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【第六章】

【第六章 粒】


 己にとって、沢渡さんは初恋の異性である。穏やかで、落ち着いていて、気品があって、とても優しい。声は澄んでいて、髪は綺麗に梳かれていて、瞳は己を射止めて離さなかった。

 リーダーシップこそ無いものの、誰にでも分け隔てなく話していて、それを遠くで見つめるたびに胸が痛くなることもあった。

 何気ない言葉の一つ一つに一喜一憂して、いつ己は話し掛けるべきか、いつ話し掛けて来てくれるか、いつもいつもワクワクしていた。

 それもこれもどれも、全て昔の話だ。懐古してしまうのは、切なくてたまらないからだ。思い出すたびに切なさを感じて、胸を熱くさせるからだ。無くなったはずの熱意を、情熱をまた持てるのではと誤解させるためだ。あの頃の楽しさを、取り戻せるようにと努力するためだ。

「私のことはちっとも憶えていなかったクセに、私と出会う前の想い出は、ずっと胸に秘めているんですね」

 九月になった。蝉の声は聞こえなくなり、夏のうだるような暑さも徐々にその勢力を弱めている。良い意味で暮らしやすい気温、悪い意味で中途半端。そういった時期に入ろうとしているが、己と白神の関係もまた、良い意味でお互いに気楽、悪い意味で中途半端なままだった。しかし、そもそもは己が白神との関係をまだ維持したいと願い、悪足掻きをしたからこうなったのであって、彼女にこの中途半端な関係の責任は無い。

 「いらない」と言ってしまったことに責任を感じないが、この関係については責任を感じる。つまりは、昔か今かの違いだ。

「憶えているかよ」

「お化けかと思いましたよ。私にしか見えない自縛霊が現れたのかと」

「こんな自縛霊が居たら大変だろ」

「人間でも大変なのに自縛霊になられたらたまりませんね」

 白神は毒づいて、そののち、呆れたように深い溜め息をつく。

「ほんっとに、無駄に二年も歳喰った年長者の典型ですよ、綿貫さんは」

「年下だったら良かったのか?」

「私、別に年下が好みとか無いので。っていうか、そういう話はキモいんでやめてください。うわ、チョーキモい」

 キモいと言っているときの白神は素である。ただ、言われ慣れているので悲嘆には暮れない。こいつにどう思われようと、己はちっとも気にしないのだから。

「どこがどうキモいんだ?」

「まずデートコースを私に任せる辺りがもう駄目、キモすぎます。なんなんですか、頭でもおかしいんですか。なんで私が綿貫さんと、綿貫さんの初恋の人が歩いて回るデートコースのセッティングをしなきゃならないんですか。馬鹿ですか、馬鹿なんですか、馬鹿馬鹿ですか?」

「流行りとか知らないんだよ」

「私だって知りませんよ」

「服は着こなしているように見えたけどな」

「乙女の嗜みです。流行りとか分かんなくても取り敢えず、世間一般的な外れたセンスは持ちません」

 白神はこれでも女性の感覚を持っているらしく、服装についてはまともである。休日などに出歩くことは少なくとも、出歩けば必ず洋服を見て回っているのだろう。流行の服は店頭に並ぶことが多く、そこで僅かにズレた自身のセンスを矯正できる。己のように、テキトーに服を選び、テキトーに着込んでいるわけではないのだ。

「本当に沢渡さんは俺の気を惹きたいのか? どう考えても、センスの欠片も無い男との関わりなんて切り捨てるべきだろ」

「ですよねー、綿貫さんって扇子とセンスの違いも分からないくらいの人でしょうしねー。ほんっと、私服のセンスがあり得ませんから。今日は気合い入れたみたいで、馬子にも衣装的に似合ってますけど」

 散々な言われようだった。

「地味な下着を着ている奴に言われたくねぇよ」

「どーせ綿貫さんは下着もお母様に買ってもらってるんじゃないんですか?」

「……あー」

「え、嘘、ほんとに? え、あ、あれ? 冗談で言ったつもりなんですけど」

「下着は自分で買ってるな」

「なんですかその言い回し。それじゃもう、下着以外の服はお母様に買ってもらっているってことになるじゃないですか」

 事実、そうなのだからなにも言えない。

 大人になっても、自分で服を買うという資金のやり繰りにまず疑問を感じてしまうし、続いて己は試着という概念をあまり好ましく思わない理由から、この歳になってもまだ服を買ってもらっている。

