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【第五章】

【第五章 海月】


 夏に入った。最初は風情があって良いなと思っていた蝉の声も連日の猛暑と合わせてずっと聞いているとさすがに耳障りになって来る。土から出ておよそ二週間から一ヶ月弱しか生きられないのだから、とかそういう大らかな気持ちにはなれそうもない。

「綿貫さん、ワンピースですよワンピース。どうですかどうですか?」

 蝉の声と同レベルに白神の声も耳障りだった。そんな彼女がアピールしているのは白のワンピースを着ていることだ。肩を大胆に出して、慎ましやかな胸元は隠し、膝小僧のギリギリ上辺りの丈と色々と中途半端なワンピースである。出すところは出して、隠すところは隠すのではなく出すところ出さず、隠さないところまで隠してしまっているのでは、その服も浮かばれない。服のセンスが皆無な己が言うことでもないが。

「白いと透けるらしいな」

「服が?」

「赤外線カメラだと下着まで見えるらしい」

「綿貫さんの目は赤外線カメラですか?」

 どうやったらそういう返事になるんだろう。

「白を着るときは、下着の前に一つなにか挟んでおけってことだよ」

 間に着る衣服の名称――アンダーウェアやアンダーシャツについてはとやかく言わないし、とやかく言えるほど造詣が深くない。しかし、下着を直にではなくとも晒す危険性があることだけは知っていてもらいたい。

「大丈夫ですよ。別に今日は繁華街の方まで出るわけじゃないんですから」

 八月のお盆は上京した人が故郷に帰る季節でもあり、故郷を無くした人たちが気持ちを紛らわせるために旅行をする季節だ。車を持っている人は高速道路の渋滞に引っ掛かって苦労するだろう。己のように故郷から出なければ、そんな苦労も無いというのに。

「肩を出すとか、日焼けしたいのか?」

「日焼け止め塗りましたよー。あとほらほら、日傘日傘」

 アピールするように可愛らしい装飾の日傘を振り回す。鬱陶しそうに見ていたら、彼女もすぐにそれを察したらしく、素直に日傘を持ち直した。

「暑いなー」

「ですねー」

「なんで墓参りに俺が付き合わされているのか分からないけどなー」

「ですねー」

 軽く流されてしまって良いことじゃない。なのにそれをサラリと流せるのは、きっと白神ぐらいだろう。

 バイトの入っていない火曜日の平日――いわゆるお盆休みだから、休日と捉えても大差無いその日、己は白神と共に墓参りに向かっていた。

 親友だった男の謝罪を受け入れず、イメージをぶち壊したその日に、己はなにを血迷ったのか彼女と連絡先の交換をした。それから数日はどこぞのホラー映画並みにメールを寄越すものだから辟易していた。

 ちょっと数を減らして欲しい。耐えられなくなって、己は心境をメールに綴り、送信した。すると白神もやり過ぎた感はあったらしく、それからは一日に二、三通に落ち着いた。彼女も少しは人の言うことを聞き入れるのだ。自分に非がある場合にのみ限られていそうだけれど。

 そして昨日、メール越しに墓参りに一緒に来て欲しいと求められた。己と彼女の間は無縁だから、そもそもなんで人の墓参りに行かなきゃならないんだと思ったが、それはそれで面白そうだからという理由だけで己は承諾した。墓を荒らさないのであれば無縁な相手の墓参りに訪れるくらいは構わないだろう。

「墓参りで白のワンピースってどうしてだ? 普通は黒だろ」

「おじいちゃんとおばあちゃんのお墓ですから、喪服も今更じゃないですか。というか、綿貫さんが言える台詞じゃありませんから」

 己もラフな格好であるから、確かに指摘されてしまったら反論することもできない。

「軽く山登りだな」

 白神家の墓は山側にあるらしく、駅からだとただひたすらに坂を登り続けなければならない。タクシーを利用しようと己は言ったのに、彼女は「たまには運動も大切ですよ」なんて言って拒んだ。そう言った白神だって今は汗を流している上に笑顔も引き攣っている。しかも白のワンピースなんて着ているから、汗が染みて若干、下着のラインが見える。

 普段は山の方にある某大学のキャンパスに向かって学生が体力作りとばかりに登っている坂道も、お盆休みと午前中という状況が重なって往来が少ない。その往来の少なさに、彼女は感謝しなければならないだろう。

「露出癖でもあるのか?」

「綿貫さん、黙ってください」

 何気なく言ったことが彼女の機嫌を悪くしたらしく、その言葉は敬語であっても怒気が込められていた。しかし、結局、己の問いに対しての返しにはなっていない。露出癖があるのかないのか、この際だからハッキリして欲しい。なにせ白神は己の前では純真さというか清廉さを前面に押し出しすぎていて子供の頃のように下着を垣間見せることが多々ある。要するに、他者の視線を大して苦とも思っていないからか、多少、下着が見えようが透けようがどうってことがないのだ。雨に濡れたときも服は透けていたし、カラオケに夢中になったあとに蒸れたスカートの中に風を送っていたときも、僅かだが下着が見えた。そういったことも含めて訊いたのだが、無駄に終わってしまった。

 別に白神の下着が見えようと見えなかろうと己にとっては大したことではない。最初はときめきもあったが、今じゃ見えて当たり前ぐらいにまで思考が偏っている。それでどうして露出癖があるか無いかに拘るかだが、癖ではなく露出狂の女性が居たとして、そのとき隣に立っている男――即ち己はどのような人物だと思われるのか。きっとアブノーマルな性癖の持ち主だと勘違いされる。彼女は風体を気にしないが、己はする。だから知りたかった。それ以外に、深い意味は無い。

「地味な下着好きだよな」

「うるさいですよ、綿貫さん」

 猥談についてはするだけしたので、もう理想の男性像なんて崩れ去っているはずなのに、白神は怒っている。純粋に恥ずかしいがっているのだとしても、この白神 舞が恥ずかしがっている姿は、やはり気味が悪くてドン引きしてしまう。

「AVみたいな下着をいつも着けているとか思わないでください」

 怒っていながらも、しっかりと話は続けようとする。

 己は話題を間違えたらしい。きっと白神もこんな話題を盛り上げたくはなかっただろう。それでもそうしてしまったのは、坂道を登る疲れを会話で誤魔化したいからだ。疲れて来ると苛々したり黙り込んだりするのはよくあるが、疲れたときこそ気を紛らわせるために話をするという選択肢はそうおかしなことではない。友人との飲み会でしか心の中を吐露することのない己には滅多に無いことだ。それを白神と交わすことになるとは、奇妙だ。

「ならいつだったら着けているんだよ」

「狙っている男が居るとか、ぶっちゃけヤりたいときとかじゃないですか?」

「じゃぁお前は俺とはヤりたくないってことか」

「当たり前じゃないですか、気持ち悪い」

 処女の白神の、聞きかじった程度の情報では興奮もなにもない。というかこの話は、理想の女性像を破壊されたときにしている。

「ワンチャンあるとか思っていたんですか、綿貫さんは」

「思ってねぇよ。なんでお前で童貞捨てなきゃならないんだよ」

「私だってあなたで処女を散らしたくはありません」

 恥ずかしさなど当の昔に捨てていて、往来が少ないこともあって結構な声量で言い合っていたが、五分でネタ切れを起こした。ついでに五分で更に疲労が溜まり、お互いに喋らなくなった。ただ黙々と坂を登る。登って登って登り続ける。

「人生山あり谷ありですね」

「それ、思っても口にすることじゃないからな」

「綿貫さん、以前より当たりが弱くなりましたねん。私が今みたいなこと言ったら、前までだったら無視してましたもん」

 今日は語尾に「ん」と付けるキャラ付けである。白神のキャラ付けは尽きるところを知らない。世の中には様々なキャラがあるのだなと思い知らされる。今のところ、彼女のキャラはローテーションしていないから、まだ底は見えない。

