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次の日も妻はいつもと変わらず私に朝食を作りテレビを見ていた。昨日のことあれからはお互いに話してはいない。
私もいつも通りに妻と接した。
テレビに顔を向けたままの妻を気にせずにいつものように朝食の魚の骨を取り除く。
いつもは心が落ちつくはずの作業が、落ち着かない。魚の骨は箸でつかんでもすぐに落としてしまう。妻はそんな私を気にせずにテレビを見ていた。
皿の端に骨を積み上げながら、私は妻の方をそっと覗き見た。大きく唾をのみこんだ。
「教えてくれないか」
「何をですか」
「昨日言っていただろう。私のどういうところが嫌いなんだ」
妻は驚いたというように目を開けた。
「足を剃っていたことは聞かないんですか」
「きっと、お前なりの理由があるんだろう。それを私は聞かない。私は結婚する前からずっとお前のすることを信じていた。何事も消極的にしか考えられない私をいつも引っ張ってくれたのはお前だ。今回もそうなんだろうと思う」
「誰かにそういうようアドバイスでもされたんですか?」
「違う」
私は箸を置いた。顔を上げ妻と目を合わせる。久しぶりに真正面から妻の顔を見た気がした。彼女の顔は若々しい。
「私は不器用だ。お前とは違う。思っていることを言葉にするのも苦手で仕方ない。いつも言葉足らずになっていると自分でも思う。だから」
ふふ、と妻は小さく笑みをこぼした。
「そんなに必死なあなた久しぶりに見ました」
顔が真っ赤になっているのが自分でもわかった。
「分かってくれていたのならいいんです」
「そうか」とだけ答え、私は逃げるように身支度を整えた。
玄関まで送りに来た妻を見てドアを開けた。
「あなた」
背後から妻が呼び止めた。
「いってらっしゃい」
久しぶりに聞く言葉だった。私はいつからこの言葉を聞いていなかったのか。それが普通になっていたのか。
私はしばらく放心したように突っ立っていたが、やがて小さな声で呟いた。
「いってきます」
久しぶりに言ったにもかかわらず、すんなりと出てきたように思う。
それからも悪夢にうなされることがなくなることはなかったが、前よりも汗の量は減ったように思われた。少しずつだが、いい方向へ向かっているのかもしれない。
妻は朝に玄関でいってらっしゃいと言ってくれるようになった。
戻るとおかえりなさいと言ってくれるようになった。
私もまだ声は小さいがそれに返している。
仕事はいつも通り。生活もいつも通りだった。
私はいつものように社員食堂で魚の骨を取り除いている。
「やけに顔色がよくなったな」
前の席に座った同期は私を見るなりそういった。
「悪夢にうなされるのはなくなったのか」
「いや、いつも通りだ。うなされる」
「なんでそんな嬉しそうに言うんだよ。おかしなやつだな」
同期はいつものように上司の愚痴を言い始めた。私はそれを聞いているようで聞いていない。今日は妻にケーキでも買って帰ろうと考えていた。何の記念日でもなかったが、自分からそうしたいと思った。
「あの塗り薬のおかげで俺も助かったよ」
同期の愚痴はまだ続いていた。
「……塗り薬?」
会話の形式上おうむ返しで聞き返す。
「知らないか。最近ニュースで取り上げられてるあれだよ」
「最近テレビは見てない」
「死んでからも薬物反応が出ない薬が出たんだってさ」
少し興味がわいてきた。
「それが塗り薬でさ。体中にある毛を剃ってから専用のバターナイフみたいなので一か月ほど毎日塗っていけば、塗られた人は心臓発作で死ぬんだってよ。完全犯罪だよ。完全犯罪。それで最近は、要介護爺さん婆さんの死亡率がやけに高い。あと未亡人が増えたんだと」
何がおかしいのか同期は嬉しそうに笑う。
「うちの上司も、奥さんにそれやられて死んじまったんだよ。名目上はただの心臓発作だけどな」
カラカラと同期が笑う。
「お前も奥さんに嫌われないよう気をつけろよ」
同期の笑い声と一緒にどこかからうなり声が聞こえてきた。
それが自分の口から洩れていると気づくのにしばらくかかった。