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【第三章】

【第三章 岩】


「昔は男性と話すのが苦手だったんです。あ、でも、綿貫さんとは出会ったときから上手く話せるなと思っていたんです」

「根暗ってクラスメイトに言われたときはショックでした。読書をしているだけで物静かな子なんて言われて、黒髪じゃないと似合わないみたいな。そういうレッテルを貼られていたので、今まで髪なんて染めたことがないんですよ」

「いつからってわけじゃないですけど、容姿を馬鹿にされることはなくても、人間性を否定されることがありました。酷くないですか? 酷いですよね、酷いに決まっています」

「物静かだからって勉強が得意ってわけじゃないと思いませんか? 私、あんまり得意な方じゃなくて、それに友達もほとんど居なかったので勉強会とか開いたこともありませんし、苦手なところを誰かに教わることもありませんでした」

「そんなだから、こんなにくさくなったんでしょうか。まぁそれも良いんですけどね。だって綿貫さんと会えたんですから」

「無趣味って、悪ですか? 読書は趣味というより習慣で、生活の一部であって趣味とは言い切れるものじゃありませんよね。就職活動なんかで趣味に読書って書いても、ああ物静かな子なんだ、で印象が終わるじゃないですか」

「スポーツが得意なわけでもないんで、体育大会ではいつもビリでした。でも酷いと思いませんか? 私にバトンが渡されたときからビリなのに、アンカーってだけで全て私のせいみたいな雰囲気だったんですよ!?」

「あ、大学には一応ですけど通ってるんです。勉強なんてほんと、駄目駄目だったんで、大して誇れるような大学には受からなかったんですけど、一応ですけど通っています。ほら、やっぱり大学は卒業しておいた方が良いじゃないですか」

「えー、私みたいな女性には風俗で働く道もある、ですかー? 体を売るって物凄く恥ずかしいことだと思うんですよ。あ、別にその仕事に従事している方達を否定しているわけじゃないんですよ?」

「現実重視の人間ってどう思います? 現実的なことを言うと、いつも友人に馬鹿にされちゃうんです」

「好きなお菓子ですか? お菓子って、手がベタ付くんであんまり好みのものが少ないっていうか……強いて言えば、ラムネ菓子です。あ、でも口の中がひんやりするようなラムネ菓子は好きじゃないです」

「綿貫さんはなにが得意ですか?」

「綿貫さんは勉強は得意ですか?」

「綿貫さんは――」

 やめてくれ。

 己は心の中で叫ぶ。折り畳み傘を右手に、鞄を左手に持っているため、ただ彼女の言葉を浴び続けることしかできない。

 雨に打たれ続ける彼女を不憫に思ったのが運の尽きだった。己の一握りの偽善が彼女を傘の中に入れてあげようというおかしな思考へと至らせた。

 最悪だ。

 人生で相合傘をしたのはこれが初めてだ。そういったことに幻想を抱いていたわけではないが、淡い憧れのようなものはきっと持っていた。それを容易く崩しに来たこの女性を、己は一生忘れない。いや、なにがあっても一生忘れないだろう。こんな狂った女性のことを忘れられるはずがない。

 女性は己が傘に入れて、共に歩き出してからずっと喋り続けている。話し疲れて休憩することはあっても終わらない。なにより怖ろしいのは、己はなに一つとして質問していないのに勝手に会話を展開させているところだ。

 透明人間と話しているような。まるで己であって己であるような、目には見えないなにかに語り掛けて、囁き掛けられているような光景にしか己には見えない。しかし傍目から見れば、己と女性の二人切りで、傘に入れているところは恨み節を買う景色に映るのだろう。実情を知って尚、羨ましいと思えるのなら己とすぐにでも変わってもらいたいが、きっと分かってもらえない。

 ここまで一人で話を回されると、人格を否定されているような気分にさえなる。主観的に見るべき場面であるのに、何故か客観的に見ている。それらは全て、彼女一人によって成される対話劇がもたらす影響としか思えない。