「無縁だけど、無関係じゃなくなったしな」

「関係性が無いとかあるとか、そういうことに拘っていた綿貫さんはどこへ行っちゃったんですか」

「そっちの綿貫さんの方が良いか?」

「いいえ、今の綿貫さんのが良いです」

 「〜のが良い」と女性に言われることを己は楽しみにして生きていた。しかし、白神に言われても感動しないのだから、その楽しみがちっぽけなものなのだろうという結論に至る。

「お前に好かれると後悔しそうだよな」

「大丈夫ですよ、私は綿貫さんのこと好きになりませんもん」

 それはこちらの台詞だ。なんでこんな美女を相手にしているのに好意を持ってもらおうと躍起になれないのだろう。

「でも、褒められるのに耐性無さそうだから気を付けろよ」

「それは綿貫さんも同じでしょう? 褒められると顔を赤くしてそっぽを向いて、にへらって笑いそうです」

 安直なことを言っているが、己がもしも褒められたらどういう行動を取るかを冷静に考えてみると、大体当たっている。それが女性なら可愛らしく受け取られるだろうが、男の己が取る行動ならば気味が悪いだけだ。

 暑さにゲンナリして、水分を求めて近場に自販機でも無いかと思い始めた頃、ようやく霊園の入り口が見えた。

「自販機は駄目ですよ。お墓参りの帰り際に飲み物を貰えますから、勿体無いです」

「熱中症になったらお前のせいな」

「夏場に体育の選択授業でマラソンを選んでいた人がなにを言っているんですか」

 あれはマラソンの前の休み時間中に水分を摂っておくことで事前に予防をしているのだ。体が暑さに強いわけではない。

 白神が簡易テントで作られた受付に葉書きを出し、お金を支払って線香とロウソクを貰う。その一連の流れを己は日影で見守った。

「荷物、少しは持ってくれます?」

「持たなきゃ墓参りができなくなるか?」

「できなくなります」

「なら持つ」

 墓参りに来ると言った以上、しっかりと墓は綺麗にして帰りたい。冗談半分で決めたことだが、面白半分で馬鹿なことはしない。

 己はお供えする花と和菓子の入った袋を受け取り、彼女の案内で白神家の墓を目指す。

「私、綿貫さんを案内してばっかりですね」

「俺からなにか案内することはないな」

「だって私の方が物知りですからね。ざまーみやがれ」

 またもキャラを作って見せる。口は悪いが悪意は込められていない。

「桶は二個か?」

「お願いします」

 重い物を運ぶのは男の仕事。そう言っているかのように己からお供え用の花と和菓子の入った袋を奪い取って、彼女は墓のある筋に入って、ペコリと頭を下げた。それはまた異なるキャラなのか、それとも彼女の素なのか判然としなかった。なので嫌だとは言わず、己は素直に二個の桶に水を満たして運んだ。

 白神家の墓は筋の一番隅にあった。綺麗に磨き上げられた御影石で作られた立派な墓だ。けれど手入れが成されていないのか、雑草が少しばかり生えている。一年に一度、お盆だけに墓参りをするのなら、これくらいの荒れ方はするものだ。

「水はあまり掛けない方が良いんだっけ」

「墓石が熱を持ってますから、急に冷やすとひび割れが起きやすいとか、でしたっけ? まぁ、だったらお盆を冬場にやれって話ですよ。熱いってことは暑がっているでしょうから、できる限り、水を掛けてあげましょうよ」

 そう自論を述べながら白神は取り出したスポンジに桶の水を含ませて、墓石を綺麗に洗い始める。己はそれをしばし眺めたのち、生い茂っている草花の除去に移る。

「おい、水が掛かった」

「ちょっとぐらい我慢してください」

「交代しろ、交代」

「嫌ですよ。女に水を掛けるとか変態ですか」

「そういうことを言うから、お前は残念なんだよ」

 などと言い合いながら雑草を引っこ抜き、墓石を洗い続ける。苔も僅かに生えていたが、それも取り除いて、ともかく雑草はこれで無くなった。

 プラスチック製の花瓶を取り出し、中をスポンジで洗って、綺麗な水を入れる。そしてそれに花を供えた。

「両親、共働きなんで……お盆休みも別々で取っちゃって、なのにお墓参りの葉書きの日付とは違うみたいで、一緒にお墓参りに行けそうになかったんです。だから今年は私だけ、って感じになっちゃいました」

「本当に今年だけ?」

「本当に今年だけですよ。なんにも含みはありません」

 ライターでロウソクに火を点けて、線香をロウソクの火で灯す。片手で扇いで火を消し、香りの立つ線香を和菓子と合わせて供えた。こうやっていると恋人同士が結婚報告に来たみたいだが、ただ墓参りに来ただけなので、白神家のご先祖様には悪いことをしてしまった。合掌して、念仏を唱えながら、頭の中で謝った。

「これからどうします?」

「……二番目の兄が帰郷しているんだ」

「だから?」

「その兄にとって、ちょっと出掛けて来るって口にして午前に出た場合、帰って来るのは普通、夕方みたいな感覚なんだよ」

「あー、つまり午前中に家に帰ると居辛くなるってことですか?」

 なにせ楓の相手をするのは疲れるのだ。白神と出会った頃にも実家に寄っていたが、そのときも対応に追われて己は疲れ果てた。とにかく、楓は人生を楽しんでいる。仕事もプライベートも充実し切っている。だから、己には生き急いでいるようにすら見えて、不安に思うことがある。

「夕方に出掛けたら朝方に帰って来るのが普通、みたいな感覚なんだよ」

「言っていることあんまり変わりませんから。要するに時間を潰したいんでしょう、私と」

「語尾を強調するな」

「綿貫さんもデレて来たなぁ」

「現実にデレとかそういう属性はねぇよ」

「でもほら、現に綿貫さんは私のこと、ちょっとは良い奴とか思って対応が優しいじゃないですか」

 ギャップはあるけれど、二次元に存在する露骨なキャラっていうのは現実にはあり得ない。だから白神の焼き回しのキャラは全てあり得ないと言い切れる。尽きないのは、二次元には無限のキャラ設定があるからなんだろう。けれど、演じ切る限界はきっとあるはずだ。

「だからそれは、無関係じゃなくなったからだ」

 彼女は己を負け犬と嗅ぎ分けて、接触して来た。己は彼女の言葉に唆されて同窓会で親友だった男を許さなかった。今日の墓参りも含め、己たちはもう無関係とは呼べない間柄となってしまった。なるべくしてなった気がする。不本意であったなら、もう少し己は抵抗していただろうし、彼女の存在に恐怖を覚えたことはあったが、彼女から発せられる雰囲気や言葉を無視することはついぞ無かった。

 負け犬同士が傷を舐め合っているだけだ。そう己に言い聞かせる。なにがあったとしても、たとえ酒が入ったとしても、白神と男女の関係になるような、そういったことだけは起こさないようにしなければならない。こいつは電波で焼き回しのキャラで、そして人一倍に重い女なのだ。

 これ以上は求めない。求めてはならない。己と彼女の関係は、この状態が適切なのだ。

「お前って、それだけの外見しているのに、なんで負け犬なんだよ」

「どんなに綺麗でも、男に騙されて転落人生を歩む人だって居るんですよ」

 綺麗だとは自覚しているらしい。だったらもっとすまし顔で、お淑やかにしていれば良い。それだけでも騙して来るのではなく、大抵の男は騙されてくれる。己のように疑心暗鬼な男は決して寄り付かないだろうが。

