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【第二章】

【第二章 砂】


 過去を省みることを己は良いことと思っていない。そこには喜びと不安が詰まっている。積載されすぎていて、現在が潰れてしまう。だから自己否定に繋がりかねない。

 しかし、本当にこれからのことを思うのならば、できることならば己は過去を省みるべきなのだろう。

 家に帰り、自室の襖に畳んでいる布団を敷いて、倒れ込む。携帯電話のメールを確認してみれば母親からのメールが午後十時半頃に到着していたらしい。それだけ確認して、己は携帯電話を部屋の隅に放り出した。

 実家は畳敷きの一軒家である。ただしキッチンやリビングはフローリングであるし、トイレも和式ではなく洋式なので、単純に個室として和室がある家という表現の方が合っているかも知れない。個人的な感想であるが、やはり布団を敷いて寝そべるのはとても心地が良い。ベッドはどうにも慣れない。寝返りを打つ場所を限定されているような感覚がある。己の寝相が悪いせいもあって、強い不快感を抱いてしまうのだ。

 負け犬の臭いはきっと、彼女に伝わっただろう。

 己は起こったことを思い返す。

 初恋の相手との運命的な再会であった。しかし、それは同時に生き恥を晒すことに繋がった。夢幻を打ち砕かれ、抱いていた想いは崩れて消えた。

 虚無感が己を包んでいる。しかしこれは失恋ではない。至極、純粋な喪失感である。己は別に彼女を糧に生きてはいなかったし、彼女と愛し合うために日々、努力を重ねていたわけでもない。

 けれど、色褪せない想い出の中で一際強く輝いていたものが記憶から零れ落ちて消えて行った。必死に探してみても、バラバラに崩れていて拾えそうにない。

 ならば拾うのすら馬鹿らしい。

 披露宴になど、当然行くつもりはない。彼女だって、そんなつもりは毛頭無いだろう。数が合わなかったときの予備だ。ただ彼女を引き立てるパーツの一部に過ぎない。

「俺は……馬鹿だな」

 彼女は昔と変わらず、しかし己は変わり果てた。遂に不可侵であった彼女への意識すらも汚染させてしまった。どれもこれも己が勝手に決め付けたものであり、彼女には罪は無い。

 故に己は、自分自身が煩わしいのだ。硝子のように軟い精神力も、もやしのように細い体付きも、どれもこれも煩わしい。この煩わしさが親への怨念に変わらないのは、生かしてもらっているという要因が大きい。いや、そんな風には考えたくはないのだが。

 まどろみ、瞼が下りる。睡魔が押し寄せて、苦しくなって嘔吐するような気持ち悪さに驚きの声を上げたときには、もう日が昇っていた。

 このところ、悪夢を見る回数が増えてきた。心地良い眠りに誘われはしても、その先に待っているものまで心地良いものとは限らない。

 己は頭を掻き、爪の隙間に入ったフケをわけも無く見つめたのち、布団を片付ける。その際、部屋の隅に放り出していた携帯電話を拾って、受信メールボックスと着信履歴を確認する。着信は無し、メールも無し。

 孤独な平日は淡々と続く。昨日が月曜日だったから、今日は火曜日だ。バイトを入れていない日は己にとっては休日だ。

 フリーターは時間に融通が利くなんて、夢みたいな話だと大学で講義を受けていたとき、教授が言った。その教授はきっと己のような人間関係ではなく、もっと恵まれた環境で、恵まれた用事にスケジュールを追われていたに違いない。でなければ己のように、暇だと思う時間はありはしない。

 部屋を出て、最初に行くのは風呂場だ。帰ってそのまま眠ってしまったので、入浴を済ませていない。かと言って、己の過敏すぎるメンタルが残り湯で追い炊きして暖まろうなどと思うことはなく、シャワーで済ます。

「帰ってたんなら、ちゃんと朝に挨拶をしなさい」

 シャワーを浴びていると、脱衣所の方から母の声がした。風呂場の反響音を気にして、己は小さく「分かってるよ」と答える。

 頭と体を洗って、しばし迸るシャワーのお湯を浴び続ける。風呂場に入っているときは意欲が湧く。なんでもできるのではないかと気分が上がる。けれど、出てしまえばそれはすぐに冷める。

 ここに居る己は、外で生きている己とは違うのではないか。そんな風に思うことは、ままあることだ。

 腹の虫が鳴ったので、シャワーを止めて風呂場を出た。体内から発せられる音は、外的な雑音には掻き消されないのは不思議である。

 適当にバスタオルで体を拭いて、部屋着としていつも常備しているジャージ上下を着て、己はリビングに顔を出した。

「おはよう」

 脱衣所で母に釘を刺されていたので、己から率先して挨拶する。母はテレビを、父は新聞を眺めながら己の挨拶に応じた。時刻は朝の八時過ぎ。母は己の朝食を用意しない。腹の虫は鳴るクセに己自身が朝は食が細めであるため、作ってもらっても食べ切れないからだ。

 お椀に御飯をよそい、テーブルに載っているふりかけを掛ける。椅子に座って、「いただきます」と言ってそれらを口内に掻き込んだ。

 この時間帯に、父の姿を見るのはもうおかしな感覚では無くなった。父は五年前に会社を退職した。上司が変わり、その上司との折り合いが付かずに悩むことが多くなったのが原因だと母からは聞かされた。

 しかし、父が退職するまでその話を己はどこか眉唾物ではないかと疑って掛かっていた。己にとって、父とは尊敬する厳格なる存在だったからだ。理由があって怒られ、理由を持った痛みに身を震えさせた。だから、そんな父が会社で上司と折り合いが付かないからという理由だけで会社を辞めるなどとは信じられなかったのだ。