「私の話、ちゃんと聞いてますか?」

 唐突に彼女は、こちらの顔色を窺うような台詞を吐く。表情は翳り、不安を押し殺している。

 右から左に声は流れ、ほとんどが頭の中に残っていないが、ここで彼女を否定するのは生命の危険を感じる。

「聞いていない」

 しかし己は、妥協することを拒んだ。彼女の前で嘘偽りを口にすることを拒んだ。これについては理性を伴わない本能だ。またも己は、理性で抑えることのできないまま、本能に振り回されることになった。

「なんで聞いていないんですか。どうして聞いてくれていないんですか、私たくさん話しましたよ話しましたよね? 話してないわけないですよね」

 早口にまくし立て、女性は己を睨み付ける。

 明らかに異常である。

 己と女性の間には未だ、海溝の如き境界線があるのだが、彼女はその境界線すらも曖昧なものとして受け止めていて、まるで溶け込むかのように侵して来る。

 それが普通であるかのように、それが自然であるかのように。己と女性は知り合いで、とても仲が良く、こうして相合傘をして一緒に帰るほどの関係性を築いているかのように見せ掛けている。

 ……そう、見せ掛けているのだ。この女性には様々な感情が渦巻くが、この早口も、そして一人で繰り広げる対話劇も、全てが見せ掛けでしかないのだ。彼女にとってそれが自然であっても、己にとっては不自然であり不愉快極まりない。自己を偽り、不可侵に攻め入ろうとするその姿勢が気に喰わない。

 己は人に心を許すことが滅多なこと無い。だから、先ほどは海溝で喩えてしまったが、心を守るための障壁自体はそれこそ異常なまでに分厚く固めているつもりだ。なのに、分厚さに負けないくらいの図々しさで身を固め、この女性は己の心に手を付けようとしている。

「俺は知らない」

「私は綿貫さんのことを知っていますよ?」

 その一言で全て納得できると思っているのか。

 己は彼女を知らないのに、彼女は己を知っているだって? そんな奇妙奇天烈なことがあってたまるか。いや、これは奇妙奇天烈ではない。こういうのは奇々怪々と表現することの方が望ましい。なにせ己にとっては、女性は不審人物だ。

 しかし、やはりその生気の無い瞳はどこかで見たような気がするのだ。どこで、なのかは分からないが、思い出せないのなら知り合いではない。きっと、そのはずだ。

「同じ穴の狢じゃないですか、私たち」

「知らない」

「そうやってシラを切っても、くさいままですよ?」

「だから、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて」

 己は足を止めて、隣を歩く女性の方を向いた。

 年齢については未だおおよそすら立てられていないが、身長は己よりも頭一つほど低い。そのためか上目遣いであるが、元来であればそこに含まれるべきはずの無邪気さや無垢さ、小悪魔さは一切感じられない。綺麗さだけを目指し、綺麗さで人を魅せる人形の瞳だ。顔付きは幼さを感じるが、きっと己の年齢基準はアテにならないから、そこから算出しようとは思わない。

 けれど、目鼻立ちは割と整っている。己自身が女性をよく知らないため、これもまたアテにはならないのだが。

 長い黒髪だけが特徴的で、今まで気付かなかったが――気付かないように己が努めていたからか、女性の目付きは垂れ目がちであることに気付いた。どうでも良いことかも知れないが、己にとっては彼女を彼女と認証すべき情報源が、長い黒髪に垂れ目が加わり二つになったことは大きな成果だ。人間らしさを感じさせない彼女を人間らしく感じる部位が二つに増えた。これのおかげか、先ほどまで感じていた奇怪さが彼女から取り払われたようにも思えた。

 女性側がそういった雰囲気をわざと放出し始めたのなら、これもまた見せ掛けの一面でしかない。それでも、先ほどの一人の対話劇と早口から来る病的な恐怖を演出されるよりはマシだった。