「お前、騙されそうな性格をしてないじゃん」

「騙されましたけどね、昔」

「……誰に?」

「綿貫さんに」

 騙した覚えはない。

「覚えていらっしゃいませんか? 昔から顔立ちだけは変わっていなかったので、名前は知らなくてもすぐに私は思い出せたんですけど」

 どこで出会ったのか、未だに思い出せない。昔の白神にとってはそれだけ己の存在が強烈だったのだろう。そうやって彼女の記憶力が異常ということにして、己の疎さや鈍感さを遠回しに否定する。責任転嫁は相変わらずだった。

「いい加減に教えてくれよ」

「嫌ですよー、綿貫さんが自分から思い出してくれるまでは教えませーん」

 ベーッと舌を出す白神の表情は、相変わらずの焼き回しだった。

 墓参りを終えた己たちは持って帰る荷物を一纏めにして、桶と杓を元の位置に戻しに行った。

「和菓子は持って帰るんだな」

 筋から出たところで、彼女の袋に供えていたはずの和菓子が入っていることに気が付く。

「猪が荒らしに来ちゃうらしいんで、五、六年くらい前からは持って帰ることが徹底されるようになっちゃいました」

 この地域では猪を見ることがある。昼夜問わずに、その姿を見ることは稀であるが、この地域に産まれたのならば人生で一度は目撃するだろう。己も一年ほど前の深夜帯に子連れで歩いているところを見た。なにか猪の琴線に触れるような食べ物を持ち歩いていたわけではないが、そのときは怖ろしくなって路地に回った。あれに餌をやろうとか考えて近寄る人間の考えはよく分からない。

 和菓子を置いて、それを猪が食べに来て、そのせいでたくさんの墓が荒らされてはお寺の住職もたまったものではないだろう。

「突撃して来たときに、あいつらに向かって傘を開いてやれば混乱するらしいぞ」

「猪に限らず、動物って急に大きくなったり視界を奪われると驚くらしいですね。人にも言えることですけど」

 まぁ、己も目の前で彼女の持っている日傘を突然開かれたりしたらパニックを起こすだろう。それが白神と分かれば驚きだけで終わるが、知らない誰かにそんなことをされたら硬直して動けないはずだ。

 簡易テントまで下り切り、そこで己たちは氷水で冷やされていたスポーツドリンクを受け取る。すぐに飲み口を開いて、ゴクゴクと勢いよく喉へと送る。

「今日はありがとうございました」

「……お前に感謝されると気味が悪い」

「負け犬の感謝は裏があるように思えますからね」

「単に疑心暗鬼なんだよ」

 帰りは坂道だが、登り道ではなく下り道だ。足への負担が登りより下りの方が大きかろうと、下り道は気楽なものだ。

「チョモランマとかヒマラヤやアルプスじゃなくて良かったですよね」

「どういう基準なんだよ」

「だって巨峰とか、登ったは良いけどそこから次は下りるんですよ? もう、並大抵の精神力じゃないと耐えられないですよ。私は人生で絶対にそういう大きなことはしないって決めているんです。富士山にも登りませんからね、絶対」

「高山病、怖いもんな」

「私の怖いと思っている基準と綿貫さんの怖いと思っている基準が違うことに、少しばかりショックを受けました」

 白神はショボンと――割と本気で落ち込んでいた。これは素の表情である。だからか、己の胸の奥は僅かに揺れた。けれど、それで頬が熱くなるとか、体中の熱が更に上昇するといった変化は訪れない。

 スポーツドリンクを二口目で一気に飲み干し、下り道の最中にあった自販機横のゴミ箱に空き缶を放り込んだ。白神はまだ飲み終えていない。それどころかもう充分に喉は潤ったのか、飲み掛けを荷物の中に入れてしまった。あれだけ汗を掻いていたのに、よくもまぁ耐えられるものだ。

「夏休みって、なにしてました?」

「一人で寝てた」

「わー綿貫さんの夏休みは灰色だー」

「中学のときは親友だった奴に誘われたりしてプールとか行っていたけどな。高校じゃ、一日中のんびりと昼寝してたな。あとは宿題を解いていた」

「私もまぁ、似たようなものですけど」

 赤信号に引っ掛かり、己と白神は立ち止まる。車の往来はほとんど無いが、それでもしっかりと己も彼女も信号は守る。

「なんか、灰色の青春を送ったってだけで人生で大損しているみたいな、暗いこと言う人が居るじゃないですか。でも、あのとき本当に私には灰色の青春だったのかなーとか、考えることもあって。恋をして、告白をして、デートをして、その先の行為に及んだりして、友達と一緒に旅行して、遊んでって……それが灰色じゃない青春の送り方、なんですかね。私にとっては、昼寝したり宿題したり、家の中でのんびり過ごすの、割と楽しかったんですけど、それを灰色とか断言されちゃったら、もうなんていうか……うわーって感じ、ですよね」

 あはは、と白神は苦笑する。この苦笑も、素の一部だった。彼女の心境を吐露する様を見るのも、ひょっとすると初めてかも知れない。

「灰色なら灰色って言い切ってしまえよ。どんな青春だって、時間が経てば色褪せてセピア色になるんだ。気付けば灰色の青春もセピア色に変わっているだろ」

 ただまだ時間が掛かるってだけで、まだまだ時間が掛かるってだけで、灰色のままなだけだ。

「俺だって夏休みを、学校に行かなくて済むってだけで楽しいと思ってい……た、んだし」

 車道の信号が青から黄色に変わり、赤になって、やれやれようやく横断歩道の信号も青になるかと視線を前方に向けて喋っていたら、徐々に己は言葉を失ってしまった。

 視線の先に、己の知っている人物が居て、こちらに歩いて来ている。

「あ」

 その人物は己に気付いたらしく、少しだけ困った顔をした。

「綿貫君もお墓参り?」

 初恋の人――沢渡さんは己に訊ねて来る。彼女は信号を渡ったが、己は信号を渡り損ねた。隣に居た白神は少しばかり表情を険しくさせて、僅かに離れた。

 渡り損ねたことに関する苛立ちか、それとも己が沢渡さんに話し掛けられたことに対するなにかしらの不満か。そこは見極められない。

「まぁ、そんな……ところ」

 おかしい話だ。己は再会したときのやり取りで、この沢渡さんに幻滅したはずなのだ。なのに未だに己は心の中で彼女には「さん」付けを続けており、今だって何故だか心臓の鼓動は跳ね上がって、落ち着いてくれない。

 初恋は終わって、初恋の相手にも幻滅した。なのに己は、未練がましくまだ想っている。なんて女々しいことだろうか。

「お父さんとお母さん、お盆より先にお墓参りを済ませちゃって。だから葉書きを持って、私だけ行くことになっちゃったの」

 訊いてもいないのに墓参りに行く理由を沢渡さんは述べる。

「坂道、キツいからタクシーを使えば良いのに」

「今までお父さんの車に乗せてもらって行ってたから、そんなに遠くないかなぁとか思ったんだけど、ちょっと考えが甘かったみたい。私、免許持ってないからなー、ほんと、タクシーを使えば良かったよ」

 沢渡さんは白神のようにキャラ付けに拘らない。自分自身のキャラを確立させているから、嘘偽りない顔をするし、歯に衣着せぬ言葉を振り撒く。己に会ってしまっての困り顔も真実であるし、今、己に事情を説明しているのも話題提供のための一環に過ぎない。

 彼女は己に好意を寄せていない。それが、悔しくて苦しかった。

「熱中症に気を付けて」

「ありがとう」

 沢渡さんはお礼を言ったのち、己の隣から少し離れたところに移動した白神に視線を移す。

「綿貫君の彼女さん?」

「違うよ」

 ボソボソと喋っていたのに、そこだけは強く否定した。

「えー、お似合いだと思うのに」

 勝手な想像で、お似合いとか言う気が知れない。けれど沢渡さんが言えば、何故だか怒りが込み上げない。口元に手を当ててクスクスとからかうように笑う様は逆に心が躍る。

 その笑顔をやめてくれ。その仕草をやめてくれ、その清純なイメージを持たせる服装をやめてくれ、その日傘の好みをやめてくれ。

 なにもかもが己好みで、苦痛である。

 きっとそんなつもりはないのだ。沢渡さんは別に己のためにその笑顔を振り撒いているわけではないし、その仕草をしているつもりはないし、服装だって、日傘だって彼女が好んで着て、使っているものに過ぎない。