 会社を退職してからの父は悠々自適に余生を満喫している。退職したおかげか精神面はすこぶる良好で、逆に己の方が疲弊し切っているのではと思うほどだ。二人の息子が定職に就いているので、辛うじて家は持っている。この場合の辛うじて、とは父が退職する前と同等の生活レベルを辛うじて維持できているという意味合いでのものだ。己も己でアルバイト代をスズメの涙ほどは出しているので、今後も金銭面における家計の破綻は無いだろう。そういったこともあって、父にはもう心配することはほとんど無いと言って良い。母との関係も悪くなったこともない。

「昨日は遅かったな」

「友達と飲んでて」

「連絡が来ないと言って、お母さんが心配していたぞ」

「ちょっと手間だと思っちゃったから。次からは気を付けるから」

 友人と飲んだことは多くとも、父と飲んだ回数は零だ。時折、家を出ている次男が帰って来ることがあるが、そのたびに「飲もう」と誘われるものの、己はそれを拒んでいるからだ。己のことを疎ましいと思っていないか不安になってしまう。父と母、そして兄であっても、プライドが邪魔をする。

 壁は感じていない。友人よりもより密接な間柄であるから、心の中のことも吐露することは難しくない。しかし、就職していない。たったこれだけの、己が己自身に貼り付けたレッテルによって、己は父と兄二人を交えて酒を酌み交わすことができていない。きっと、父にとっては息子と飲めることはなにより楽しみにしていることだろう。これはテレビや小説で読み聞きしたことであるため、どこまでが事実であるかは定かでは無いが、一般的な家族のことを表現しているのだとすれば父も例に漏れることは無いはずだ。

 相当の親不孝者だ。孝行をバイト代からいくらか払うことで誤魔化している。いつかいつかと思い続けて、ずっとできていない。このまま親が先立つまで、己は誤魔化し続けるような気がした。

 ふりかけを掛けた御飯を平らげて、お椀とお箸を流しに持って行く。

「創、今日はバイト?」

「今日は無いよ。ごちそうさま」

 部屋に戻ろうとしたところで母に声を掛けられ、そう答える。シフトが変わったせいもあるが、母にはよく予定を訊かれる。しかし、己自身は母の予定を訊いたことはない。己自身が、さほど親のスケジュールを重要視していないのだ。

 自室に戻り、己は机の上にあるノートパソコンの電源を入れる。二年前に父が誕生日にと買ってくれたものだ。その性能について己の造詣は深くない。ネットサーフィンができればそれで良いと言ったが、なにかと入用になるだろうとワープロソフトや表計算ソフトなどが予めインストールされているものを父は選んだ。その他、常駐ソフトなどの設定も全てやってもらい、己はただ与えられたそれを自由気ままに用いている。管理者権限とやらで己の閲覧したサイトなどを確認できているのかも知れないが、だからといって文句を言いはしない。

 男である己の性欲や知識欲については同じく男である父はよく知っていることだろう。アダルトサイトを見たか見ていないかなどといった討論はこの歳ともなれば今更である。きっと父はずっと前から把握していたことであろうし、母には成人向けの雑誌や漫画を見つけられたこともあって、その点については開き直ってしまっている。

 デスクトップの画面からブラウザを立ち上げて、己はお気に入りに登録しているサイトへと虱潰しのように訪れて行く。それはニュースサイトであったりゲームや漫画の発売日を載せているサイトであったり、はたまたレビューや攻略サイトであったりするのだが、全てに共通して言えるのは、どれもこれも一度訪れただけでは終わらないということ。

 嘘だと思うだろうが、一日に十数回はお気に入りに登録したサイトをブラウザに映す。頭の回らない馬鹿な脳をしているのか、己は「満足した」という感覚をここ数年、一度足りとも感じていない。勿論それは、普段の暮らしでは絶対に得られることがなかっただろう情報を得られたことに対する満足感が「無い」ということになるのだが、同時に人生における充足感の不足を表しているように思える。己は人生を満喫できていない、どこかに不満を感じている。だからそれを埋めるために外に頼る。外の情報源足り得るインターネットに頼る。けれど飢餓にも似た不足感がずっと付き纏う。誤魔化し、振り払うように何度も何度も情報を得ようと試みる。それがずっと連鎖する。

 なんにしたって、くだらない。内に内にと籠もる己のことを表すのはその言葉だけで充分なのだ。

 己にはなんにも無い。友人は辛うじて居るが、それ以外については本当に、なんにも無い。これは虚無感ではなく、虚無である。

 人生は誰もが同じ道を進んでいるわけではない。そのことについては前々から悟っていたことで、諭されたことであるが、前夜の再会が己に改めて思い知らしてくれた。

「死ねよ、苦労しろよ」

 初恋の女性には苦労しろと願い、彼女を抱いた男には死んでしまえと呪いの言葉を吐き捨てている。

 他人の不幸を切に祈っている。

 それだけで分かるだろう。己は卑しく意地汚い人間である、と。



 火曜日と違い、水曜日は怠惰に過ごすことができない。バイト先のコンビニに行き、バックヤードで制服を着て、タイムカードを切る。とはいえ、シフトは午後四時からであるため、朝早くに忙しなく準備をし、出勤するサラリーマン達とは比べるまでもなく、気楽だ。担っている責任の重さも違う。だが、己の脆い精神力では、コンビニでアルバイトをする程度の責任感が精一杯である。それ以上の責任を担うことは、想像すらできない。

