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武士誕生の歴史

平安時代は、藤原氏の時代であった。鳴くよウグイスと覚えた平安遷都に始まる時代が平安時代である。藤原氏は公家であり、平安時代は、公家の時代とも言えるわけだが、実は武士の創世記でもある。


武士の誕生もまた、平安京遷都により始まる。平安京遷都が行われた延暦(えんりゃく)13年(794年)、時の桓武天皇は、画期的な政策を実施している。それは、国の軍隊の廃止である。


日本の国軍の歴史は聖徳太子に始まる。聖徳太子が憲法十七条や冠位十二階など国家改革を進める中、それまで、戦の度に従う豪族を編成して都度軍勢を集めていた体制を改めて、国家直属の軍隊を創設したのに始まる。


だが、時の桓武天皇は、この制度を廃止して、健児(こんでい)検非違使(けびいし)という制度を創設した。健児とは、郡司やその一族で構成された兵士で、検非違使は、今でいう治安維持のためだけの保安警察的な制度を創設したのである。しかし、その数はわずかに4000人程度。平安京と地方の役所を守るだけの組織に過ぎなかった。つまり天皇は、この時、軍事統帥権を放棄したのである。桓武天皇以降、その名前に「武」の字を配する天皇が現れなくなったのは、このためである。


日本人の多くは、終戦後、軍隊の保有を放棄した憲法を平和憲法と称して、これを前代未聞の事と勘違いしているが、軍隊の放棄は、すでに1200年以上も前に行われていたわけだ。


ただし、安全保障自体は放棄できない。外敵から侵攻を受ける可能性もあれば、内乱が起きる可能性はある。そのため、常設の軍隊は廃止し、時の最高権力者である天皇が軍事統帥権を放棄する代わりに、有事の際は、臨時で軍を創設する制度を作り、新たな軍事統帥権者の称号を創設し、天皇は、その任命権者となったのである。その新たな軍事統帥権者の称号こそ、征夷大将軍である。


そして、平安京遷都のその年、最初の征夷大将軍が任命された。名を大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)という。征夷大将軍というと、武士の最高権威と勘違いしている人が多いが、それは後世の事であって、武士が誕生する以前から征夷大将軍という制度は存在し、弟麻呂は武士ではない。


だが、この桓武天皇が行った改革こそ、武士が誕生するきっかけだったのである。


国が、軍隊を放棄したために民たちは、国が国民を守るという当たり前の事が受けられなくなっていた。そのため、自分の身を守るために、自ら武器を持ち、危険があった時は、自ら戦うしかなくなってしまったのである。最初は自警団的な程度のものであったが、やがて争いが起きるようになり、それはより強力なものへと変わっていった。


これが発展して誕生したのが武士であった。


後世、この武士が結集して幕府という組織を作り、日本を約700年に渡って支配するわけだが、軍隊を廃止して出来たのが幕府と言う名の軍事政権だったとは皮肉な話である。国民を守る気力のない安全保障に無責任な国の末路がどういうものか、そうした国民がどれだけ不幸か、こうした歴史がすでに証明しているのである…


こうして誕生した武士は、約400年という長い平安時代の中で、全国各地に台頭していく事になる。


だが、こうした動きを公家たちは面白く思っていなかった。公家たちは、自らを高貴とし、武士たちを野蛮な汚れた者たちと蔑視していた。それは死穢(しえ)の思想に基づくものだった。死穢とは、人を殺したり、人の死骸を見たりすると、自らが(けが)れる、いわば呪われてしまうという考え方である。


公家たちにしてみれば、武士たちは、ただの殺人集団に過ぎなかった。人殺しを生業とする者たち、その程度の認識でしかなかった。当然、死穢にもまみれている。そうした者たちが武力を背景にして、自分たちの領地で実権を握り、公家たちの支配権を脅かしている。


しかしながら、権威と権力しか持たず、武力を持たない公家たちは、争い事が起きた時は、こうした武士たちに頼らざるを得ないのも事実だった。人殺しは野蛮なものだから自分たちはしたくない。しかし、争いが起きれば、誰かがやらなければならない。だから代わりに、嫌な事をそれを請け負う武士たちにやらせる。やらせる以上は、その支配権を認めなければならない。それがジレンマとなる…


現代社会でもよく見られる光景である。いわゆる偽善者が抱える不毛なジレンマと一緒だ。差別を差別と思わず、自分の過ちを認めず、現実を認めず、綺麗事ばかり並べて、その綺麗事にそぐわない現実に疑問を持ち、ジレンマに陥る… 実に不毛である。現実を認めずに差別ばかりをして、不満を並べてジレンマを抱える公家と、差別を受けながらも耐え、現実の中で着実に生き続ける武士たち… 後世、公家の世が没落し、武家の世になったのもうなずける話である。


ただ、それだけ権力は公家たちは握って離さなかった。武士たちが、どんなに命がけで戦っても、公家たちより上になる事はなかった。地方で言えば、武士たちは守護として土地を支配する事は出来ても、支配権の最高権力である国司職などは、京にいる公家たちが握っていたのである。国司とは、今で言えば都道府県知事と同じである。


そして、頼純の時代の頃、下野国にも新しい国司が京より下ってきた。


その名を中納言(ちゅうなごん)藤原行利(ふじわらのゆきとし)と言った。














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