 ただ己は、沢渡さんに未練があるから、彼女のする一挙手一投足にドキドキするし、服装や日傘の好みにも勝手に己の感覚が強引に合わせている。

 心が、激しく揺れる。どうして己はこんなにも沢渡さんを好きなのか。幻滅して、断ち切って、終わらせようと努めている初恋の相手に、恋を再燃させてしまっている。もう結婚が決まって、どうやったって奪い取ることもできない相手に、焦がれている。

 馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいと思っているのに、止められない。

 チラリと白神を見る。

 白神はなにも言わないし、なにも行動を起こさない。同窓会のときのように、彼女振るようなことをしない。

 まるで、己だけで終わらせろと言いたそうな目をしていた。生気の無い目は、冷酷に己を見ているようで怖い。

「そんなんじゃ、ないから……じゃぁ、俺はもう帰るから」

「うん、気を付けてね」

 沢渡さんは己に微笑み掛けたあと、白神に軽くお辞儀をしてから坂道を登り出す。

「嘘つき」

 その背中に白神がボソッと呟いた。

 沢渡さんは即座に翻り、白神を鋭く睨み付けた。

 どんな人間であれ、怒りを表情や視線で表すことがある。けれど、彼女でもそのような顔をするのかと驚いた。恐らく、昔の己でも見たことがない顔付きだった。

「なにが、嘘なの?」

「分かっているクセに」

「綿貫君、この子、なんなの?」

 言葉の刃はどういうわけか己に向いた。白神が起こし、沢渡さんが反応したことなのだから巻き込まないで欲しいところだが、彼女に助けを求められたら己はただ肯うだけだ。

「気にしないで」

「……そう、なら良いんだけど」

 沢渡さんは強張らせていた表情を緩ませた。

「あ、そだ。綿貫君。もっと私にメールしても良いんだからね?」

「…………うん」

 己は小さく肯いて、沢渡さんは満面の笑顔を己に見せ付けたのち、坂道を登り出した。その背中が見えなくなるまで己は見送り、そして白神はずっと睨み続けていた。

「嘘つきってなんだよ」

「綿貫さん、騙されてますよ」

「どんな風に?」

「……教えません」

「それは教えてくれよ」

「教えません」

 プイッと顔を背けて、白神は再び青信号になった横断歩道を早足で渡る。己はその変貌振りに呆気に取られながらも、あとを追って横断歩道を渡った。

「俺は騙されているんじゃないのか?」

「騙されていますよ、悪い意味で」

 良い意味で騙されることなんてあるのか疑問だが、言及している場合ではない。

「だったら」

「自分でしっかりと考えてください。そうすればきっと、綿貫さんは少しだけ幸せになれるかも知れませんから」

「それで、お前も少しは幸せになれるのか?」

「綿貫さんの問題を解決して、どうして私が幸せになれるんですか。私のやっていることってボランティアみたいな慈善事業だと思ってくださいよ」

「負け犬がそんな大層なこと、できるかよ」

「夢も希望も無い私にとって、綿貫さんに奉仕することは生き甲斐なんです。自分の幸せなんて二の次で、生き甲斐に投資しますよ、私は」

 沢渡さんの嘘を己が見破ったとき、己は少しだけ幸せを感じても、白神は幸せを感じられない。そんな嘘は、見破るべき事柄には思えない。いずれバレる嘘でないのなら、ずっと嘘をつき続けてもらっていた方が良い。

「俺はお前に奉仕されるほど哀れまれているのか?」

 同じ負け犬にすら哀れまれているのでは、情けなさすぎる。

 再確認するかのように己は自らの手の甲の臭いを嗅ぐ。やはり臭いは落ちていない。そして白神から発せられている臭いもまた、消え失せていない。

「奉仕したくなるほどのことを、綿貫さんは言ってしまったんですよ……私に」

 そう言って、白神は許しがたい境界線をヌメリとした気味悪さで跨ぐ。

「今更、その言葉を撤回するだなんて、私は許しませんよ」

 なんだ? 己はこいつになにを言ったんだ?

「相変わらず、分かるようで分かんねぇよ」

「私たちの間柄って、これ以上は求めないで良いでしょう?」

「そうだけど」

「分かるようで分からない相手。私はそんなんで良いです。特別とか気持ち悪いし、大切とか怖気が走るし、重要とか重苦しいです。だから、そんなんで良いんです」

 白神は下り坂を早足で進んで行く。背が遠くなる。己よりも小さな背が遠くなる。日差しは正午に向けて強くなり始め、蝉は耳障りに鳴き続けている。

 気が滅入りそうな暑さの中、己は白神との距離感に悩んでいた。

「なぁ、おい」

 だからこそ、なのか己は遠くなる小さな背中に声を掛ける。

「お前に、この世界はどう見える?」

 この答えに相応の返事をしてくれれば、己は白神との距離感をしっかりと推し測れる。沢渡さんのような答えなのかそれとも――

「強いて言えば、海月ですね」

「…………そうか」

 九割が嘘でできている。そう答えた奴は、知っている。己の悩みは一気に払拭された。

 そこから思い出すのは簡単だ。だって、そんな人は極僅かにしか居ないのだから。

「……白神。沢渡さんの嘘を暴くのは本当に、必要なことなのか?」



【幕間 砂埃】


「あー、もう昼過ぎかー。今日は思いっ切り飲んだなー」

 お盆から少し経ってしまったが、休みが取れたという山城のために己たちは飲み会を開いた。愚痴をあれこれ聞きつつ、話しつつ過ごしている内に昼を回ってしまったみたいだ。酒を朝っぱらから飲めるなんて、山城にとっては極楽だっただろう。彼に限らず塚本や柊にとっても久し振りだったに違いない。というか、朝から酒を飲むなんて普通は無い。

「綿貫君、バイトは?」

「今日は休むって連絡したんだ」

「ほんっとフリーターは気楽だな」

 山城は羨ましそうにイヤミを吐く。けれど、彼のそのイヤミを己は甘んじて受ける。親友だった男が吐いたイヤミには耐えられないのに、やはり大学時代から続く友人のイヤミは苦ではないのだ。

「ま、楽させてもらっているから貯蓄が無いけど」

「俺だってねぇよ。でも、綿貫は女性との縁も無いってのが悲惨だよなぁ」

「そこのところ、なにか進展あった? なにか出会いとかあった?」

 塚本の言葉に柊が同調して、己に返事を求めて来る。

「初恋の人とこの前、再会した」

 だからありのままを話す。

「それチャンスだろ。創にも遂に春が来たな」

「でももう結婚するらしい」

 山城は前につんのめり、塚本は肩を落とし、柊は驚きで口をあんぐりと開けている。皆はプライベートな空間だとリアクションが大きくなる。仲が良い分、遠慮がいらなくなるからだ。

「綿貫の春は来る前に終わっていたのか」

「残念だね、初恋の人でしょ? 僕だったらショックでふさぎ込んじゃうよ」

「創の恋の行方はまだまだ分からないってことか……というより、ガチで慰めたいんだけど、どうする? 性風俗で童貞捨てるか? 金出してやるぞ?」

「その同情のされ方はちょっと違うだろ」

 己は山城が財布からお金を出そうとしているところを止めて、鞄を片手に立ち上がる。

「そういうこともあって、ちょっと想い出に浸ろうと思って、小学校とか中学校を眺めて来ようかと。去年の誕生日にデジカメを買ってもらったんだけど使わずに居てさ、ずっと埃を被らせておくのも勿体無いから、何枚かは撮ろうかなと。まぁ、カメラマンになりたいわけじゃないからアングルとかも超テキトーな感じで」

