【プロローグから第一章まで】
【プロローグ 小石】
掃き溜めの臭いがする。くさいくさい、くさくて鼻がもげそうだ。
臭いの元は自分自身。体臭とかワキガとか、そういうことじゃない。
負け犬の臭い。人生の敗北者の臭い。それがずっと付き纏う。擦っても擦っても、体から抜け切らない。抜け落ちない。気付けば、右の手の甲を意味もなく左手で擦ることが癖になっていた。皮は捲れないが、擦ったところはずっと赤いままだ。
「レジ計算、いつになったら速くなる?」
客が来ず、ボーっとしていたところで店長に釘を刺された。柄の悪い店長ではない。極々普通の、どこにでも居るような責任感を持った人だ。だから、なのかそれとも己がまともに人と視線を交わすことのない根暗野郎だからか、己に対しての当たりは強い。そのくせ別の日のシフトに入っている女子高校生に対しては、露骨なほどに優しい。きっと、人間は得るものがなければ優しくなれないのだろう。己もまた、そうなのだから。
「あ……すいません」
しかし、そんなことを言えるほど己は豪胆な性質ではない。だからこそ媚びへつらって頭を下げるしかないのだ。たとえレジ打ちが言うほど遅くなくとも、だ。店長は会社でいうところの上司に当たる。上司に頭を上げられないのは、誰だって同じだろう。
意味もなく頭を下げることも多くなった。人は環境に順応する。つまり、己は無自覚のまま目上の人間と対等に話す度胸を失ったのだ。
そんなものは必要ない。この人生に、もうそんな度胸は不要なのだ。
理想の自分とは程遠いフリーターには、なるべくしてなったと思っている。根元が偏屈だ。元来が腐っている。だから負け犬の臭いが消えてくれない。こういった人間はどんな時代であれ等しく敗北者だ。
「あの……もうすぐ上がりなんで……変わってもらって、いっすか?」
己は時計の針を眺め、店長にボソボソと呟くように告げる。やや渋い顔をされたが、やがて大きな溜め息をつくと己を押し退けるようにして代わりにレジに立った。この悪態についてどうこう言うつもりはない。自身の身振り手振り素振り全てが、人として足りていないことは重々承知だ。だからといって、今更に直せるようなことでもない。一度、作られたキャラクター性は、いつまでも払拭されない。次の日に明るく振る舞ったところで、己の根本的な面にある「根暗」は店長の頭からは消え去らないだろう。
バックヤードに下がった己は、しばしそこにあったパイプ椅子に腰掛けて、やがて思い出したかのように制服から私服に着替え、アルバイト時間の証拠となるタイムカードを切って裏口からコンビニをあとにした。
時刻は午後十時過ぎ。深夜バイトの方が時給が良いのだが、夜はぐっすりと眠りたいという個人的な理由だけでシフトを入れていない。
春が過ぎ、梅雨前線が徐々に日本列島を舐めるように蠢き始めている。肌を障る風の温度が夏の気配を感じさせる。この時間帯になっても涼しさの欠片も感じられないのだから、今年の夏もきっと暑くなるのだろう。その前に梅雨特有のジメジメとした湿気が待っているのだと思うと、暗鬱とした気分になって、家に帰る足取りも重くなる。
父に「今の人生に満足しているか?」と問われたことがある。その答えに己は自信を持って「満足している」と答えることができた。こんなどうしようもない三男坊を文句も言わずに家に置いてくれているのだから、両親はとても寛容であるし、己自身にも不満は無い。これでどうして「満足していない」という返事ができると言うのか。
ただし、「悔やんでいるか?」と問われていれば己はきっと、「悔やんでいる」と即答していただろう。後悔しないように生きろとは親の教えであるが、人生を無駄遣いするなとは教えられて来なかった。そのためか、己は今も尚、怠惰に過ごしている。自らの環境に胡坐を掻いて、時折、生き様を省みることもあるのだが、なにかと理由を付けて今の現状を維持する。打破しようと思ったことはある。しかし、阻むようにそこに凛然と構えられている壁を打ち破るほどの勇気は無く、またそれを乗り越えようという強い精神力も持っていない。
己は酷く心の弱い人間であるため、まるで雁字搦めにされたかのように体は動いてはくれない。人生の転機と呼べるものがあったのならば、それは恐らく、常に努力し続けている者に訪れるだろうから、己の元に訪れることはきっと無いだろう。
しかし、人生に悲観しているわけではない。何度も言うようで、癇癪に触れるかも知れないが、己はこの人生を受け入れている。この怠惰で憐れな自分自身を、叱咤激励することもなく、ただただ、そうであることを受け入れている。これは、あるべき人生の享受の仕方でもある。
いや、これはただの皮肉だ。己が自身という存在を一番に理解しているのならば、現状を憂いて動き出しているはずだ。それなのに体がちっとも動こうとしないのは心が凍り付いてしまっているからだ。冷静や達観を通り越した諦観である。
突き詰めて言ってしまえば、己は自身を疎ましく思っているのだ。自殺願望にいつ繋がるとも分からない危うさで、己は生き恥を曝し続けている。人生において、出遅れた者は幸先良くスタートした者には追い付けない。近道をしようにも、己にはその近道を見つける能力が備わっていない。こんな自己を有していれば、誰であろうと疎ましく思うに決まっている。
おもむろに携帯電話を取り出して、己はバイト中に着信のあった番号に電話を掛ける。
『あー、創。さっき電話掛けたけど、なんで繋がらなかったんだ?』
聞き慣れた友人の声に安堵の息を零し、己は表情を緩ませる。
