プロローグ
1945年3月23日の夕方、ベルガーはよろめきながらプラッテン湖の北岸から西に向けて歩いていた。彼にとって幸いなことに砲火は止み、辺りは不気味なほど静まり返っている。
ベルガーはどうして自分の身体がまだ動くか不思議でならなかった。体中に食い込んだ榴弾の破片は痛み、数カ所酷い出血を起こして応急処置で巻いた包帯が血だらけになっていたし、春の訪れで溶けた雪が泥濘となって足を引っ張り、疲労の極みに達していた。
彼が一人であったのは、他でもない今月6日からの大規模な「攻勢」のせいであった。プラッテン湖攻勢、作戦名「フューリングスエヴァーヘン(春の目覚め)」と銘打たれたこの攻勢は総統の文字通り「最後の博打」であった。
前年6月から始まったソビエト軍の大規模な攻勢でドイツの東部戦線は崩壊し、この年の2月にはソビエト軍はポーランドのヴィスワ川を超え、ドイツ本土へ侵入。東プロイセン、ポンメルン、シュレジエンでドイツ軍の激しい抵抗を受けながらも確実に帝都ベルリンに接近し、3月には首都の東100㎞にまで迫っていた。
常識的な思考の持ち主であるのなら、守勢に転じるものであるが、総統はこの時、七年戦争の「ブランデンブルクの奇跡」のような劣勢逆転を信じていた。実際、連合国内でアメリカ・イギリスとソビエトの溝は顕在化しはじめていたが、それでもドイツがアメリカ・大英帝国と休戦交渉ができるはずもなく、もはや妄想の域であった。
だが、総統は妙なところで思考のめぐりがよかった。すなわち、戦争継続には石油の安定的な供給が必須であることを重々に承知しており、そのためには油田地帯があるハンガリーの奪還がなんとしても必要だったのだ。総統は帝都周辺防衛を優先したいとする軍部を押し切り、作戦の実行を決定した。
作戦は総統に忠実な武装親衛隊を中心に編成された第6SS装甲軍を最前線に、その北には中央軍集団、南西には第2SS装甲軍、南にはE軍集団を投入するという書類上はまさにドイツのオールスターゲームであった。若い新兵たちは口々に「来月20日の総統誕生日には油田をプレゼントしよう」と言いながら参加した。
だが、蓋を開けみれば酷いありさまであった。まず、各部隊の充足率は絶望的に悪かった。その上、装甲師団と銘打った部隊は一部を除いて殆ど戦車が配備されてなかったか、もしくは著しく数が足りなかった。
そうであったから、強固に布陣されたソビエト戦線を突破することもかなわず油田を奪還するどころかソビエト軍の戦線を押しのける形でおわり、攻勢限界点でソビエト赤軍の激しい攻勢に晒されベルガーが所属していた部隊は壊滅した。更に敗走途中で激しいソビエト赤軍の追撃を受け、彼は友軍とはぐれて一人で西へと向かっている状態だった。
要するに最初から勝てない戦いだったのだ。奇跡は起きないから奇跡。
総統最後の博打に投入された兵力は後世の歴史家にこう言われるだろう、無駄な抵抗で早期に降伏すればよかったのだと。
だいぶ日が暮れてきたのでベルガーは土手にゆっくりと倒れた。一度倒れたが最後、まるっきり身体を動かせなかった。これでは、しばらく起き上がることもできない。
ベルガーは深呼吸しながらゆっくりと辺りを見回した。春とはいえ日が暮れれば寒く、吸い込んだ空気で肺が震えるのを感じる。
ここはベルガーの故郷であるハレとは似ても似つかない田舎。湖畔のすぐ近くには森が迫っており、奥は深淵という形容詞がふさわしいくらいに真っ暗であった。