「俺は名前を知らないし、歳も知らないし、どこに住んでいるかも知らないし、メルアドも知らないし、電話番号も知らないし、家族構成も知らないし、なにもかもを知らない」

「私は別に構いませんよ? 綿貫さんが綿貫さんであるのなら」

 先ほどから口にする「綿貫さん」は彼女にとって、ただの記号でしかないということを今、己は知った。

 己は氏名にアイデンティティがあると考える。男である以上、苗字も名前も己自身が望まない以上は変わらない。己が心を許した相手以外には決して晒してはならない個人情報の一つであるとすら断言できる。それが彼女には、記号でしか伝わっていない。きっとこの女性は、己が「綿貫」だろうが「長井」だろうが「沢渡」だろうが、なんでも構わないのだ。

 都合の良いことばかりが胸に残り、都合に悪いものは全て捨て去っていく。彼女の頭はきっと、ざるで出来ている。水を切るように、砂を排除するように、いらないものは元々、記憶に引っ掛けない。覚えようとしない。それはもはや自身の置かれた環境に適応したことで成り立つ能力だ。

「俺には」

 言い掛けたところでやめた。

 関わるべきではない。店長の言葉に乗っかるような形になるが、己はこれ以上の詮索をするべきではないだろう。

 関係性を築いてしまうと、己の罵声は彼女に伝わり、彼女の罵声は己に引っ掛かる。

 どちらにとってもデメリットになるのなら、知らないままの方が良い。

 話し掛け、傘に入れて、こうして歩いている時点で関わったと捉えるのなら、もはや手遅れであるが――手遅れのようにしか思えないが、まだ己は足掻いていた。

「駅だ」

「駅ですね」

「駅まで送った。それで終わり。さようなら」

 単語を並べ立てて、傘の下から彼女を放り出し、己自身の岐路につく。

「ありがとうございました。綿貫さん、また明日」

 気味が悪い。もう己と彼女の間に「明日」など来るものか。そんな友好的な間柄を演じるのはやめてもらいたい。

「そういえばまだ名前を教えていませんでしたね」

 知りたくもない、やめてくれ。

「白神 舞です。綺麗な名前だと思いませんか?」

 己はなにも答えない。それどころかもう女性の顔すら見ていない。そうして己は振り返ることもなく、雨の中を歩き出す。

 寿命が縮まっただろう散々な一日だ。いつも以上に疲れているはずだから家に帰ったら入浴を済まし、用意されている夕食を食べて、歯を磨いて眠ってしまおう。

 雨粒が傘に当たって奏でられる音が、小気味良い。こういった音は嫌いではない。ずっと雨の中、傘を差していても飽きないだろう。

 心なしか、雑音が混じっているような気がした。

 ひょっとすると聞こえていなかったのかも知れない。ただ、そんな気がしただけという単純な理由で、第六感と呼んでも差し支えないそれに従い、己は振り返った。

 女性がこちらを見ていた。

 己との距離は一切縮まっていない。雨の中、女性は別れたときと同じ距離で立っていた。

 その眼光が、垂れ目であっても鋭く神経にまで突き刺さるように痛く、同時に全身に寒気と痺れを伴わせる。

 なんだこれは。

 思考が追い付かない。

 女性は立っている。白神 舞はこちらを向いたまま、立っている。雨の中、ずぶ濡れのまま、立っている。

 何度も何度も確認をする。夢ではないか、間違いではないか、幻想ではないか、想像ではないか。疑問を一つ一つ、取り払っていく。

 現実である、正解である、空想ではない、幻ではない。

 白神 舞は己のあとを付いて来ていた。別れたときからずっと付いて来ていた。「さようなら」と言って、別れたはずなのに後ろにずっと居た。

 雨音に己の悲鳴が混じる。

 このとき、己は完全に思考が死んだ。男のクセに悲鳴を上げることなんてあるものかと高を括っていた。しかし、現実にはあった。

 確実な恐怖が己を包み込み、あとはもうなにもかもに怯えていた。振り返らずに前だけを向いて、縺れそうな足を必死に回して走る。それはまさに疾走と呼ぶに相応しい速さだった。徒競走でも発揮したことのない脚力でもって走り続け、持久走でも保てたことのないペースで呼吸を安定させたまま、暗がりの雨の中をひた走った。

