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頼純出陣

年が明けて年は大治3年(1128年)となった。


正月、頼純は弥生を連れて、重房の居城である板鼻城を訪れていた。年賀のあいさつである。重房は、内に秘めたる怒りを押し殺して、(しゅうと)としての顔を装って2人に会った。


重房「よう来た婿殿。」

頼純「舅殿もますますご健勝な様子。何よりでござりまする。」


頼純は知らなかったが、重房にとっては、頼純の言動の全てが白々しく見えた。


重房(この謀反人めが… かえるの子はかえるかの。)


重房は、頼純に酒をふるまい、その夜を飲み明かし、翌日頼純は弥生とともに帰って行った。しかし、重房にしてみれば、これは末期の水ともいうべき最期の酒宴であった。


年賀の行事を終えたら上洛するべく準備を整えていた頼純だったが、その頼純に朝廷から思いもよらぬ使者があった。それは、武者所(むしゃどころ)に任命するという使者であった。武者所とは、天皇を生前退位した太上天皇(だじょうてんのう)(上皇(じょうこう)・院)の御所を護衛する武士の待機所の事を言い、そこに務める武士もまた、通称として武者所と呼ばれた。例えば、上野国の者がこれを務めれば上野武者所、常陸国の者がこれを務めれば常陸武者所と呼ばれるが、頼純は、下野武者所として任命されたのだった。


時はさかのぼって応徳3年(1086年)11月、時の白河天皇は、自分の弟たちを皇位につけようとする勢力に反発して、まだ8歳であった我が子を皇太子にし、皇太子したその日に即位させるという前代未聞の強硬を行った。皇位の流れを確定させるとともに、自らは、上皇となり史上初の院政を敷き、その実権を掌握した。


その白河上皇の院政は、白河上皇が法皇と変わりつつ、頼純の時代にいたるまでまだ続いていた。その院の警護を命じられたのである。だが、これは頼純にとっては好機であった。当初は、一方的という側面が強い、行き当たりばったりと言われても仕方のない上洛であったが、これにより堂々と上洛する事が出来る。しかも、天皇の権力を超えた当時の朝廷の最高実力者である白河法皇に近づけるのだ。


これにより、すぐさまの上洛は延期となり、上洛を年末まで待つこととなった。


その一方で、頼純にはもうひとつ、嬉しい知らせが入った。奥州藤原氏の当主藤原清衡が病に倒れたという。清衡は、祖父の義家から奥州を奪ったカタキである。出来れば自分で討ちたいものだが、まだ実力的にはとうてい無理。不幸を喜ぶくらいの事しか出来なかったが、頼純は、全ての運が自分に向いてきたかのような気さえしていた。


そして、その年の7月13日、清衡は、当時としては長寿の73歳で没した。これは、後世、残された清衡のミイラを検査して判明した事だが、脳溢血(のういっけつ)脳腫瘍(のうしゅよう)などにより、すでに亡くなる10年ほど前から半身不随の状態だったらしい。その後、藤原氏は後継者争いの内紛へと発展していく。


頼純は、この内紛により、藤原氏は衰退していくであろうと見ていた。そして、上洛して役目を終えて帰ってくる頃には、自分が奥州へ攻め込む好機も生まれているだろうとにらんでいた。これから上洛してやる事は、そのための布石。何としても、朝廷の信任を得て、奥州討伐の名目と力を手に入れる必要があった。


それから頼純は、上洛を稲刈りが終わる10月に定めた。10月1日に堀江山城を出立して、宇都宮に立ち寄り、下野国府に立ち寄って、その後、東海道を抜けて上洛する予定だった。


頼純が10月に上洛を決めたという報は、すぐさま重房に届けられ、重房は、これを行利に報告した。重房は、行利の協力を得て、その時には約300騎の軍勢を投入出来る体制を整えていた。頼純の上洛の兵力は、警護だけなのでわずかに30騎。残りは、頼純や弥生の側で世話をする女中などの従者である。あとは、討ち漏らさぬように策を巡らすだけだった。


頼純は、自分が留守の間の領地の守りを堀江十勇士の家臣たちに任せる一方、上洛の共を兼光に命じた。これを兼光も喜んだ。


兼光「喜んでお供つかまつりまする。」

頼純「京で共に夢の続きを見ようぞ。」

兼光「はっ。」


そして、10月1日、頼純は、弥生と月若丸、従者に兼光を従え、50人の手勢や従者とともに上洛の途についたのだった。


この動きに対して、板鼻城の原の軍勢300騎も頼純の一向を追うように出立した。その総大将は嫡男の原太郎。さらに、重房の次男から四男の3人も太郎に従い出陣していた。頼純の上洛路を予め調べていた原軍は、先回りして南下し、相模国(さがみのくに)(現在の神奈川県)に入っていた。


迎え撃つ場所は、すでに決めていた。それは、相模国と武蔵国(むさしのくに)(現在の東京、埼玉、神奈川県の一部)の国境にある上田山(うえだやま)という場所だった。









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