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【第七章】

【第七章 海豚】


 進むべきか進まざるべきか。

「……どっちにしたって、兄さんより楓、だよな」

 相談する相手は己にとっては兄二人と両親、そして三人の友達ぐらいしか居ないが、女の話題を友達三人に出すと、収拾が付かない気がするし、両親には話し辛い。かといって、一番上の兄さんには女性の影が見えない。

 こうやって消去法で行くと、相談する相手は楓が適切であるということになってしまう。別に白神など、どうでも良いのだが、彼女がなにやら思い悩んでいるのならちょっとは力になってやりたいと思わなくもない。散々、奉仕してもらったのだから今度は己が微力ながらも奉仕してやりたい。頼まれたからというのも理由としては大きい。

 力になりたいと思うのだが、今まで女性との縁が皆無だった己には、どのようにして力になれば分からない。こういうのは女性経験が豊富な楓なら、なにか己の言葉から汲み取ってくれるものがあるかも知れない。

「楓、起きてる?」

 ベランダのソファで今にも寝入りそうな楓に己は声を掛ける。右手にはスマホ、左手にもスマホ。どちらから電話やメールが来ても良いように持ち歩いているわけだが、その所有者の意識が眠りへと誘われつつあるのでは、元も子もない。

 けれど、どれだけまどろんでも仕事用の電話に関してだけはマナーモードであっても目を覚まして、電話に出る。プライベート用のバイブレーションとは震え方を変えているらしい。仕事に対して真面目で、真っ当で、そして前向きに善処し続けているこの姿を上司にもちゃんと分かってもらえていると嬉しいのだが。

「起きてる」

 言いながらも楓の瞼は今にも閉じそうだった。父は部屋、母は今日も卓球に出掛けている。そして兄は自室でゲームに夢中だ。休日が折り重なると、両親も兄弟も家を基点としては動くが、一箇所で集まって談笑をするのは夕食時ぐらいのものだ。それ以外では能動的な楓や両親が部屋にやって来ては話題を零す。受動的な己と一番上の兄はそれにツッコミを入れたりして、話を展開させる。だから、己からこうして楓に相談事を持ち掛けようとするのは相当に珍しいことだ。そのことについては楓も気付いているのか、大きな背伸びと欠伸をしたのち、身を起こして己の方を向いた。いつもなら「起きろ」と己は文句を垂れるように零すわけだが、声音が違ったからか、顔付きはなにやら神妙なものを作っている。

「なにか、悪いことしたっけ?」

「いや、なにも」

「じゃぁそんな怖い声出すなよ。あー、でも眠気が少し吹っ飛んだ。サンキュー」

「いや、そういうことじゃなくて」

「ハジメは返答とかで『いや、』とか『あ、』とか遣い過ぎだぞ。電話とかでそういう応答されると物凄く挙動不審に私は捉えるからな」

 仕事の日々に身をやつしすぎたのか、楓は家の中でも「私」を一人称として遣うようになった。己も口では「俺」と言いつつも、思考の中では「己」なのだ。だから楓も心の中の一人称は異なる可能性が高い。大学生の頃には「俺」だったし。

「御免……って、そういうことじゃなくって」

「なんだ? 言いたいことは早く言え。休日出勤もよくあるのが私のやっている仕事だからな。いつ電話が掛かって来るか分かんねぇから、早く言え」

「ブラック企業?」

「傍から見るとなんでもブラックだろ。特にハジメの場合は」

 当たらずとも遠からず、だ。己が求める企業の全体像は、常軌を逸している。だからこそ就職活動で失敗してしまったのもあるが。

「正社員で働きたくなったか?」

「違う。まだ、このままで良いとか思ってるから……無理だと思う」

「じゃぁなんだ?」

「女の話」

「ぶはっ!」

 楓は噴き出して、大きな笑い声を出す。

「ハジメが、女の話!? ちょ、ヤバい。え、マジで? マジでマジで? くっくっく、あー、っはっは! お腹、苦しい……ちょっと、待って」

 こういう反応をされることは予想済みだけれど、実際に予想した通りに笑われると腹が立つ。兄であることも相まって、そのムカつき具合は他人のそれを超越する。

「はぁ……っ、あ〜、笑った笑った。で、なんの冗談?」

「俺が冗談で『女の話』とか言いだすと思う?」

「言わないな。じゃぁガチな話か。好みの女を見つけて、気を惹きたいからイメチェンしたいとかそんな感じ?」

「そういうんじゃ、ないけど」

 楓は首を傾げ、きょとんとする。

「言い渋っていると、肝心な話をする前に仕事で私が出ることになるからな」

 早くしろよーと言いたげに両手のスマホを己にチラつかせる。

「ある女が満足してないんだ」

 あれ、なんだか違う感じになってしまった。

「どうすれば満足すると思う?」

「……いや、いつかそういう話をすることもあるだろうなとは思っていたけどな。それが下ネタで笑い合うぐらいかと思えば、まさか弟から性事情について相談されることになるとは思わなかった。なに? 勃起不全とかそんなの?」

「違う……違う」

 己は首を強く左右に振って、更にそういうこととは一切関係が無いことを強く強く示す。

「だって女が満足してないとか、そういう方向になるじゃんかよ」

「言い方が悪かった」

「そうだ、言い方が悪い。簡潔的に分かりやすく伝えることは大切だが、必要な部分まで削ってあとは察して欲しいなんて、そんな都合の良い話は無いんだ。お前もフリーターとは言え、仕事をやっている身なんだからそれくらいは分かれ」

 言いつつ楓はスマホをポケットに入れて、片手で己の頭を撫でる。楓はいつまでも己を子供扱いする。そして己はいつまでも楓に頭を撫でられることが嫌いではない。弟としてなのか、単に頭を撫でられるのが好きなのかはまた別の話だ。

「なんかこう、なんて言うかな……とある女が、充足してない。心が満たされていない。俺はそれをどうにかしてあげたいと思うんだけど、どうすれば良いのか分からない」

「付き合っては?」

「いない」

「……ふぅん、よく分かんねぇな」

「俺もよく分からない」

 己でも分かっていないのに話してしまった。上手く説明できないのはそのせいだ。

「俺が言えるのは、ハジメが悪い女に引っ掛からないように気を付けろって言うことだけだな。満足できていないとか、落ち着かないとか、心が満たされていないとか充足していないとか、そんなのは全部、当事者であるハジメとその女にしか分からないことだろ」

「良い女か悪い女かなんてあるの?」

 己の中で白神は完璧に悪い女に属するわけだけど、女性経験が豊富な楓の基準を知りたい。

「悪い女の特徴ってか、つまらない女の特徴な。プライベートで会っているのにスマホで話題を探す女とか、喋っているときにスマホを操作している女とか、奢らせること前提でプライベートで会おうとか言い出す女。そういうのはみんな、話していてもつまらない。要するに会っている奴のことをちゃんと見ていない女な。顔を突き合わせて喋っているんだから、相手の人間性を見ろってことだ」

「年収とか年齢を気にする女は?」

「話が面白けりゃ別に構わないんじゃないか。世の中、庇護されたい女は幾らでも居るしなぁ」

「良い女は?」

「気遣いが出来て、几帳面で器量良し。まぁ、男の理想は大抵、良い女だ」

 白神はどれにも当てはまらないな。

「あと、キリが良い女とか、こっちの予想を裏切るような型破りな女。そういう女は、良い女だ。当てはまっても、執着心が強すぎておかしなことを言う女だけは勘弁な。命の危険を感じてしまうからな」

 キリが良い女っていうのは、沢渡さんみたいに人のことだろうか。己との関係をグズグズ引きずったりせず、キッパリと期間を定めた。

 予想を裏切る型破りな女は……白神そのものだけど、それがメリットだとしても己は一度、彼女から発せられる雰囲気から命の危機を感じてしまったから、デメリットで結果的にプラスでもマイナスでも無く、ゼロである。

「まーハジメに合う女って言ったら、ほら、あの子あの子。小学生のとき、ハジメが熱出して寝込んだときにプリント届けに来た子。母さんに訊いたら、ウチとその子の家は逆方向だったし、しかも母さんが一度も話したことがない子だったって。ついでにハジメに問い詰めても、誰かも言わなかったらしいじゃん。その子とは、どうにかして連絡付かないのか?」

 それは沢渡さんだ。己は熱を出して寝込んでいたわけだから想い出っていうより、微かな記憶ぐらいにしか留めていない。彼女だってわざわざ引き合いに出して来なかったし。

「この前、会ったけど無理っぽい」

「無理っぽいってなんだよ。私が惚れそうだったからな、あの子。勿体ねぇなぁ」

 沢渡さん自身にも勿体無いと言われ、そして楓からも勿体無いと言われてしまった。けれど、己自身も未練が決して無いわけではなく、まだ今も後悔しそうでしないという曖昧なところを彷徨っている。

