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12歳と7歳の夫婦愛 ~大姫の悲劇~

叔父の志田義広を破って関東を制した頼朝であったが、寿永2年(1183年)2月、義広は頼朝の追っ手を逃れて木曽義仲を頼り、義仲もこれを保護して、頼朝と義仲の対立が深刻となった。

そもそも源氏の棟梁は2人もいらないと思っていた頼朝にとって、義仲はうとましい存在であったが、義広を保護した事で、頼朝の怒りは頂点に達した。

だが、ここで源氏同士が争えば、京にある平氏を利するだけで何の得もない。また、より京に近い位置にいた義仲は、その余裕からか頼朝を下に見ており、一刻も早く平氏を討ちたい義仲は、頼朝を相手にするつもりなど毛頭なかった。


義仲は、信濃国(しなののくに)(現在の長野県)の南部にある木曽谷を根拠とする源氏で、頼朝同様、以仁王の令旨をきっかけにして挙兵していた。

関東に勢力基盤を築こうとした頼朝に対して、義仲は、木曽谷から北に勢力を拡大し、越後(えちご)(現在の新潟県)に進出して、これより北陸道を西進した。これは、関東で勢力を拡大していた頼朝との対立を避け、一刻も早く京に向かい平氏を討つ事を優先したためで、関東の上野国(こうづけのくに)(現在の群馬県)には、父の旧領があったが、頼朝の影響力が薄い北陸に進出したのである。


義仲が、義広を保護したのは単に親類縁者としての情によるものだったが、頼朝の激怒ぶりを見た義仲は、今は平氏との戦いを優先し、頼朝との対立を避けるため、嫡男の義高を人質として頼朝に差し出す事を提案する。義高はこの時まだ数えで11歳。

これには頼朝も驚き、義仲が下手に出た事に気を良くして、同年3月、この提案を受け入れ義仲と和睦する。また、ただ人質として差し出すと、源氏同士の内紛と受け取られ、平氏に対して弱味を見せる事になるため、頼朝は、義高を自分の娘の婿として迎える事にしたのだった。

その頼朝の娘を大姫(おおひめ)と言った。この時、まだ数えで6歳。満で言えば5歳で、現代ならば小学校にも上がらない娘が、父の政略のために、11歳の少年と結婚させられたのである。


そして、この結婚は、わずか1年ほどで、悲劇的な結末を迎える事になる…




義仲は、頼朝と和睦して後顧の憂いをなくすと、西に向けて快進撃を見せる。

同年5月11日、越中国(えっちゅうのくに)(現在の富山県)と加賀国(かがのくに)(現在の石川県)の国境にある倶利伽羅峠(くりからとうげ)で、平氏軍10万の大軍を迎え撃った義仲は、平氏軍に夜襲をかけ大勝利を収めた。この奇襲攻撃にさしもの大軍も動揺し、その大半が谷底に落ちて死んでいったという。

義仲は、そのまま北陸道を進撃し、7月25日、平家は安徳天皇を連れて京を脱出。その2日後の27日に義仲が入京し、義仲はついに上洛を果たしたのである。

この2年前に、平氏の最大の求心力であった清盛が亡くなり、10万もの大軍を失った平氏には、もはや京を死守する力はなくなっていた。こうして、京に再び源氏の旗がひるがえったのだった。


これに嫉妬したのが頼朝であった。頼朝は、義仲に先を越された事を悔しがり、このままでは、義仲の下にされてしまう事を恐れた。ところが、そんな頼朝を喜ばせる出来事が勃発する。

義仲と義仲を支援してきた後白河法皇が、皇位継承問題で対立したのである。後白河法皇を擁して快進撃を続けてきた義仲であったが、それにほころびが見え始めたのだった。

この機を逃さず、すかさず頼朝は後白河法皇に接近した。すると法皇も、義仲が平家追討のために西国に向けて出陣し京を離れると、10月には、頼朝に東国支配を認める宣旨(寿永の宣旨)を発し、さらに頼朝に上洛を促したのである。


これで立場を逆転させた頼朝は、すぐさま弟の範頼と義経に軍勢を与え、京の義仲を討つために進軍させた。この軍勢には、惟頼と惟広も加わっていた。

その頃、西国では平家に惨敗を喫していた義仲は京に戻り、義仲は後白河法皇に頼朝追討の宣旨を下すように求めるが法皇は応じず、11月頼朝軍が近江国(おうみのくに)(現在の滋賀県)に達すると、義仲は法皇を幽閉する暴挙に出て強引に頼朝追討の院宣を引き出し、軍勢を整えた。

しかし、法皇を幽閉した事により、人望を失っていた義仲の下に兵は集まらず、寿永3年(1184年)1月、頼朝軍に宇治川や瀬田の戦いで敗れ、同月20日、頼朝軍の追撃にあって義仲は討死した。享年31。

これにより、天下の趨勢(すうせい)は頼朝に傾くことになった。




父を失った義高は、頼朝の娘婿から謀反人の子に落ちた。そして頼朝は、ついに義高の殺害をも画策するのである。これを知った7歳になっていた大姫は、同年4月21日、義高に女装させて落ち延びさせた。短い間とは言え、義高と心を通じ合わせていた大姫は、妻として、何としても夫の義高を助けたかった。

だが、事は露見し、激怒した頼朝は、すぐさま追っ手を向けた。

これを聞いた大姫は、何とか義高が無事に落ち延びてくれる事を願ったが、4月26日に捉えられ、そのまま首を打たれたのだった。義高の享年、わずかに12。

こうして12歳と7歳の幼い夫婦は、悲劇的な終焉を迎えたのだった。

大姫は、この知らせを聞いて嘆き悲しみ、病に伏してしまった。

これを聞いた頼朝は、なんと、自分が出した命令に従い義高を殺害した家来の藤内光澄を、配慮が足りなかったために娘が病になったとして斬首し、さらし首にしたのである。

全てが理不尽と言うしかなかった…


その後、大姫は、ずっと義高の事を思い続けて、良縁を断り続け、天皇との婚姻すらも拒み、生涯、義高の妻である事を貫き通して、わずか20歳という若さで死去している。

6歳にして知った愛に生きた美しき女の一生であった。




惟頼と惟広は、範頼と義経に従い京に入り、その軍勢は、そのまま平家追討へと向かう事になるのだった。










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