「綿貫さんの服装を侮辱することは同時に、綿貫さんのお母様を侮辱することに繋がるんですね。怖ろしいトラップですよ、これは。綿貫さんの初恋の方は上手く回避できるでしょうか」

 別に甘んじて服を買ってもらって、それを拒まず着ているのだから、侮辱されようとそれは己への罵りだけであって、母親への侮辱にはならない。

「俺に素を見せて良いのか?」

「は、ウザいんですけど。私が素を見せようが見せまいが、自由でしょ」

 この悪辣さは、屋上へと続く階段の踊り場で己が見つけられたときの会話を彷彿とさせる。

「沢渡さんは結婚するのに、なんで男の誘いに乗るんだろうな。結婚祝いって建前はあっても、普通は乗らないだろ」

「だから結婚するのは嘘ですって」

 そう言われるのは分かっていても、沢渡さんが本当に嘘をついているとは思いたくないのだ。結婚することが嘘であれば嬉しいが、同時に物悲しさも訪れる。結婚することが真実であれば、ただただ己は悲しいだけだが。

「清楚系ビッチとか清純系ビッチですよ、きっと」

「怒るぞ」

「綿貫さんの言葉で初めて恐怖を感じました」

「お前だって初恋の人のことを馬鹿にされたりしたら怒るだろ」

「激怒しますね。そんな人が居たら殴り掛かりますよ」

「だから、そういうことだよ」

 初恋の人についてはいつまで経っても不可侵であって欲しいから、悪口だけは聞きたくない。これは誰だって抱くことではないだろうか。終わって、過ぎ去ったはずの初恋がまだ続くかも知れないという一縷の望みがあることが発覚した分、その思いは強い。

「でも私、初恋とかしたことないんで」

「居るよなーそういうこと言う女。大抵が清楚系を偽ってるんだよなー」

「私は処女ですよ。なんなら、確かめてみます?」

 言ったのち、白神は自分自身の言動に絶句する。

「いや、やっぱり無理。気持ち悪い、吐きそう。御免なさい、無理です」

 ほとんど生理的に受け付けないと言われているようなもので、己は落ち込むべきところなのだろうが、これもまた高校時代の苦痛から慣れてしまっていて大きく心を抉られることがない。

 感情を殺すというか、感情のスイッチを切ることができる。

 不要な情報は右から左へ、必要な情報だけ脳に直結。これは白神だってやっていたことだ。

「白神って、意外と下ネタ挟むの好きだよなー」

「なっ!?」

 これは鶏冠に来たのか、彼女は顔を真っ赤にする。

「私はそんな変態なんかじゃありませんからね! 話を振って来ているのは綿貫さんなんですから! 綿貫さんが悪いんです、全部!」

 全部と言うからには全部である。白神が負け犬になったのも、白神が下ネタに対して割りと真面目に返して来ることがあるのも全て、己のせいということである。それは彼女の自論であって、社会一般的に見ればただの責任転嫁でしかないのも、もう語る必要も無いことだろうか。

「そう言うお前のデートコースが中学校ってどうなんだよ。セッティングもなにもねぇよ」

「ねー、あり得ませんよねー。そんなあり得ないデートコースを提示したのに応じる沢渡さんはどんだけ綿貫さんのこと好きなんだよーって感じですよねー。っていうか、告白だと思っているから、デートとは考えてないんじゃないですかー」