 追い掛けているのではないか、付いて来ているのではないか。そのようなことは頭を過ぎるが、興味本位に振り返ることは決してしないようにした。油断することのないように努めた。

 あの距離が、ヌメるようにして侵された境界を越えた距離が、忘れられない。あれ以上に距離を詰められたとき、己の身になにが降り掛かるのかなど想像したくない。

 殺されるのか? あの白神 舞という女性からは感情を読み解くのが酷く難しかった。だからあのとき、殺意があったのか無かったのかすら分からない。

 分からないから怖いとも思うが、分かったからといってその恐怖が消え去るわけでもないだろう。

 己にできることはただ、ひた走ることだけだ。雨の中の夜道を、風体など気にせずに走り続けることだ。

 妄想は限界を超え、己は白神 舞に捕まれば、命を取られてしまうものだと決め付けている。だからこそ足は動き続ける。むしろこの状況で立ち止まれる者が居たのなら、己は心の底からその者を尊敬しよう。

 自宅の呼び鈴を何度も鳴らし、玄関の扉をガチャガチャと何度も引っ張り、開いたと同時に扉を閉めて鍵を掛けた。

「悪いことをしたのなら、警察に行きなさい」

 その狂気染みた行動と鬼気染みた形相から、母は己がなにか悪いことをしたのではないかと疑っていた。

「違うよ、走って……走って帰って来ただけ。ほら、雨も酷くなるだろうし」

 己は白神 舞について母に話さなかった。己は二十四年間、恋人を作ったことがない。だから母は女性の名前を出すだけで浮ついた話と勘違いしてしまう。そんなものとは縁遠い存在であることを伝えるのも難しく、己の中で処理するしかない。

「それなら良いけど」

 己の中途半端な弁論で、母は納得したらしい。品行方正に育てられたとは言いがたいが、警察沙汰になるようなことを起こさず、普段の性格においても熟知してくれているためか、きっと己が悪事を働いたとは考えないのだろう。実際、悪事など誓って働いていない。白神 舞を傘に入れたのは悪事ではなく、善意だった。偽善と呼ばれそうなまでの善意だった。

 まさかあんな女――女性と呼びたくもないほどの気味悪さを備えた女とは、思わなかった。

 折り畳み傘を上がり框に開いたままで置いて乾かす。靴を脱ぎ、そのまま自室に向かおうとしたが、湿った感触が足元より伝わる。

 雨足は強い方では無かったが、水溜まりも気にせず走ったため、どうやら靴下まで雨水が染み込んでいたらしい。髪も触れてみれば、思ったよりも濡れている。肩も、袖も、裾も、濡れやすい箇所はどこも雨が濡れていた。鞄も例に違わず、ずぶ濡れだ。

 あの女のように、ずぶ濡れだ。

 靴下だけならば些細なことだが、これほど濡れていることに気付かなかったのであれば、己にとっては大事だ。脇目も振らずに走り、女の存在に怯え震え上がったが故に神経まで狂っていたのだろう。

 後ろを向いた。

 そこには誰も居ない。

 己はずぶ濡れの鞄を靴箱の上に置き、靴下を脱いで廊下を歩き、自室を通り越して風呂場に向かった。

 これから夏が待っているはずなのに、ジメジメとした暑さなど皆無で、己の体は冷え切っていた。心もまた、凍り付いていた。

 シャワーを浴びて、浴槽に身を沈める。凍り付いた心と冷えた体に熱が染み込んで行く。それだけで己は安穏を感じられた。

 それでも強烈な一日だった。疲労感はいつもの比ではなかった。入浴を済ませた己はいつものジャージ上下を着て、リビングで夕食を摂った。

 己は吸い込まれるように敷いた布団の上に倒れ、そのまま眠りに落ちてしまった。あれほどの衝撃と恐怖に襲われても、己はどうやら睡眠に弊害を生じることがないらしい。両親が居ることも大きい。誰の侵入も許さない、己の唯一の心を許せる場所。それが自宅であり自室なのだ。ここなら気持ちも安らぐ。