 己の魂がいついかなるときに宿されたかは分からないが、ともかくも己はこの世に産まれ落ちた。人はなにかを為すために産まれ出る、と語る人は幾らでも居る。しかし肝心な“なにか”を教えてくれる人は誰一人として居ない。だからこそ己はその言葉がメッキでできていると、幼少の頃より思っていた。

 バイトの時間は自然と意識が記憶を漁る。混雑する時間帯は考え事すらできないが、暇な時はとにかく暇なのがコンビニのバイトだ。想い出には浸りたくないが、後ろ向きな己には空いた時間の、まさしく暇潰しは過去との邂逅しかない。過去を振り返ることを良しとしないのに、こういうときばかりは過去が首をもたげて、己を魅了する。

 再会を果たした初恋の女性――初恋の少女との出会いは小学校四年生の頃だった。当初はこれほど胸に残るとも思っていなかった。それほど、彼女はどうでも良い相手だったのだ。

 キッカケは憶えていない。しかし、どうでも良い相手が突如として、己の心のほとんどを支配する異常な相手へと変貌を遂げたのは小学校四年生の頃からだとはっきりと言い切れる。そのときに、己は恋に落ちるとはこのことかと思ったためだ。そういった思考に至ったことは憶えているのに、好きになった理由は判然としない。これは実に不思議なことだ。けれど、幼少の頃の色恋など憶えるに値しないことだと脳が判断したのなら、それはきっと本当に憶えなくてもよい理由だったのだろう。さすがに藻屑に消えた記憶の欠片を探しに行けるほどの暇は与えられていない。

 商品の確認、レジ係、バックヤードでの作業、そして店内の掃除。コンビニでのアルバイトは雑務を全てこなす。取り扱っている商品が多岐に渡るためだが、スーパーなどの大型店舗ともなれば、その作業量は恐らく想像も付かないだろう。働くことを楽しめる人間でなければ、そんなところでは務めることができない。己は特に働きたくないという強い意思があって、ギリギリ一杯がこのコンビニでのアルバイトなのだ。就職活動に失敗したことも要因であるが、就職活動をしている間も、働きたくないとは常々に思っていた。そんな思いが面接や事前テストなどで露呈して落とされていたのかも知れない。

 こんな己が、初恋の女性と釣り合えるわけがない。彼女は一体どのような道を歩いて来たのだろうか。どうすればあのように自信を持って、人生を謳歌することができるようになるのだろうか。己が残している記憶の中では、さほど彼女は皆を引っ張って行くようなリーダーシップを発揮する方では無かった。どちらかと言えば控えめな、おっとりとした雰囲気があった。全ては己の所感でしかなく、ひょっとすると彼女の中には黒い内容物が蠢いていたのかも知れないし、そういった黒いものがあってこそ己が中学生の頃にやってしまったストーカー紛いの行動の数々も飲み干せたのだとすれば、己はとんでもない悪女に引っ掛かりそうになっていたのだ。ただ、そうして初恋の女性を悪女などと貶めようと試みても、未だ尚、心は「あり得ない」と答える。ただし、己は外面しか知ることができなかった。外面を見てでしか判断できない断言である。内気で人見知りな己にできることは、不器用なコミュニケーションと、形では表せない優しさしかなかったのだ。

 彼女が知っていたかそれとも知っていなかったか。過ぎ去った今では、全てが遅い。今、確認したところで彼女は結婚するのだから、なにも変わらない。それは恋愛の頂点にして更なる挑戦だ。独り身の方が気楽に生きられるなどと考えていながらも、生涯を共にすることができることへの羨望は燻り続けている。結婚後、離婚するしないは問題ではない。結婚したいと思えるほどに、全てを委ねてしまいたい異性の、そして意中の相手が存在する、存在していたという事実こそが己にとっては最大の羨望の的である。

 己は疑心暗鬼の塊である。よって、そのような想いを抱いたことは一度しかない。初恋の少女にしか感じたことがない。しかしこの想いは廃棄しなければならなくなった。抱き続けていれば腐臭が漂う。ただでさえ負け犬の臭いの扱いに困っているというのに、これ以上、悪臭を得るわけには行かない。

 消えて行け。色鮮やかな想い出を、セピア色に塗り替えて行く。パソコンのゴミ箱へファイルを送り、そしてゴミ箱を空にする。そんなイメージを作り上げ、思い浮かぶこと全てに「消えろ消えろ」と独り言を吐く。それは勿論、誰にも聞こえないほどに小さな恨み節である。

「困るんだよね、あれ」

 店内を清掃している最中、店長がレジで客の来訪を待ちながら、愚痴を零した。

 あれ、とは現在、コンビニの入り口を占拠している女子高校生のことだ。毎週水曜日、午後五時半過ぎに五人の女子高校生がやって来る。店内では立ち読みをし、菓子類や気に入った雑誌を購入すると、必ず入り口でたむろする。購入した雑誌を読み合うこともあれば、菓子類が無くなるまでそこで喋り続けることもあるが、共通して言えることは店側としてはすぐさま立ち退いてもらいたいということだ。コンビニにとって夕方は人が混み入りやすく、忙しい。けれど彼女たちが入り口でたむろしていると、訪れるはずの客が訪れない。コンビニは幾らでもある。そういった結論に至って、忌避されてしまう。だから半年ほど、この店の毎週水曜日は売り上げが悪い。店長の言うこと全てを信じるわけではないが、実際、忙しいはずのこの時間に考える余地があるのだから、なにかしら店側としては不本意な状態であるはずだ。