「バイトだったんだ」
『あれ、火木土日じゃなかったっけ?』
「シフトが変わって、月水金土になった。週四は相変わらず。あと、深夜に入れていないのも相変わらず」
『お疲れさん。週四で喰っていけんの?』
「実家暮らしだからな」
親の脛を齧って生きている。そのことについてはこの友人にも伝えている。少々、自虐的過ぎるが話してしまった方が気楽であることには変わりない。
「そっちはどう? 電話ってことはなにかあった?」
己は気心の知れた相手に対しては比較的、コミュニケーションを率先的に行う。人見知りに加えての疑心暗鬼の塊であるため、バイト先の店長やバイト仲間と呼ばれる連中とはコミュニケーションと呼べるものを展開させたことがない。それは己が公私を乖離させているからだ。バイト先では私情を挟まない。己にとって、あの場は生きるために必要な金稼ぎの場でしかなく、そこに友情や仲間意識を持って臨もうとは元々、考えていない。これがよけいに店長の鼻に突く言動に繋がっている。分かっている。けれど、当然の如く改めない。これが友人も交えるような場所であったなら、己の態度も変わっていただろう。
言い切ってしまえば、風見鶏である。己は他者に引っ張られる側であり、他者を引っ張る性能は有していない。いつだって友人におんぶに抱っこなのだ。
けれど、こうして今も友人関係を続けていられる相手は、そのことも全て踏まえた上で己を認めてくれている。恐らくは己の居ない場で陰口も叩くのだろうが、それは実際、誰にだってよくあることで、本人の前で明らかな態度を示さない限りは友情を崩壊させる要因にはなり得ない。
『また上司に愚痴られた。んで、珍しく残業が早めに済んだから、みんなで飲もうと思って』
「午後十時で、残業が早め?」
『会社を出たのは九時だけどな。営業は地獄だわ、ほんと』
「んー……まぁ、定職に就いているだけ良いだろ」
『いや、こんなに辛いならバイトでも良いかってなるわ。入社二年目でまだこれだぜ? 後輩には先輩として教えなきゃならないし、なのに上司からは仕事を押し付けられるしで、やってらんねぇ。大体、入社二年目の社員に新入社員の教育を一部任せる辺り、ブラックだわマジで』
しかしながら、この友達が就職した企業はそこまで悪辣に語られるほどのところではない。権威を行使したがる上司に、入ってすぐの他力本願な後輩。そして、たった一年の差で偉ぶる先輩。友人に関しては、偉ぶっているとは思いたくもないが。
「愚痴はそっちに着いてから聞くよ」
酒の力は偉大だと、ここ一、二年で己は知った。嫌なことも愚痴を聞くことも、酒さえあればなにもかもが苦しくない。溜め込んだものを吐き出せる物としては、惰性で生きている己にとって、これほど頼れる物も無い。悪酔いだけはすまいと思い生きてはいるが、己はまさに酒に溺れて全てを駄目にしてしまう側の人間であろう。
友人の家は、ここからだと三つほど先の駅の近くにある。己の家は徒歩で帰れる距離にあるのだが、帰宅することよりも友人と顔を合わせて飲むことを選んだ。『今日は遅くなる』と母にメールを送信し、その後に掛かって来るであろう電話に備えて電源を落とした。
己は決して裕福とは言い切れないが、ささやかに幸せを享受できる家庭に産まれた。家族間での笑いは絶えることがなく、経済的に困るような非常事態が起こったこともない。それは両親が堅実に生きてくれたからこその結果だ。幸せ過ぎず、不幸過ぎず。ただ極めて平凡で「幸せか不幸か」と問われれば「なんとなく幸せだ」と答える家庭の平均ではないだろうかと疑うくらいに普通で普遍で不変的な家庭で産まれた。
己が生きて来た中で、劇的な出来事と言えば小学六年生の頃、母親が過労で倒れたことぐらいだろうか。日々、何気ない会話の中で笑いを入れるような陽気な母が、病室のベッドで点滴を打たれて、弱った様子でこちらを眺めてくる様は、トラウマとして頭に刻み込まれている。以降、己は母が倒れないようにと気を遣うようになった。小学六年生にして勉学に目覚めたのである。傍目から見れば遅過ぎるが、勉強という勉強に手を付けることなく、宿題に関しても問題集に付いてくる解答集を片手に、さも一人でやったかのようにサラサラと終わらせることがほとんどであった己が勉強するようになったことは、家族には奇妙に思われたものだ。宿題でプリントなんてものが出ても、その全てに手を付けることはほとんど無く、そして学校で友人に答えを写させてもらうことが大半であり、いざそのことが先生にバレたなら、放出される豪胆な怒気に心底、震え上がっていた。そんな問題児が、突如として一人で黙々と勉強を始め、宿題に真剣に取り組み始めたのだから、奇妙に思うのも不思議では無い。
この頃の己も、今の己と同じく偏っていた。どこか目立ちたがり屋な面を持ち合わせていて、宿題を忘れて矢面に立たされることがあっても、心のどこかではみんなに見られていることが幸福であると思うような、そんな面倒くさい一面があった。これを偏屈と呼ぶのなら、今の己はそれすらも凌駕するほどの偏屈であるのだから、この頃はまだ問題児という表現が妥当であろう。
目立ちたがり屋、ではあった。しかし、目立ち方がいまいちズレていた。だから、それとは裏腹に友人の数はさして多くはなく、なによりも己は現在に至ってもまだ克服できていない人見知りであった。目立つことは嫌いではない。けれど、それを話の種にして話しかけてくる同級生をどこか毛嫌いしている面もあるという、厄介にも程があるほどの問題児だ。