「楓に取られるとか、それ多分、俺の心が圧し折れてるよ」

「まー思っただけだよ。ハジメが好きだって言うんなら、取るわけないし。で、無理ってことはフラれた?」

「そんな感じ」

「そんな感じってなんだよ。はぐらかしすぎだろ」

 あんまり詮索されたくない。そして、全てを話すと笑われそうな気がする。どこの青春群像劇みたいなことをしているんだ、って。あのときはそんな風に思わなかったけど、時が経つに連れて恥ずかしいことをしていたのだと自覚が芽生えて来る。

 三枚目な己には、やはり二枚目な物事は似合わないのだ。沢渡さんはあれを一つの区切りとして、また励みとして頑張れるかも知れないが、己は思い出すたびに恥ずかしくなってしまう。

「あの子にフラれたんなら、じゃぁもう一人、ハジメと仲良くできる女が居るのか」

「仲が良いわけじゃない」

「それでも一緒に居られるんなら、仲は良いんだよ」

 話が一区切りしたところで、楓のスマホが震える。素早くその電話に出て、リビングから出て行ったのだからきっと仕事用のスマホから連絡があったのだろう。

 しばらくリビングでボーッとし、己は携帯電話を取り出す。

 己から白神にメールをしたことは今まであっただろうか。あったような無かったような、でも思い出せないのならきっと無い。

「う〜ん……」

 電話帳から白神のメルアドを読み込み、そしてメール作成画面に移ったはいいものの、唸ってしまう。

 どういった内容でメールを送れば良いのだろうか。沢渡さんのときは、ある意味で吹っ切れていたからか、ここまで悩まなかったぞ。なんなんだよほんと、メールをするときまで頭を悩ませるなよ、あいつ。

 メールを送ろうとは思ったものの、メールにするべき内容が見当たらないのは問題だ。じゃぁなんでメールしようなんて思い立つんだよと己に苛立つが、こればっかりは己の中にある妙なもどかしさが突き動かすのだ。

 お前、どこに住んでるの?

 当たり障りも無いどころか、脈絡すらない最悪の話題である。しかも女性に送るメールとしてこれほど短絡的で恐怖を感じさせるものもない。文章構成力の無さに自らを卑下する嗤いが出てしまった。

 それでも送信する辺りが己の偏った感覚なのだが。

 ウロウロと、ウロウロウロとリビングを歩く。端まで行って、踵を返し、向こう側の端まで歩く。そしてまた踵を返して向こう側の端まで歩く。これを繰り返すこと十回。白神からの返信が来ない。苛立ちから先ほどまで楓が寝ていたソファに身を委ねた。

 親友を許さず、初恋の人を待たせて、居場所を見つけられた奴には強がりの責任感皆無な発言を浴びせて、これじゃ己は最低な人間だ。しかし己はそうなることを拒まなかった。望んでなったわけではないが、望まずになったわけでもない。やはり己は受動的で、能動的に動くことには向いていない。こうやってメールを送っただけでも落ち着かないのだ。返信なんて長い目で見れば良いのに一分刻みで携帯に目を落としている。

 二つ折り携帯を開いては閉じ、開いては閉じ。こんなに返信を待ち望んだことが今まであっただろうか。

 送れていないんじゃないだろうか。ちゃんと届いていないんじゃないだろうか。送信済みメールからそれこそ何度も何度も送ってやろうかと指を動かしているところで、我に帰る。なんという怖ろしいことをしようとしているんだ、己はと戒める。何度も同じようなメールを寄越すなど、それはもう執着心から来る呪いである。

 しかし特段、己は白神に執着心など抱いてはいないはずだ。彼女がどうなろうと己は知ったことではないし、彼女が誰と手を繋ごうと、誰と話していようと、これもまた己の知ったことではない。

「うぁっ!」

 強く自らに言い付けていたところで携帯が震えたので、大声で驚いてしまった。

 なんだこれは。本当に己らしくない。

 携帯を開いて受信メールを開く。

『怖いです』

 普段から白神は顔文字を使わないが、短文であったことはこれまで一度も無かった。長々と、こちらが滅入りそうなほどの長文を寄越して来たはずの彼女が、まさかの一言だけのメールを寄越して来た。

 それほど己のメールが気持ち悪いのか。

 愕然とする。衝撃が強すぎて、そのまま心が圧し折れてしまいそうだった。憂鬱な気持ちがずっと行き来しているだけで、喜びすらないのだから一喜一憂とすら呼べない。

 怖いのはどっちだ。己にして来たことを考えてみろと言いたい。彼女の待ち伏せは決して笑える話じゃないんだ。己自身が許容するようになってしまったから、白神に罪は無いのかも知れないが、己でなければきっと罪である。いや、罪になってくれないと困る。

 協力してくれってお前から頼んだんだろ。

 そうやっつけ気味の、押し付け気味の文章を打って送信する。

 ウロウロと、ウロウロウロとリビングを歩いて歩いて歩き続ける。こんな運動量を己はどこに要していたのかと疑うほどに歩く。反復的に続けることに心地良さすら覚える。しかし、返信が遅ければその心地良さも半減するというものだ。

 なんなんだ。己はすぐにメールを返していたではないか。なのにどうして彼女は、こうも返信が遅いのか。

『家を教えたくありません』

 五分ほど経ってようやく返って来たメールは、当然の一文だった。

 一文だけであった。

「くそ、なんなんだよ」

 己は気付けば頭を掻き毟っていた。一言二言で済まされることでここまでテンションが落ち込むとは思わなかった。今後、気を付けようと思うと同時に、なんで一文だけで済ますんだと白神に憤慨していた。

「なに一人で喋ってんだよ」

 リビングに戻って来た楓が己の頭を叩いて言う。楓はスーツを着直し、手には鞄を持って出掛ける準備をしていた。

「もう出るの?」

「ん、ああ。急な用件が入って、私が対処して来いって言われた」

「……働くのって、大変だな」

「バイトだって働いているだろ。責任感の差はあるかもな。それがあるだけで、死ぬほど疲れる。バイトは寡黙でもやって行けるが、私が働いている会社は喋ってどれだけ稼げるか、だからな。まぁ扱き使われるが、これでもきっと私の会社はマシな方だ」

「合コンとかできるもんな」

「ほんとそれなー。女遊びがまだできるだけマシなー」

 イヤミを言ってやったのに楓はそれを苦にもしていないらしく、己に爽やかな笑顔を向ける。

「楓は、嫌なこととかムカつくこととか言われても、どうして我慢できるんだ?」

「我慢できてねぇよ。その分、別のところで発散してる。女遊びはしてるけど、こいつとは一緒に居たいなって思う女が居たら、そいつに振り向いてもらうだけ努力しようと思ってる。まーでも、そのときになったら二股してんのかなー。明日のことは分かんねー。今で私は精一杯だよ。ハジメも今が一杯一杯なんだろ。だから、嫌なこと言われても気にすんなよな。叫んだり、体を動かしたり、笑ったりしてりゃ、発散はできるんだからな」

 また頭を撫でられて、己は鬱陶しいという意思表示としてその手を払う。けれど内心ではもっと撫でてもらいたいという思いはあった。ただ、撫で続けてもらっていると、甘えているみたいで嫌だった。

「こんな弟で辟易するだろ」

「んーまー、ぶっちゃけムカついてるよ。でも兄弟だからなー、喧嘩したって、反りが合わなくたって、私は手放したくないから。ハジメは私のこと嫌いだろうけど」

 嫌いである。大嫌いである。こんな兄じゃなければ良いのにと思うことは時々ある。けれど兄だし、いつまで経っても兄だし、己はこいつのずっと弟なのだ。その立場はどれだけの月日が経とうと変わらない。

「次はいつ帰る? いっつも世話させられるから嫌なんだけど」

 話しながら己と楓は玄関口まで移動する。

「分かんね、こればっかりは仕事の都合だな。なんならメアド交換する?」

 己は首を横に振る。

 楓の電話番号もメルアドも知らないのは兄弟であっても己は楓にメールすることが無かったからだ。そして今も、メールをしたいと思わないし電話を掛けようとも思わない。

 そういうのは多分、したいと思ったときに交換すれば良いと思っている。己たちは連絡をしなくとも、兄弟という縁で繋がっていられるのだ。

「じゃ、またな。今度、その満足してない女とどうなったか報告よろしく」

「報告はしない」

「待ってるからなー、報告。いやー楽しみだわー。弟が次会ったときどれくらい成長しているか楽しみだわー。大人の階段登った弟がどれくらい大人な顔になるか楽しみだわー」

 楓は玄関の扉を開け、それが勝手に閉じるまでずっとそんな棒読みを繰り返していた。

 騒がしい人物が一人、家から居なくなるだけで僅かばかりの寂しさが込み上げる。しかし、これで離れ離れになったわけではないのだから、悲嘆に暮れていても仕方が無い。

 電話番号教えろ。

 己はそんな短文をメールとして打ち込み、白神に送信した。

『今からこのやり取りを警察に持って行きたいと思います』

 なんでだよ。

『教えたら毎日掛けてきません?』

 お前じゃあるまいし、掛けるか。

『言っておきますけど、こんなので私の心が満たされると思ったら大間違いですよ』

 そんなつもりでメールしてねぇよ。

 このやり取りの末、ようやく白神から電話番号の記されたメールが届く。突然、自身の知らない電話番号から電話が掛けられては彼女も困るだろうと、己自身も電話番号を打って送信した。それから数分ほど経って、己は白神の電話番号に電話を掛ける。