 なにがあっても己は起きなかった。だから、人為的作為的ななにかが深夜に起こるのがこういったホラー的な展開では常であるが、そんなものは一切合切感じることもなく、瞼を開けたときにはもう朝になっていた。ならば己の人生がホラーに染まったわけではないということだ。

 こういったときの、安息感から来る己の図太い一面にはいつも世話になっている。嫌なことで陰鬱な気持ちになっても、眠たいときには眠れるのが己だ。だからといって、陰鬱な気持ちがチャラにはならないが、睡眠欲求だけはしっかりと満たされるのだから、僅かではあるが夜中よりも爽やかな気持ちになる。本当に、僅かではあるが。

 嬉しいことに、ありがたいことに、木曜日はバイトを入れていない。あの女に会うこともないはずだ。特に外出する用事もないのだから、まず会わない。

 二度と会いたくない。バイトすらも辞めてしまいたい。しかし、改めて履歴書を書くのも、履歴書に貼り付ける証明写真も、どれもこれも準備するのが億劫だ。次にどこを受けるかも決めていないし、そもそも己が他のところでも受かるかどうかは定かではない。あんな店長であっても、己に辞めろと告げては来ない。心のどこかでは己のことを気遣っているのでは、と考えた途端に気分が悪くなり、己は布団から起きて、身支度をすることで気持ちを一新させた。

「……くさい」

 右手の甲を擦り、臭いを確かめる。やはり負け犬の臭いがする。くさいくさい、くさくてたまらない。

 意味もなく、希望を抱いてしまった。己とあの女は違う。考え方も生き方も異なる。ならば、実は己が漂わせているものは別個のものであるのではないか。そう思って臭いを嗅いだが、変わらない負け犬の臭いだった。

「おはよう。創、今日の予定は?」

 リビングに顔を出すと、母は変わらず己の予定を訊いて来る。

「おはよう。今日は休みだよ」

「そう」

 母は忙しなく動き、リビングをあとにした。今日は朝から卓球に行く予定なのだろう。己はテレビを見ている父と顔を合わせる。

「おはよう」

「ああ、おはよう。昨日の夜は、なにか慌てている様子だったが?」

 お椀に御飯をよそい、ふりかけを掛けて朝食を摂り始めたとき、父に訊ねられた。

「雨が酷くなりそうだったから、走って帰って来ただけだよ」

「悪いことをしたのなら、早めに白状した方が良い。父さんも昔は遊び回ったが、さすがに警察沙汰になるようなことはしなかった」

「してないよ、悪いことなんて」

 これは母にも言ったことだ。そして母と同じくして父も己を疑っていたのだと思うと、少しだけ悲しくなった。

「それと、楓から電話があった」

「なんて?」

 綿貫 楓は己の兄で、父にとっては二番目の息子だ。県を跨いで働き、一人暮らしをしている。一ヶ月に一度連絡があれば良い方で、父や母に連絡を寄越さない。

 そんな楓から、家に電話があったのだから訊かないわけにも行かないだろう。

「仕事で近くを寄るから、そのついでに帰るかも知れないらしい」

「いつ?」

「今日か明日ぐらい」

「なんで楓はいつも連絡がギリギリなんだよ」

 兄ではあるが、己は兄と呼ばずに名前で幼い頃から呼んでいる。一番上の兄については、小学生に入った頃から「兄」と呼ぶようにはなったが、さすがに二人も「兄」と呼んではごっちゃになるので、楓は楓と呼び続けている。「楓兄さん」では長くなるし、「兄さん」と呼ぶのは何故だかこの歳ともなると小っ恥ずかしい。