 己が語尾を伸ばして気怠げに会話していると、徐々にそれが彼女へと移りつつある。元々は白神が作ったキャラなのに、ひょっとすると忘れているのだろうか。

 彼女のキャラの云々はともかくとして発言には聞き流してはならないものがある。

「決め付けは良くないだろ」

「綿貫さん、立場をハッキリさせてくださいよ。結婚して欲しいのか、好きであってほしいのか。その両方なんて、取れないんですから」

 嘘ではなく真実なのか、嘘であって己のことを試しているのか。己はどっちであって欲しいのだろうか。

 白神に指摘されて考え始めたことではなく、胸の中でずっと右往左往している気持ちである。

「彼女には幸せになって欲しい」

「わー、すっげぇ曖昧だー。死んでくださーい」

「毒舌にも加減ってものがあるだろ」

「この負け犬が、なーに偉そうに毒舌のこと語っちゃってるんですか」

「その辺でやめておけよ」

 さすがの己も堪忍袋の緒が切れてしまいそうだった。

「私、無理にキャラを作ったりしませんから。綿貫さんの前ではどんどん素を見せるようにしましたから」

「それが素なのかよ」

「本来の私は後輩のクセに先輩に突っ掛かるチョー面倒くさい女ですから」

「それはチョーウザいな」

 年功序列、年長者となんだかんだで年齢に拘っていた彼女が、実は年上嫌いとはこれまた奇妙な話だ。

「私の口真似とかチョーウザいですから、死んでください」

「マジで腹が立つんだが」

 白神はフンッと首を横に振って、つんけんした態度を見せたあと、腕時計に視線を落とした。

「もうそろそろですね、私はストーキングしますんで、あとは頑張ってください」

「まだ三十分前だろ」

「三時間以上、待ち伏せできる私みたいな女も居るんで」

「自分がおかしいって自覚はやっぱあるんじゃないかよ」

 己の突っ込みに対して、白神は冷ややかな笑みを浮かべたのち、横道に入って姿を消した。これから白神に文字通りストーカーされるわけだが、そんなことに気を掛けられるほど己の心に余裕は無いだろう。

 だって、己はこれから沢渡さんと会うのだ。しかも二人切りである。再会したときも二人切りだったが、あのときとは事情が違う。

 彼女の真意を探るために会う。結婚することが嘘か真か、嘘ならばどうしてそんな嘘をついたのか。真ならば、どうしてそれを再会したばかりの己に告げたのか。きっとそこには、「中学生時代の友人も何人か呼ぼうと思って」などという単純な理由は無いはずだ。

「美織……沢渡 美織」

 己がずっと心の中で呼び続けていた名前だ。心の中や一人切りのときには簡単に呼べるのに、いつまで経っても本人の前ではそれを呼ぶことができなかった。もどかしく、苦しく、悲しいことだ。好きな人の名前も碌に呼べやしない、女々しい男は今もまだ、公共の場であっても口にするのを躊躇ってしまう。

 己のやっていることが思い違いで勘違いであって、嫌われるのならそれはそれで良いことだ。初恋は終わるし、相手も己に見切りを付けられる。今日という日が、己にとってはささやかな想い出にもなるだろう。初恋の人と僅かでも二人切りで話し合うことができたという、事実とは捻じ曲げた想い出で己は満足できるはずだ。

「綿貫君」

 白神が立ち去って十五分程が過ぎた頃、沢渡さんが己の前に現れた。

 清純派を地で行く、己の中にある彼女のイメージそのままの姿だった。髪の色だけは、昔と違って薄くブラウンが掛かっているけれど、でも、己にとってはまだ許容できるものだ。

 ああ、やっぱり己は彼女が好きなのだなとこうして対面しているだけでも分かる。どれだけ月日が経とうとも、この想いだけはずっとずっと、変わっていない。

「どう、かな?」

 それは白神のときのように露骨なアピールではないにせよ、服装に対しての意見を求める質問だった。相変わらずの白を基調とした服――名称は知らないが、女性物の洋服としては地味に纏められている。個人的な強い主張を持たさずに、しっかりと着こなすのだから彼女のセンスが己よりも高いのは一目瞭然だ。

 ただ、スカートの丈は少し、己好みではない……こうして比べれば、白神のスカートの丈は己の好きの範疇だったのだなと感じる。沢渡さんもあれと同じくらいのスカートの丈で決めて来てくれていれば、言うことなしだっただろう。

「似合って、いる……よ」

 けれど己は全体的に見て、似合っているという結論を下した。そのことに沢渡さんは感激したかのように――本当に感激しているかどうかは定かではないが、とにかく喜び、表情を綻ばせた。その笑顔にやられて、暑くもないのに頭に熱が集まり、そのまま眩暈を起こして倒れてしまいそうだった。

「私ね、あんまり騒々しいところとか好きじゃないんだ。だから、久し振りに会った綿貫君と中学校を見るのは、実は凄く楽しみにしていたり」

「そ……う」

 嘘か真か。想い出の場所――母校を見て回ること自体を楽しみにしているとは思えない。

 女は男に奢らせる生き物で、男が女にどれくらいのお金を費やすかで、その女の価値は決まる。前にコンビニの店長とバイトの高校生の男が喋っていた話にそんな、格言みたいなものが出て来た。他人の会話には、なんの価値も無いと決めて掛かっていた己も、それだけは右から左へと流さずに脳で受け止めた。どういった話題でそんな台詞が飛び出たかは憶えていないけれども。

