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惟広と行房

新しく下野国司となった野呂行房は、文徳天皇(もんとくてんのう)の子、惟喬親王(これたかしんのう)を祖とする。

惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子であり、皇位継承の筆頭にありながら、当時権力を独占していた藤原氏が、惟喬親王の母親が紀氏の出身である事を嫌い、惟喬親王の皇位継承を許さず、藤原氏の出身の娘が産んだ子である第四皇子の惟仁親王(これひとしんのう)が皇位を継承した不遇の皇子である。

惟喬親王は、その後、常陸や上野の太守を務め、その縁で、北関東には惟喬親王の子孫が根付き、惟喬親王の兼実王(かねざねのみこ)が野呂氏を名乗り、上野国(現在の群馬県)に住んだのが、野呂氏の始まりである。

その後、野呂氏は、氏高、清美、実氏、義覧、義高、義基、義房と続き、義房の次男として行房は生まれたが、長男の義実が若くして亡くなったため、野呂氏の家督を継ぎ、下野国司に任命されたのだった。


行房が、下野国司に任命された頃、国司の存在は、完全に形骸化しており、名目だけの存在にすぎず、まさに権威は失墜していた。

しかし行房は、これを変えようとしていた。天皇により任命された国司の権威を汚す事は、ひいては天皇の威光をないがしろにするものであり、天皇を中心とする朝廷の権威を守ってこそ、美しい国の秩序が保たれると考えていた行房は、下野国司の権威を取り戻そうと考えていた。

そのためには、国司をないがしろにする増長する武士たちを服従させていかなければならない。下野においては、その筆頭にあるのが宇都宮氏であった。


他方、同じ頃、宇都宮氏により塩谷家を奪われようとしていた惟広は、宇都宮を排除すると言う事では、行房と利害が一致していた。

そこで惟広は、行房に接近して、宇都宮氏に対抗しようとした。

朝義から家督を受け継いだ塩谷朝業は、それまでの塩谷氏の居城であった堀江山城を放棄し、隠居した朝義の隠居屋敷のように扱い、自らは、堀江山城の北500mほどのところに新たに川崎城を築いて居城とし、城を整備、拡大していった。

堀江の影響力を排除しようとする意図は見え見えであり、惟広は、事を急がねばならなかった。


行房が下野国司に就任しても、下野の有力諸侯は代理の者を使者として送るだけで、自らは挨拶に来なかったが、惟広だけは、自らが下野国府に参内し、行房に挨拶した。

これに行房は気を良くし、行房は、その夜、惟広を招いて酒宴を開いた。

行房は、下野の国情をよく把握していた。宇都宮氏が塩谷氏に養子を送り込んだ事も知っており、行房は、その事を惟広に話しかけてきた。


行房「惟広殿。塩谷は、源氏の名門の家だが、藤原の朝業殿が婿入りした事をどう思っておる?」

惟広「宇都宮はかつて、我が祖、八幡太郎義家に従い、下野に根付いた一族。その者に源家の塩谷の血筋を奪われし事は、先祖に対して申し訳なく、恥じておりまする…」

行房「これはこれは… かなり踏み込まれましたな…」


行房は、内心ニヤリとしていた。

この男なら話せる。

そう感じた行房は言った。


行房「ならば、共に宇都宮打倒を目指さぬか。わしは、宇都宮を始めとして、朝廷の権威をないがしろにする勢力を一掃し、国司の権威を復権させて(みかど)の威光を示したい。惟広殿は、宇都宮を打倒して、塩谷の正しい血筋を取り戻せばよい。」

惟広「願ってもないお言葉。こちらこそ、望むところでござる。」


次の瞬間、2人は、熱いまなざしを交わし、互いの右手を目の前で強く握りしめた。

権威が失墜しているとは言え、行房は腐っても朝廷に任命された下野最高の権威である下野国司。

一方、惟広は源平合戦の戦功により、幕府からの信任も厚い。

この2人が組めば、宇都宮に対抗する芽も見る事が出来る。

こうして、宇都宮打倒をめざし、2人は動き始めた。




それからの行房の行動は素早かった。

宇都宮の内情を徹底的に調べ上げたのである。

宇都宮に、何か言い訳が出来ぬ落ち度がないか。

例え揚げ足取りでもいい。

朝廷の面目が立ち、幕府も黙らせるような決定的な落ち度はないか。

行房は、事細かに調べ上げようとしていた。



さて、この頃。すなわち建久3年(1192年)3月、後白河法皇が崩御し、源頼朝にとって、最も手強かった政敵がなくなると、反武家、反頼朝の朝廷勢力は急激に衰退し、同年の7月12日、頼朝は、ついに武家の棟梁たる権威として、征夷大将軍の任官を受けたのであった。

いい国(1192)作ろう鎌倉幕府のと教えられ、この年が鎌倉幕府成立の年とされた根拠はこれであるが、近年の研究では、実質的に幕府の体制が整ったのは、文治元年(1185年)11月28日、朝廷より頼朝に対して、諸国の守護や地頭の設置が認められた勅許(文治の勅許)が下された時であるとする考察が、主流になりつつある。

この年の8月9日には、頼朝の次男であり、のちに三代将軍となる実朝が生まれている。


だが、この時から、鎌倉幕府の内部は混乱を始める。

翌年、建久4年(1193年)5月28日、頼朝は、嫡男である頼家を伴い、駿河国(現在の静岡県東部)に巻狩りに出掛けていたが、この最中、曾我兄弟の仇討ち事件が勃発する。

工藤祐経に父を討たれた曾我兄弟が、祐経を討った事件だが、この際、頼朝には何事も無かったのだが、鎌倉では頼朝の消息が掴めず、頼朝が討たれたのではないかという憶測まで飛び交っていた。

この時、頼朝の弟である範頼が鎌倉にいたが、頼朝の妻である北条政子に対して、範頼が控えているので安心くださいと見舞いの言葉をかけたと言われる。

この言質に頼朝は怒り、範頼が謀反を企んでいると疑うようになった。

これより間もなく、同年8月17日、範頼は伊豆に配流され、そのまま殺害された。


行房は、この機を逃さなかった。幕府が内紛に揺れている今こそ、動く時と見たのである。

そして、ついに、宇都宮の決定的な落ち度を見つけたのである。








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