「君が悪いんだよ」

「は、ぁ……?」

「半年前、彼女たちの相手をしたのは君でしょ?」

「……でしたっけ?」

 そうでしたっけと言いたかったが、気怠さと面倒くささが相まって、ぼやくようにしか言葉が出せなかった。

「困るんだよなぁ。お客の良い悪いはちゃんと見極めてもらわないと」

 こんなことを言っているが、要するに店長は責任を己に押し付けたいのだ。彼女たちに立ち退いてもらいたいのに、それを言い出せずに己に文句を言う。半年前に入り口でたむろしている女子高校生の相手をしたかどうかなど記憶に無い。きっと店長だってそうに違いない。客の顔なんて一々覚えていられない。特徴的な、周期的な相手であれば自ずと覚えるが、いつ頃から来るようになったかは把握できない。気になりだした頃が、記憶に残り出す頃と重なるというのが自論だ。

 だから、店長のそれは勝手な決め付けであり憶測に過ぎないのだ。ともかくも、毎週水曜日に必ず訪れる五人の女子高校生。彼女たちをこの店舗に招いた張本人が自分ではないと主張したいのだ。自らの虚栄心を必死に守ろうとするその様は、己が抱くコンプレックスを押し隠そうとする態度と酷く似ていて、吐き気すら伴うほどの気持ち悪さがあった。

 けれど、店長からは負け犬の臭いがしないのだ。その臭いの大元は常に己自身にしかない。

「追い払ってくれない?」

 店長はさらりと難しいことを言う。ただし、それはイヤミや己に対する醜悪なまでのイジメとは異なる。純粋なこの店舗を預かっている側の視点からの命令だ。そうしてまた自分を安全な位置に持って行こうとする。不愉快なまでに己と似ている。自己保身の精神はひょっとすると誰にでも宿っており、誰しも似通っているものなのか。

「俺が、ですか?」

「君、嫌われても大丈夫そうじゃん」

 これは悪意だ。その違いはすぐに分かる。だからこそ反射的に暴力に打って出ようとまで考えてしまうほど、胸中に反感が満たされて行く。

 いつもはバックヤードで「高校生とヤりてー」だの「若いと肌も柔らかいんだよな」だのとバイトで雇った男と交わしていたはずなのに、どうして彼女たちを追い払う役目を己に求めるのだ。

 個人は集団に弱く、集団は個人に強い。その力関係は絶対的で、覆らない。それは分かる。が、店長が力関係に屈した、と己は決して捉えたくはない。嫌われ役を己に押し付けるのは、今後に活かすためであり、次に彼女たちが来店するようなことがあったならば、己をダシに口説こうと試みるためなのではないか。そう思えて仕方が無い。

 だが、これらは全て己の被害妄想が作り上げた文句でしかない。実際のところ、店長が客を口説こうとした様子を見たことは一度だって無く、あったとしてもバイトの女子高校生だけなのだ。よって、このように捉え考え、妄想を劇化させるのは己が本能的に「嫌だ」と思っているからだろう。

 世間は冷たく、窮屈だ。店長は己に責任を押し付けられるが、己は押し付けられるものがない。だから、こういうときはいつだって世界の悪口を言うことしかできない。

「……っすか?」

 俺っすか? と言ったつもりだが、届いていないらしく店長はずっと己の方を見ている。

「やっぱり無理?」

「……じゃないです」

 無理じゃないです。己はボソリと呟き、伝えられたかも分からないそのことを実行に移すために、バックヤードに掃除用具を戻したのち、店の外でたむろしている女子高校生の元に行く。

「あの、来店の邪魔になりますので、場所を移してもらえませんか?」

 恥ずかしいことだが、己は敬語をよく知らない。尊敬語、丁寧語、謙譲語の概念は知っていてもそれを上手く扱えない。だから決して敬語と言い切れない言葉を用いたと思う。そもそも、年下に敬語を遣う理由もあるのかどうか怪しいのだが。

 己はコミュニケーションを重視しない。企業は揃ってコミュニケーション能力を第一に挙げるが、悲しいことに昔から己には備わっていない。再三に渡って述べて来たことであるが、このときにおいては、それそのものを用いなくて済む。なにせ、彼女たちに嫌われたところで己の人生で汚点になるようなことが一切無い。内気で人見知りで、空気を読みすぎる己にとっては、これは実に好都合なことだ。

 無関係であると、関係性を紡がなくて済むと思えば、己は機械になれる。むしろ機械であったならばと思ったことがある。本当の意味での無意識を抱いた存在であったなら、こんな苦労はせずに済んだのだ。

 五人の女子高校生は表面上、当たり障りのない顔を作り、続いてゆっくりとその場から離れる。己はそれを見届けて踵を返す。すると、聞こえる声量で陰口が飛ぶ。

 キモい、ウザい、死ね。見慣れ、聞き慣れた言葉には堪えない。そのような罵る言葉しか知らない低脳な連中だと断定してしまえば、心は決して痛まない。

 彼女たちは、成長するに連れて自身の言葉の虚しさと、そして他者から浴びせられる罵声のボキャブラリーの多さを徐々に思い知ることになるだろう。罵る側が罵られたとき、一番に心が砕けやすい。それは観点の差であって、主観的か客観的かの違いしかない。当事者であるか第三者的観点であるか、たったそれだけで人の心は分かりやすいほどに変貌する。 