「見て回るだけ、っていうのは少し寂しいけど、お互いに忙しいし仕方が無いか」

 沢渡さんは尚も続けて言って、大きく大きく背伸びをした。自由奔放で、縛られない。朗らかで活き活きとしている。

 見ているだけで、こっちの表情も綻んでしまう。

 こんな鼻の下を伸ばした様を白神に見られているのだ、と考えたところで寒気も怖気も走らない。どれだけの堅い決意も、沢渡さんの前では豆腐のように緩んでしまう。いわば彼女は己の全てにおいての弱点なのだ。

「沢渡さんは……私立の高校に行ったんだっけ?」

「そう。綿貫君は公立の高校だったよね。どうだった?」

「……まぁ、それなりに」

「私も、あんまり青春って感じはしなかったかなぁ」

 己の少しばかりの沈黙も、沢渡さんは気にすることなく話を続けている。恐らく、なんらかの手段で己が高校でどのような日々を送っていたかは知る術があったはずだ。彼女はリーダーシップこそ無かったが、己よりも社交的で、たくさんの友人知人を作っていた。己の高校にもきっと、その友人知人は一人や二人くらい居たはずだ。だから、知らないわけがないのだ。

 それでも彼女は己のことを認めている。

「大学は?」

「んー、芸術系の大学に行きたかったんだけど、ほら、芸術系って潰しが利かないじゃん。お父さんに大反対されて、文系の大学に行ったの。渋々、文系にしたのにお父さんは『文系より理系の方が良い』って言われたんだけどさ、数学は良くても物理がちょっと、ね」

「沢渡さんはなんでもできるイメージだけど」

「そんなの無理無理。高校じゃちょっと勉強サボってたもん。一年の冬とか酷かったんだから。赤点ギリギリで、お父さんだけじゃなくてお母さんにまで説教を喰らっちゃったし」

 オーバーなリアクションで沢渡さんは「私なんて」と呟く。

 人間味が溢れている。己が高嶺の花だと決め込んでいた沢渡さんは、なんでもできる完璧超人だったが、蓋を開けてみればなんのことはない。己よりも優れてはいても、彼女も所詮は人間に過ぎないのだと気付かされる。

「綿貫君は、勉強の方はどうだった? 小学校六年生くらいに、物凄い勉強に励んでいた時期があったけど」

「気付いてたんだ?」

「そりゃ……気付くよ」

 間を空けて、彼女は己から視線を逸らした。なんだろうか、己の顔がとても気まずそうにしていたのだろうか。それとも己の顔がとんでもなく醜悪な表情をしていて思わず目を逸らしてしまったのだろうか。

 そんなネガティブなことしか考えられない時点で、雲泥の差だ。やはり彼女はなんだかんだで勝ち組なのだ。

「高校はあんまり、勉強に集中できなかった。恥ずかしい話、大学も偏差値が低いところに行ったよ。就職なんて考えず、取り敢えず、大学生活を送れれば良いや、みたいな軽い気持ちで行った。それを少し、後悔しているかも」

 己は歩き出した沢渡さんの横に少し離れて付いて、ありのままを話す。どうせ隠し通せない。もう出会ったときに人生の敗北者になってしまっていることには、気付かれてしまっているだろうし、変に装って、妙な期待感を抱かせてはならない。

「それも人生だよ」

 己はキョトンとしてしまう。

 それも人生だよ。

 たったそれだけで、軽く流せてしまうことじゃない。

「駅で会ったとき、実は凄く気まずかったんだよ」

 沢渡さんは苦笑いを浮かべる。

「だって、なんだか恥ずかしかったから。今の私は昔の私に比べて、綿貫君とちゃんと話せるか、不安だったから」

「ちゃんと話したことって、あんまり無い、よね」

「小学校四年のときの遠足で二回、五年生のときの図画工作で三回、六年生のときの水泳で一回。中学はクラスが違ったから全然、話せなかった」

「回数で憶えてるの?」

 その記憶力に己は驚いて見せた。

「憶えてるよ。私、綿貫君とのことは絶対に忘れてないって自信あるから」

「……俺はおぼろげにしか憶えてない」

「えー、ほんとに?」

 冗談でしょ、と言いながら彼女は空を仰ぎ、髪を梳いた。女性らしい仕草に、漂う香水の匂いに感覚が麻痺してしまいそうだ。

「六年生の水泳とか、憶えていそうなのに」

「……横にくっ付かれた」

「そうそう! 綿貫君、自由時間に全然泳がないから、具合でも悪いんじゃないかって心配になっちゃって思い切ってくっ付いちゃった! あー、思い出すだけでも恥ずかしいな。水泳のときって言うのがまた、ものすっごく恥ずかしい。『大丈夫?』って訊いて、『気にしなくて良いよ』って綿貫君が言ったんだよね」