「今時だと不審人物で警察のお世話になるんじゃねーの?」

「創は不審人物で捕まっても良いから想い出に浸りたいんだよ、赤彦」

「はっ! 悪い、綿貫! 俺としたことが気が回らなかった! それじゃ、お勤め頑張って来い!」

「もう捕まること前提なんだ……でも、面白そうだね。僕も気が向いたら、昔の通学路とか歩いてみようかな」

 三人の見送りとテキトーな応援を受けつつ、己は山城の部屋をあとにした。車に気を付けて道を歩き、電車に乗って自宅近くの駅で降りる。

 ここは見慣れた景色だ。だから気持ちも穏やかになる。雑踏の中に紛れても、負け犬の臭いを発していても誰にも気付かれなくて良い。

 けれど、これから歩くところは見慣れない景色になる。小学校を卒業し、中学校を卒業した己が、滅多に足を運ばなくなった道を歩く。小学校と中学校の同級生と出会う確率も上がるだろう。そうして出会ったときに、己は胸を張って成長したと言えず、きっとまた劣等感に苦しめられるに決まっている。想い出に浸るということは、現在の自分を省みる行為だ。過去の自分と照らし合わせて、己がどれだけその頃より優秀になったかどうかを確かめることに繋がる。

 けれど、昔よりも劣っている面ばかりが出て来るのなら、想い出に浸るのは苦痛を伴う。苦行と呼んでも差し支えないだろう。だから己は過去を省みることを良しとして来なかった。

 蝉はまだ鳴いている。八月のギリギリまでは鳴き続けるかも知れない。そうやって、仲間よりも早く羽化してしまったり、遅く羽化してしまう駄目なヤツというか残念なヤツは居る。人間にだって居るんだから、蝉の中にも居たって構わないけど。

 デジカメはプロのカメラマンが使うようなものではない。旅行とかの記念で撮影するために持ち運びが手軽なコンデジと呼ばれるものだ。機能についてだが、素人が扱う上で大切なのはオートフォーカスと自動でフラッシュがオンオフになるってことぐらいだろう。あとのは画質だとか画像サイズ変更とか、まぁ家でちょっと触ってみたからその辺りまでなら分かっているけど、それ以上は分からない。気分で変えたら良いんじゃないだろうか。大体はオートで頑張ってくれるだろう。そういう手軽さ重視のデジカメなのだから。

「意外と早かったですね、綿貫さん」

 己は深い溜め息をつく。向かおうとした通りの隅っこに、白神が立っていた。それも今日の服装は気合いが入っている。お盆のときの白いワンピースも印象的だったけれど、今日はとにかくお淑やかさを前面に押し出した服装だ。けれど丈は相変わらず長めのスカートだ。

 既視感を覚えたのは、恐らく、沢渡さんがお盆のときに似たような服を着ていたからだ。まさか狙って、彼女と似た服とその色合いに合わせたわけじゃないだろうな。

「メールで散々訊かれたから、今日は朝から飲み会って送ったけど……まさか待っていたのか?」

「まさかまさか、さすがの私もいつ終わるとも知れない飲み会を待てるわけがないですよ」

 白神なら平気でやりそうだから、己には「だよな」と言うことができない。雨の中で三時間待てたり、駅前の書店で来るとも知れない己を待ち続けることができた女だ。待機するということに関しては、最強と呼ぶに相応しい。

「まさか付いて来るんじゃないだろうな」

「まさかまさか、そのまさかですよ」

「……別に良いけど」

「おやおや、おやおやおや? いつもの綿貫さんの毒気が全く見られませんよ。どこかのお寺で修行でもしましたか?」

「付いて来ても良いけど、そのキャラはやめろよ。嫌いだ」

 まさかを連呼し、おやを連呼するキャラは嫌いだとハッキリと告げる。

「そう、ですか……嫌いですか。ならやめます。御免なさい」

 今までキャラの横暴を己は黙認していたが、初めてそれを拒んだ。白神は珍しくショックを受けた顔をして、俯いてしまった。

「……ほら、白神。行くぞ」

 そのままの沈黙が重たかったので、己は彼女の苗字を呼んで歩き出す。すると俯いていた彼女はあっと言う間にいつものテンションを取り戻し、己の隣に早足で追い付いて来た。

 己は彼女をずっと「お前」と呼んでいた。けれどお盆の日を境に、気分転換とか合間のおやつ感覚で彼女を「白神」と苗字で呼ぶようになった。それが彼女にはとても嬉しい変化だったらしく、こうして苗字で呼ぶだけで機嫌を良くする。

 悪い意味で単純で、良い意味で純粋だが、はたしてそれは白神の本来のキャラなのかどうか。己はまたも彼女に作り出したキャラのイメージを押し付けられているのかも知れない。

「綿貫さんってどこの小学校と中学校出身なんですか?」

「ここからそう遠くないところだよ」

「でしたら、私と同じ小学校と中学校かも知れませんね」

「高校だけじゃなく、小学校と中学校まで同じとか、やめてくれよ気持ち悪いだろ」

「それはこっちの台詞ですよ。なんでこの近辺で暮らしているんですか。公立の小学校と中学校に進学したら、自然とあの小学校と中学校になるじゃないですか。綿貫さんはストーカーかなんかですか?」

「ある意味で、ストーカーだったかもな」

 己の昔の愚行を思い出してしまったので、呟いてしまう。

「……へ? あ、いや冗談で言ったんですけど。なに重たい感じで返しているんですか。私としてはまさか継続してストーカー紛いのことをしているんでしたら、問答無用で警察に通報したいところなんですが」

「違うよ、昔の……なんて言うか子供の頃の、粘着質な一面だよ。沢渡さんと一緒に帰れたらなーとか、そんな妄想をしながら、通学路をちょっと逸れたりして歩いていたんだよ」

「いわゆる、好きな子を虐めたくなるみたいな?」

「それとは違うだろ」

「性癖の傾向が違うだけで、雰囲気は合っていると思いますけど」

 ストーカーとサディストに共通していることなんて、見つけ出したくもない。

「綿貫さんの家から小学校まではほとんど下り坂なんですね、羨ましいです。私は中学も行きは登り坂でしたし」

「帰りが下り坂の方が気持ち的に楽じゃないか?」

「行きは行きで疲れるんですよ。一時間目から疲れて眠たいとか信じられませんよ」

「それで一時間目は体育だったりすると、二時間目は確実に寝てしまうな」

「まさにそれですよ。私、小学校五年生の水曜日の二時間目の記憶ってあんまり無いですからね。その頃の友達に勉強を教えてもらってどうにかこうにかやって行けてましたから。中学は一年生の火曜日の一時間目が体育だったので、二時間目の数学の記憶なんてほぼ皆無でした」

 それでよく公立高校に合格できたものだ。けれど、眠らないようにと頑張って必死に机にかじり付いていた子供の頃の己を思い出すと、あまり感心したくない事例である。

「そういや、白神って何歳だ?」

「女性に年齢を訊ねちゃ行けませんよ」

「何歳だ?」

「二個下です」

 なら己が中学三年の頃、彼女は中学一年生か。小学校ならもっと早い時期に、白神は勉学においては己と同じ環境下に居たということになる。

 その頃に出会っていたのなら、彼女は己をこのように付け回してはいないだろう。

 子供の頃に下っていた坂道を、己は大人になってからまた下っている。広いと思っていた道幅も、実はあまり広くないことに気付く。その道幅を脳に焼き付けるためにデジカメを起動し、一枚撮る。

