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平家滅亡

木曽義仲を討った頼朝の軍勢にいた惟頼と惟広は、そのまま京に留まり、都の治安維持に従事していた。しかし、この頼朝と義仲の源氏同士が争っていた間に、平氏は勢力を盛り返し、西国に逃れていた平氏の軍勢は、福原京(現在の兵庫県神戸市付近)にまで進出し、京都奪還の機会をうかがっていた。

これに対して後白河法皇は、義仲を討った6日後の寿永3年(1184年)1月26日、頼朝に対して平家追討の院宣を下し、義仲追討のために京に派遣されていた源範頼と義経兄弟を大将とする頼朝軍は、そのまま平家追討に向かう事になった。


2月4日、源範頼が主力である大手軍5万6000余騎、義経が別働隊である搦手(からめて)軍として2万余騎、総勢7万6000余騎を率いて、平氏の本拠地である福原京に向けて出立した。


鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡(あづまかがみ)によれば、範頼軍旗下32名の旗本の武将の中に塩谷五郎惟広の名が見える。しかしながら、範頼の軍勢にも、義経旗下13名の旗本の武将の中にも、兄の惟頼の名は見えない。

塩谷宗家の系図である秋田塩谷系譜にも、惟広が平家追討軍に加わった明確な記述があるが、惟頼については記述が曖昧である。

この時、惟頼は、留守役として京に残っていた。一度は隠居した身であり、前線には出ず、塩谷軍の主力は惟広に預け、軍事の全てを任せていたのである。


範頼軍は真っ直ぐ福原京を目指す一方、義経軍は、北側を迂回して、背後より福原京に迫った。迎え撃つ平氏にも数万の軍勢があったとされるが、義経は、精鋭70騎の兵とともに鵯越(ひよどりごえ)において(さか)落としの奇襲攻撃に成功し、平氏を海に追い落として、源氏はこの合戦に勝利する。いわゆる一の谷の戦いである。

この戦いでは、多くの平家の一族の者が討死し、その中には、平敦盛(たいらのあつもり)という16歳の若い武将もいた。のちに織田信長が好んで歌った「敦盛」のその人である。


 

 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり

 一度(ひとたび)生を受け 滅せぬ者のあるべきか


 

 人間の一生は五十年と言えど、壮大なこの時流の中では、

 一瞬の夢幻のようなものだ

 一度生を受けた人間は、いかに栄えようとも必ず滅びゆくものだ…



福原で大敗した平氏は、再び西国の九州に逃亡する。

範頼は、いったん鎌倉に戻り、義経は京に留まって防衛に当たる。

惟頼と惟広は、義経に従い、京に留まっている。


寿永3年(1184年)4月16日、後白河法皇は、元号を元暦(げんりゃく)に改元。平家の時代が終焉した事を世に印象付けると、同年7月28日、平家が擁立していた安徳天皇に三種の神器があったにも関わらず、神器がないまま、その弟である後鳥羽天皇の即位式を強行した。践祚は、この1年前に行われており、後白河法皇が擁立する後鳥羽天皇と、平家が擁立する安徳天皇の並立が続いていたが、即位の強行により、後白河法皇が平家に絶縁を突きつける形となった。

この時、兄の安徳天皇は7歳、後鳥羽天皇は5歳。幼い兄弟の運命は、時代の流れに翻弄されていったのだった。


同年8月、範頼が京都に戻り、九州遠征軍を起こす。ここにも惟広が加わり、惟頼は京で留守を担った。

だが、四国に平家の勢力を残したまま九州に向かった事で、この作戦は失敗する。瀬戸内海の制海権を平氏に奪われ、糧道の確保が思うようにいかず、範頼軍は、九州に渡る事も出来ないまま山陽道の端に釘づけにされてしまった。

これを見た頼朝は、翌年2月、義経に軍勢を与えて範頼の援軍に向かわせた。義経は、真っ直ぐ山陽道を押して範頼の援軍には向かわず、まず四国の平家水軍の拠点を攻めて、瀬戸内海の制海権を抑えようとした。屋島の戦いである。

義経は、この戦いで勝利して瀬戸内海の制海権を抑えつつ西進した。

この時、義経の配下にいた下野の武将である那須与一こと那須宗隆(なすむねたか)が扇の的を落として武名を馳せている。那須氏は、北下野に勢力を拡大し、この頃、塩谷領の近くに沢村城や稗田城(ひえたじょう)を築き、惟頼や惟広の脅威となりつつあった。


義経の活躍により、糧道の確保が成った範頼軍は、元暦2年(1185年)2月1日、芦屋浦(あしやうら)の戦い(現在の福岡県芦屋町付近での戦い)に勝利して九州に上陸する事に成功。源氏方は、関門海峡の両岸と瀬戸内海を抑え、平氏を長門国(ながとのくに)彦島(ひこしま)(現在の山口県下関)に孤立させる事に成功した。



そして、元暦2年(1185年)3月24日…



壇ノ浦の戦いで、平家は滅亡した。

陸と海を源氏に囲まれ、関門海峡に孤立した平家は、緒戦は善戦もしたが、海の藻屑と消え去った。

まだ数えで8歳であった安徳天皇も、平家一門の二位尼(にいのあま)以下の女たちとともに入水自殺し、その幼い命を散らした。


これにより源平合戦は源氏の勝利で終わった。

惟頼と惟広も、この後、塩谷の地に凱旋する。

特に惟広の活躍は目覚ましく、吾妻鏡はこう記す。


 所被遣鎮西之御家人等、塩谷五郎以下多以帰参訖…

 

 鎮西(九州・西国)に遣わされた御家人たち、

 塩谷五郎以下多くの者たちが帰参した…


鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡が、源平合戦で帰参した武将の筆頭として、塩谷五郎、つまり惟広の名を記しているのである。その名がいかに轟いていたかをうかがうことが出来る。


その後、惟広は、惟頼とは別に新たに喜連川を中心とする十五郷(三千町)の領地を与えられて独立する。いわゆる喜連川塩谷氏の発祥である。








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