 なんでこんなに楽しそうに想い出を語れるのだろうか。己はあの頃に哀愁しか感じられないのに、どうしてこんなにも、嬉しそうに己に語ってくれるのだろうか。

「中学のとき、廊下で友達と追いかけっこしてたときにぶつかった」

「それも憶えてるけど、互いに『御免』と『大丈夫』を目でやり取りしただけだから、会話に含めるのもどうかなーって思ったの」

 あのアイコンタクトを憶えているとは思わなかった。

「帰り道で一緒になった」

「それも喋らなかったじゃん。私、話してくれるの待ってたし、一緒の道を選んで帰ってくれてるの分かってたから嬉しかったのに!」

「迷惑には?」

「思ってなかったよ。あ、でもちょっとだけ思っていたのかも。落ち込んでいるとき、そういう顔を綿貫君には見せられないって思って、結構、無理してたときもあったし」

 帰り道を同じにして、同じ時間帯に帰ったことは中学三年間においてはたった十回にも満たない。それを女々しくも大切な想い出として残しているのは己だけだと思っていたのに。

「なんか、ストーカーみたいなことをしていたなと、思って」

「ねー、今やったらストーカーだよ」

「今はやらないよ」

「そりゃ、やったらまずいでしょ」

 冗談混じりに言ってみせ、沢渡さんは中学校に続く横断歩道の信号で立ち止まった。

「小学校のときは話せたじゃん? 中学だと、なんで話せなくなったんだろうね」

「思春期だから」

「それだけで済ますの?」

「異性と話すのが、なにか小恥ずかしいみたいな感覚があったんだよ」

「男の子も女の子も、話さなくなるか話したがるかのどっちかでしょ。私たち、二人揃って話さなくなる側だったってことかな」

 男は異性と話さないことを格好良いと思うか、思わないかで変わる。女子は男を生理的に嫌う時期がある……らしい。白神との猥談より抜粋したことで、あいつの言ったことだからどこまでが真実かは分からないが。

「でも、今は話せてる」

「綿貫君もね」

 信号が青になったので、二人揃って渡る。その先にある中学校の校門を眺めた。

「あのときは話したいのに話しちゃ駄目だー、みたいな感じがあったでしょ」

「……まぁ、自意識過剰なりには」

 高嶺の花だから、己のような人間が触れたら根が腐って枯れてしまうみたいな。そういう妄想をしていた。

 そもそも、己なんて彼女には相手にもされていないと思っていたから、声を掛けたら怯えられたり、暴言を吐かれてしまうのではと怖れていた。カッコ付けで話さなくなった男の中でも、己は嫌われたくないから話し掛けなくなった部類だ。内気な男の大抵はそうなんじゃないだろうか。

「あーあ、勿体無いことしたよねー」

 さすがに中学校に入ることはできないので、正門横の道を進むと見える中学校のグラウンドを沢渡さんは眺める。

「私たち、もっと中学生らしいことできたと思わない?」

「分からない」

「普通に喋ってさー、普通に笑ってさー、それで一緒に普通に帰ってさー。なんだか物凄く、損した気分」

 部活動だろうか、生徒がグラウンドを二列を作って走っている。掛け声が力強く、こちらにまで響く。

 懐かしい。ほんの少し前までは、己もあそこに居たのだ。部活動には出ていなくとも、体育でああやって準備運動の一環として走らされたことがあった。

 今はもう、眺める側になった。

「沢渡さんはもう結婚するらしいね」

「…………気付いていると思ったのに、なー」

 沢渡さんは物憂げな表情を己に向ける。

「昔は、話さなくても目を合わせれば話せていたじゃない? あのときも、きっと分かってくれると思ったのにな」

 そんな言い方はズルい。

「分からないよ、俺には」

 だから己は否定的な態度を取る。

「再会して、緊張して、惨めに思って、なのに嘘を分かってくれって、おかしいだろ。俺は話すことだけでも精一杯だったのに、沢渡さんは嘘をつけるだけの余裕を持っているなんて、思えないよ」

「……そっか」

 沢渡さんは「そっか」と何度も呟く。

 彼女は結婚しない。結婚するというのは、咄嗟についた嘘だと判明した。

 でも、分からないことは残っている。

「どうして嘘をついたの?」

 嘘をつく理由が己には分からない。

「その言い方も、ズルいよ」

「なんで?」

「分かるでしょ。私、綿貫君との想い出をずっと大切にして生きて来た。それで、また再会することができた。でも、綿貫君は私のことなんて、見向きもしてくれなさそうな雰囲気で、耐えられなかった」