 兄弟仲は己に限って言えば、良くない。主に己と兄二人の間は、断絶している。兄二人は仲が良さそうだ。

 悪くなったのは己がフリーターになってから。定職に就いている二人に気後れして、話す回数が徐々に減って行った。だから己の携帯には二人の連絡先が入っていない。

「夜中に帰って来たら、部屋で寝るように言ってやってくれ」

 楓は家ではリビングで寝る癖がある。楓が大学生になってからの癖だ。自室まで行くのを面倒くさがるのだ。疲れて体が動かないのであればまだ分かるが、リビングで一、二時間ほどスマホをいじる余力を残しつつ眠りに落ちるのだから性質が悪い。そんな楓を己はいつも起こし、部屋で寝るようにと再三に渡って注意を行う役目を、いつの間にか担わされている。「起きろ」、「部屋で寝ろ」、「ここで寝るな」。兄弟間で交わされる会話はこんなところだろうか。全て己からの指示しかないのは、相槌しか楓が打たないからだ。

「はぁ……」

 ふりかけ御飯を食べ終えて、己は大きく溜め息をついた。

 疎ましい上に、羨ましい、そして妬ましい。

 己のような偏屈な男ではなく、楓は非常にカリスマ性に富んだ性格の持ち主だ。髪を染めていた時期もあったが、非行に走ったことは一度と無く、けれど何故だか楓のスマホにはいつも引っ切り無しに電話が掛かり、メールが来る。最近では仕事用とプライベート用でスマホを分けたらしく、それでもプライベート用のスマホは電話もメールも時間換算にしても相当数やって来る。きっと人間関係の構築が得意なのだろう。同じ血を引いていても、これほど差が開くとなると、やはり与えられた環境であっても成長の度合いは変わってしまうのだろう。農作物でも間引かれる芽はある。己は間引かれずには済んだものの、上手く成長しなかった人間性の代表格とすら言ってしまいたいほどだ。

 勿論、さすがにそこまで卑屈にはならない。そこまで自信を喪失しているわけではない。そこまで自信が無ければ己は死のうとするし、死んでいるはずだ。生きていて、生きたいと願って、死のうともしない。だから己はまだ、その域に達していない。

 あの女はどうかは知らないが――

「夜、呼び鈴が鳴ったりとかしなかった?」

「創が帰って来たときので最後だ」

「そう」

「誰か来るはずだったのか?」

「いや」

 むしろ来なくて良かった。

「寝る前に外の空気を吸いに出たが、誰も居なかったぞ」

 己のそんな思いを察してか、父は呟く。

「そう」

「……あんまり心配させるなよ」

「心配? 心配なんてさせてないでしょ」

「お前は英彦や楓と比べると、ちょっと危なっかしい」

「は……? 俺は普通だよ」

 兄二人と比べるな。

 兄弟の話はされたくないし、したくもない。批判されるし、比べられる。それも親にとなれば、そのときの苛立ちは兄弟姉妹を持つ人しか分からない。

「お前が大丈夫だって言うなら、信じるが」

「大丈夫だよ」

「そうか」

「そうだよ」

 互いに肯くだけとなり、これといった話の種も無くなったので、己はお椀を流し台に入れて部屋に戻る。部屋の隅に放り出していた携帯電話が点滅して、メールの受信を示していた。

 まさか、そんなことがあるものか。

 己は受信したメールを見ることに躊躇いを感じた。あの女からのメールではないかと思ってしまったからだ。メルアドを教えてもおらず、また教えてもらってもいない。だからあの女から連絡が来ることなんてあるわけがない。なのにそのような思考に至ってしまう時点で、己の中の疑心暗鬼は凄まじいことになっている。

「山城か」

 己が、持っている勇気の半分くらいを用いて受信ボックスを開くと、差出人の『山城』の文字があった。それだけで安堵する。

『今日、暇?』

 メールの本文にはそれだけが表示されていた。スクロールして、下の方に大事なことが書かれている様子も無い。山城は時折、簡略化され過ぎたメールを送って来ることがあるが、平日の午前中にこのようなメールを寄越すなんて、彼にしては珍しいことだ。そもそもこの時間だと仕事を始めているはずだし、なのに暇かどうかを訊ねて来るメールは不自然極まりない。