だから、友人と呼べる友人は両手で数えられるほどだった。しかしながら、現在の己が友人と慕う者は、この頃の友人ではない。小学生、中学生と友情を育んで来た友人とは、全て縁を切った。切ったのか切らされたのか、切らざるを得なかったのか。そのときのことを回想するたびに考えるのであるが、やはり「切った」が妥当な表現だ。
友人と縁を切った高校生の頃のことなど、反吐が出るほどに汚泥に塗れた記憶である。けれど、己が一番に楽しかったと思い出す時期は、どうしてか縁を切ったはずの友人と仲睦まじく過ごしていた頃の小学校高学年から中学校三年生までの数年間なのだ。
おぼろげで、儚く、そしてセピア色に霞みつつある記憶の中から掻き出してみれば、怖ろしく鮮明に、色鮮やかに残っている。
ともすれば、それは岐路だったに違いない。己が今の己になるか、はたまた違う己となるか。そのとき、己がもっと真っ当な人間であったのなら、その頃の友人と縁を切ることなど決して無かったことだろう。
なにもかも過ぎた話だ。現在の自身を否定することはそのままアイデンティティの否定に繋がり、非常に精神面に大きな影響を与え得るため、選んだ人生以外のことは考えないようにしている。過去を省みることは後ろ向きであるが、生きている以上は前向きである。ポジティブかネガティブかとなれば、また話も違ってくるのだが。
駅の改札口を抜け、見慣れたホームで地元の電車が来るのを待つ。
地元にはしがらみがあり、人を弱くする。大人になればなるほどに、外の景色が見られなくなる。その地元のしがらみを良しとしてしまう。若い頃に思い立って地元から出なければ、いつまでもいつまでも定住してしまう。もうこの駅のホームは見飽きた光景だ。なのに、外の景色を見たいと思えない。己もまた、しがらみに魅せられた大人になってしまった。もはや、外界には出られない。
電車が駅のホームに滑り込む。この時間帯は降りる人の方が多い。ここが外界に出て行った者たちの帰る駅なのだ。それに比べて己はこの時間帯に外界とは真逆の、馴染みの町に行くための電車に乗る。内側に沈んでいる。戻れはしない。誰も己の手など掴まない。分かっている。
こればかりは理不尽とは思わない。納得できてしまう。現実とは、こうであるべきだ。ゲーム、小説、漫画にアニメ、そこで起こることが実際に起こることは無い。恋愛物、日常物では似たようなシチュエーションも起こるのだろうが、だからといってフィクション性のあるそれと同等の結果が得られるわけではない。
現実とは常に人を突き放す側でなければならない。実力も才能も無いのに叶えられもしない願望や夢を、見続けさせることの方が酷だ。「ここまでだ」と言える大人が近くに居ないのなら、そういった者を願望と夢から遠ざけさせる存在はもはや、現実しかない。
電車が停まる。ドアが開き、己が降りる。降りた客の数は先ほどよりも少ない。己はこの少数に属する者なのだ。何度も何度も確認して来た。何度も何度も嘘に違いないと思って来た。
けれど、変わらない。いつまでも変わらない。なにせ、己自身が変わらないことを無意識的に望んでしまっているのだから。
「嫌なことは全て忘れろ。くだらねー」
毒づいて、己は改札口を抜けた先に転がっていた小石を蹴飛ばした。
小石は停まっていた車に当たって、暗がりに消えて見えなくなった。
【第一章 路傍に転がる石】
友人宅は駅から徒歩で十分ほどのところにあって、大学生の頃より両親から離れて暮らしている。その頃は学生寮だったが今は賃貸の安アパートだ。防音にやや難があるらしいが、それは一軒家に暮らさなければ常に付いて回るものであって、友人曰く「難有りよりはマシ」とのことだ。どうやら、やや難がある程度ならば我慢できるらしい。一軒家の実家暮らしの上に一人暮らしすら経験をしたことのない己が住まえば、きっと一日も耐えられずに根を上げそうだ。
呼び鈴を鳴らし、扉が開かれるのを待つ。こんな時刻の来訪者ともなれば、不審がるのは当然のことなので多少、時間が掛かろうと気にはしない。
「よっ、す」
開け放たれていく扉が自己主張の強い異音を放つ。建て付けが悪いのは今日に始まったことではない。己はそれよりも、隙間から覗き出た友人の疲れ切った顔を見ると、安堵するよりも先に不安が込み上げた。
「大丈夫なのか?」
大学生の頃は周囲の雰囲気に流されて髪を茶色に染めていた友人だが、それも卒業式の日に見納めとなった。定職に就いてからは安易に染めることもできないのか、清々しいほどの黒髪だ。そして、柄に合わないチャラけた髪型もすっかりと落ち着いた営業マンのそれが定着しており、再会した当時に覚えた違和感は、もう消失してしまっている。が、さすがに顔色までは営業マンがするべきものではない。
「こんくらいはいつものことだから気にすんなよ。お前だって、ヤバめの顔をしてるからな?」
己の杞憂であれば良いが、友人の強がりであったのならと思うと不安は拭い去れない。だが、己を心配する余裕があるのだから、彼は本当にまだ大丈夫なのであろう。
「みんなは?」
「創がラスト。そんなわけでコンビニに買い出し決定」
「えー」
「嘘だよ。もう買ってるから。んで、お前はなにか持って来た?」
そう友人に問われて、己はつまみや酒類を購入するといった考えまで頭が回らなかったことを恥じて、答えることもできずに俯いてしまう。
「なら五百円ずつ俺たちにカンパな」
友人は己の反応を読み取り、強張っていた表情を破顔一笑させたのち、己を部屋に招き入れてくれた。