 見向きもできなかったのではなく、彼女という存在が眩しすぎて見ることができなかった、が正しい。

「結婚するって言ったら、綿貫君はどういう顔をするだろうな、って思って」

「沢渡さん」

 己は頭を掻いて、胸の中にある複雑な想いをそのまま打ち明ける。

「なんで俺に結婚するって嘘がつけるの?」

「だからそれは」

「あなたは俺との想い出を大切にして生きて来た。俺もきっと、あなたとの想い出を大切にして生きている。だから嘘をついても気付いてくれると思っていた? 俺には無理だよ、できないよ。偶然再会した、心に留めておいた人に嘘をつくなんて、俺にはできないよ」

「そっ、か」

「あなたは確かに想い出を大切にしている。うん、それは分かる、分かるよ。それはこうして話していれば伝わる。でも、あなたは俺との想い出だけを大切にして生きているわけじゃ、ない。俺とは、違う」

 己の恋愛に関する想い出の全ては、沢渡さんで出来ている。彼女以外の成分は含有されてすらいない。

「だから沢渡さんにとって、俺は別に嘘をついても良い異性。偶然に出会った昔馴染みの友達なんだよ」

 諭すように優しく、ゆっくりと己は沢渡さんに言う。

「大切だったら、嘘なんてつけない。本当の本当に大切なら、肝心なところで嘘を言わない。俺は、そう思うけど……違うかな、間違ってるかな」

「ううん」

 沢渡さんは首を横に振ってくれた。

「合ってるよ。それで幻滅されるだろうなとは思ってた。それと、私の中で綿貫君がそんなに大きくないことも、分かってた。でもさ、まだ私たち足りないじゃん。まだ、分かり合うための時間が足りないじゃん。何年も会ってないんだから、嘘をついちゃう私の気持ちも、分かるでしょ?」

「うん、分かる」

 今度は己が彼女の言葉に肯いてみせる。

「だったら」

「だから、時間を理由にして嘘をつくのは、良いことなの?」

「それは、その……」

「会ってないことを理由に、唐突につく嘘は、良いことなの?」

 己は更に追及する。

「俺と会って、沢渡さんはきっと幻滅したんだよ。それはきっと正しいことで、間違ってなんかいない。俺は色んな意味で劣っていて、誰にも誇れる才能も無い。収入だって良くないし性格だって捻じ曲がったし、けれどこの俺自身を俺は嫌いになれない。死にたいって思っても、俺は死のうとはしないし、他人になんで死なないのって言われたら生きたいと答えてしまうくらいに生に執着してる。多分だけど、こんな気持ちは沢渡さんには分からない」

「分かんない、な」

「駄目だと思うんだよ、俺とあなたの歯車って噛み合わないと思うんだよ。大きさも歯の形も、全然違うんだ。カチッじゃなくてガキッて異音がするくらいに、合ってない」

「綿貫君」

 己の話を切るようにして、沢渡さんは見つめて来る。その瞳には気のせいでもなんでもなく、本質的な意味合いでの涙が溜め込まれていた。

「そんな自論で、そういうこと言えちゃうの? そういう屁理屈で、綿貫君は強引に話を進められちゃうんだ?」

「……想像も妄想も、まほろばの夢のままであって欲しい。そう考えると、俺は無理だな。自分の嫌な一面も、あなたの辛い一面も、見ることになってしまう。ポジティブな人間なら痘痕も笑窪だけれど、ネガティブな己には耐えられない。あなたにはずっと清いままで居て欲しい。昔の想い出は綺麗なままで、汚したくはない」

 初めて顔を合わせたとき、初めて言葉を交わしたとき、初めて名前を知ったとき、初めて名前を口にしたとき、初めて笑い合えたとき、初めて声を掛けたとき、初めて声を掛けられたとき、初めて協力したとき、初めて努力したとき、初めて手を重ねることになったとき、初めてプールでくっ付かれたとき、なにもかもが己にとっては清く美しく、綺麗な想い出だ。そこに現実が混ざると、グチャグチャになって絵の具の色みたいに真っ黒になってしまう。