 己は『暇』と一文字だけ打ち込んで、返信する。山城が仕事をサボっているとか、または風邪でも引いて寝込んでいる可能性もあるから無視できない。特に一人暮らしで風邪を引いた場合は誰かの手助けがあった方が良い。この親の脛をかじって生きている己に、それを求めるのは筋違いだが、山城なら性格上、あり得る。

『良いよな、フリーターは』

 数分後返って来たメールは明らかに己を貶している内容だった。その意図が分からず、そして己のコンプレックスを指摘されたことによる苛立ちから、携帯電話の電源を切って部屋の隅へと放り出した。これだけ手荒に扱っても、この携帯電話はまだ壊れない。そしてメールを無視するという対応を取っても、己と山城の関係性もまた壊れない。ただし、己がなにか山城にとって不利益を被るような仕打ちをした場合は分からない。怖くてやらないけれど。

「……あー、今日ってあの漫画の発売日か」

 なにもすることが無いので、とにかく暇潰しとばかりにノートパソコンを起動させてネットサーフィンをする。己がいつも巡回しているサイトで、定期的に購入している漫画の発売を促す広告が貼られていたので、クリックしてしまった。こういったもののは金銭を要求されないが、購買意欲に刺激を与えて来るので、控えたいところだ。ネットで商品を購入したことは今のところ無いが、欲しい物を手当たり次第に買い込んでしまいそうなので、意識的に購入方法についての詳細は調べないようにしている。請求額が笑えない数字を叩き出す可能性も否めない。物欲の底は計り知れないのだ。なにより漫画なら、近くの書店で買えば充分だ。プレミアが付いている古書でもないし、わざわざネットを経由する必要も無い。

 己は財布をポケットに入れて、部屋を出た。

「ちょっと出掛けて来る」

 リビングで今もテレビを見ているはずの父に外出することを伝える。

「どこまでだ?」

 父の声が聞こえたときには靴を履き、玄関の扉を開けていた。

「近くの本屋まで。すぐ帰るよ、五分ぐらい」

 そこまで言って、己は外に出て扉を閉め、鍵を掛けた。

 外出時にどこまで出掛けるかは通常の家庭であれば、よくあることだ。だから、過保護とか心配性だと思ったことは無い。煩わしいとは、思ったこともあったけれど。

 空は青く、雲も白い。昨日の夜に降った雨の形跡は、僅かばかりの水溜まりを見ることでしか分からない。幼少の頃の想い出のように、昨日の夜に起こったことも忘れられる日が来ればと願うばかりだ。

 駅前の書店は、昔と比べて随分と区画を縮小させた。その内、閉店でもするのではと思い続けて五年ほど経つ。これだけ経って、それでもまだ潰れていないのなら、今後もきっと潰れないだろうと見積もっているが、どうなのだろうか。景気の良い悪いが、己には入って来ないから、断言できない。

 書店に入って、すぐに漫画コーナーには行かない。そして目当ての漫画を見つけても、まずそれを手に取ってレジに並ぼうとはしない。書店でも見栄を張る。それはやはり変わらない。