『おかけになった電話番号への通話は、お繋ぎできません』

 思わず、携帯電話を投げ飛ばしてやろうかと振りかぶってしまった。物に当たることのない己がそのような怒りを覚えるのだから、白神のやったことは相当である。

 五分経って、白神の電話番号がディスプレイに映る。己は即座に電話を繋いで耳に当てた。

「ふざけんなよ、お前」

『着信拒否された気分はどうですか?』

「一時的でも着信拒否にされたという事実に、思わず携帯を投げ捨てたくなった」

 ありのままを伝える。

『うわ、攻撃的なんですね。怖いです』

「割とマジで殺意を覚えているからな」

『だって綿貫さんからメールが来るとか怖すぎるんですもん』

「お前から送るメールに応答するのは良くて、なんで俺からメールしたら怖がられるんだよ」

『大学の講義中にメールとか軽い嫌がらせですもん。綿貫さんのゲスい性格からして、嫌な予感がビンビンですよ。きゃ、ビンビンなんてイヤらしい』

「ノリノリだな」

 キャラを崩壊させたはずなのに、またキャラを作っている。オマケにこちらをイラッとさせる言動だから、携帯越しじゃなかったら殴っている。

 殴っているで思い出したが、己は八つ当たりで彼女の頬をはたいたことがあるんだった。

「この前、はたいたよな」

『はい、はたかれました』

「あれは……悪かったよ」

『綿貫さんのそんなデレは求めてません』

 謝罪を受け入れてもらえなかった。

 しかし、これは当然の帰結と言えるものだ。己だって親友だった男の謝罪を受け入れなかったではないか。なのに己は相手に謝罪を受け入れられるものだと思っているというのは、それはそれで自己中心的過ぎる。

「デレってなんだよ」

 それでも許容できないこともある。

『デレてません?』

「デレてねぇよ。二次元に帰れよ」

『私、二次元のキャラよりも可愛くありませんよ』

 可愛さは無い。けれど、容姿は美麗な方であると思う。贔屓目に見ていると言われたらそれまでだが。

「お前、どこに住んでるんだよ」

『えーと、教えなきゃ駄目ですか』

「教えろ」

『……大阪』

「大阪!?」

 仰け反りそうになった。県を跨がずにバイトをしている己にとって大阪は生活圏の範疇にない。だから県を跨ぐということだけでも驚かされるのに、あろうことか白神はそこに住んでいると言う。

『大学は大阪の方なんです』

「は……? え、いや、なに言ってんの。お前、大阪に住んでるの?」

『はい』

「いや、だってお前、駅前で待っていたりとかしていただろ」

『通ってたんです』

「なんで?」

『綿貫さんのために』

 脱力する。

 こいつの九割の嘘に、完璧に己は引っ掛かっていた。

 己は白神に無理をさせていたのだ。そして、彼女を舐めて掛かっていた。奉仕するとか言いながら、やっていることや要求することは精神論的なもので、ちっとも物理的に尽くしてはもらえなかった。そういうこともあって、己と会うのだって近場でお手軽な気持ちがあるんだろうと想定していた。

 どうせ近所なんだろ、と軽い気持ちでメールをしたのだ。大学も、一駅か二駅ほど離れたところにある大学に通っているんだろうと決め付けていた。なのに大阪と彼女は言い切った。

 じゃぁ、何故、白神は己のバイト先のコンビニに現れたんだ?

「お前、な」

『御免なさい』

「……いや、許さないし」

 謝罪するとかされるとか、許すとか許さないとはまた別に、己は隠し事をされていた。ただ己が訊かなかっただけで隠し続けていたとも言い切れることもないが、しかし住んでいるところを今まで明かさなかったのは、己のことを慮ってのことだ。

 まだ隠していることがあるんじゃないのか。

「この際だから、全部、洗いざらい話せ」

『実家は兵庫です。けれど、私の下宿先は大阪にあります。夏休みの間は実家で過ごしていました』

「それだけか? 本当に、それだけか?」

『……内定を取れた会社があるのも大阪です。そこは新人研修のために半年ほど、東京に新入社員を送るそうです。社員寮もあって、それもしっかりと男女分かれての寮だそうです。保険や福利厚生、企業の雰囲気。そのどれもこれもホワイトでとてもやりがいのあるところだと思いました』

「東京……て」

 己にはなにもかもが遠すぎる。大阪も遠いし、東京なんてもっと遠い。いつの間にか己は家の廊下に座り込み、項垂れた。

「お前、負け犬なんじゃないのかよ」

『負け犬ですよ。なんならまた会ったときに臭いを嗅ぎますか?』

「負け犬のお前がどうして、勝ち組みたいな人生を歩めているんだよ」

『……綿貫さん』

 深刻な話をするときのような、白神の低い声が耳に響く。

『私は負け犬です。でも、私は綿貫さんと違って、これ以上を求めるんです。負け犬なりの限界値は、綿貫さんより上なんです。だから、まだ頑張れるんです』

 己は停滞した。己はここで良いと妥協した。

 けれど白神にとってはまだ伸びしろがあるところでの停滞だった。だから白神は自分の伸びしろにあった道を選んだ。その先で、僅かな伸びしろを精一杯に伸ばして頑張って、限界値で妥協する。それが彼女の妥協した人生となる。

 そういう、語られなくても分かることが脳内を駆け巡った。

「東京とか、分かんねぇよ。大阪だって環状線の内回りと外回りがよく分かんねぇのに、東京の路線図なんて把握し切れねぇよ」

『なんで綿貫さんが大阪に居ること前提で、そして東京で働くことを考えているんですか』

「……遠いな」

『はい、遠いですね。二、三十分で行ける綿貫さんの家からの最寄り駅に比べたら、ずっとずっと遠いです』

 結局、負け犬でも外界へと飛び出そうと思えばできるのだ。自身の伸びしろにまだ、妥協していなければ頑張れるのだ。

 己はもう伸び切って、このしがらみだらけの場所でしか暮らすことも、働くこともできそうにないのに、彼女は大阪で暮らせて、そして東京でも半年間とは言え、新人研修として行く気概を持っている。

「白神」

『隠していたことは謝ります。でも、だからって私たちの関係がこれ以上になることも、これ以下になることも無いはずですよ。これ以上を求めない綿貫さん? 私たちは、こんなんで良いんじゃ、ないですか?』

 言い返す気力もない。というより、言い返す気力が出ない。

「お前は、負け犬だろ。なのになんで、大学進学のとき今居るこの場所から抜け出したんだよ」

『負け犬だからこそ、ですよ。駄目駄目になった人間関係をリセットするには、遠くに行った方が良いんです。嫌なしがらみとか、嫌な想い出から逃げ出したかったから』

「凄いな、お前は」

『凄くなんて無いですよ。ただ、逃げ出しただけですから』

 いや、凄い。逃げ出せるだけ凄い。己だって外には飛び出したかった。なにもかもをリセットするには外に出るのが一番だから。

 けれど、記憶が邪魔をした。しがらみが邪魔をした。この場所に、この町に己は縛られていた。ここじゃなきゃ己は生きていられない。この家じゃないと己は安息できない。

 そう思えば思うほど、己は外へ出ようという逃避行動さえ抑えてしまった。だから大学だってこの町から近い、そう頭の良いと呼べる大学じゃないところへ進学した。唯一の懸念は、同じようにしがらみに縛られた同じ高校出身の奴らが同じ大学に来て尚、同じように己をイジメないかどうかだった。しかし、入学式から卒業に至るまで、己にそのような視線が浴びせられることは二度と無かった。あったのかも知れないが、山城や塚本、柊と出会うことで己はそういった気配を遮断することができたのだ。そういった意味では成長できたのかも知れないが、結局のところは友人任せの、友人に頼り切りな大学生活だったと思う。