 己はこの道をいつも楽しく下っていた。そして疲れ果てて登っていた。あの頃の己は全力で生きていた。勉学に目覚めたのは小学校六年生の頃だが、運動すること自体は嫌いじゃなかった。ドッジボールは腕が細くて、体も堅いので、勢いよくボールを投げる方法が分からなくていつも避けることしか考えていなかったから嫌いだったけど、バスケットボールとポートボールだけは嫌いじゃなかった。サッカーでも必死にボールを追い掛けていたような気がする。

 そんなわけで、帰りはいつも登り坂となる通学路に気を滅入らせていた。でも、今みたいに疲れ果てて布団に倒れ込んで、そのまま寝入ってしまうことはなかった。なにかしら親に「もう寝ろ」と言われるまではしゃいでいた記憶がある。

「ここって、誰か住んでいるんですか?」

 少し進んだ先にある和風の屋敷に生えている大木を見上げつつ、白神は己に訊ねて来る。

「今はどうか知らないけど、住んでたよ。クリスマスとか飾り付けがされていたから」

 最近は住んでいるかは分からない。だってこの坂道に足を踏み入れたのは十何年か振りなのだから。中学生のときはもう一つ下の道を通学路にしていたから、本当に小学生のとき限定で歩いていた坂道なのだ。

 だからこうして見上げている大木も、子供の頃に感じたほどの高さではないように見える。あのときは天まで届くんじゃないかと仰ぎ見ていた。クリスマスが近付いたときには飾り付けがされていて、そのイルミネーションがとても綺麗で六年間の楽しみだった。

 昔よりも大木に元気が無いように見える。季節の問題か、はたまた己の心に元気が無いからか。ともかく記憶を更新するために己は大木の写真を撮った。

「そこ、よく歩いたんだ。忍者みたいな気分になれるから」

 和風の屋敷の塀には、もう子供たちにそこで遊んでくださいと言っているかのように足場となるでっぱりがある。側溝を越えなければそこには乗れないのだが、己は親友だった男と帰り道によく飛び乗って、忍者のように張り付いて進んだ。それで服を思いっ切り破かせて、こっぴどく怒られてからは飛び乗るだけにしたんだっけか。

「あ、この駐車場は知ってますよ。でもこっちは裏口なんでしょう?」

 駐車場の裏手の入り口は鎖と南京錠で塞がれている。けれどその入り口前は流線形を描くように壁に向かってカーブが作られている。スケボーとかスノボーで演技をするときに使われるような見事なカーブで、勢いよく壁に向かって走るのが楽しかった。滑り台の代わりにもなったんだけど、どうやらそういった子供があとを絶たないらしく、今は『ここで遊ばないでください』という警告板が備え付けられている。確か一回だけ怒られたっけ。

 己は駐車場の壁に向かって作られたカーブの写真を撮る。

「そうやって写真を撮って、いつの間にかカメラマンとかになったりとかする予定あります?」

「無いよ」

「盗撮は?」

「するわけないだろ」

 やり取りが馬鹿馬鹿しすぎる。感傷に浸っているのは己だけで、白神は凄くつまらなさそうだった。己には想い出のある道だが、彼女には無い。彼女の想い出は、彼女が毎日のように歩いた通学路にしかない。けれど、この駐車場を知っているってことは、やっぱりこのカーブで遊んでいる子は多かったんだろうな。噂とか話で聞いたりしたんじゃないだろうか。

「暑いなー」

「飲み物、持ってます?」

「もしものときは自販機で買うし」

 記憶を頼りにすれば、この先には自販機があったはずだ。自販機だけでなく駄菓子屋もあるし、公園もある。その公園のすぐ傍に小学校もある。

 やはり通学路については色褪せていても、道になにがあるとか、どういったものが見えるとかは記憶に残っているものだ。小学校から公園周辺に至っては地図を書き起こすことさえできるだろう。

「小学生の頃の綿貫さんって、カッコイイ系だったんですか? それとも可愛い系だったんですか?」

「知るかよ」

 自分の身だしなみについてなんて、小学生が意識なんてしていない。今時はそういう子も多いらしいけど、己は間違いなく考えちゃいなかった。

 ふふっ、と白神が笑う。

「すみません、昔の綿貫さんを想像したら、つい……」

 笑ってしまうほど想像できなかったのか、想像したら子供特有の愛くるしさを感じたから笑ったのか。前者と後者では貶されているかいないかの差異があるわけだが、己の昔の姿なんかを貶されたって、今更だ。

 公園が見えて来た。そして駄菓子屋は今も変わらず続いているらしい。当時から結構なお年を召されていたが、今もお元気でいらっしゃるのだろうか。

「去年に娘さんがレジに居るようになりましたから」

 己が駄菓子屋をジッと見つめていたところで、考えていたことを読まれたらしい。

「そう、か」

 公園で遊んでいる合間にお小遣いで駄菓子を買って、休憩していた。あの快活に笑うおばあさんの姿を見ることはもうできないらしい。亡くなられたかどうかを訊きに行くのは、失礼だろう。これは分からないままにしておいた方が良いことだ。

 そう思いつつ、己はデジカメで駄菓子屋と公園の写真をそれぞれ一枚ずつ撮影する。

「三年前にやっと小学校は改装が終わったんですよ、知ってました?」

「知らなかった」

「教室に冷暖房完備らしいです」

「扇風機とストーブはどこに行った……?」

「冬はストーブを中心にするから、コの字に机を並べることありましたよね。首が疲れました」

 己の中で残っている小学校の形は木造、扇風機、ストーブ、油引き、そして隔離されたかのように本校舎から運動場を挟んだ位置にあった別校舎で構成されている。特に別校舎は印象深い。プールが近かったけれど二階建てで一学年しか使えないのだ。己のときは小学校三年生のときに別校舎に通っていた。正門からは遠ざかるのは嫌だった。正門から遠ざかるってことは必然的に公園からも遠ざかるってことだから。でも、秘密基地みたいで楽しかったんだよな、意外と。だって一学年しか居ないから、己たちがその校舎の支配者になったつもりで居られた。

 そんな風に、たくさんの想い出が詰まっている校舎も、己が高校に進学するくらいから改装工事が始まった。耐震強度が悪かったらしく、災害時の避難先ともなる校舎にもしものことがあっては大変だということで、改装は決まった。己はそのことを母親から聞いていたが、いざこうして見たこともない新しい校舎が建っているのを見ると、込み上げて来るものがある。己の記憶と符合して、残されているのは正門だけだ。ノスタルジックな思いにやられているままに、己は母校の正門を写真に撮った。

「時間は残酷ですよね。見たいと思った景色が、想い出に残っているはずの景色が、時間が経つと変わってしまう。あのときに感じたものを感じられなくなるのは、悲しいじゃないですか」

「だからって、時間が永遠に止まっていろ、なんて俺は思わないな」

 子供の頃は思わなかった。けれど今は、止まれとは言わないが、あの頃に戻りたいと願うことはある。あのときにできなかったことをできるように。あの頃の間違った選択を、今度はしないようにと。

 タイムマシンがあったなら、己は乗り込むだろうか……いや、あの頃は純粋無垢だったからこそ楽しかったのだ。それに、大人の己がタイムマシンに乗ったところで、懐かしさを感じるぐらいしかないだろう。

 公園の遊具が新しいものに変わり、カラフルな彩りになっている。あそこで己はよく遊んでいた。もう写真は撮ったし、遊ぶ歳でも無いので、遠目で子供たちが無邪気に遊んでいるところを眺めたのち、足を動かす。

 今度は海側へと続く坂道を下る。やはりこの道も、昔は幅が広いと思っていたけれど、さほどでもない。

 線路の高架下を潜り抜けて、そこから更に下ったところにまた別の公園がある。小学校の前にも公園があったけれど、中学校の前にも公園がある。その敷地の半分は中学校がグラウンドとして一部利用している。