「千円札一枚と五百円玉一枚でどうにかなる?」
友人は己を含めなければ三人。よって五百円ずつカンパとなれば、合計で千五百円となる。普段から小銭を溢れさせるほど財布に入れている己であるが、こういうときに限って見繕えないことがある。
「飲みながら両替えとかするとアレだしなー。お前なら百円玉五枚は持ってそうだけど?」
「迷惑にならないなら、それで済ますけど」
友人は笑顔を崩さず、己の肩に優しく手を置いた。そんなことは気にするな。そういう意味だと受け取り、顔を綻ばせて己は靴を脱いだ。
「んでなー、上司をぶん殴りたくなったのは久し振りなんだよ」
「まだみんなに挨拶してないって」
己を呼び付けた友人――この安アパートの一室に賃貸契約を結んで暮らしている山城 裕也の性急過ぎる愚痴の放出に、己はささやかなツッコミを入れる。
「みんなと会う前に話し出しておかねーと、俺の愚痴が最初に発散されないだろ」
「酒飲みの場を提供してくれているから、山城から話すのが当然だと思ってるって」
己たちは雰囲気に弱く、空気を読み過ぎる。そういった性質の一致があったからこそ大学で意気投合できたと思っている。自己中心的に物事を考え、自分の発言こそが全てであるべきと考えるような者たちよりも稀有な存在だ。己も含めて計四人という少なさがそれを示している。
ただし、己と同等のネガティブさだけは友人たちも備えていない。コミュニティに溶け込む能力ばかりは己だけが欠落している。これを常々に思い、そしてコンプレックスとしているが未だに友人に語れたことは無い。しかし、きっとバレているだろう。
山城がカーテンを開き切り、己は居間に入る。このカーテンは山城がプライベート空間を来訪者に見られないようにするために備え付けたものだ。だが、己が来た時点で友人たちが揃っているのならば、もはや来訪者に応答するつもりもないのだろう。
「ちょっと来るのが遅かったな。もう先に飲んでんぞ」
「まだ一口だけだから安心して」
茶髪に伊達眼鏡の男が缶ビールを片手で持ち上げつつ胡坐を掻いてくつろいでいる。その隣で、朗らかに笑う好青年がグラスに注がれているビールをあおった。
「塚本は……メールでやり取りしてるよな。柊は、ほんと久し振り」
己は軽い会釈を交え、伊達眼鏡の男――塚本 赤彦の隣に腰を降ろして、荷物を固めて置いてある部屋の隅に放り投げた。そして己の隣に山城が座り、缶ビールの蓋を開けて、グラスに注ぎ入れたビールを己に手渡して来る。
「陽一は連絡しなさ過ぎてヤバい。死んでんじゃねぇのかって心配になるからな」
手に持っている缶ビールの残りを一気に飲み干して、山城は冗談混じりに言う。
「ほら、みんな働いているから、返信もなかなかできなくてさ。僕からメールをするのも、タイミングが悪かったらどうしようとか考えちゃって」
苦笑しつつ、朗らかな好青年――柊 陽一は答える。己以上に気が弱いが、清潔感のある雰囲気と中性的な顔立ちが特徴的だ。細身であり、体調の良い悪いの波が大きい。そんな虚弱な一面も持つが、アパレル関係の接客業で働いているのだから、大したものである。
「んで、いつ乾杯すんの? もう飲んじゃったけど、綿貫も来たことだしもう良いだろ?」
塚本は陽気で楽観的で、ストレスや不安などとは程遠い性格の持ち主だ。OA機器販売の営業担当であるが、その持ち前の性格でのらりくらりと人生を謳歌している。山城と同じ営業職であっても、どうやら塚本の方が営業としての適正は高いらしい。
「乾杯の音頭は山城だろ」
己は隣に座っている山城に視線を送る。
「んじゃ、久し振りのプライベートな飲み会を祝して、乾杯」
山城の掲げた缶に一、二を争うかのようにグラスと缶をぶつけ、そして己はビールを口の中に流し込んで行く。
「で、改めてどうよ? 仕事に忙殺される日々ってーのは」
塚本は快活な笑みを浮かべながら、山城に気兼ねなく訊ねる。顔色を見れば、仕事に疲れ切っていることは彼にも分かることなのだが、それでは内側に溜まっている愚痴が吐き出されることはない。吐き出すキッカケをすぐさま用意したのは、塚本の気遣いである。
「先輩や上司には、あれしろこれしろ言われて、後輩のミスで俺まで叱られて、マジでやってられないんだなこれが。ついでに俺が担当している後輩は、ちょっと周りより馬鹿だ。なんでこんなのができないの、ってことが多すぎる」
「山城君や塚本君の場合は職業柄、仕方無いことだけどね。それでも、聞いている限りだと頑張っていることに対する労いは欲しいなぁ」
柊は聞き上手だ。相手の言葉を上手く飲み込み、そして同情や励ましの言葉を掛ける。己はただ聞いて、そこに意見することぐらいしかできないのだから、彼の能力を羨ましく思う。
「だよなだよな。で、赤彦のところはどうだよ」
「あー後輩? 居るけど、もう三人くらい辞めた。俺のときも二人辞めたからな、まぁそんな感じ。ウチは先輩として教えることは教えるけど、後輩がそれを吸収できないなら切り捨てるみたいなところあるから。ヤベーよな。ネットで言うところのブラック企業っぽいところがあるんだぜ?」
「辞める理由って、人間関係が上手く行かないからとか、鬱になったからとか、そういうのだろ? 俺たち世代に忍耐力が無いのは分かるけど、じゃぁその忍耐力の無い俺たち世代を上手く扱う方法を年配の奴らは考えろっつーの」
山城と塚本が予想以上の速度でビールを飲むものだから、己はその速度に付いて行くことを早々に諦めた。己は酒の美味さを知っているが、決して酒豪ではない。ペースを考えなければ、唐突に記憶が吹っ飛ぶことぐらいは起こり得る。