 それに比べて白神はどうだ? 己にできなかったことをやってのけて、更には二、三十分も掛かるという電車に乗ってわざわざ己の前に姿を現していたのだ。

 脱帽である。哀れまれていたのは分かっていたが、負け犬同士であってもここまで己と彼女に差があることに己はただただ愕然とするしかなかった。

『綿貫さん?』

 己が応答しないことに白神は心配したらしい。

「お前、俺と会うのもうやめた方が良いよ」

『え、なんですか突然』

「そのまま頑張れば、お前は負け犬じゃなくなるよ。人生の敗北者とかにならなくて済む。俺はもう這い上がれないけど、お前はそれができるんだよ。だったら、もう俺とは会わない方が良い。俺が引きずって、お前が這い上がるのを邪魔するから」

『その精神論には納得しかねるんですけど』

「普段から自論を展開するお前に比べたら、俺はまだ少ない方だと思うぞ」

 心の中で思っていることはあっても、それを声にして発する勇気は無い。そんな男だ、俺は。

『……私も、いらない、ってことですか』

「そういうこと」

『……ありがとうございます、綿貫さん。私の中の感情について、答えが出ました』

「それは良かった」

『私、どうしてあなたに拘っているんだろうってずっとずっと悩んでいたんです。それで、私の中で色々と逡巡した結果、分かりました』

 己は唾を飲む。

『やっぱりあなたは、私にとっては気持ちの悪い人でしかありませんし、あのときに私を真に受けさせた一言だって、やっぱり、あなたに責任があるんです。その責任をずっと背負って、生きてください。さようなら』

「……さようなら」

 電話は切れて、ツーツーという音だけが冷たく響く。

 これで良いのか悪いのか、己には判断できない事柄だが、白神が納得したのだから、心が満たされたということだ。そういうことにしておけば良い。

 己は自室に入り、携帯電話を机の上に置いて、それから畳に大の字になって寝転んだ。

 手持ち無沙汰だ。これからは毎日のようにメールをして来る白神からメールが来なくなる。そう思うだけで、普段の休日の過ごし方に意義が見出せなくなる。出不精で、ノートパソコンを開いてはネットサーフィンをし、情報を仕入れ、気分が向けば外へと出る。それが己がバイトを入れていない日の過ごし方だ。白神と出会う前からこの習慣はなにも変わっていない。

 なのにポッカリと穴が空いたような、大きく予定を狂わされたときのような言いようのない不安がある。沢渡さんに「結婚する」と嘘をつかれたときは大きな喪失感に襲われたが、それよりもこれは厄介だ。だって、なにをどうすれば良いのか分からない。恋愛感情であれば見切りを付けられる。初恋が初恋のまま終わったんだと言い聞かせれば、いずれ心も体も穏やかなものになる。

 けれど己は白神にはそのような感覚も感情も、抱いたことがない。なのに、こんなにも穏やかではない。

 己はなんと浅ましく都合の良いことを考えているのだろうか。甚だ鬱陶しいと思っていた女に見切りを付けられたと分かった途端に、どうにかして関係を修復できないだろうかと模索し始めていた。

 そんな話は無い。これでは自己中心的な感情を剥き出しにして生きているようなものだ。己はもっと理性的で、乱れた場を遠くからジッと静観するような人間だったはずだ。

 それが思い込みであった。なるほど、そう結論付ければ納得はできる。

 しかし、その結論は理性的ではない。なにか無理やり、強引に、点と点を歪な線で結んでいるような心持ちだ。文系だった己には、屁理屈の通らない数学の一ジャンルである証明問題はチンプンカンプンだった。そうしたとき、チンプンカンプンな解答を書くわけだが、まさにそのような感覚に陥っている。

「バーカ」

 呟く。己へとか、白神へとか、長井へとか、沢渡さんへとか。そんな個に対して向けたわけではなく、ただ天井へと言の葉として放出する。

 胸が苦しくなる。息が苦しくなる。

「ままならない」

 また己は、心境を一言で表した言の葉を放つ。

 小学生と中学生の頃、己は情熱的に生きていた。そして、沢渡さんに恋をしていた。己は五年という猶予を与えられこそしたが、それに区切りを付けさせた。

 高校生の頃、己は敗北感に囚われて生きていた。そして、親友だと信じていた長井に裏切られた。己は友情の修復を求めらたが、強く拒絶して彼との繋がりを断ち切った。

 大学生の頃、己は負け犬の精神に忠実であった。そして、三人の友人と巡り会った。己は疑い深く、そして偏屈であったが故に心配されがちであったが、しかし受け入れられた。

 手放したのは二つ。手に置いているのは一つ。

 本当に一つか?

 己はまだもう一つ、巡り会ったものを大切にしておかなければならなかったのではないか。それをついさっき、放り出してしまったのではないだろうか。

「……あいつだけ、記憶を更新していないんだな」

 デジカメで想い出を塗り変えて記憶していったのに、白神だけは写真に収めていなかったことに気付く。しかしそれも、もうどうでも良い。

「寝よ……」

 なにも感じず、なにも考えず、己は布団を敷くこともなく畳の上でまどろみに身を委ねた。



 負け犬の臭いがする。くさいくさい、くさくて鼻が曲がりそうだ。

「棚に商品を補充しておいて」

 店長に言われ、己は機械のように体を動かし、陳列棚の空いたスペースに商品を補充して行く。なにも考えずに体を動かしている。

 己は普段からこのように無感情だっただろうか。

「最近、キビキビと動けるようになったんじゃない?」

「……っすか?」

「うん、仕事も手馴れているよ。なにか張り切るようなことがあったりする?」

「……無い、っす。なんにも」

「そうか。うん、けれど昔より働き甲斐があるって感じで動けているから、ここ最近、良いことでもあったのかと思ってたんだよ。でも、仕事が幾ら出来てもバイト仲間同士の付き合いも大切にしないと駄目だ」

「……っすから」

 己は寡黙な人間ですから、と言ったつもりだったが前半部はほとんど届いていないだろう。

「君のおかげで水曜日の女子高校生もしっかり追い払えて、売り上げも安定して来たし、あんまり他の子たちとの間で亀裂を生ませたくないから」

 使える人材に変われば、己を褒める。最近になって、やたらと仕事量が増えていたのだが、己を辞めさせるための嫌がらせかなにかだと思っていた。

「そういや、もうすぐクリスマスだけど予定とか入れている?」

「……なんで、っすか?」

「いいや、君も男だからちょっとはなにかあっても良いと思って」

 展望の無い話をされても困る。己は逃げるように視線を壁掛け時計へと移す。

「……もう、時間なんで、上がって良いっすか?」

「ああ、構わないよ。今日もお疲れ様」

 店長の許可を得て、己はバックヤードへと足を運ぶ。制服を脱ぎ、ロッカーに収めてタイムカードを切ったのち、コンビニの裏口から出た。

 変わらないのか変わったのかはともかく、満足できていない。なにかが圧倒的に足りていない。満足感よりも不満感の方が大きい。しかし、己の人生は思えばこんなものだった気もする。

 空を見上げる。雨の降りそうな日だ。今日の天気予報だとこれから夜中に掛けて土砂降りだったっけか。

 コンビニの正面まで回り、己はそこでなにかを探すように左右を確認する。けれどそこに、求めていたなにかは無い。

 冬の寒さが身に染みる。あれから三ヶ月、夏が残した暑さはすっかりどこかへと去り、山は紅葉に包まれ、やがて葉を枯れ落ちさせた。そうして至った十二月の冬は、いつも以上の厳冬だった。関東、東北や北海道育ちの人にとっては暑いくらいかも知れないがここでは充分に寒いのだ。日本海に面している人たちもやっぱり寒さに強いのかな。

 吐く息は白く、手先は凍えるほどに冷たい。両手を擦らせて、摩擦の熱さで堪え忍ぶ。

 負け犬の臭いは抜け落ちない。これからも負け犬なのだから、きっと抜けないのだろうけど、なんでこう期待感を寄せて己はいつも臭いを嗅いでしまうのだろう。

 今日は久方振りの友人との飲み会だ。九月に開いてからは、それからめっきりだった。半年に一回程度だった去年に比べれば、まだ頻度はある方だけれど、侘しさや寂しさを紛らわせるのにはもっともっと友人と絡んで行きたいところだ。

 大学生の頃に、それをやっていれば良かったのに。そんな後悔もあると言えばあるが、成人してから堂々とお酒を飲めるのは、友人との飲み会ぐらいしかない。家ではなんだか、飲み辛いし。

 電車に乗って、三駅先。いつもと変わらない風景を眺めつつ、己は寒さの中を進む。これほど寒いのに雪が降らないなんておかしい。数年に一度降るか降らないかの上に、数年に一度積もるか積もらないかの両極端なのだ。