「消えろ、ウザい、ウザいウザいウザい」

 店内に戻る最中、己は誰にも聞こえない声量でぼやく。心は決して痛まないが、しかし彼女たちを嫌悪する気持ちが一切湧き上がって来ないわけではない。だからこそ、悪辣に零して消し去る。頭の中をそんな不快なものだけで満たしたくはない。

 ただでさえ満足感が不足しているのに、不快感がそこに入って来るなど、考えたくも無いことではないか。

「君でも、あんな風に注意できるんだ?」

 前半部がよけいだ。普通に「あんな風に注意できるんだ?」だけで良いはずだ。だから、これは悪意のあるイヤミだ。

「っ……すね」

 けれど己はそのことを口にせず、ぼやいて答える。店長は己を見て、大きな溜め息をついたが五人の女子高校生が立ち退いたおかげか、客が入って来たため、すぐさまレジの仕事に取り掛かった。己はその様を横目に見て、バックヤードに戻って清掃作業に戻ろうかとも思ったが、混み入って来たため、仕方無くもう一方のレジを開けて、レジ係を手伝う。店長にはレジ打ちが遅いことを言われていたのだが、今日のシフトは六時まで二人切りであるから、やりたくないがやらなければならない。きっとこのあとも、レジ打ちの遅さを指摘されるのだとしても、仕事怠慢に捉えられて半強制的な解雇だけはされたくない。

「臭いますね」

 己の思考は停止する。しかし体は義務的に動き、バーコードリーダーで商品を読み取らせていた。

「幾らですか?」

 続けて浴びせられた言葉は、催促だった。幸いにも己のレジに並んでいる客は、この目の前で財布から小銭を今か今かと出そうとしている女性だけで、停止した思考を再起動させる時間だけは与えられていた。

「……二百十円になります」

 声をどうにか発し、平静を装うものの、全身からは嫌な汗が噴き出していた。

「じゃ、丁度でお願いします」

 百円玉二枚と十円玉一枚を出す。その仕草を、無意味に見つめていた。

「あの、聞いてますか?」

 我に返り、女性の発している言葉の意図を理解する。お金を受け取り、レシートを発行すると共に商品をビニール袋に入れる。

「シールだけで結構です」

「あ、はい。ありがとうございます」

 己は入れようとしていた商品――ラムネ菓子にコンビニのシールを貼り付けて、レシートと合わせて女性に手渡した。

「これ、負け犬の臭いですか?」

 女性は再度、臭いについて己に答えを求めて来た。しかし、やはり思考は停止して返答することもできずに立ち尽くす。そんな棒立ちの己をしばし見つめた女性は、「ふぅ」と嘆息したのち、店の外に出て行った。

「……あ」

 喉が渇いていた。呼吸も忘れていたのか、息苦しい。

「ちょっと店の外に出ます」

 レジでの業務が一通り落ち着いたし、もうすぐ六時になってバイトが増える。そういったことは一切話さず、そして店長が肯く前に己は店の外へと飛び出していた。

「こんにちは」

 左右を確認するまでもなく、出てすぐの歩道に女性は立っていた。

「……あれ? こんばんは、じゃないと駄目な方ですか?」

 時間の概念に小うるさい男なのかという問いだと受け取る。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」を適切な時間に適切なタイミングで用いなければ不快に受け取り、不機嫌になるような性質であるかどうか。

「こん、ばんは」

 しかし己はそれについては答えられなかった。恐らく、呆気に取られていた。コンビニを出てすぐの歩道で、女性はまるで己が外に出て来るのを知っていたかのように待ち構えていた。迷いもなく己に話し掛け、且つコミュニケーションを試みようとする彼女の全てに、己は呆然とすることしかできなかったのだ。

「どっちかなーと思っていたんですけど、あなたの方でした」

「なに……が、ですか?」

 女性の容姿から年齢を想定できない。これは彼女限定というわけではなく、普段から女性との接点が疎い己は極めて分かりやすい特徴が無ければ己は女性の年齢を推察するのが酷く苦手なのだ。五人の女子高校生を、女子高校生であると認識できたのも制服を着ていたからだ。私服であったなら、己はきっと中学生か高校生か、はたまた大学生であるかはきっと判別できていなかった。

 だから彼女の年齢が分からない。年齢をまず確認しようと試みるのは、年功序列に縛られた精神がもたらしたもので、拙い敬語を遣うべき相手か、形だけでも敬わなければならない相手かどうかを調べるためだ。

「その臭い」

「なんのことですか?」

「とぼけないでください。負け犬の臭いですよ」

 ぞわりと背筋が凍った。この女性は、己の内側から放出されている臭いに勘付いている。勘付いているどころか、表現までそっくりそのままなのだ。己にしか分からない負け犬の雰囲気、敗者のオーラ。そういったものを今の今まで「臭い」で喩えて来たわけだが、それに共感を覚える人物の出現に、己は動揺するほかなかった。

「それはなにか……俺を馬鹿にしているとか、そういうの、ですか?」

「いいえ、そんな気はありませんよ」

 女性は朗らかに笑うが、その笑みの向こう側に己はもっとどす黒いモノを垣間見た。この女性は、心で笑っていない。もしも笑っているのだとすれば、それは相手を見下すときに使う嘲笑だろう。

「ほら、分かりませんか? 私も、臭っているはずだと思いますけど」

 女性はまるで己に嗅いで欲しいかのように、その長い黒髪を手で梳いて見せた。

 己は己自身の右手の甲を嗅ぐ。続いて、彼女が漂わせたそれを鼻に吸い込んだ。これは喩えであって、事実ではない。実際の臭いを嗅いだわけでは決してなく、ただ己から、そして彼女から放出されている雰囲気を読み取っただけである。それを「臭い」と喩えるのはきっと、この世で己だけだったはずだ。

