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朝業の生い立ち

朝業の母は、平家の娘であった。

その父は、新院蔵人長盛(しんいんくろうどながもり)と言う。

崇徳上皇(新院)に仕えて蔵人(くろうど)となった。蔵人とは、天皇や上皇の秘書的な存在である。

しかし、保元元年(1156年)の保元の乱のおり、父の長盛は、崇徳上皇に味方して敗れ、同族である平清盛に処刑されてしまう。そのため平家とは言いながら、朝業の母にとっては、清盛は(かたき)であった。

ただ、清盛全盛の時代にあっては、いかに平家とは言え、罪人の子として扱われた娘は、不遇の幼少時代や少女時代を送る。

そんな長盛の娘が朝綱の子、業綱(なりつな)と出逢ったのは運命的な巡りあわせだった。平家の一族である平貞能(たいらのさだよし)に庇護されていた娘は、朝綱と貞能の交友関係により業綱と知り合い、たちまち恋に落ちた。

業綱は、娘にとってひとつ年下であった。業綱は、素直で裏表がなく、罪人の娘として後ろ指を指されて育ち、人間不信になっていた娘の心を次第に開かせていった。

心優しい業綱も、娘の不遇に共感し、それが同情から愛情に発展するのにさほど時間はかからなかった。娘も、業綱の優しい心に触れて、お互いは、次第に愛し合うようになった。

そして2人は貞能の仲人により結ばれた。今でいう恋愛結婚だった。

業綱が数えで16歳の時だった。


ただ、乱世にあっては、政略的な意味も深かった。朝綱が2人の結婚を許したのは、娘の微妙な立場が都合よかったからだった。

2人が結ばれた当時は、平家が全盛の時代。そんな平家から嫁を取れば、平家と姻戚関係になり政治的な有利となる。他方、全国各地の源氏が不満を抱え雌伏もしていた。いざ源氏が挙兵し、平家と戦い、万が一勝つことでもあれば、平家の娘を嫁に迎えている事は不利になる。しかし、この娘は、清盛に殺された長盛の娘。ならば、清盛は仇であり、平家の出身であっても、源氏に対しても何とでも言い訳できる立場である。

今と先の事、両方考えて、朝綱はこの結婚を許したのだった。


しかし2人には、そんなことは関係なかった。2人は、本当にお互いを深く愛し合っていた。

2人が結ばれて間もなく、嫡男の弥三郎(やさぶろう)(後の頼綱)が誕生し、その2年後に竹千代、つまり朝業が誕生した。

朝業は、両親に愛情を注がれて育ち、文武だけでなく、人格的にも豊かな子として成長していた。


そんなおりに業綱や娘、朝業との思惑に関係なく、朝綱の主導により進められたのが、この度の塩谷入嗣(しおのやにゅうし)であった。

この頃、業綱は、嫡男の頼綱も、小山氏に猶子(ゆうし)(婿入りという形ではない養子関係。契約上の親子関係で、子供の姓は変わらない)として出されており、業綱は、これに強く心を痛め、この頃より病をわずらうようになり、娘も家族を奪われて、さみしい思いをしていた…




宇都宮朝綱の野望により、朝業の塩谷入嗣を許してしまった惟広だったが、まだ全てをあきらめたわけではなかった。

塩谷は源氏の家であり、藤原氏である宇都宮に乗っ取らせるほど落ちぶれてもいない、由緒正しき家柄である。これを守れるのは、百歩譲っても源氏でしかない。

それに、塩谷には後継ぎがいないわけではない。

惟広は、逆襲に向けて、着々と動き出していた。

まだ、惟広には、頼房と義房がいる。


源平合戦や奥州征伐により戦功が認められた惟広は、頼朝のとりなしにより、官位を任官していた。従五位下(じゅごいげ)安房守(あわのかみ)である。

これに対して、朝綱は、朝業の叙任に動き、朝業も同じ従五位下の任官をさせた。朝業は周防守(すおうのかみ)である。

さらに朝綱は、塩谷家の家督を継ぐ事が出来る惟頼の子らである頼房と義房を排除すべく動き、頼房には、頼朝の直轄領となった奥州の地を守らせるという名目で、奥州に出向させてしまった。

これは、明らかな朝綱の惟広に対する対抗措置であった。


一方で、惟広も負けてはいなかった。


惟広「宇都宮にくれてやるのは、堀江山の城のみぞ。」


惟広は、堀江山の城を取り返す事にはこだわっていなかった。塩谷の本流が源氏にある事を証明できれば良い。そう考えていた惟広は、喜連川を中心にして堀江からの旧臣たちを取り込み、朝業を孤立させ、実質的な塩谷の支配権を獲得しようとしていた。

かつて堀江十勇士と呼ばれた家来たちの子孫である小入氏(おいれし)小幡氏(おばたし)などは、惟広に属するようになっていた。

さらに惟広は、大蔵崎の築城と同時に、城下町に箒根神社という社を作り、ここに兄の惟頼を神として奉ったのである。

朝綱は、塩谷の地から源氏を排除しようとしていたが、惟広は、そんな朝綱の逆手を取り、また兄に対する畏敬の念をこめ、惟頼の旧臣たちを次々と取り込んでいったのだった。



しかし、宇都宮は、全国的な有力御家人であり、惟広が対するにはあまりにも強大過ぎた。このままやり続けても、やはり地力の差で政治的に負けてしまうのは、惟広も解っていた。

付け入る隙は無いでもなかった。



宇都宮との政争に勝つには、宇都宮に対抗出来る力を持つ後ろ盾が必要だった。

そこで惟広が注目したのは、新しく下野国司として朝廷より任命された野呂行房という男であった。この男は、曲がった事が大嫌いな熱血漢で、謀略を巡らす朝綱をして「扱いずらい」と言う国司であった。


惟広は、この男にかけようと考えたのである。









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