 これだけ坂道の多いところだから、雪が積もれば、それはそれで車の運転は苦労するだろうけど、免許を持っていない己にとってはどうでも良い。

 呼び鈴を鳴らし、三ヶ月振りに山城の顔を見る。

「よっ、しばらく」

「……ああ」

 己は山城に肯き、それに満足したのか彼は己と肩を組む。足先が冷え切っていて、上手く靴が脱げずに苦労した。

「今日は塚本君がラストっぽいね」

 もう柊が来ていて、懐炉を己へと投げて渡した。その思わぬ熱源に、凍り付いていた手先が強く痺れた。

「あいつも仕事で忙しいからなぁ。来てくれるってだけで嬉しいが」

「無理して飲み会に出ると、逆に疲れるはずなのにな」

 山城の意見に同調するように言葉を零す。

「僕みたいに体が弱くても、しっかり仕事を終わらせて飲みに来るんだから、塚本君でも大丈夫でしょ」

「過労で一週間入院してた陽一が言うことじゃねぇな」

 その追及に柊は苦笑し、山城もまた苦笑いを浮かべた。過労で入院なんて今時、珍しい話じゃない。世の中、無茶しすぎて体を壊す人が多すぎるから。

「山城は、仕事どう?」

「ん、まぁまぁだな。上司は相変わらず愚痴ばっかだし、後輩は俺を頼りすぎだし。そんな有能な人間じゃねぇっての。頼られるのは嫌じゃないけど、腹を割って話せるのはこの飲み会ぐらいだな」

 仕事仲間と友達は別。山城はそう考えて生きているらしい。まぁ己も、仕事とプライベートを別々に切り離しているから、文句の一つも言えることではない。

「今年のクリスマスは誰かと過ごせそう? 僕は駄目、全然駄目。あれだね、男として見てくれていないね」

 本当に残念そうに、そして悔しそうに柊は言った。

「過ごせたら良いんだけどな。だって性の六時間とか言われてんだぜ? そんな日に孤独とかやってられないよ、ほんと」

「毎年孤独な俺へのアテツケか」

 皮肉混じりに山城に言い放ちつつ、己は鞄を放って、腰を降ろした。

「自分探しの旅に出た綿貫君は、その後、どう?」

「なんにも良いことなんてないよ」

 むしろ悪いことの方があったくらいだ。白神との繋がりが消えて、目の前に居る柊が一週間も入院してしまって、その後もみんながなにかと仕事に忙殺されて、三ヶ月も飲み会も開かれることが無くて、嫌なことばっかりだ。

 項垂れた己のせいで、二人が沈黙したとき、タイミング良くインターフォンが鳴ってくれた。忙しなく山城が玄関へと走る。

「綿貫君は僕以上に不器用だからかな」

「さぁ……? 女の考えていることなんてサッパリだ」

 首を傾げてみせて、目の前に置かれている缶ビールを手に取る。

「今日は一人幾ら?」

「あんまり飲みすぎると冬場だと尿意がヤバいでしょ? 帰り際にトイレ行けずに漏らすとかやりたくないし、少なめ。一人千円くらい」

「お酒飲むと緩むもんな」

「だね」

「缶ビール見ながら話すことでもないけど」

 不器用に笑いつつ、己は後ろを見る。

「おーしばらく! 綿貫も元気そうで良かった。お前まで倒れたら、飲み会どうなるか分かったものじゃないからなー!」

 コートを脱いで、ドタドタとやって来た塚本が己の対面に座って、大きく息を吐いた。

「エアコンの温度はこれくらいで良いか?」

「ちょっと暑いくらいじゃない? 電気代節約のために一度下げようよ」

「エコって言えエコって」

「いや実際、電気代って馬鹿にできないし」

 柊と山城がエアコンの温度で言い争っている間、塚本は己の方をジッと見つめていた。

「どうかした?」

「いや、自分探しの旅はどうなったのかなーと」

「柊にも言ったけど、なんにも良いことなんてなかったよ」

「そうかー、でも良いことがある方が稀だしなー」

 よけいな詮索はそこで終わった。塚本も柊も、キリの良い性格をしている良い男だ。

 己は缶ビールの一本を塚本に手渡す。

「んじゃー、全員揃ったところで、乾杯!」

 山城が即座に乾杯の音頭を取ったので、缶ビールを杯代わりにみんなと打ち合わせ、それから蓋を開けて一気にあおった。

 他愛も無いことを語り合う。つまらないのか面白いのか、おかしいのか笑えるのか、そんなことはお構い無しに思い付いた限りの話題で盛り上がる。

 やはり嫌なことを忘れられる。この集いはこれからも続けるべきだ。

「携帯鳴ってんぞ。誰のだ?」

 山城に言われ、鞄の中で懐かしみのあるメロディを奏でる携帯を己は鞄から取り出す。電源を落とすのを忘れていた。そしてマナーモードにするのも忘れていた。仕事中は着信やメールの受信があっても良いようにと設定しているはずなのに、いつの間に解いてしまったのだろう。

「誰から? もしかして、女か?」

「俺に女が居ると思うか?」

 自虐的に言ってみせてから、己は携帯のディスプレイに視線を落とす。

『なにやってんの?』

 随分とふざけた文章だった。一体誰からだよと、ボタンを連打したせいで差出人を見ていなかった己はディスプレイの上を見る。

「……なんで?」

 己は疑問を零した。差出人は『沢渡 美織』と綴られている。

「おいおい、女の名前だぞ」

 山城が横から覗き見し、おちゃらけて言う。仕方無いので己は柊と塚本にも携帯の画面を見せることになってしまった。

「え、でも綿貫君は良いことなんてなかったって」

「これ、初恋の人のメールだから」

「……ってーことは、あんま良いメールじゃないってことか?」

 塚本が己の顔色を窺うように言う。

「あ……やー、そんなつもりは無かったんだが。すまん」

 即座に山城が状況を察して、謝られるが己は首を軽く横に振って「気にするな」と呟いた。

「ちょっと待って、メール返す」

 三人の輪から離れ、己は携帯のディスプレイに意識を集中させる。

 なにが?

 その率直な疑問をそのまま送り付けた。

「うぉっ!」

 今度はメール受信のメロディではなく着信を示すメロディが奏でられた。先にマナーモードにしておけば良かったと思いつつ、電話に出る。

「もしもし?」

『なにやってんの?』

「……だからなにが?」

『綿貫君、あの子は年越したら東京行くって言ってたよ』

「あの子?」

『白神 舞ちゃん』

 ズキリと胸が痛んだ。

「……だから?」

『だから、って……! あなたのことなんだから、言わなくても分かるんじゃないの!?』

 電話越しとは言え、耳元で怒鳴られるとたまったものではない。

「なんで沢渡さんが怒ってて、なんで白神のことを知っているのか分かんない」

『私の方に彼女、会いに来たの。それで連絡先を交換して、それで今もずっとメールのやり取りはしてる。それで、綿貫君は今、なにしてるの?』

「友達と飲んでる」

『馬鹿じゃないの!?』

 もう一度、怒鳴られてキィンッと強い耳鳴りを覚えた。

『大阪に今から行きなさい』

「は?」

『舞ちゃんの住所教えるからメモ取って。ほら早く! バイトでもメモは細かく取るように言われるでしょ! ほらほら!』

 急かされて、己は言われるままにズボンのポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、彼女が口にする住所を書き綴った。

「メモ取った」

『ほんと? 間違いない? ちゃんと書き留めてる? 嘘だったら私、幻滅するから』

「書いたよ、ちゃんと」

『なら、行きなさい。ちゃんと会いに行きなさい』

 ボソリと呟くように沢渡さんは言い、電話を切った。

 行きなさい。

 大きく胸の奥から湧き上がって来る。ドクンッと強い鼓動を感じる。寒さで感じなかった全身の熱を、脳が感じ取る。

 こんな展開は望んじゃいない。こういう妄想はいつだってした。けれど、そんなのはちっとも現実的じゃない。というか、現実にあったら困ってしまう、嗤える小噺だ。

「なぁ、大阪に行くにはどの路線が一番速い?」

 思考しないで良い。体を動かすだけで良い。己はそれで、縛りを解くことができる。己が己自身に言い聞かせ、いつの間にか縛り付けられていた決め付けから脱却できる。

「この時間でここからだとJRだろ。俺んところは地方重視で仕事でそっち方面はあんま行かないからな。赤彦や陽一はどうだ?」

「僕もこんな時間に大阪行ったことない」

「俺もだよ。ってか、今、九時過ぎだろ? 帰宅ラッシュからはズレてるだろうけど、大阪はヤバいだろ。なんで大阪なんだよ」

「俺だってよく分からない」

 言いながら己はコートを着込み、鞄を担ぐ。

「分からないけど、とにかく大阪に行く」

「いやいや、落ち着けって。一旦考えろって。取り敢えず、トイレ行っとけ。酒入ってると外の気温との差ですぐトイレ行きたくなるし」

 山城に言われた途端に尿意を催した。トイレを借り、そそくさと済ませつつ上がり框の靴を履く。

「ICカード、残高足りるかな」

「そんなん、乗って降りたあとにチャージすりゃ良いだろ」

「塚本の言う通りだぞ」

「綿貫君、懐炉! 無いと寒いから、ほら!」

 柊に懐炉を渡され、己はそれを懐へと入れる。

「色々と落ち着いたら、連絡入れる」

「なんか分からんが、頑張れよ」

 肩を塚本に思い切り強く叩かれ、「うん」と肯いたのち、その勢いを乗せたかのように己は扉を開け、外へと飛び出した。

「大阪、大阪大阪……」

 呟きながら携帯電話でメモを取った白神の住所を入力する。

「御堂筋? 中央線? 堺筋線? 環状線なら聞いたことあるけど、わけ分っかんねー」

 住所を入れればそこまでの行き方をネットが自動的に示してくれるわけだが、文章を見ただけではよく分からない。二つ折り携帯でも一応、地図ソフトを起動できるけれど、スマホほど見やすいわけじゃない。