「営業はコミュニケーション力が必須だから、無理してでも媚び売らなきゃならないから大変でしょ。僕なんかにも話術は必須だけど、営業で必要な話術とはそもそも方向性が違うから、上手く苦労を分かち合えないのが辛いところだけど」
「誰だって苦労してるってことだな。分かってんだけど、それで納得して良いのかって思っちまうのは、まだ学生気分が抜けてねぇからか」
そう言って、山城は大きな溜め息をついた。
「それでもみんな、就職はしているんだから、学生気分が抜けていないのは俺だけだよ」
己はビールをあおりながら、自らを言葉で虐げる。今、己に求められているのはこの自虐的な言動だ。己はこのグループの中でも最底辺で、これ以下など無いと友人に思われれば、幸いなのだ。
元からして最底辺に己は沈んでいた。そんな己に哀れみの手を差し伸べてくれた友人たちが、苦しみを紛らわせることができるのなら、幾らでも自身を痛め付けることができる。この思いだけは、縁を切った友人たちには抱いたこともない感情だ。
「あと、千五百円。五百円玉二枚と百円玉五枚だけど」
そして酒が回らない内に、財布から五百円ずつ硬貨を渡す。こればかりは記憶が曖昧にならないとも限らないのだから、しっかりと済ましておきたい。
「山城ー、今日は何時まで飲むんだ?」
「二時までなら飲めるぞ」
「あー……俺は電車利用だから午前回ったら帰ることになる、かな」
塚本と山城の気分を下げることにはなるけれど、己が帰るには電車利用は必須である。
「仕方無いよ。終電無くなったら、僕でも怖いもん」
己を除いた三人は、みんな揃って徒歩で帰れるところに家がある。山城以外は己と同じく実家暮らしだが、その実家自体が近いことはこういった集まりのときに強い。毎日のように集まれるほどの余暇が三人に与えられていればの話であるが……、無いだろう。同じ会社に務めていれば或いは可能なのかも知れないが、それぞれがバラバラの仕事に就いている。こうして集まれるのは、三ヶ月に一度あるか無いか。それも、誰か一人が欠けていることが多い。だから四人揃って集まれたのは、年月で表せば半年振りだろうか。
「創もどっか安アパートで暮らせば?」
「山城と毎日、仕事終わりに飲み明かしていそうだ」
なにより己は一人立ちというものができそうにない。家庭での必要不可欠なスキルをなに一つとして身に付けていないのだから、自ずと誰かに生殺与奪は握られる形となる。よって、誰かに支えられていなければ、なにもかもがままならないのだ。
己も友人たちも、各々のペースでビールの喉越しを味わいながら、菓子類をつまんでは愚痴や、なんの脈絡も無い話を展開させて行く。話のペースも、その切り替えも速い。それでも己は話に付いて行くことができ、友人たちも聞き直すような事態は起こらない。己たちにとっては、この速度が普通なのだ。むしろ、働いている場所での会話の速度は遅い。それは相手に言葉と真意の両方を伝えなければならないからだ。特に真意は伝わりにくい。だから何度も同じことを口にする。口にしても、伝わらないことすらある。
友人との会話は、コミュニケーションを必要としない。だからこそ、己にとっては家族との会話と同等に、この時間が楽しくてたまらない。そして鬱憤も発散できるのだから、デメリットもない。少々、自虐的に物事を話すのは己にとってはいつものことである。怒りがストレスのように膨れ上がりはしない。
「働きたくねー。なんで働かなきゃならないんだろーなー」
一時間半ほど語り明かしたところで、塚本が天井を仰ぎ見ながら労働の意味を求めて来る。そんなものに答えられるほど、己は生きていない。だから黙っていることしかできなかった。
「そりゃあれだ。働いてねぇと女が寄って来ないからだ。俺たちは女に寄ってもらいたくて働いてんだよ、きっと」
独自の理論を展開する山城に、僅かばかり心の中で賛同していた。己は女との出会いというものが極端に少ない。女との関わりについて考える。バイト先でたまにシフトが重なる女子高校生とは、そもそも話すらほとんどしないのだから、出会いとしてカウントするのはおかしい。むしろそういったカウントは女子高校生に失礼とすら思えて来る。
己にとっての、女との巡り会わせはこうして冷静に――アルコールが回っている状態を冷静と言うか否かはともかくとして、考えてみれば中学校を卒業してから完全に途絶えている。高校では己は、女に煙たがられていた。そして大学生のときには合コンを経験したことが無い。自らそういった機会に飛び込まなかったことも要因としてあるが、少なすぎて己自身を嘲笑ってしまいそうになる。
「だからって同僚の不細工に言い寄られたって嬉しくねー。山城んところ、可愛い子居るか?」
女に言い寄られるだけまだマシだろう。そのように考える己は、この歳になって尚も童貞だ。そのような場面にもつれ込んだことが一度として無いのだから、むしろ童貞でなければなんなのか。
しかし、未経験であるからこそ基準が高くなっている可能性はある。「言い寄られるだけマシ」とは思うものの、実際に己がそういった場面に出くわしたときにどういった行動に出るかはもはや想像しなくとも分かる。
「同僚の可愛い子は彼氏持ちだよ畜生。先輩に合コンに連れて行ってもらったこともあるけど、お持ち帰りなんざできねぇよ。こんなだから童貞はソープで捨てたんだよ、悪いか」