「質問です、綿貫君」

「……うん?」

 突然、敬語になられると対応に困る。白神みたいに素を出すのかと身構えてしまった。

「あの子は、綿貫君のなんですか?」

「あの子?」

「お墓参りのとき、一緒に居た子」

「あー、なんでもない子だ」

「なんでもない子、か」

 沢渡さんはふふっ、と笑みを零す。けれど瞳に変わらず涙があって、それは粒になって、頬を伝って流れて行く。

 そこまで悲しむことなのだろうか。

 そこまで悲しむことなのだろう。

 己には分からない。まだ己には、沢渡さんは手の届かない存在で、手が届きそうだと分かっても躊躇ってしまうほどに清廉潔白に見えるから。

「でも、私にとってはなんでもある子なんだな……きっと」

「どうだろ」

「綿貫君」

 またも名前を呼ばれる。

「私の人生は幸福に満ちています。まさに絶頂期みたいな感じ。仕事もプライベートも全部が全部、楽しい。上司に怒られても馬鹿にされてもなにくそと思って頑張れるバネみたいな精神で、努力しています。もう綿貫君には予想も付かないほどの人生を送っていると思います。綿貫君みたいな、苦しくて辛いみたいな感情だけではきっと生きていません」

「そうだ。俺とは違う」

「そんな、なんでも持っていそうな私が持っていないものがあります。それをあなたの言う、なんでもない子が持っています。私はそれがとても残念で、とても悲しいです」

「あいつが持っているとは思わないけどな」

 沢渡さんが持っているものを持っていないと言うのなら、己の中で筋は通るのに。

「五年を要求します」

「え?」

「私に五年の猶予をください。もうアラサーに足を突っ込んじゃう五年後に、もう一度、私と会ってください。勿論、五年の間に私は恋をします、愛します、好きになります、肌も重ねます。でなきゃアラサーになりかけの女なんて結婚するのも大変だからです」

「……五年後にどうするの?」

 展望がない。五年後の自分を想像できないこともそうだが、なにより将来性が欠如している。己と沢渡さんの関係は、ここで切るべきだと思っているから尚更だった。

「五年後、また会った私があなたのことをまだ性懲りも無く、手放したくない人だと思っていたのなら! そのときあなたがまだ、誰とも付き合えずに付き合おうともせずに居たなら!」

 その先の言葉は分かっている。だから己はなにも言わずに下を向く。顔を見ていられない。悲しそうな顔を必死に取り繕っている沢渡さんの顔を見るのは辛い。

「私と一度、付き合えるかどうか試してください」

「……試させてください」

 お互いに好きとは言わない。分かっているし、口にするのも小恥ずかしいから。こんなところはまだ己も彼女も、子供の頃と変わっちゃいない。きっとこれは己との間だけでしか起こらないことだ。己とは違って、異性と縁のある彼女は「好き」と何度か告げているはずだ。

 己と彼女の間はずっとずっと、子供のまま変わらないのかも知れない。だとすれば、五年後に待つ結末なんて、五年を待たずして分かることじゃないだろうか。

「あーあ、勿体無い」

 しばらくの沈黙ののち、沢渡さんは呆れ口調になって己に言う。

「今なら肌も綺麗で、若いのに」

 やることはやって、知りたいことは知れた。己は踵を返して、中学生の頃にいつも歩いていた帰り道の登り坂を見上げる。

「一途で、清純な女の子がここに居るんだぞー!! きっと後悔するんだぞー!!」

 いつも気が滅入ってしまいそうになるこの坂を、己は必死に登って家へと帰った。その帰り道で、偶然にも沢渡さんと一緒に帰れたならと妄想していた。

 その坂道を、己は黙々と登る。

「振り返らなくて良いのかー!! このバーカ!! そこまで登ったらもう振り返るなよー!! この、青春ドロボー!!」

 背中に沢渡さんの野次が刺さる。

 信念を捻じ曲げてでも、己はここで振り返るべきではないだろうか。

 初恋の人と付き合える絶好の機会である。互いに好きとは言っていないが、好きと言ったような状態だ。振り返って抱き締めて、そのあとに色々と語り合えば良い。そうすれば、なにもかもが許される。

 なのに己はそれをしない。

 だってここで振り返ったら、カッコ悪いから。思春期にあった、異性と話すとカッコ悪いみたいなイメージが、まだ己には残っていて、そのイメージ通りに体は動いている。

 押し付けられたイメージじゃない。己自身が作り出して、後生大事にしてしまっている幻想である。だから、ぶち壊せない。

 ここで振り返る女々しい男。それが己のイメージとして向けられているものならば、ぶち壊して差し支えないだろう。

「馬鹿じゃないんですか?」

 坂を振り返ることもなく登って、横道に入ったところで白神と合流し、その真っ先に言われた。先回りされるほど、己はそんなゆっくりと歩いていただろうか。それとも白神はこんなに遠くから聞いていたのだろうか。だとすれば、己と沢渡さんは相当の声量で話していたことになって、それはそれで恥ずかしいことなのだが。