 つい先ほどまでは、己ただ一人であったと、確信していたのだが。

「くさいでしょう?」

「……くさい」

「良かった」

 恐らくは女性に向けるべきではない言葉の一つに含有される「くさい」に対して、彼女は「良かった」と言ってみせた。わけが分からない。己には女性の真意を読み取ることができない。

「ここで、何時まで働いているんですか?」

「なんでそんなことを訊ねるんですか?」

「終わるまで待っていようかなーと、思いまして」

 脳内を疑問符が支配する。あらゆる理由を思い浮かべ、あらゆる可能性を想像するが、どれもこれも現実味を帯びない。彼女に己と接して、なんの得があるのだろうか。それを大前提として構成させているせいなのか。しかし、それを取り払ってしまえば、己は更に混乱する。

 なんの脈絡も無く、なんの関係性も無く、なんのしがらみも無い女性がどうして己に話し掛けるのか。

 人生にヒロイック性を求めたことは未だかつて無い。というよりも、そういった夢見る歳ではもう無いのだ。夢ではなく己は常に現実を見続けなければならない。

 劇的に人生を変えるような出来事などありはしない。それらは全て幻想であり、空想の中の産物だ。灰かぶりが王子に拾われたのは、そうした方が物語としては綺麗に纏まるからだ。グリム童話は綺麗な部分だけを見ればどれもこれも夢みたいなことが描かれているが、汚い部分は包み隠されている。汚い部分を包み隠そうとするのは、それが現実であるからだ。現実を見させず、夢を見させる童話は非現実性に努めなければならない。

 故に、己の人生はヒロイックサーガでは決して無い。夢みたいな話はもう終わり、現実に打ちのめされている己にもう転機は無い。

 この女性との出会いを運命的な出会いなどとは捉えない。彼女が己になにかしらの変化を与えてくれるのではなどという期待もしない。

「帰ってください。業務の妨げになりますので」

「でしたら、お名前は?」

「ネームプレートでご確認ください」

「綿貫……しろやなぎ? 綿貫、なにさんですか?」

 ネームプレートには苗字だけで名前が明記されていない。だからといって、彼女に名前までわざわざ晒す必要性は感じない。

「訊いているんですか、綿貫さん? 負け犬同士、仲良くしましょうよ」

「ふざけるな!」

 負け犬であることは知っている。分かっている。しかし、そのことを誰よりも他人に言われることが腹立たしい。己は己が思っていた以上の衝動によっって、大きな怒鳴り声を上げていた。

「わ、怒った。事実を言われて怒るなんて、心の狭い人間ですね」

 己の怒気は、彼女に伝わっている。しかし、それほど強くは伝わっていない。己がどれほど激昂したところで、きっと伝わらない。

 彼女は己の感情を読み取ることを放棄している。目に生気は無く、見つめられていても見つめられていると受け取りにくい。

 果たして、己を見ているのだろうか。己の向こう側にある虚空を見つめているだけなのではないか。

 なにせ本当に、彼女から放出されている雰囲気からは己を慮るような意識は一切見当たらなかった。だから負け犬であるとも受け取れる。空気の読めない女性は扱いにくく、同性であっても嫌われる。異性のことはよく分からないが、同性でも空気の読めない人物は嫌われる傾向にあることからそう推察した。

「あなたは、なんなんですか?」

「それを言うあなたこそ、なんなんですか? そんなくっさい臭いを漂わせて――腐敗臭にも近いそんなものを漂わせて、本当に生きているんですか?」

「同じ臭いを漂わせている人には言われたくありません」

 しばし、相手を罵るような応酬が続くが、女性は思い立ったように己の左胸に手を当てて来た。それはボディタッチだとか、過剰なスキンシップがもたらすものではなく、ただの純粋なる生命に対する確認行為だった。

「心臓の音、しっかり鳴っていますね。そんな腐った臭いを漂わせながらも、やっぱり生きているんですね」

 己の鼓動を確かめたのち、女性は艶やかな笑みを浮かべた。それは先ほど見せた、どす黒いモノを押し隠した、見た目朗らかにしか見えない笑みとは打って変わった、完全なる内側を晒した笑顔だった。だからこそ己は艶美に受け取ったのだし、その笑顔に言葉を失ってしまった。

「私も一応生きていますけど、確認します?」

 彼女は己の手を、左胸に当ててみろと言わんばかりにその慎ましやかな胸元を強調して来るが、異性の胸にそう易々と触る勇気も無く、己は首を横に振って答えとした。

「なんで生きているんですか?」

「生きていたいから」

「こんな、負け犬の臭いを放出しながらですか?」

「それでも、生きていたいから」

「死にたいって思ったこと、ありませんか?」

「こんな自分は死んでしまえと思ったことはあっても、死にたいと思ったことはあっても、本当に死のうと思ったことはない。生きていたいから」

 己はなにも、この女性を信用したわけではない。けれど、彼女は臭いを共有できる相手であったし、生気の込められていない眼差しには見透かされてしまっているような気配すら感じられて、気付けば己は偏屈な答えなど一切無い、生への執着心を露わにしていた。

 いつ死んでも構わない路傍に転がる石のような人生を送っている。けれど、何故か「生きていたい」と願う。死という概念に憧れを抱かない。むしろ忌避している。生死の二つの内、どちらかを選べと言うのなら、己はやはり生を選ぶ。