「体育会の前とかしか使わないんだよな。休みの日とかは野球をしているところをよく見た気がする」

「休みの日にもよく来ていたという綿貫さんに驚きです」

 今のインドアな己を見ていれば、白神が驚くのも無理はない。

「男子は組体操、女子はマスゲームなんだよな」

「しかも分かれて練習しますから、変な対抗意識がありましたよね。プログラムでもマスゲームが最後か組体操が最後かで争っている感がありました」

 それが己の女性に対する無茶な理想像の原型を形作った気がする。だってマスゲームをしている女子は華麗だったから、見惚れていた気がする。特に、沢渡さんに。

「組体操って結構、無茶なことしてたよなー」

「私は知りませんよ」

「いや結構、無茶苦茶やってたんだよ。でもそれを気合いで乗り切ることができてたんだよな。あの頃の情熱って、凄いよな」

「……マスゲームも動作を覚えるの大変でした。今だと倍くらいは練習しなきゃ覚えられない気がします」

 組体操も順序とか太鼓の音とかに合わせて動くから、大変だった。でも、案外、音とか動作と合わせると覚えられるんだよな。仕事は体で覚えろとかも、無茶な話じゃないんだよな。それを強制して、滅茶苦茶なことばっかり任せられたらやっていられないが。

 公園をデジカメで撮り、そして中学校の校舎を横断歩道を渡らず、遠くからズームで撮る。

「ここで綿貫さんの想い出探しは終了ですか?」

「高校には想い出が無いからな」

 校舎すら見たくない。あそこには辛いものしか残っていないのだ。セピア色に霞んで行って、消えてしまって構わない。己が大切にしたい想い出だけを新しい色に染めておけば良い。

「それでは〜、これからは少し私のワガママに付き合ってもらいますからね〜!」

「なんでだよ」

「ギブアンドテイク。私は綿貫さんの想い出探しを手伝ってあげたじゃないですか〜」

「お前が待ち伏せしていただけだろ」

「今日はほんと、待ち伏せとかしてなかったんですから。これはほんとのほんとにほんとですよ?」

「分かったよ」

 己は鬱陶しいまでに否定する彼女に雑な返事をする。

「偶然なんだとしても、手伝ってもらってない。白神は付いて来ただけだろ」

「そりゃ……そうですけど、今年の夏休みの想い出とか、無いですし」

 白神は公園の方を向いて、その表情を翳らせる。

 もうすぐ九月になって、夏休みも終わる。けれど大人になった己には夏休みと言えるほどの長期休暇は無い。白神は大学四年生だから、ひょっとすると最後の夏休みなのかも知れないが。

「お前、就職活動は?」

「終わってますよ。一個だけ内定貰いました。作ったキャラで、ですけど」

 なんだ、それなら心配しなくて良いらしい。己のようなフリーターになれば、負け犬の中でも更に底辺になる。

「キャラは作ってこそだろ。特に面接とか」

「まー、言っちゃえばコミュ力があるように見せりゃーどうとでもなるんですよ。入社してからどうなるかは私次第ですけどねー」

「まぁそうだな。……で、最後の夏休みか」

「ですよ」

「満喫はしたか?」

「ええ、私なりには楽しめましたよ」

「そっか」

「ですよ」

 白神は大きく背伸びをしてみせ、次に己に背を向けて公園へと続く階段を降りて行く。

 やや迷う。どうしようかと惑わされる。

 けれどこれは、沢渡さんの嘘を暴く際にどうしても、必要となって来る用件だ。特に己と彼女の関係について、より明瞭に、明確になることだ。

「お前、高校の頃の俺を見つけた生徒だろ」

 だから己は白神に向かって、そのときのことを語る。

「……いつから?」

「お盆休みのときに、この世界について訊いたときだよ。あのときに思い出した」

「…………あっれ〜、おっかしいな〜。そういうつもりなんて全然、無かったはずなのにな〜。まだもう少しだけ隠し通せる秘密のはずだったのにな〜。ほら、あの女の人の秘密を暴露するところ辺りまでは、隠せると思っていたはずなのにな〜……」

「俺を見つけて、こうして俺に付き纏うのは、やっぱりお前の言うところの奉仕活動ってやつなのか? っていうか、あのときお前は別に負け犬なんかじゃなかっただろ」

 高校の西校舎の四階。屋上へと続く扉の前の、階段の踊り場。窓を開ければ海から吹く潮風によって、涼しくもあり寒くもある、誰にも気付かれない場所。

 己はそこを昼食のスペースとしていた。己にとって唯一安らげる場所で、三年間通い詰めた場所だ。そして三年間、白神以外には見つからなかったところでもある。

 高校の体育祭では、校舎の三階から上の使用を禁止される。己はそれを無視して屋上へと続く踊り場で昼食を摂っていた。そのとき、こいつは己の前に現れたのだ。

 それほど強烈な印象は無かった。己にとっては高校時代の生活は激烈だったから、その苦痛の記憶に埋もれてなかなか、思い出せなかったのだ。

「綿貫さん」

 白神は振り返り、己に声を掛ける。

「……なんだ?」

「あのときあなたは、私の問いに『いらない』と言いましたよね」

 彼女は己の境界線を越える。ヌメリとした粘着質な視線が、己を刺す。

「私がこうなったのはあなたの返事のせいですから、今更、『いる』なんて言わないでください」

 この距離を思い出した。この、心を許す距離感を悠々と乗り越えて来る少女のことと同時に思い出した。

 コンビニの前での、あのヌメリとした侵入される感覚は、なにも初めてではなかったのだ。

 白神 舞の言う「いらない」とは、きっとあのことだろう。

 確かに己はそのとき、「いらない」と言った。

 白神が「友達も恋人もできずに、そのまま人生を歩んでいて悲しくなりませんか。死にたくなりませんか? それでなんで生きていられるんですか?」と訊いたのだ。少しばかり齟齬があるかも知れないが、そんなことを口にした。

 己は惨めだった。西校舎の屋上に至る踊り場で一人、気付かれないように音を立てないようにと弁当を食べている姿を目撃されたことが嫌で嫌でたまらなかった。

 だからそれは、本意では無かったはずだ。

 己は「そんなものはいらない」と反抗的に言い返した。すると白神はなにかしら思案したような顔をして、「そういう考えも、あるんですね」と呟いて立ち去った。

 その後、白神と校舎内で会うことはなく、そして彼女が教師に告げ口をして己の安らぎの場を奪うようなことも無かった。

 憎き首謀者。討つべき仇敵。そういった因縁ある存在になるわけでもなく、彼女は己の汚泥に満ちた記憶に埋められたのだ。それを掘り起こすのには苦労した。

 そして、沢渡さんの嘘を暴くと、己は少しだけ幸せになれて、けれど白神は幸せにはなれない。そこにもう答えはあったのだ。

「沢渡さんは結婚しないんだな」

 白神は頬を緩ませ、己に微笑んだ。

「でしょうね」

「なんでそんな嘘をついた?」

「綿貫さんに追い掛けてもらいたいから」

「分かんねぇよ、そんな気持ち」

「きっとまだ好きなんですよ、あの人は」

「分かんねぇよ」

「確定事項じゃないですけどね。想い人があまりにも変わり果てた姿で目の前に現れたとき、幻滅と同時に、試したかったんじゃないんですか?」

「知らねぇよ」

「だから、さっさと嘘を暴きに行ってください。とても簡単なことですよ。沢渡さんの家に行くなり、彼女に連絡を取るなりして、目の前で告白するだけで良いんです。そして『結婚しないでくれ』と懇願すれば、きっと全ては白日の下に晒されます」