「一発、ヤれば良いじゃないですか。初恋の人で童貞捨てて、幻想もすっぱり消えて、すっぱりきっかり終わることができる。なのに五年後なんて、また変な約束しちゃって、その約束に縛られて、しがらみに囚われて、右往左往もできないままに揉みくちゃになって苦しむ。消えるはずだった初恋の人はずっとあなたの中に留まり続けて、きっとまだ次の恋に行けるほどに振り切れていませんよね」

 白神の頬を軽くではあるが、問答無用ではたく。

「なんで私に八つ当たりなんてするんですか!」

「それぐらい分かるだろ」

「分かりま…………綿貫さん、泣いてるんですか?」

 言われてゴシゴシと瞼を擦る。

 手の甲は濡れて、湿っていた。

「……くさい」

 ついでに臭いも嗅いでみたが、負け犬の臭いは尚も漂っている。

「臭いとかじゃなくて、なんで綿貫さんは、泣いているんですか?」

「フラれたから」

「え、は……? 五年後に付き合う約束したじゃないですか。そもそもフるフラれるの話以前のこと平気で喋っていましたし」

「だから、フラれたんだよ」

 好きで好きで好き同士。けれど己とは歯車が噛み合わない。沢渡さんだって口にせずともそれは分かっていた。ただ己から切り出しただけで、切り出さなければ彼女の方からになっていた。己からか彼女からか、それくらいの違いしかない。歯車が噛み合っていないことは明白で、嘘をつかれたことは事実なのだから。

 五年だぞ五年。五年もあったらゲームだって何十本と発売されるし、ひょっとすると新しいハードまで登場するかも知れない。漫画雑誌も大御所以外は消えるかも知れないし、アニメも流行を変えているかも知れない。

 そんななんでも起こり得る五年間で、沢渡さんが他の人を好きにならないわけがない。「美織」と耳元で囁かれて頬を赤く染め、幸せに浸らない日が来ないわけがない。

 そういう五年だ。今のあなたには「美織」と囁かれたくないという五年なのだ。

「なんか、男性の綿貫さんが泣いていて、私が泣いていないとか、これ物凄く気まずいんですけどなんなんですか。嫌がらせですか?」

 冗談混じりに貶されるが、言い返す気力も無い。

「もー! ちょっとはなにか言ってくださいよー!」

 白神は己の対応に辟易しているらしい。

 沢渡さんが持っていなくて、白神が持っているものとはなんなのか、訊くべきだった。でなきゃこのモヤモヤが取っ払えそうになくて苦しい。

「笑えよ」

「はぁ?!」

「馬鹿にしろよ、貶せよ、罵倒しろよ罵声を浴びせろよ」

「張り合いが無いのに相手を罵るなんてできるわけありません」

「本当にできないのか?」

「当然です」

「……お前、なんで俺に構うんだ?」

 己は涙を拭いながら白神に言う。

「負け犬の発言を真に受けて、駄目人間になったから。だから俺に復讐とばかりに、イメージをぶち壊そうと躍起になっている。けど、そんな曖昧な理由だけで、人は本当に動けるのか?」

「動けますよ、だって私が動けているんですから」

「まだなにか理由があるんじゃないのか? なにか、隠しているだろ」

「なにも隠していませんよ」

「嘘、だな」

 疑心暗鬼に己は言うと、白神はばつが悪そうに視線を逸らす。涙でグシャグシャになっている己の顔を見ていられないという意図とも取れるが、己の言葉から本能が必死に逃げようとしている意思表示に己には感じられた。

「言えよ」

「……綿貫さん、恋をするってとても楽しいことですか?」

「辛いことだな」

「そうですよね、だったら綿貫さんなら、このどうしようもない気持ち、分かってもらえると思います」

 白神は決意したように顔に緊張の糸を張り詰めさせる。

「私、どうしたら良いか分からないんです。だから、協力してください」

「なにを?」

「私の、この感情について、納得の行く答えを出させてください」

 初恋の人と五年後の約束をした日、白神は胸の中に詰まった感情を吐露させた。

 けれど今の己は、涙の粒を必死に拭って、それどころではなかった。

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