「生きていたって、なんにも良いことなんてないじゃないですか。負け犬の人生なんて送っていたって、楽しいと思うことなんてないでしょ? それなのに、生きていたいんですか?」

「だって、生きているから」

 勿体無い。己という精神を得て、己という概念を得て、己という存在を構成する体を持っている。どれか一つでも欠けたなら、己は己という意思を得ることは無かっただろう。

 偶然の産物が己なのだから、それを二十四年という月日だけで捨て去るのは勿体無い。

 これで己は堂々と生への執着心を語ったのだから、笑い者だ。

「……時間、何時に終わりますか?」

「答えられない」

 問答していると、気付けば己は稚拙な敬語を捨てていた。こうも簡単に剥げ落ちる敬語を、普段から用いていると思うと、寒気がする。無理をして遣い続けると、逆に不躾な態度になる。だから、もう彼女を前にして敬語を用いることは諦めた。

「私と一緒なのに、それでも……生きていたいんですか?」

「生きていたい。つまらなくて、くだらなくて、笑い話にされそうな、馬鹿にされて見下されてしまう人生なのだとしても、俺は卑しくも生きていたい」

 彼女と己は違う。臭いを嗅ぎ分けられるのだとしても、その人生が同一であるわけではない。

「前向きなんですね」

「後ろ向きだ。後悔しながら生きている。他人を恨みながら生きている。想像もできないほどの呪いの言葉を吐き捨てながら、生きている」

 後悔しようが恨もうが呪おうが、生者である以上は勿体無い。苦痛を苦痛と思わないわけではないが、苦しくとも生者なのだから仕方が無い。かと言って、死者にはなりたくない。

 死にたくないほどに、生きていたい。

 女性は己の発言を理解できないかのように、表情を歪ませて、更には歯軋りすらも立てて、己を積年の恨みを持った対象であるかのように睨み付けていた。けれど瞳には生気が無く、その睨みに覇気は露ほども込められていない。怖くもなんともないその目付きに、己は淡々と見つめ返していた。

「お願いします。仕事の終わる時間を教えてください」

「仕事じゃなくてバイト」

 発言に間違いがあったので、訂正する。

「……今日は九時上がり」

「待っていますから」

「どうぞご自由に」

「待って、いますから」

 女性はコンビニすぐ傍の壁にもたれ掛かり、項垂れたのち力無く地べたに座り込んでしまった。傍目から見れば、気味が悪い。長い黒髪も気味悪さに拍車を掛ける。一時期流行になった貞子のようだ。

 貞子……幽霊か。

 ひょっとすると、彼女は己にしか見えていない霊の類なのかも知れない。そう考えてしまえば後ろ髪を引かれるようなこともない。色々な意味で窮屈な業務に戻る前に背伸びをした。

 店内に戻ると、店長が有無を言わさず己を叱咤した。そこに六時からシフトを入れているバイトの男が現れたことで、店長の怒りは鎮まった。やはり、衝動に駆られて体を動かすと碌なことがない。今度からは本能に頼らず、理性を保つことを重視しよう。

「外で誰と話していたの?」

 仕事の合間、ほんの僅かな一時に店長が己に問う。

「や……別、に……」

「ああいう子に構うと、きっと疲れるよ。見た感じ、ヤバいね。関わらない方が良い」

 女性が幽霊という可能性は店長の物言いで否定されてしまった。

 けれど、心なしか安心していたのはきっと気のせいだろう。

 バイトが一人増えたことで店長から愚痴を聞かされることも少なくなり、客の波もあれ以上のものはなく、平凡に時間が過ぎて行った。取り上げるべきことと言えば、午後八時頃からパラパラと雨が降り出したことぐらいだ。外出する際には晴れだろうと雨だろうと折り畳み傘を鞄に入れているので、己にとってはさしたる問題ともならないが、この雨ならばきっとあの女性も待ち続けることもできずにどこかへと姿を消しているはずだ。

 午後九時になり、己は店長に上がりを告げて、バックヤードの更衣室で着替えを済ましたのちタイムカードを切ってコンビニをあとにした。外に出てから、「お疲れ様でした」と挨拶するのを忘れていたことに気付く。あの店長に己を批判する材料を与えさせてしまった。が、愚痴や文句を言われることはそれこそいつものことなので、今更、店内に戻って「お疲れ様」を言う気力は湧いて来ない。言っても言わなくても、当たりはキツいのは常だ。

 息を吸って、吐いて、そして一歩を踏み出したところで己は全身を引いて口から「ひぃっ」と小さく悲鳴を漏らした。

 女性は待っていた。それも、己が最後に確認したところでずっと待っていた。項垂れて、力無く壁に寄り掛かり、地べたに座り込んだそのままで居た。己の見ていないところで足を組み替えたり、どこかしらに出掛けていたのかも知れないが、数ミリの差も無い形で同じところに女性は座り込んで、待っていた。

 これは恐怖だ。己は心霊現象など体感したことは無いが、そういった霊感を持ち得る人間はきっとこのような恐怖を覚えることが多々あるのだろうと思うと、テレビなどに出て来る霊能者のことも笑えなくなってしまう。

 怖い。なによりも怖い。己は自然現象よりも人間そのものが持つ存在感を怖れていた。内気や人見知りなど関係無く、万人が感じ得る恐怖がそこにはあった。

 雨で濡れた黒髪はコンビニの照明を浴びて眩しい。が、濡れているのはなにも髪の毛だけに留まらず、彼女は全身がずぶ濡れだった。ただ長い黒髪が特徴的に映えているだけであって、雨に打たれていたことを隠せているわけではない。