 自己啓発の本が並ぶ棚を興味深そうに眺める。一応、形だけ。

 形だけ、現状を打破しようとする意思を他者に見せる。両親と共に書店に寄るようなことがあっても、どんな書店であっても形だけその手の棚を眺め見るだろう。

 変わろうとしている。そう思い込ませる。思い込ませて、油断させる。まだ自分はやり直せると、言い聞かせる。言い聞かせて、堕落させる。

 分かっていても、大学生の頃より染み付いた癖はもう直せそうにない。

「綿貫さん」

 おおよそ、己が人生において感じるであろう恐怖の中で飛び切りの――一生、感じないだろう怯えを己は体感した。

「なんなんだよ」

 己は声を震えさせながら言う。

「お前、なんなんだよ。気味が悪いよ、気持ちが悪いよ。なんで俺の近くに居るんだよ」

 ヌメリと、女は己の境界線を跨いでいる。

 白神 舞は振り返ったとき、眼前に立っていた。

「ここに居れば、来るんじゃないかと思っていました」

「どれくらい?」

「ざっと二時間ほど」

 書店は朝の八時に開く。店内の時計を確認すると、今は十時を回ったところだ。

 つまり、この女は開店したときからずっと、この書店で己を待っていたということになる。

 怖ろしい。

 ただただ怖ろしい。

「そんなことして、楽しいか?」

「二時間も店内に居ると、さすがに怪しまれるものなんですね。店員さんが私のことジロジロと見て、怖かったです」

 怖いのはこっちの方だ。

「昨日はどうして、走り出したんですか?」

「お前が後ろに居たからだよ」

「…………あ、照れ隠しですか?」

「違うよ! なんでお前は俺に付き纏うんだよ!?」

 耐えられず己は彼女に叫んでいた。店員からの視線だけでなく、客の視線も感じる。そんな公衆の視線を受け止め切れるわけもなく、己は逃げるように書店から出て行った。

 白神 舞は己の後ろに付いていた。

 距離は相変わらず、己の許さない距離の内側――境界線のこちら側だった。近過ぎて、怯える。近過ぎて心が震える。

「同じ負け犬ですから」

 それと、と彼女は俯き加減に続ける。

「あなたとは不思議な縁があるみたいです、から」

「どんな縁?」

「それは……秘密です」

 肝心なところを隠されてしまう。己はそこが知りたいのだ。そこ以外は特段、知りたくもないことだ。

 しかし、この女は己が女子高校生を追い払ったときから、己のことを見ていたらしい。そして、レジで対面したときに負け犬の臭いを嗅ぎ付けただけではないことが窺える。

「私、知っていますよ。綿貫さんがとても不器用な人だって」

「不器用?」

 手先は器用な方だが、それとこれは別物だ。直感的にだが、女の言いたいことが分かる。即ち、人間性という面において不器用ということだ。

「勝手にイメージを作って、勝手にイメージを押し付けて、そうしてできたイメージに縛られて身動きが取れない。綿貫さんって、昔からそういう人ですよね」

 頭のネジが一つ以上外れている女だとは思っていたが、これほど電波なことを言い出すとは思わなかった。

「昔から、ってまさか昨日のことを言っているのか?」

「違いますよ。私、昨日より前からあなたのことを知っていますから」

「俺は知らない」

「構いません。私、そういうの気にしませんから。それで、どうですか? 綿貫さんは、他者からイメージを押し付けられて、そういうイメージで自分は在らなければならないと思って、縛り付けられて、元来の自分らしさなんてどこに行ったか分からなくなっているんじゃありませんか?」

 彼女にとって、己と昔に会っていたことはさほど重要視すべき案件では無いらしいが、己はそうも行かない。頭のネジが外れまくっているこの女とどこかで出会っているのなら、人物に関してだけは記憶力の悪い己でも憶えているだろう。それほど衝撃的――というかぶっ飛んでいる女だ。でもどうしても思い出せない。喉元でつっかえているみたいで、気分が悪い。

「教えろよ」

「教えません。だってそれが、秘密のことなんですから」

 女は言って、やけに艶やかな表情を作る。

「そういったイメージ、ぶち壊してみませんか? 今まで自分が作って来たイメージをぶち壊して、本来の自分自身のイメージに作り直す。岩のように凝り固まってしまったそれ、壊しちゃいましょう。不肖ながら、私もお手伝いしますから」

 イメージを壊すなんて馬鹿げている。そんなことはできやしないのだ。これほどの歳になってしまえば、周囲の環境は落ち着いてしまっていて、小中高大の境目での、大きなキャラ付けの破壊なんて不可能だ。

 なのに――

「面白そうだな」

「ですよね」

 それを己は、物凄く面白そうな話だと思ってしまった。


 少なくともこの瞬間は、彼女だけが己にとっての唯一の理解者だった。


 考えたくもないことだけれど。

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