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暑い夏が来た。
里村は東京の夜の街などを遊ぶこともなく、二ヶ月が過ぎた。真面目に軌道工としての作業を勤め、同僚や監督からも認められつつあった。
「今夜もタンパーかよ…。あの振動は、いつまでも身体に残るから、嫌なんだよな」
昼間の作業から帰ってきた里村は、夜間作業の予定表を見ながら自分の行動を確認する。今晩は久慈道と共に、道床整備の仕事が入っていた。椅子に座って安全靴を脱ぎ、首に掛かっているタオルで汗を拭った。頬は赤くなり、唇がカラカラに乾いて、色が悪くなっている。
「お前、水分取ってる? 現場にポカリのタンクが行ってるだろ?」
久慈道が心配そうに顔を覗き込んだ。
夏の現場には必ずイオン飲料のポリタンクが常備される。しかし、軌道上で仕事をしているときにトイレに行きたくなったら、近くのコンビニエンスストアか、歩いて駅まで行かなくてはならない。暑い中、その距離の往復するのも面倒だった。
「トイレに行きたくなったら面倒だからさ。あんまり飲んでないんだ」
「熱中症になるぞ。朝礼でも毎日言ってるだろ。水分と塩分の補給を忘れずにって…」
「あの、塩タブも嫌い。いいんだよ。今まで、何とかなってるんだから」
イオン飲料と一緒に用意されている塩タブレットも、里村は口にしていなかった。塩の塊を口にすれば、更に喉が渇く。久慈道の心配をよそに、スリッパに履き替えた里村は、安全靴をロッカーに片付け、風呂場へと向かった。
翌日は東京で初めての真夏日を記録した日だった。
休憩の時間も、里村は水分を取らなかった。水分を取るのは、唯一昼休みだけ。
里村は昼休みの弁当も食べずに、ものすごい勢いで水分を体内に入れた。しかし、身体の渇きは落ち着かない。何時までも火照った身体を冷ますように水を求める。
「里村、大丈夫か? そんなに一気に飲んでも…。だから、仕事の合間に少しずつ水分補給しないとって…」
「わかってる……!」
立ち上がった里村は、ぐらりとよろめいた。近くにあったコンクリート柵に凭れ掛かる。ドクドクと心臓が脈打つのが解る。身体の中が熱い。毛細血管に流れる血までもが、灼熱だった。
「休んでろよ、里村。監督には、俺から声をかけておくから」
久慈道の声を無視して、ヘルメットを被る。コンクリート柵の切れ目から、軌道内に入り込んだ。目の前の風景が歪んでいる。
ダメだ。まだここで働かないと。
セミの声が煩い。その声に重なるように、久慈道が監督を呼ぶ声が聞こえる。
逃げるように法面を登って、列車監視人の傍に行く。作業をスタートさせなくては。
東京で遊ぶことはできなかった。せめて、稼いで帰らないと。半年頑張れば、俺も冷房の効いたあの箱に乗れる。レールを整備する側じゃない。レールに乗って、賑やかな街へ行きたい。
久慈道が呼んだ監督が傍に来た。
列車監視人の笛が鳴る。
監督の怒鳴り声。
電車の警笛。
列車監視人の笛の音が電車の音に重なる。
腕に感じる砕石の角。
頬に感じるレールの熱さ。
叫び声を上げる親友。
電車の警笛が遠ざかる音と共に、意識も遠ざかっていった。
目を開けると、白い空間だった。
白い壁。白いカーテン。白い布団。白い人。
「里村。気がついたか?」
ようやく色が戻る。久慈道の着ている青い作業服に、何故か安心した。白以外の色を発見しただけで安心するなんて。何があったのかを考えるよりも先に、そんな些細なことで小さく笑ってしまった。
「何、笑ってるんだよ? 大変だったんだぞ」
ようやく何が起こったのか考える。軌道内で倒れたはず。最後に聞いたのは、列車見張員の笛と電車の警笛。
電車が来ていたのだ。レールに倒れこむ直前に。
「電車の目の前でお前が倒れそうになるから、監督が慌てて起こして、反対車線まで飛んで避けたんだよ。俺達のいるところから見たら、監督と一緒に電車に巻き込まれたように見えてさ。すげー焦った…」
ほっとしたように涙ぐむ久慈道を見て、ぼんやりと風景を思い出す。近づく電車の目の前で意識を失いそうになったのだ。そして、近くにいた監督に助けられた。助けられていなかったら、今頃身体は粉々になっていただろう。軽い気持ちで出てきた東京で、この命が終わっていたかもしれないのだ。
「お前、体重軽くてよかったって…、監督が言ってたぞ」
冗談のつもりなのか。久慈道の語尾が少し笑っていた。でも、濡れた瞳が真剣にこちらを向いている。
「ごめん。無理しすぎた」
それだけ言うと、心配する久慈道の視線から目を逸らした。
ただ、田舎から逃げたくて、久慈道を追いかけて来た。
ただ、東京へ来たいというだけで。
遊べないのなら、せめて稼ぎたいばかりで。
ただ着飾って、冷房の効いた電車に乗って、都会で遊びたかったのだ。
「俺、岩手に帰るわ。退院したら…、実家に帰る」
久慈道が静かに頷いた。
東京の思い出は、暑さで歪んだレールと、遠くのネオン。