「けれどそれは」

「私への答えに反する行為です」

「だからお前は幸せにはなれない」

「そう、そしてあなたを幸せにする気も、私は無い」

 白神は己の耳元に顔を寄せる。足りない背丈を足らせるために背伸びをして、爪先立ちになって、囁く。

「私のやっていることはボランティアで、慈善事業です。私に生き甲斐を失わせたり、しないでください」

 どうやら白神のボランティアには、己を幸せにすることは含まれていないらしい。あくまで己のイメージの破壊が、彼女にとっての生き甲斐なのだ。

「嫌だよ」

「……あのときに言ったことを、否定するんですか?」

「だって考えてみろよ。もしも沢渡さんが本当に嘘をついていて、俺に幻滅していて、けれど俺にチャンスを与えているんだとすれば、それほど俺にとって幸せなことはないだろ。告白すれば付き合えるかも知れないんだぞ。ずっとずっと好きだった人と、付き合えるかも知れないんだぞ」

「あなたは!」

 己の胸倉を掴み、白神は鋭く己に叫びを上げる。

「あのとき私に『いらない』と言った!! そのとき私は『そういう人も居るんだ』と思ってしまった!! だからこんな負け犬になった!! あのときに『いらない』と言った張本人がそれを否定しないでください! 私がこんなのになってしまったのはあなたのせいです! あなたの卑屈さが! あなたの惨めさが! あなたの冷酷さが! あなたの非情さが! 私を同じ負け犬へと貶めたんです!!」

 精神論を唱えられても困る。それは論理として破綻しているし、負け犬になった理由を捜し求めた結果に至った責任転嫁でしかない。

 己も誰かに責任を求め、彼女もまた責任を求めた。己は未だに他人に責任を押し付け続けているが、白神は己一人に決め付けて生きているのだ。

 自分をこんな風にした己を許さない。自分をこんな惨めなところまで貶めた、たった一言を許せずにいる。己が反発し、まさに負け犬の遠吠えのように吐いた『いらない』が、彼女の心に残ってしまった。

 その結果が、これだ。

 高校時代の白神はきっと人生の勝利者とも言うべき道を歩いていた。でなければ己にあのような辛辣な言葉を吐けるものか。そんな女を己は、たった一言で、負け犬でイメージに囚われるのを拒む偏屈な女へと仕立て上げてしまった。

 自分の言ったことには最後まで責任を持てとは小学校の先生に教わった。けれど、それが現実になることは今まで無かった。普段より言葉を選んで口にする方であるので、己の言葉で誰かが傷付くようなことが無いようにと努めて頑張って来た。

 しかし、それを学んだのは高校生を卒業したときだ。己をイジメているような男たちの、人を傷付けることだけに特化した言葉だけは絶対に使うまいと心に決めたのは、そのときからなのだ。彼女に向ける「気持ち悪い」も「気味が悪い」も己自身を守る防壁でしかなく、もっとまともな接触を試みていたならば、己は決して彼女にそのような暴言は吐いていない。

 だから、白神へ向けた「いらない」という言葉にも己は責任というものを感じていない。今ですら、感じていない。これほどに傷付き、苦しみ、負け犬に落ちた女を前にしていても、己はこれっぽっちも罪悪感を感じていない。

「それはお前の責任だ」

「なっ?!」

「俺がイジメられて負け犬になったのは俺の責任だ。けれど、お前が俺の言葉で負け犬になったのだとしても、それは俺の責任じゃなくて、お前自身の責任だ」

「言ったことの責任ぐらいは持ってくださいよ! 無駄に二年も歳喰った年長者の癖に!」

 胸倉を掴んでいる手を己は引き剥がして、距離を置いた。

 白神 舞は敵意を剥き出しにして己を睨んでいる。この目は、長井が俺に向けていたものに似ている。負け犬のクセに威張るなという目だ。違うのは長井は人生の勝利者で、白神は敗北者であることだ。

 ひょっとすると、己はようやく白神 舞の素の性格を見ることができたのかも知れない。敬語であっても言葉は荒々しく、表情は凛然としていてもどこか攻撃的。

 キャラ付けでもなんでもない、白神の素顔だ。それが己には、素直な良い子という個性の成れの果てにも感じられた。どれだけ素直であっても言葉は選ばなければならない。どれだけ純粋であっても、相手を傷付けてはならない。そういった制約が純粋無垢を侵して壊す。

 けれど、もしも壊されなかったならば? もしも素直で在り続けられたなら、白神のように攻撃的で、荒々しく、年上にも一切の遠慮を持たない子になるだろう。でも、そんな個性は求められない。社会には適応できない。だからこそ理想の素直さが生み出した成れの果てなのだ。

「無駄に歳喰った年長者の言葉なんて、ないがしろにしろよ」

「そんなの高校生の私にできるわけないでしょ! 先輩の顔色を窺って、後輩には気を遣って生きなきゃならない社会で! 年長者の言葉を大真面目に受け取ってしまうのはあなただって分かることじゃないですか!!」

「俺は中学時代は理科部で幽霊部員だったし、高校は帰宅部だ。先輩とか後輩とか、そんなのには縁が無い」

「あなたの理屈じゃないんです! 私の理屈なんです!」

「イメージもそうだけど、人に理屈を押し付けるなよ」

 お前中心で人生は回っているけれど、お前中心で社会は回っていない。先輩を立てて後輩を大切にするのが今の社会の現状だとしても、年長者の意見を丸々そのまま聞いてその通りにしてお金が回るような社会には、きっとなっていない。

「……じゃぁ、好きにしてください。もう私と綿貫さんの遊びもここまでです。今まで色々と、どうもありがとうございました。ありがとうと言うのは、綿貫さんの方だと思いますけど、まぁまぁ楽しかったです。告白でもして、付き合って、結婚して、ヒモみたいな生活でも送れば良いんじゃないですか。負け犬は負け犬らしく、幸せになっても負け犬で居てくださいね」

 早口でまくし立てた白神は、己から逃げようとする。

 その腕を己は掴む。

「まだイメージをぶち壊せてないだろ」

「なに言ってるんですか、わけが分かりません! 離してください、気持ち悪い!」

「まだ終わってない」

「……は?」

「俺はほんと、どうしようもない人間だ。定職にも就かず、自分の人生にも妥協して、偏った考えしかできない人生の敗北者だ。もしも、もしもだ。馬鹿な話で、しかも全然根拠もない話をするけれど、多分きっと沢渡さんは結婚するんだろうけれど、もしも本当に沢渡さんが嘘をついていて、己が告白してそれで付き合えるのか?」

「婚約指輪を付けていませんでしたし、結婚するって風にしては一人でお墓参りなんて、おかしいですよ。それに私は分かりましたよ。あの人の発しているのは、人に恋してもらいたいオーラです。あなたに告白して欲しいっていう、明確なオーラでした」

「でもそれはお前のイメージで、事実とは違うかも知れない」

「真実です」

「じゃぁ真実だとしてもだ、やっぱり俺と付き合っても、沢渡さんは幸せにはなれないだろ」

「好きな人と一緒に居て幸せじゃないなんて、そんな人はもう私みたいに人格が捻じ曲がっているくらいしていますから、人と思わないでください」

 必死に己の掴む腕を引き剥がそうと白神は暴れるが、己は必死に彼女が逃げ出さないようにと掴んだ腕を離さない。

「でも負け犬にはなるだろ」

 白神は目を見開いて、暴れなくなる。

「俺はお前に『いらない』と言って、お前はその言葉を真に受けて、そこまで落ちぶれた。で、また俺は言葉は違っても、人生を謳歌している人に言葉をぶつけて、負け犬に落とそうとしている。だってそうだろ? お前みたいな綺麗な女でもまかり間違って、負け犬の言葉を真に受けることもあるんだ。沢渡さんも、真に受けて負け犬になって、お前みたいに後悔するかもな」

 己の言葉は、人を落ちぶれさせるほどの力を持っているだって? こんな話があるか。信じられそうもない。馬鹿げた話で嘘八百並べ立てたような御伽噺みたいな、笑えない話があるか。

 でも、そうして出来たのが、この白神 舞の現在なのだ。

 沢渡さんまでも、そうなってしまうのだけは、己は避けなければならない。

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