたとき、その片手に抜き身の血濡れた刃が握られていることに気づき息をのんだ。

「これを見よ!」

 忠興はこちらへ何かを投げつけてきた。黒いマリのようにはじめ見えたそれは、鈍い音を立て緩やかにこちらへ転がってくる。桔梗の花の横でそれは止まった。

ごろり、と転がり止まったそれは、よく見知った小姓の生首だった。忠興が毎日生ける花を、朝にガラシャの部屋へ届けてくれる青年だ。赤く血濡れたその表情は苦悶のままに固まって、白く濁る瞳が恨めし気にこちらを見上げてくる。私はとっさに動こうとして、けれどあまりのことに体が動かなかった。忠興は青ざめた顔でガラシャの前に立ち、まだ生々しい血濡れた刃でその首を指す。

「この者はっ……ぬしに懸想しておる! 許せぬ、不逞の輩が……! 殺してやる!」

 忠興は肩で息をしつつそう言った。ここまで早足で駆けてきたのかもしれない、遅れて部屋へやって来た臣下たちがこちらを見て青ざめている。主の憤怒に止めるべきか否かと様子を窺い、手を出しかねているのだ。

「この者を好いておるのか!? なんとか言ったらどうなのだ!」

 忠興がそう喚いても、ガラシャはぴくりとも動かなかった。

 彼女は静かに桔梗を見ていた。いや、その横にある生首をじっと眺めていたのだ。

 あまりのことに動けないでいるのだろうか、そう案じた周囲の予想に反しガラシャは、薄く笑ったのだ。ゆっくりとひとつ瞬いて、その潤む黒瞳が生首を見下ろして言う。

「もう、死んでおりまする」

「っ、儂が聞いておるのは……! この者に身を許したのかということだ!」

 ガラシャは緩慢な動作で、見上げるように忠興を見た。私はそれを見てあまりのことに悲鳴をあげそうになった。尋常ならざるこの場において、彼女は口許だけで薄く微笑んでいたのだ。肩で息をついている荒々しい様子の忠興に対して、ガラシャの空気は凪いでいる。その冷徹な微笑みで、ひどく気だるげに忠興へ告げた。

「変わらずに忠興さまは、恐れておいでなのですね」

「儂は……違う!」

 忠興は裏返った、悲鳴のような声でそう叫んだ。風を切るような音がした。忠興が振り上げた刀が真っ直ぐにガラシャの方へ下りる。侍女たちの悲鳴と家臣が止めるように叫ぶ声がした。私がとっさに目を覆うと、枝を抉るような音がしてあとは何も聞こえない。侍女たちの甲高い声も家臣の諌める声もしなくなり、ただ忠興の荒い息遣いだけがその場に響き渡っている。私は恐る恐る目を開けて、周囲を確認した。ガラシャは先ほどと同じ姿勢で傷ひとつなく座していた。その瞳が平坦に見つめる先にあるのは、彼女の膝横の畳へ突き刺さった刃の赤くぬめつく光だ。畳へ刺さるその刃があと僅かでもそれていれば、ガラシャは殺されていただろう。忠興は突き刺した刃にもたれ、荒い吐息でガラシャを見下ろしていた。その顔は蒼白だ。

「儂は、おぬしをっ……愛しておる……!」

 絞り出すように悲痛な声だった。そんな様子をガラシャは静かに見つめていた。平静なその顔には驚きや恐怖といったものが見当たらない。人形のようなその美しさとも相まり不気味ですらある。ガラシャは笑った。

「あなたは、死が恐ろしいだけなのです」

忠興は答えない。血走った瞳が見開かれてその喉仏が大きく上下し、呻くような声が上がった。

ガラシャは伏せた瞳で薄く笑う。

――私を愛しているわけではないのです。



「キヨ。この文をどうか、忠興さまに」

 名前を呼ばれてはっとした。蝋燭の明かりの側でガラシャがそっと筆をおく音がする。丁寧に畳まれた文を紙で包み、両手でこちらへ差し出すように渡された。それを震える手で受け取り、私は言う。