 JRの駅に足を運びつつ、己は白神の住所への行き方に迷っていた。沢渡さんに電話を掛けて、行き方まで教えてもらおうかとも思ったが、それは男のプライドが許さない。

 ならば楓はどうだ? 楓は県を跨いで仕事をしている。大阪の路線図なんて把握しているに違いない。

 しかし、己は楓の電話番号もメルアドも知らないのだった。こういうことになるから、早め早めに連絡先は交換しておけば良かったのだ。

「…………あ〜もう! くそ!!」

 己は大きく声を上げて、メールを打つ。どうせ返って来ないだろうと思って、メールを打つ。

 JRの改札口を抜け、エスカレーターで駅のホームに向かっているところで携帯がメロディを奏でる。

「もしもし」

『……お前、俺になんて言ったか分かってんの?』

 己は電話番号を変えたことがない。だとすれば、長井が己に電話を掛けられるのは、彼がまだ己の連絡先を電話帳に残しているからだ。消しているとばかり思っていた。

「分かってるよ」

『じゃぁ、そこまで分かってんのになに俺に頼ってんだよ。死ねよ』

「……るさい」

『許さねぇって言ってただろ。なんだよ、罪を背負って生きろとか。お前、馬鹿なの? どれだけ小説読み過ぎてんだよ。アニメオタクとかそんななの?』

 罵倒も罵声も嫌と言うほど浴びせられる。

 長井との縁は切ったはずである。なのにどうして、沢渡さんに電話を掛けるよりも、彼に縋る方がプライドを保てると己は思ったのだろうか。

『大阪のどこだよ。俺だって詳しくねーし。まぁ、梅田だろうけど、そこは誰でも迷う魔窟だからな。この前、先輩に付いて行ったのに一緒に迷うハメになったし』

「マジかよ」

『で、どの辺だよ。住所言わなくて良いから、検索して出た最後に降りる路線と駅を教えろや』

「なんで教えてくれるんだよ」

『うるせー、これで貸し借りなしだ。俺はお前を許すから、お前は俺を許せ』

「お前が言うような台詞じゃねぇよ」

『お前もな』

 ここで許すことは、白神にとっては許されざることなのだろう。イメージをぶち壊すという大元をこのまま通すのならば、やはり長井に掛けるべきではなかった。

 けれど、頼らなければ己は白神の居場所にすら辿り着けない。だったら、己は押し付けられたイメージを優先する。

「……うん、うん。大阪の梅田でその路線に乗り換えて、その駅で降りれば良いのか?」

『降りたあとは地図見ろよ。お前の携帯、地図見ることできるか?』

「古いけど見られるよ」

『なら、あとは自分でなんとかしろ』

「うぃっす」

『綿貫、そんな声してたっけ?』

「普段からこんな声だっつーの。お前こそ、そんな声してたか?」

『知らねーよ』

 通話を一方的に切られた。話したいことはまだまだあったのに、切られてしまったのでは掛け直し辛い。仕方が無いので己はマナーモードにして携帯電話をポケットに突っ込んだ。

 心細い。

 己にとっては未知の土地だ。就職活動でも大阪には出なかった。それで就職に失敗しているのだから、当然と言えば当然だ。この地域で、大阪を除いて働き口を見つけるのはそう簡単な話じゃない。なにも持っていない己が、容易く地方での仕事を見つけられるようなら、どんな就活生も苦労しない。

 携帯電話をイジるのは得策じゃない。地図を見られなくなったら、己は大阪で間違いなく迷うからだ。あまり普段からの生活においても誇れるような正確性は要していない。この前だって、エレベーターで一階に降りようとしたのに上への一方通行のエレベーターに乗ってしまったことがある。東西南北、前後左右どころか上下まで怪しいとなっては、方向音痴と呼ばれてもなにも言い返せない。

 そんな己が、一人で土地勘が無いところに行く。これほど心細いことがあるだろうか。不安で逃げ出してしまいたくなる。いや、現に逃げ出そうとしている。停車している電車に乗るのを躊躇っている。

 そうだ、そのままここに留まれば良い。そうすれば心は乱れない。非難こそされるが、その程度で済む。どうせ沢渡さんとは結ばれない運命だ。だったら、彼女にどう思われようと知ったことではないじゃないか。長井だってそうだ。これから電話をしなくなれば、また縁は切れる。山城や柊、塚本には適当に嘘をついてしまえば良い。

 なんで嘘をつくんだ、己は。

 歯を喰い縛り、己は電車に乗る。ドアが閉じられ、ゆっくりと車体は動き出した。

 あの三人には嘘をつきたくない。友人も居らず、天涯孤独で大学生活を乗り切ろうとしていた己を受け入れてくれたあの三人だけには、嘘をつきたくない。沢渡さんのように、あとで会うこと前提で、打ち明けることすら前提の嘘ならば己だってつける。

 けれど、己は今、あとでも取り繕えない嘘をつこうとした。いつまでも引きずり続ける嘘をつこうとした。

 それだけは耐えられない。

「遅延が無ければ、二、三十分か……」

 自宅の最寄りの路線を使えば二、三十分なら数分の差はあれどJRもそれくらいで着くんだろう。大阪に向かう電車になんか乗ったことなんて無いけれど、多分そうだろう。

「……良いよ、何十分だろうと。どれだけ経っても行くだけだし」

 己にそう言い聞かせる。

 電車の中は温かく、座席に着いていたなら、まどろんで眠りに落ちていたかも知れない。運が良いのか悪いのか、ともかく車内は混んでいて、気を抜けそうにない。見れば座席に着いている人は案の定、何人か瞼を閉じて休息している。

 今日、なにがあったのだろうか。朝から出社して、どれだけの苦労を重ねて帰路についているのだろうか。それともこれから仕事で、体力を保たせるために眠っているのだろうか。スマホを触っている人は、これから飲み会でもあるんだろうか。それとも暇潰しでゲームでもしているのだろうか。

 こんなにも人は千差万別だ。

 白神のおかしさなんて、型破りな一面なんて、そんなものはこれだけの人数が居れば埋もれて見えなくなる。だからって目を瞑れるような性格では無いと思うけれど。

 電車が大阪駅に停まる。雪崩のような人の流れに押されて己も駅へと降りる。ほぼ降ろされたようなものだけど、目的の駅ではあるのだから気にしない。

「……なんなんだよ」

 改札口を抜けて、己は愕然とする。

 人の流れも凄まじく、なにがなんだか分からない。電車のマークと標識を頼りに歩けば良いのは分かるが、それを実行に移して本当に辿り着けるのかと疑問に思う。それほど、ここはよく分からない。

 よくは分からないが、賑わっている。こんな時間でも人の波は無くならない。東京に行ったこともない己には、大阪でも充分に都会だと思えてしまう。

 道に迷い、案内図を見て、唸り、ボソボソと呟き、そして人の波に乗って移動する。それを何度か繰り返して、己はようやく次の路線に至った。丁度、電車が滑り込むようにホームへとやって来て、己は人混みに揉まれながらなんとかその電車に乗り込む。

 電車の中の景色は相変わらずだった。相変わらずだからこそ、気休めにはなる。ピリピリとした緊張はずっと持っていて、ずっと車内の路線図を眺めていた。

 目的の駅に停車したところで降りて、改札口を抜ける。

「えーと、地図地図」

 呟きつつ携帯電話を取り出すと、誰かからメールがあったらしい。開いて見てみると、沢渡さんからのメールで、タイトルは『バイト先』。本文には住所と店名が書かれていた。それをすぐさま検索に掛けると、駅からそう遠くないところにある。己がバイト先に近場を選んでいるように、白神も下宿先から近いところでバイトをしている、ということらしい。変なところが似ているというか、考えることは誰もが一緒というか、そういった共通点に呆れてしまうというか、ぐうたらな一面もあるのだなという感慨深さみたいなものも相まって、喩え方に困る。