風俗の利用を山城はオブラートに包まずに話す。酒の力でもなんでもなく、男が四人も集まれば、話の後半の大概は気付けば下世話なネタとなる。こういったことは何度もあったのだから、慣れてしまった。
「悪くねーよ。合コン行って、酒を飲み過ぎて気付いたらタイプでもなんでもねー女に持ち帰りされていた俺に比べれば最高だろーが。容姿云々は言わねーが、初体験の記憶がねーのだけは泣けるぞ、ほんと」
「僕は大学時代に付き合っていた彼女といざってときにコンドームが無かったから、未だに素人童貞だよ。『ゴム無しでする?』とか怖いよ、なんなのほんと。こっちは初体験なのに突然、手馴れた感を出されたら無理だよ。あのあとすぐ別れたなぁ……」
己以外の三人が経験有りなのは既に知っている。散々とは言わない。未経験の己は映像の向こう側で起こるそれを見て、ただ己を慰めることしかできないのだから、彼らは自分より先に進んでいる。
女性経験が無い。それもまた、己の劣等感を形成する一つになっているのか。己には劣等感と呼ばれるものがありすぎる。言われれば言われるほど、埋もれていたそれが溢れ出る。
「俺たちの希望は、もう創にしかねぇな」
「えーと、どういう意味だ?」
「純愛して、しっかりと童貞を捨てろってことだっつーの」
「勿論、ゴム有りでね」
苦笑を浮かべて、己は返答に困り果てていた。
下ネタは今までも何度だって聞いた。何度だって話した。けれど、こういった風に己にネタであっても馬鹿げた期待感を見せる友人たちの思考を、くだらないと思ってしまった。
己は誰よりも己自身を分かっている。だからこそ、他人に己の計測以上のことを期待されることを「くだらない」と感じてしまう。
集団の中でも最底辺の己が思ってはならないことだ。友人たちを見下したことなど一度だって無い。それだけは確実に言えることであるのに。
「俺は出会いが無いから」
「んでも、中学じゃ両想いだったんだろ? ってことは、少なからず女に好かれる要素はあるっつーことだ。出会いの場さえあれば、行けんべ」
どこの方言なのだろうかと塚本にツッコミを入れたくなったが、そんなことをしてもこの話題をはぐらかすことは難しいだろう。
「中学時代のことを持ち出されても困る」
「確かに。でも、綿貫君は見た目悪くない方なんだから、そう悲観しちゃ駄目だよ」
同情などいらない。そしてアドバイスも不要である。出会いなどあろうと、己は中学時代からその手のことは一つも前に進んでいない。
思春期に初恋をした。それは誰だって経験することであり、己もまた等しく経験した。だからこそ、前に進めない。己は未だ、初恋の相手から脱却できていない。告白することもなく卒業し、再会することもなく過ごしたが故に中途半端な想いがずっとシコリのように胸の中に残っている。こんなことになるのなら、告白して玉砕していれば良かったと考えたところであとの祭りだ。
そのことについては、成人式の次の日に友人たちに話した。「両想いだったんだろ」と塚本には言われたが、果たしてそうだったのかも曖昧である。ただ、想い人とはなにかと目が合ったし、下校時間がたまたま重なるときには、無言であってもほぼ同じ足取りで同じ道を歩いた。
しかし、両極端な意見になってしまうが、これは己の思い込みであったのかも知れない。彼女はもしかすると、己のことなど大嫌いであって、目と目が合うことを気持ち悪いと思っていたかも知れないし、下校時間が重なったときなど、ストーカー被害にあっているかのような恐怖を抱いていた可能性だってある。
これは願望になってしまうが、己の行為を嫌っていたのなら、なんらかの手段に出ていたであろうし、彼女は気弱な性質ではなかったのだから、己に向かって辛辣な罵詈雑言を浴びせて来たはずだ。だから、嫌ではなかったんだろうと思っている。
そうしなかったのには、そうできなかった理由があったと言われてしまえば己は黙ることしかできない。女心は理解の範疇を超えると聞くし、あり得る話だ。
思い返してみれば、中学時代の己は気味悪がられてもおかしくない行動を取っていたものだ。目と目を合わせる行為を自制することはできたはずだし、下校時間が重なっても、遠回りすれば良かった。帰る方向が同じであっても、わざわざ同じ道を利用する必要も無かっただろう。今の己がそれを実行したのなら、ストーカーである。彼女が己を嫌っていたのだとすれば、己をストーカーとして告発しなかったのは唯一の慈悲になる。その慈悲が間違いなく彼女の意思に含まれていたのなら、己は感謝しなければならない。確かめる術は、無いけれど。
「もうそろそろ時間だ。俺はもう、帰るよ」
決して、話から逃げたわけではない。心の内をもっと暴いてもらいたいとすら思っていた。だって、そうすれば己は一歩前に進めるかも知れないのだから。けれど、本当に時間が無い。
立ち上がって、放り出されていた空き缶を集めて回り、それをゴミ袋に詰める。そして鞄を担いで帰り支度を始める。
「じゃぁなー、綿貫!」
「次もたくさん話そうね」
塚本と柊が手を振る。己はそれに応えるように手を振り返し、やや覚束ない足取りで上がり框に脱いだ靴を履く。
「次はいつ飲めるだろうな」
「みんなと違って、俺は自由な時間が多いから」
「ニートじゃなくて、フリーターだろ? 定職には就いてなくても働いてんだから、あんまりそういうこと言うなよ。俺たちと同じぐらい溜まるもんはあるんだから、お前も気にせずに話せよな」
「……うん、ありがとう」