「ともに参りましょう。忠興さまが……悲しまれます」

「悲しむ?」

 ガラシャは小首を傾げ、すると諦めたように微笑んだ。

「私が死ねば、忠興さまはお喜びになるでしょう」

「そんなことはっ……! 忠興さまはあれ程、ガラシャ様を愛されて」

「キヨ、違うのです」

 そっと遮るように、ガラシャの手の平が私の方へ向けられた。ゆっくりと息を吐く彼女は笑っている。

「忠興さまに酷いことをいたしました。あの方が、死を極端に恐れているのを知りながら、私はあの方を言霊で縛ったのです。呪い師の告げを利用してあの方を脅しては、飽きたらずにもっとと欲したのです」

 ガラシャは懐かしむように微笑んでいた。

 この身が他の男へ渡れば、忠興さまは死ぬのだと。自らの心を繋ぎ止められなければ、忠興さまは死ぬのだと言っては、情を乞うたのだと。そう言った彼女は目を伏せ笑っていた。

「……けれど、すぐに後悔いたしました。そうして向けられるあの方からの好意は、すべてご自身の死を恐れてのことでしたから。私を好いて下さった、純粋な好意ではなかったのです」

「そんな、ことは……」

 そう否定しかけた言葉は、ガラシャの笑みを見て途中で止まってしまった。

 忠興が悋気でおかしくなり始めたのはいつからだったろう。二人が出会った始めに、確かに存在していたあの和やかな時間は、いったい何故捻じれてしまったのか。

「キヨ、私の瞳には浮かぶのです。忠興さまがこの文をお受け取りになり、私の死を知られる時の光景が……」

 そう言い、両目を閉じたガラシャは言った。

 自分の死を家臣から知らされた忠興は、きっと薄く微笑むのだと彼女は予言する。忠興のその笑みは次第に大きな哄笑となり、そうしてガラシャから解放されたことの喜びに彼はうち震えるのだと。そう告げた彼女は満足げに目を開いた。

「あなたは早くお逃げなさい。その文を、必ず忠興さまへ渡すのですよ」

 私は何も言葉を継げなかった。伝えることはたくさんあるはずなのに、いざとなると役立たずの頭は思考を止めてしまう。なにも言えずに一礼するこちらへガラシャは変わらずに微笑みを向けていた。その美しい残像だけが、いつまでも瞼の裏に焼き付いた。



 火が放たれて屋敷が燃えていく。その赤々とした炎を暗い夜に眺めながら、私は唇をかみしめ涙を留めようとする。いま泣いてしまえばその雫と一緒に、今しがた見聞きしたものまで流れていってしまいそうだったからだ。

 そっと目を閉じてガラシャの微笑みを思い出した。真っ暗な視界の隅で炎の爆ぜる音と悲鳴、鎧の喧しい音が遠く聞こえてくる。

 その時の私の脳裏に浮かんだのは、ガラシャの死を知り、この文を受け取る時の忠興の姿だ。私の想像の中で忠興は、一段高い位置に座りその報告を受けると、はじめ茫然としている。それからガラシャの言う通りに、吹き出すように笑いだすのだ。

 けらけらと笑いだした忠興は立ち上がり、その場を少し歩きながら甲高く哄笑して……そうして静かにくずれ落ちるだろう。文は手荒く握りつぶされ、片手で覆われた笑う口許の中に次第に嗚咽が混じり始める。立ち上がることもできずに、皺の寄った文を強く握りしめたままで、息がもれるように笑い泣く嗚咽が大きくなっていく。呻き声を上げる忠興は震え、おそらくもう本当の意味で人を愛することはない。

 私は目を開けた。燃える炎の中にいるだろうガラシャは、最後まで勘違いをしたままなのだ。

 忠興は、誰よりもガラシャを愛している。

 泣くまいと見上げた空に、微かな火の粉と灰色の煙が上がっていった。



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