公田掠領事件
朝綱の下野における勢力拡大はすさまじかった。
氏家氏や塩谷氏に養子を送り込み、その家を乗っ取るだけでなく、那須氏にまで子の頼資を送り込み養子とし、那須地域までをも勢力下に加えようとしていたのだった。
下野北部は、ほぼ朝綱の勢力下に入ってしまったとも言える状況となり、もはや惟広には、力ではどうしようもない事態に陥っていた。
だが、人と言うのは、自らが好調な時ほど、思いがけぬ失態を犯し、それに気付かないものである。
朝綱もそうであった。行房が虎視眈々と狙っていた隙を与えてしまったのである。
それは、朝綱が塩谷氏に養子として朝業を送りこんだ時の事であった。
この時、朝綱は、塩谷氏への持参金代わりに朝業に新たな領地を与えていた。
ところが、この中に、下野国司が管理する公田、つまり朝廷の直轄地が含まれていたのである。
それは、わずか百余町という朝綱からすれば100分の1にも満たない小さな領地であった。
この時代、領地の境界が曖昧で、その所在も曖昧になるという事はままある事であったが、これを行房は見逃さなかったのである。
おりしも、建久5年(1194年)3月には、朝廷の領地である公田を侵してはならないという命令が幕府からもだされたばかりの出来事であった。
これを行房に密かに伝えたのが、惟広だった。惟広は、ここを突破口にして、宇都宮氏を打倒し、塩谷氏から朝業を追放して取り戻そうとしたのである。
惟広は急いでいた。もう惟広には時間が無かったからである。
惟広は、この頃、病に臥せる事が多くなっていた。
政務はすでに子の惟守に譲っていたが、源姓塩谷氏の安泰の為にも、自分が生きている内に、ケリをつけておこうと考えたのであった。
そして行房は、惟広から受けた報告を元に、これを朝廷に訴え出たのである。
建久5年5月の事であった。
しかし惟広は、さらに次の手を打っていた。再び、朝業の配下にいる旧堀江家臣団の取り込み工作に活発に動いたのである。
まず、惟広は、塩谷領の北方、田野城にいる関谷氏を取り込もうとした。関谷氏は、あの堀江十勇士の1で、初代頼純とともに討死した関谷兼光の子孫である。兼光が討死した後、関谷氏は、その弟である修理亮秀光により家督が継がれ、今は、その子の内匠尉正国が隠居して、内匠助春光の代となっていた。
特に正国は、堀江氏に対して忠節が強く、隠居したとは言えまだ健在であり、惟広は正国に通じて、関谷氏を取り込もうとしていた。
さらに、その田野城よりは南、宇都野城には山本氏がいた。
山本氏は、白鳳8年(679年)より続く名門の家柄で、その25代山本家隆が後三年の役の軍功で寛治3年(1089年)にかの地に住み、堀江氏よりも早く塩谷の地に土着したが、家隆の孫である山本尾張守資家(やまもと おわりのかみ すけいえ)の代の時に、源氏の子である頼純の後見役の1人となり、以後、堀江氏に仕えていた。
今は、それよりも時は流れ、家隆を初代とすると7代に当たる山本家朝の時代になっていた。
惟広は、これにも目をつけ、関谷氏と山本氏を取り込んで、北から圧迫すれば、若い朝業も身動きが取れなくなると考えたのである。
そして、これらの工作は、全て惟広の思惑通りに進んだのである。
宇都宮氏は幕府の重臣であり、将軍である頼朝お気に入りの一族であったが、行房が直接朝廷に訴え出た事により、天皇にその事が上奏されてしまい、その面目が潰され、また公田横領の禁止の命令を出したばかりの出来事で、朝綱に助け船を出す事も出来なかった。
この詮議は、京の仙洞御所、つまり上皇の御所において行われた。行房も上洛し、数々の宇都宮氏の横暴を訴えたのである。
朝綱も言葉巧みに反論したが、ちょっとした手違いとは言え、わずかでも公田を横領してしまった事は、朝廷側の心象を大きく悪くしていた。
そして、同年7月28日、朝綱は行房の訴えに敗訴し、朝綱は土佐国(現在の高知県)、その孫で宇都宮氏の家督を継いでいた頼綱が豊後国(現在の大分県)、さらには塩谷氏を継いでいた頼綱の弟である朝業までも周防国(現在の山口県)に追放される事になったのである。
この瞬間、行房と惟広は、完全に政治的に宇都宮氏に勝利した。
だが…勝利したそのはずだったのに、この時から大きく歯車が狂おうとしていたのだった。
この時、惟広の命運が尽きようとしていたのである…