 寒い。柊が渡してくれた懐炉で手を温める。ジーンとした痺れが指先から伝わる。どうやら悴んでいたらしい。他のことで頭が一杯で気付かなかったけど。

 己はファミレスの自動ドアを開けて、店内に入る。

「いらっしゃいませ」

 店員に話し掛けて、人を呼び出してもらうなど店側としては非常に迷惑な行為だ。だから相応の覚悟をして臨んだつもりだったが、話し掛けるまでもなく、己の対応に出たのは白神だった。間違いなく白神 舞だった。

「…………く、くくくくっ」

 声が漏れ、顔がクシャクシャになる。笑みを堪えることができない。

「なんで……?」

「お前さぁ……なんて言うかさぁ……まぁ、良いや。仕事終わるの何時?」

「十一時を回ると思いますけど」

「じゃぁ一時間くらいか。だったら待つ」

「え、あ、待つって中でじゃなくて外でですか!?」

「そのつもりだけど」

「こんな寒い日に外で待つとか馬鹿なんですか?」

「ほんの一時間だろ」

 一時間ほど待ちぼうけている人なんて世の中には幾らでもいる。こんな寒い日であっても、待てる人は待てる。そして己は、待てる側の人間だ。

「迷惑です、やめてください」

「お前がそれを言うなよな」

 己は呟き、そして白神に笑いつつ言い放つ。

「今日はお前のためなら幾らでも待つよ」

 そして己は本当に、一時間を待ってやった。店の外で、温かそうな店内の風景をチラチラと眺めながら、一時間待ってやった。手足が悴んで、寒さで死んでしまうんじゃないかと思うくらいに震えつつ、耐えてやった。

 三時間待った奴に比べれば、こんなのは屁でもない。

「お待たせしました」

 裏口から回って入り口にやって来た白神が、己に声を掛ける。

「待たせすぎました?」

「いや…………寒い」

 余裕を持った表情で答えてやろうと思ったのに、すぐに限界が来た。素の感情がそのまま吐露されてしまう。

「だから店内で待っていれば良かったのに」

「お前だって外で待ったじゃないか」

「あれは夏でした。今は冬ですよ?」

「ああ、今は冬だな…………ってか、寒い」

 懐炉でも寒さを和らげるのは限界がある。両足は靴を脱がなきゃ温められないし、指先に鼻先や耳たぶはどれだけ温めたってすぐに冷たくなる。

「……綿貫さん、目を瞑ってもらえます?」

「は? 今、目を閉じたら寒さで冬眠してしまう」

「どこのクマですか」

 そんなツッコミと共に、白神は己が目を瞑らないと分かったのか、自身の手と己の手を合わせた。彼女の手の温もりが己の凍えた指先をゆっくりと溶かすように温めてくれる。

「……気持ち悪い」

「気持ち悪いな」

 手と手を合わせている感触は気持ち悪い。自分の手と手を合わせるのならわけないのに、他人と手を合わせることはなんだか違う。小洒落たレストランのときも手を繋いだが、あのとき以上の気持ち悪さだ。

「綿貫さん、明日は予定とかあります?」

「あったら来てない」

「ですよねー、綿貫さんってそういう人ですもんねー」

 貶しつつ、白神は己に向かって微笑む。

「じゃぁ、体を温められる場所に行きましょうか」

「そんなとこ、どこにあるんだよ」

「言わせないでくださいよ。私、ついさっき決めましたから」

 白神は僅かに頬を朱色に染めて、己を見上げた。

 ポツリポツリと降り出した雨は、徐々に勢いを増す。ファミレスの庇が流す水音が、その激しさを伝えている。

 土砂降りになる前に、己たちは相合傘で歩き出した。行き先は、白神だけが知っている。



 起きてください、と耳元で囁かれて己は瞼を開ける。そして体を横に向けると、そこには目も眩むほどに整った肢体を晒している白神が居た。同じベッドの中で、眠っていたらしい。

 己もまた裸だった。

「昨日のこと、どこまで憶えてます?」

「寒いところから、温かいところに行って、それから」

 それから、なにか色々とした気がする。

「……まぁ綿貫さん、肝心なところで寝ちゃったんですけどね」

「へ?」

「随分とお疲れだったようですから、取り敢えず体を温めるってことで一緒にお風呂に入って、それでベッドに入って……って、綿貫さん?」

「不甲斐なさと申し訳なさと至らなさで、キツい」

 思い出した。思い出したが、こんなものは思い出さなくて良かった。

 己はベッドの中で彼女に覆い被さり、そこで寝入った。手には感触が僅かに残っているが、肌と肌を重ねるという意味では肝心な部分を重ねていない。というか、そこが一番重要であったはずだが、それができていないというのは情けなく、そして惨めである。酒は一時間待っていた間に抜け落ちていたはずだから、結局のところは酒で眠りに誘われたというよりも、緊張の糸が解けたことによる安堵からの眠気だったのだ。その睡魔は我慢できるはずのものだ。

「それじゃ、朝からします?」

「いや……いや、待って」

 それはちょっと現実的過ぎる。うろ覚えだからこそ良いこともある。朝からとか、記憶の整理ができる夜まで相当な時間があって、また不甲斐ない結果になったら立ち直れない。

「できますよ、昨日は疲れていただけなんですから。綿貫さんも中途半端は嫌でしょう?」

 そんな慰めの言葉はいらない。

「帰る」

「分かりました。服を着るのであっち向いててください」

 向くもなにも、己は彼女の全てを見てしまったわけで、なにを恥ずかしがることがあるのだろうかと疑問に思う。だが、己が服を着るときにマジマジと白神に見られたら、それはやはり恥ずかしいことだろうからその疑問の解決にはすぐに至った。

 ベッドから彼女が出て、衣擦れの音がしばらく耳に入る。なんだろうか、このえもいわれぬ興奮は。別の意味で刺激が強い。

「もう良いですよ。今度は私が別のところ見てますので、服を着てください」

 言われるがままに己はベッドから出て、辛うじて己が纏っていたバスローブとやらを脱ぐ。これをどうやって、いつ着たかの記憶は曖昧だ。もうその頃から眠かったってことだ。

 脱いだ衣服は綺麗に畳んでいる。ここには己の性格が反映されていた。やはり服を脱いだのは己自身の意思で、そしてバスローブを纏ったのも己自身なのだ。白神に眠っているところを、とかそんなことは一切無い。

「思い出して興奮とかやめてください」

 後ろから言葉が突き刺さり、己は怯えにも似たものを感じ、いそいそと衣服を身に纏った。

「えーっと……」

「私の体、綺麗でした?」

「さっき思い出して興奮するなって言わなかったっけ」

「そこだけは気になるので」

「……あー、綺麗だった、んじゃ、ない、か?」

 否応無しに思い出し、頬を己は引き攣らせる。これは嬉しさから来るものではなく、強烈な情けなさから来る卑屈な笑いだ。

 こんな美女を前にして、己はヤることもヤラずに寝てしまったのである。しかも白神からの誘いでラブホテルにチェックインし、彼女はもう受け入れる準備すら整っていた状態とも言える。これで卑屈にならずにいられるか。

「綿貫さんのも立派でしたよ」

「なにその辱め」

「いえ、本当に、真面目な話として、なんです、けど」

 言葉を徐々に尻すぼみにさせる白神を見ると、頬どころか顔まで真っ赤である。どうやら白神も昨日のことを思い出して、冷静さを失っているらしい。

「帰る」

「分かってますよ。なんなんですか、その子供っぽい言い方。化粧するんで待っててください」

「何十分くらい?」

「今日は予定も無いので、外を出歩いて恥ずかしくないくらいのシンプルさで行くんで、すぐ終わります」

 女性の化粧を待つことは母を除けば今回が初である。己の視線も気にせずに手鏡と化粧道具を取り出して、彼女は手際良く自身を飾って行く。

「なぁ、白神」

「なんですか?」

「東京に行くなって言ったら、お前は残るのか?」

「残りますよ。内定蹴って、その企業や職種全体に行き渡るような悪名高い女になりますよ」

 生々しいことを言われた。

「や、残らなくて良い。むしろ行け」

「なんなんですか……でも、そっちの方が綿貫さんっぽいですね」

「年明けに東京に引っ越すのは沢渡さんから聞いた」

「……まぁ、新人研修のために行くのは必須ですから、その前に東京に慣れておかないと」

「ナンパとかされんなよ」

「されませんよ」

「夜道を一人で出歩くなよ」

「気を付けます」

「合コンとかすんなよ」

「誘われると思います?」

 彩りとしては万能だから誘われるだろう。

「上司に言われるがままに酒の席に出るなよ」

「出ませんよ」

 そこで白神は化粧道具を片付けて、己をジッと見る。こうして視線を重ねることは何度とあったが、やはり彼女の瞳に生気は無い。けれど圧はあるから困る。

「っていうか、なんなんですか? なんでそんなに私を縛り付けるんですか? 自由を感じないんですけど。綿貫さんにとって、私ってなんなんですか?」

「……え、と」

「そこでダンマリは、嫌われますよ」

「なんと言うか……気味が悪い」

 己が所在なさ気に縮こまり、視線を泳がせながら言うと白神は、ふふっと笑みを浮かべた。

「そうですね、私も気持ちが悪いです。真冬なのに外で一時間とか待たれると、気持ちが悪くてたまりません」

「だよな」

「けれど、私も雨の中で三時間も待ったことがあるので、気味が悪いとか気持ち悪いと言われるのもおかしくはありません」

 鞄を手に取り、白神がフロントに電話を入れる。

「手馴れてないか?」

「私、負け犬ですけど、どもること無いんで」

 要するに肝が据わっているということらしい。なんだか釈然としないが、白神がラブホテルの使い方を知っているからといって、彼女に対する印象が変わるというわけではない。己に純潔であることを示唆する発言を多々していても、それが嘘であったのならラブホテルの使い方を知っていても納得はできる。

