宇都宮の野望 藤姓塩谷氏の誕生
惟頼の跡を継いだ嫡男の正義は病弱であった。
そのためか、惟頼が亡くなると、塩谷の政治の中心は正義のいる堀江山城から、惟広のいる大蔵崎城へと、いつの間にか移っていた。惟広は、源平合戦での戦功もあって、鎌倉での覚えも高く、家臣たちも正義を通り越して、惟広に従うようになっていた。
正義にしてみれば面白くない話であったが、どうしようもなかった。
やがて正義は、病に臥すようになった。
正義は、弟の朝義を代理として惟広に対抗しようとしたが、朝義も若く、惟広から政治の主導権を奪う事など出来なかった。
ただ、惟広は、正義から政治の実権を奪おうなどとは思っていなかった。塩谷氏の当主は惟頼の子である正義であり、正義を盛り立て支えるために政務を担っていただけで、正義が立派な当主として成長したら、自らは引退するつもりであった。
大蔵崎城は、その隠居のための城であり、だからこそ、喜連川に分家を構え、塩谷氏の居城である堀江山城を出たのだ。
正義が、自らを誤解している事は知っていたが、正義は若く、自分は老いているから、自分が厳しく正義を育ておけば、その内老いて先に死ぬのは自分なのだから、そうなれば、政治の実権は正義に移り、自然に問題も解決するだろうと惟広は考えていた。
ところが、惟広にとっては、思わぬ事態に発展する。正義が、惟頼が亡くなってから一年ほどで、帰らぬ人となってしまったのである。
惟広にとっては、青天の霹靂だった。兄に桔梗の子を守ってほしいと託されながら、守れないどころか、誤解されたまま逝かれてしまった。惟広は後悔の念でいっぱいだった。
惟広(なぜ、もっと俺から腹を割って話そうとしなかったのか…)
自分が老いて先に死ねば解決する…そう安易に考えていた自分に腹が立った。
だが、後悔先に立たずのことわりの如く、もはや事態は取り返しがつかないところまで至っていたのである。
正義の死後、正義には子が無かったので、遺言により、その家督は弟の朝義が継いだ。
しかし、朝義は、このままでは政治の実権どころか、家督まで惟広に奪われてしまうと危惧していた。朝義には娘はいたが、家督を継ぐべき男子がいなかったのだ。
頼房と義房という2人の弟はいたが、この2人は、なぜか叔父である惟広の事を信頼していて、どうにも頼りにならない。兄の正義もこの2人の弟には心を許していなかった。
一方で惟広には、桔梗が亡くなった後に惟頼の仲介で妻を得て、3人の男子をもうけていた。
このままでは、自分だけが孤立して、全てを叔父の惟広に奪われてしまうと考えた朝義は、かつての堀江氏の最大の支援者であった宇都宮氏に接近したのである。宇都宮氏の後ろ盾を得て、惟広に対抗しようとしたのだった。
これを受けた宇都宮朝綱は、かねてより北下野への進出を狙っていたが、朝義が接近するなり、これを好機ととらえ、早速行動を起こした。朝綱は、堀江氏初代の堀江頼純を助けた宇都宮宗綱の子であり、この頃、70にも迫ろうとする年になっていた。
朝綱は、自らの子を塩谷郡の南部にある氏家郷を支配する氏家氏に養子に送り込み、この支配に成功して、さらなる北進を企んでいた。一方で、源平合戦の際には、宇都宮氏も戦功をあげて、九州や四国などに所領を得て、その勢力を大きく拡大していた。
朝綱は、接近してきた朝義に対して、朝義の娘婿に自らの孫である竹千代を差し出す事を提案したのである。朝義は、竹千代を養子に迎えれば、塩谷氏は宇都宮氏と血縁関係になり、惟広に家督を奪われる事もなく、最近塩谷領を脅かすようになってきた那須氏にも対抗出来るようになると考え、これを、ほとんど二つ返事と変わらない勢いで受けたのだった。
朝義は、これをほとんど独断で決定した。
惟広がこれを察知したのは、朝綱と朝義がこれを決定した後だった。朝綱も、朝義と惟広が対立している事を知っていたため、話を進めている事をほとんど漏らさなかったのだ。
惟広にしてみれば愚かな事だった。この合意は、塩谷領を宇都宮氏に譲り渡し、堀江の家を宇都宮の分家としてしまうのと同じである。朝義の父である惟頼は、朝綱が氏家氏に養子を送り込んでこれをのっとった時、堀江の家もいずれそうなってしまうのではないかと危惧していたが、まさに同じ事が起きようとしていたのだった。
惟広は、慌てて堀江山城にかけつけたが、しかし朝義は、惟広の意見など聞き入れるはずもなかった。そもそも惟広憎しで決めた事である。その張本人である惟広が、たとえ正論を言おうとも、全てうっとうしいものとしか感じられなかった。
この頃、頼朝と義経の対立が最終局面を迎えていた。義経は、頼朝との政治闘争に敗れて、奥州藤原氏を頼り奥州に入っていたが、文治5年(1189年)4月30日、それまで義経をかくまっていた藤原泰衡は、頼朝との対立を避けるために義経を殺害し、その首を鎌倉に届けたのである。
ところが、頼朝は、これに激怒する。頼朝は、奥州藤原氏に対して、それまで義経の捕縛と引き渡しを求めていたが、勝手に殺してしまった事は許せないとして、頼朝は奥州征伐を決意したのである。
頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼして、先祖である源義家公以来の因縁の地である奥州を取り戻そうとしていた。そのための口実を探していたのである。泰衡が義経を殺したことは、頼朝にとっては、戦上手な義経が死んだことで戦をやりやすくなっただけでなく、奥州を攻め取る絶好の口実となったのである。
この戦に当然、堀江氏にも召集の声がかかり、朝義は、惟広を代理として出陣させた。
惟広(なんて事だ… こんな時に…)
惟広にとっては内憂を抱えたままの出陣であったが、頼朝の命令ではどうしようもなかった。
そして朝義は、惟広がいない間に話を進め、同年9月3日、泰衡が殺害されて奥州藤原氏が滅亡すると、朝義は、自分の娘と朝綱の孫である竹千代を娶せて、竹千代を養子とした。
竹千代は、これを契機に元服。朝義の「朝」と、竹千代の父である宇都宮業綱の「業」の字を取って、塩谷朝業と名乗った。
朝業は、この時16歳であった。
こうして、藤姓塩谷氏が誕生したのである。