「あ、お疲れ様です」

 女性は顔を上げ、恐れ戦いている己に生気の込められていない視線を向けると、小さな会釈と共に、さも当然のことのように挨拶をした。

 殺されるのではないか。

 店長との会話で、この女性は生命を宿す人間であることは証明されている。だが、それで己が殺されるかどうかの確率が変動したわけではない。それはもはや心霊現象によって成されるが、人の手によって果たされるかの違いだけだ。

 少なくとも、彼女の瞳に魅入ること数秒の間、己は生命の危機を感じていた。

「待って、いた?」

「待つって、言いませんでした?」

 だから雨を避けようともせずに、待ち続けていたと? 彼女はただそれだけを淡々と、こなしていたのだと言いたいらしい。

 己が業務に追われ、店長に叱咤されていた時間、彼女はただ待っていた。

 出会ったのは午後六時に入る直前。となれば、三時間彼女はここに居た。ここで、己を待っていた。

 己はその事実に震え上がっていた。開こうとしていた折り畳み傘を落とし、拾うことにも悪戦苦闘するほどに、心の震えはそのまま全身に至っていた。

 今すぐここから走り出すべきだ。ここから逃げ出して、近くの交番に駆け込むべきだ。本能が危険信号のランプを点けて、己にそう告げている。

 しかし、三時間ほど前の本能に従ったことによる失敗を経ているために、ここで本能に従うことに抵抗があった。無論、失敗とはこの女性を店の外まで追い掛けたことだ。奇しくも己は、二度目の本能的な行動を取るべきかどうかの選択を、またしても彼女を取り巻く状況によって迫られていた。

 理性が「待て」と言う。話せば分かるかも知れないと語る。

 なにを馬鹿なことを言っているのだ、とまた別の理性が顔をもたげる。己は話すことに関してだけ言えば、殊に苦手であるじゃないか。そんな話下手な己が、彼女と話して分かり合えるわけがないではないか、と。

「あ、さては私の濡れた服から透ける下着を覗いていましたねっ!? ほんと、綿貫さんはエッチな人なんですから」

「なんだ、お前。気持ち悪い、気味が悪い、やめろ話すなこっちを見るな、語り掛けるな動くんじゃない」

 友好的な、怖ろしいほどに好意的な、けれど己のことを知ったような言い草に耐え切れずに恐怖が零れ出る。

 そんな仲じゃないだろう? 三時間前に会っただけだ。ただ三時間前に己が追い掛けて、彼女が「待つ」と言っただけの関係性であり、己は彼女の名前も知らないし、彼女は己の苗字しか知らない。人間性を見る機会は無かったはずだ。

 負け犬の臭いを嗅ぎ分けることができる者同士ってだけで、腹を割って話せるほどの関係を築いた記憶は毛頭無い。

「あー図星なんですねーっ?! まぁ別に、綿貫さんになら見られても良いんですけど」

「立ち上がるな、動くな、近付くな。喋るな……俺の前からさっさと居なくなれ」

 ひふふ、と。崩れた笑い声が己に向けられた。

「負け犬は罵りに強いんですよ? 綿貫さんも知っていることじゃないですか」

「知らない。俺は知らない。俺は負け犬でも、罵られることに耐えられるわけじゃない」

「なら、女子高校生を追い払えたのはどうしてですか?」

「あれは」

 ぬるり、と。

 滑らかに、ヌメリを帯びたなにかのように女性は己の懐に滑り込む。自然ではなく、あまりにも不自然な自意識の領域に侵入されても、何故か己は声を上げることができなかった。

「死ね、キモい、ウザい。言われたって、気にも留めていないじゃないですか。それって、負け犬特有の、罵声に強い一面ですよね?」

「あいつらと俺はなんにも関わらない。なにを言われたって、そんなものは人生を知らない奴らの話すことだ」

「じゃぁ、あなたはどうして私が、あなたの罵声に耐えられないと思うんですか?」

 言葉に詰まる。

 そう、おかしい。おかしいほどに己の理論が通用している。

 だって己と彼女の間には関わりというものが無い。無いのだから、彼女が己になにを言われたところで、罵声を浴びせられたところで、なんともないのは至極、己の理論であれば当然のことになってしまう。

 己が、ここで彼女を否定したところで、それもまた彼女には、はっきりと届かない。己が彼女を他人であると認識している以上、ここにあるべき関係性は皆無で、真意は伝わらない。

 己の「気持ち悪い」は彼女にとっては罵声であり、「気味が悪い」もまた罵りの一言だ。関わりの無い男の罵声など、気にも留めない。

 己が女子高校生の罵詈雑言に耐えられるように、彼女もまた己の言葉に耐えられる。そういう、心が死んでいる負け犬の人間だ。

「少し、落ち着こう」

「落ち着いていないのは、綿貫さんだけですよ?」

「なんなんだよ。なんで三時間も待っているんだよ」

「待ちたかったからです」

「雨も降っているのに?」

「待ちたかったからです」

「同じ場所で?」

「待ちたかったからです」

「なんで俺なんかを待っているんだよ」

「待ちたかったからです」

 彼女の心に、己の声は届かない。己の言葉は砂のように、彼女の心を通り抜けて行く。

「あなたを見つけられるなんて、思ってませんでした」

 まるで顔馴染みであるかのように迫られて、己は一歩後退する。この女は流砂のように己を捕まえ、更にはありもしない事実を作り出そうとしていた。なんとおぞましいことだろう。

 けれどその生気の無い瞳を、己はどこかで見たような、そんな気もしていた。

 思い出せは、しなかったけれど。

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