「言っておきますけど、利用するのは初めてだったんですからね」

 自動精算機でなんとなしに己がホテル代を支払い、釣り銭を財布に入れて恐る恐るラブホテルから出たところで、白神は己の考えを読んでか否定の言葉を漏らす。

「嘘だろ。手馴れていたし」

「嘘じゃありませんよ……嘘じゃ、ありませんよ」

 二度目の言葉は恥ずかしさで耐え切れないといった感じで、そこにはキャラもなにもない彼女の素の表情があった。

「寒いなー」

「ですねー」

 朝の気温は昨日の夜のそれと同等か、それ以上に寒い。彼女の吐く息も、己の吐く息も変わらず白く見える。手を繋ごうと思ったが、そんな風に手を繋いでいる様を想像してみると気持ち悪くて、よけいに寒くなった。

「ところで綿貫さん、一人で帰れます?」

「……帰れないかも」

「ですよねー、綿貫さんが一人で私のところに来られただけでも奇蹟ですもんねー」

「……あと、お前のイメージぶち壊し作戦は、俺の女々しさのせいで失敗した」

「私のところに来た時点で、そうだろうなと思っていました。そんなだと私が負け犬になった責任は、これからも取れそうにありませんねー」

 棒読み気味に言われることがこれほど胸に刺さるとは思わなかった。苛立ちや腹立たしさを感じていたことはあったのだが、今は劣等感を刺激されている。

「一人で大阪着いたら道に迷ったし、乗り換えもよく分からないし、肝心なところで寝るしな……そして、今度は会いたい奴に見送られそうだとか、死にたいな」

「いえ、生きていてください。生に執着的なんでしょ、あなたは」

「言うだけだな、俺は。なんでもかんでも、実行できない」

「でも、私に会うことは実行に移せたじゃないですか」

「それも沢渡さんに言われなきゃできなかった。車の免許持ってないし、大学で英検取り損ねたし、秘書検定も落ちたし」

「だーかーらー、自虐的になり過ぎなんですって! なんで大学生の頃の失敗談まで喋っちゃってるんですか、馬鹿なんですか」

 本当に、馬鹿なんですか。白神はもう一度、己をそう罵倒したのち黙り込んだ。己もこれ以上、自虐的に喋り続けると憂鬱になるので、胸の中だけに押し留めた。

 歩いて数十分ほどで、駅の入り口が見えた。

「ちゃんと乗って、大阪で迷子にならずにちゃんとJRなり、綿貫さんがいつも乗ってる路線の電車に乗って帰ってくださいよ」

「行きしなのことを帰りしなにするだけだろ、大丈夫だと思う」

「とか言って、綿貫さんは逆方向の電車とかに乗りそうなんですよ。見ていないと危なっかしくて……なんで年下が年上の心配しなきゃならないんですか、信じられませんよ」

 白神はぷんすかと明らかに怒りを示された。これもまた彼女の素である。

「なぁ白神、東京行っても頑張れよな。イヤミとか妬みに挫けて、俺みたいにはなるなよな」

「綿貫さんにそう言われたら、そうならないように努力しますよ」

 それが彼女の生き方だ。誰かに言われてコロコロと考え方を変え、従属する。己のためにと身をやつしていたのも、己がそれを望んだからだ。彼女にイメージをぶち壊しませんかと言われ、もしも己がそれを望まなかったら、きっと彼女は己の前から姿を消していただろう。

 それは己にとっては平和であったのかも知れない。そして、彼女にとっても平和だったのかも知れない。己の言葉を真に受けて、負け犬に成り下がった白神も、そのとき己を見限っていたならば、責任などそっちのけで遅れを取り戻すように頑張ったかも知れない。己に責任転嫁をするような怪しい言動を取ることだって無かったはずだ。

 だから、己と白神の関係は酷く気持ちが悪い。気味が悪く、薄ら寒い。ロマンと呼ぶには勝手が違う。

 確かに大阪へ向かうときの己は群像劇のような意欲と情熱を持って、彼女の居るところに向かった。ひょっとするとそれを人は衝動と呼ぶかも知れないし、ロマン溢れる行動と讃えるのかも知れない。

 けれど、白神はそんな己の行動を気持ち悪いと言い切った。それは至極、当然のことで、現実にあってはならない妄想の中に留めておくべきものを現実にすれば、それは酷く気味が悪く気持ちが悪く奇妙が過ぎるのだ。だったら、衝動でもロマンでもなく、男が女に会いに行ったという、ただそれだけの事実だ。

 誰にも相手にされなかったわけではないが、己も白神も人恋しかった。寂しさと苦しさを分かち合える同じ負け犬と会えたからこそ、その人恋しさは並々ならぬものだったんだろう。白神が負け犬になったのは己のせいだが、己だって人生に妥協したり、諦めたりしてはいても、望んで負け犬になったわけではないのだ。

 その人恋しさが、気持ち悪さの正体なのだろう。

「白神が俺のバイト先のコンビニに来たのって、偶然か?」

「偶然ですよ。久し振りに実家に帰って、それであのコンビニに寄ったんです」

 嘘か真か、白神は答える。

「女子高校生を追い払っているところを見たとき、ビビッと来た上に思い出しました」

「なにを?」

「言わなくても分かりません? イメージをぶち壊そうという提案は冗長だったのかも知れませんけど、私は私で、綿貫さんがどういう人間なのかを知ることができました」

「俺は最後まで分かんなかったけどな」

「だって、素の私なんてお墓参りのあとにしか見せていませんもん」

「そっか……」

「なに落ち込んでいるんですか。半年なんてあっと言う間ですよ。一月から引っ越すんで、九ヶ月くらいですけど」

「落ち込んでねぇよ」

「ま、そういう人ですよね。たまに冷たいところがツボです」

 己に微笑み掛けつつ、白神は呟く。

「ツボ?」

「ゾクッて来るんです。ああ、気持ち悪い」

 あまり深くは追及しない方が良さそうだ。彼女の性癖について、とやかく言うつもりはない。

「それでは綿貫さん、さようなら」

「見送る側のはずなのになんで見送られているんだろうな」

 そんな愚痴を零しつつ、己は改札口を抜ける。

「綿貫さん綿貫さん」

「一度呼べば分かる」

「ノルマとして一日十通を要求します」

 白神は両手を開いて見せ、己に十の数を示す。

「メールしろってことか?」

「はい。私からはメールしませんので、絶対に綿貫さんからメールしてください。それで返信しますので、十回はメールを続けてください。そうしなければ、私はどこかの誰かに体を委ねているかも知れませんし、私だって綿貫さんが誰かにうつつを抜かしている――沢渡さんに惑わされていると思いますので」

「お前だって、相手を縛るの好きだよな。善処する」

「善処ではなく毎日続けろって言ってるんですけど」

「……分かったよ、送るよ。毎日、忘れずにメールする」

「ありがとうございます、創さん」

「はっ?!」

 苗字ではなく、名前で呼ばれたことに己は驚き、変な声と反応を取ってしまう。

「私に名前を教えなかったのは知ってますけど、でも、詰めが甘いのはさすが創さん」

 自身の携帯電話を鞄から取り出し、主張させるように揺らす。

「メルアドの交換を赤外線でしたとき、名前も一緒に入って来ていましたよ」

 己はなにも言えず、思い昂ぶった意識を静めさせるために駅のホームに向かった。

 そして、電車に乗ると空いていた座席に着く。腕を組み、寝入ったフリをする。けれど、どうしてか己はその組んでいる腕を力強く解放したい衝動に駆られ、それを必死に抑えていた。

 まるで縛られているものを断ち切りたがっているかのような、そんな感覚だった。

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