山城は良い友人だと思う。しかし、精神的な疲れは彼の方が大きい。それは顔を見れば分かることだ。だから、自分自身を大切にしてもらいたいものだ。それを気恥ずかしくて口にできないのがもどかしい。言ってしまいたいが、劣等感に満ちた己のくだらないプライドがそれをさせてくれない。
結局、己はなにも言うことができずに「じゃぁ、また」と言って部屋をあとにするしかできなかった。安アパートの階段を降り、すっかり暗くなってしまった空を仰いだ。
右手の甲を擦る。くさいくさい、負け犬の臭いだ。友人と楽しんでも、抜け落ちない。酒を交えた臭いが混じってよけいに臭う。酒の臭いは口臭スプレーでどうとでもなるが、この負け犬の臭いばかりはなにをしたって脱臭できない。
友人と飲んで帰る頃には、脱臭できているんじゃと期待する。けれどいつもこうして期待を裏切られる。己は負け犬で、友人は皆、成功者だ。
己の考える成功者とは、即ち定職に就いているか否かが大前提となる。そこに性格や友好関係、趣味に交際経験などが付随するが、安定した職を持って、働いていることが交われば誰がどう見たって成功者だろう。そんな要素を並べれば並べるほど、己がそれを有していないことを思い知らされる。
駅に着いて、改札口をICカードで通過する。残額が残り少なく、そろそろチャージしなければならないが、終電間際のこのときにすることでもないだろう。己はそのままホームに続く階段を登り、あと五分やそこらで到着するであろう電車を待ち侘びる。
外界に出て行った者たちが乗る電車。それに己は乗らなければならない。そして己が降りる駅には、外界から帰る者たちも降りる。一人だけが発する負け犬の臭いに気付かれないだろうか。それだけが心配である。
まばらではあるが、駅のホームには人が居る。あまり関わりたくはないし、なるべく離れたところで電車を待つ。
「あ……」
己の喉が弱々しい声を漏らしたのは視線を上げたときだった。これは己が望んで発した言葉じゃない。己の意に反する、唐突に感情が零れ出たかのような声である。
ささやかで、風の音に紛れて消えてしまってもおかしくない声を、己の目が捉えた女性は確かに聞き取ってしまったらしい。女性は携帯電話から視線を外し、声の主を求めて己の方へと向いた。
その容姿には微かだが、面影があった。だからこそ己は思わず、声を発してしまったのだ。全く関わりの無い、どこの誰とも知らない相手であれば己の目が釘付けになることもない。己はとことんまで他人に興味が無く、けれど他人からの視線と評価を気にしている。だからこそ、一般的に見て不自然と思われるような凝視は避けて通る。今回はそうしなかったのだし、そうできなかった。
目の前に立っている女性は、己の記憶に残る面影と重ね合わせてみても、間違いなく初恋の女性だった。こんな再会があるだろうか。あるわけがない。ならどうして彼女がここに立っているのか。おかしい。狂っている。遂に己は幻覚さえも引き起こしてしまったのか。その手のものには手を付けた覚えなど無いというのに。となれば、これは酒の力が引き起こしたものだろう。幻は幻である。実体など、あるはずがないのだ。
己は分かりやすいほどに動揺していた。思考を形成する回路が異常な速度で情報を伝達させ続け、オーバーヒートを起こしてしまいそうだった。
しかし、思うのだ。己には彼女と等しいほどの過去の面影があるのかどうか、と。身長は伸び、体格は中学生の頃よりも良くなり、そして髪型も変わった。ひょっとすると目鼻立ちにも僅かばかりの隆起の変化があるかも知れない。そんな己を彼女は綿貫 創と認識できるのかどうか。これは彼女が認識力の乏しい思考の持ち主であるとか、そういった否定的な感情ではなく、純粋なる疑問だった。
「綿貫、君?」
十数年の年月が己たちを隔てている。よって、己は話し掛けるのを躊躇った。前を向いている男であれば、高々、十数年の年月などと考えるかも知れないが、己は後退的な男である。ここで話し掛け、もし人違いであったならば、なにかしらの悪意あるレッテルを貼られる。それを怖れていた。
けれど、彼女はそうではなかった。己と違い、彼女はどうやら前を向いて生きているらしい。だからこそ、確認するように己の名を喉から吐き出すことができたのだ。喉元でつっかえ、言葉にできなかった己とは天地の差があった。
己は肯いて返事とする。
「えーと、十何年振りだっけ? こんな夜遅くにどうしたの?」
困惑している。
己にはその表情から窺い知れる感情がよく理解できた。見知っていようが見ず知らずであろうが、こんな時間に異性と関わってしまった。それが女性にとって不安の対象となる。それを察した。
「沢渡……さん」
自身で驚いてしまうほどに己の声は、か細かった。いつも胸中にあり、ボソリと呟くこともあったその名前を語意を強めて言うことができなかったことが、どういうわけか己に気恥ずかしさを感じさせる。
「友達のところからの、帰り」
それが態度に出てしまい、己は俯いて彼女の顔を見ることができなくなってしまった。
どうしてだ。どうして己は、己を晒すことを恥だと思っているのか。成長した己を、初恋の相手に見せている。それはとても誇らしいことではないか。なのにどうして、こうも闇夜に紛れて消え去ってしまいたいと思ってしまうのか。
「そうなんだ……」
彼女がどういった顔をしたか、己には分からない。しかし零れた言葉からは、嘆息に近いものを感じた。
分かる。痛いほどに伝わる。過去の己からの真っ当な成長を思い描いていた彼女は、今の己を見て幻滅したのだ。でなければ、このような声が零れるわけがない。
心が冷える。胸の中の熱が一気に冷める。暗い感情が心臓に喰い込み、吐き気を催すほどに胃が震える。
およそ体感したことのない感情だった。名付けることができないその感情に飲まれた己からは会話する意欲も、そして勇気も失せる。
「私ね、結婚するんだ」
しかし、己はまだ底に落ちていなかったらしい。でなければ、この発言による異様な眩暈は説明ができない。
「結婚、か」
「うん……」
電車が駅のホームに滑り込む。騒音がそのまま己を掻き消してくれないものかと願うが、ドアが開く音で現実に引き戻された。己が催促するでもなく、意識的に彼女になにかを言ったわけでもなく、ただ漠然とした状態のまま己たちは電車に乗った。
「大学で出会ったの」
「そう」
「……早い、かな」
五秒ほど経ったところで、それが疑問符の付いた質問であることに気が付く。感覚の全てが放り出されており、自分が自分で無いかのような離人感に苛まれているこの状態で、人の話をまともに聞いていられる方がおかしいものであるが、彼女はきっと己がそのような状態に陥っているなどと知らない。なにもかも察しろと言うのはおこがましい。己はただでさえ感情を表に出さなくなった。そして、それ以上に表に出された感情以上のものを察しやすくなった。きっと彼女が会得していない境地だ。
「卒業して、二年……?」
ひょっとすれば留年、或いは院生である可能性もある。だからモラルに欠けていると分かっていても、質問に質問で返す。
「うん」
彼女は肯くだけだ。電車は次の駅に向かって走り出す。降りる駅までの時間を長く感じているのか短く感じているのかも分からない。
「……分からない」
どうにせよ、己には与り知れぬ話である。訊ねたのは話題の提供に過ぎないのだろうし、己にこれといった返事を期待していたわけでもないだろう。
なにせ彼女は、綿貫 創に幻滅したのだから。
「再会して突然、訊くことじゃなかったね。御免」
「いや……」
「綿貫君は今、なにをしているの?」
「俺は」
言葉が出て行かない。コンビニでアルバイトをしていると正直に言えば良い。なのに己の安いプライドがそれを許さない。
人生を満喫しているか?
趣味に生きているか?
違う。己には、なにも無いのだ。
「まぁ……色々、と」
それが、その返答が恐らくは決定打となった。彼女の瞳が己を映すことはもう無いだろう。この時点で、彼女は己を下に捉えた。己自身が思うのだ。彼女が思わないわけがない。
電車が駅に停まる。己と彼女は電車から降り、改札口を抜ける。
「あの」
そのまま互いに帰宅する。それだけのはずなのに、彼女は未だ己に声を投げ掛ける。
「綿貫君、披露宴に来てくれる?」
雪崩れ込む情報を許容できない。己は虚を突かれたかのように瞼を開き切り、驚きの意を示した。
「呼びたい友達とかはたくさん居るけど、小学校とか中学校からの知り合いを二、三人だけ呼ぼうとも思ってて。綿貫君が来てくれると、嬉しい、なって」
「ああ、うん。時間、あったら」
時間など幾らでもある。フリーターであることを明かすこともなく、そしてまるで暇が無いとでも言いたげな己自身の発言に反吐が出そうだった。
「じゃぁメルアド、交換しよ。住所は昔と変わってない?」
「う、ん」
己は携帯電話の電源を入れ、彼女の取り出した携帯電話とメルアドだけを交換する。そこに電話番号は無い。つまり、彼女に己とメール以外の交流はしたくないという意思表示と受け取るべきだろう。
そう、全てを否定し続けていたがそろそろ認めなければならない。
彼女は己よりもずっと真っ当に生き、人生を満喫し、己が怠惰に過ごしていた時間の分だけ有意義なる時間を過ごして来たのだと。
現実が夢を打ち砕いて行く。ああ、やはり現実はこうして人を突き放すのだ。その概念が己の中で変わっていないことを再確認できた。
「じゃぁね、綿貫君」
「……沢渡さん」
己よりも人生を満喫し、己よりも至極真っ当な幸福を享受している彼女に、己は訊ねたいことがあった。
「この世界は、どう見える?」
「え……?」
戸惑いの声だった。顔は見ていないし、視線は交わしていない。だって己はずっと下を向いているから。
「地球は、沢渡さんにどう……見える?」
「どうって……地球儀みたいに、丸い、けど?」
そうか。やっぱり、そういう答えなのか。己とは違う。それが分かった。
地球は丸い。それはごく一般的な返しだ。
だからこそ、彼女が己に幻滅したように、己もまた彼女に幻滅した。歪んだ思惑に生きる己は一般的な返しなんて求めちゃいなかったのだ。
逆に考えれば、己は己自身の感情に見切りを付けたかったからこそ、こんな碌でもないことを訊ねたのかも知れない。思えば、己の中にある返答を共有できるわけがない。そう決め付けて掛かっていたではないか。だから、これは必然的な幻滅なのだ。
シコリは残る。痛みは伴わないけれど、違和感はある。
「綿貫君にはどう見えるの?」
答える義務があるだろうか。あるだろう。あったとしても、きっと分からない。
「この世界は、海栗だよ」
「海栗?」
「訊ねたかったのはそれだけだし、答えたかったのはそれだけなんだ。忘れて良いよ」
己はわけの分からない理屈を吐き捨てて、彼女から逃げるようにしてその場を去った。
電源を入れた携帯電話が騒がしく震える。恐らくはいつ帰宅するのかと心配している母親のメールか電話だろう。ならば出なくても構わない。己はもうすぐ帰るのだから。
路傍に見つけた石を蹴った。
石は転がって、側溝に落ちて見えなくなった。
そんなものかと、己は舌打ちをした。