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源頼朝の挙兵

桔梗の死に落胆した惟頼は、もう桔梗のそばを離れたくないという思いから、隠居を決意し、家督を嫡男の正義に譲り、実権は握り続けたものの、実務は全て正義に委ねて京へ上らせ朝廷に出仕させた。その補佐には、惟広をつけ、戦などの時には、惟広を総大将として出陣させるようになった。

惟広は、逆に桔梗のいない塩谷の地に未練はなく、むしろ離れていたかったので、惟頼のこの命にためらいは全くなかった。

惟頼は、桔梗と惟広の関係を疑わないではなかった。自分がいない間、何かあったとしてもおかしくない。特に惟広が、女子(おなご)に人気があり、惟広自身が、女子の扱いに長けていた事も知っている。あったと思うべきかもしれない。

けれども、これ以上、桔梗の事を汚したくは無かった。桔梗は美しい女であり、良き妻であった。命を賭した事が、その証である。何事かあったとしても、もう関係ない。今は、その良き妻であった桔梗のそばにいたい。それだけだった。

だから、惟広の事も責めないし、恨まない。そう決めていた。

思いはそれぞれ違ってはいたが、堀江家は、桔梗の下に再びひとつにまとまろうとしていた。




さて、その頃、京都では政変が勃発していた。京では、院政を敷く後白河法皇と武家最高の実力者である平清盛の対立が続いていたが、治承3年(1179年)11月14日、ついに平清盛がクーデターを起こし、数千騎の軍勢で都を占拠。15日には、当時の関白であった藤原基房と師家(もろいえ)の父子が官職を剥奪され、17日には、太政大臣藤原 師長(もろなが)以下39名の後白河法皇の側近が官職を剥奪された。

20日には、後白河法皇自身が幽閉され、翌年の治承4年(1180年)2月には、数えでまだ3歳(満年齢で言えば2歳)の安徳天皇が践祚(せんそ)し、同年4月に即位した。


これに対して、後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)が抵抗し、治承4年4月9日、全国の源氏に対して、平氏追討の令旨を発した。同年5月26日には、以仁王は平家に追われて討死するが、この令旨は、全国の源氏を結集させるきっかけとなったのである。


この令旨は、惟頼の下にも届けられていた。惟頼は、挙兵すべきか、全国の政情を見極めてから判断するつもりであったが、平家が源氏追討の動きを見せると、座して討たれるは本望にあらずと決意し、ただちに惟広を呼び、挙兵の意思を伝えた。あとは時期の見極めだけであった。


同年8月、伊豆にあった源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵し、一度は敗れるも、房総(現在の千葉県)に逃れ、房総の有力士族である千葉常胤(ちばひろつね)上総広常(かずさひろつね)の協力を得て、10月には武蔵国(現在の埼玉、東京と神奈川県の一部)を勢力下におき、さらに南下して鎌倉に入り、南関東を勢力下に治めた。


それからの頼朝は破竹の勢いであった。

10月20日には、頼朝追討のために平氏より派遣された数万の軍勢を駿河国(するがのくに)(現在の静岡県東部)の富士川で破り、11月4日には北関東の常陸国府に入り、5日には北関東の雄で同じ源氏である佐竹氏が金砂城(かなさじょう)に立て籠もるとこれを攻め、7日には落城。常陸国も勢力下に治め、関東のほぼ全てを掌握した。


これを見た惟頼は、頼朝に従う事を決意した。自分も頼朝と同じように源氏の棟梁として立ち、頼朝が台頭すると、これと対立して関東支配を目指す事も考えていたが、常陸の佐竹氏が敗れたのを見て、今はこの時流には逆らえないと見たのである。

背景には、同じ下野士族である宇都宮氏が、早くから頼朝に恭順していたこともあった。




これより間もなく、惟頼は、惟広を伴い鎌倉に入り、頼朝に恭順の意を示した。


頼朝「遠路はるばる大義であった。聞けば同じ河内源氏であるとか。その堀江殿のご助力がいただければありがたい。以後、よしなに頼むぞ。」

惟頼「はは、ありがたき幸せ。」


こうして堀江家は、頼朝の旗本となり、鎌倉には惟広が出仕するようになった。


さて、この鎌倉への道の途中には、惟頼と惟広の祖父である頼純が討たれた堀江家にとっての因縁の地である上田山があった。

惟頼が鎌倉に向かう途中、ここで一行の足を止め、惟純と堀江十勇士と讃えられ18歳で散った関谷兼通の御霊を弔った。

惟頼は、感慨深げに言った。


惟頼「もし… もしここで頼純公が討たれていなかったら、我ら堀江家は、関東の雄として、今の頼朝殿のようになれていたであろうか…」

惟広「どうだろうか… 父上は、よく頼純公が、源氏の棟梁になる夢を持っていたことを話されておられた。あるいは、下野一国くらいは、頼純公と父上の代で支配していたかもしれぬ。」

惟頼「下野一国あれば… 関東を支配できた。」

惟広「本気か? 兄上。」

惟頼「俺の頭とお前の力があれば出来た。頼朝などに負けはせぬ。全ては時流に敗れただけだ。」

惟広「なるほど… だが、皮肉な事に、それが全てなようだ。今は…」

惟頼「……」


祖父の頼純公は、この時代の流れをどう見ているだろうか。惟頼は、そう思いを馳せると、頼純公の無念の声だけしかしないような気がしてならなかった。

そして、惟頼も同じ思いであった…



寿永2年(1183年)2月23日、下野国で野木宮(のぎみや)合戦が勃発する。これは、頼朝の叔父にあたる志田義広が挙兵し、頼朝に反乱したものだが、これに対して頼朝の命を受けた小山氏が謀略を以て義広軍を破り、義広は追放された。

この戦いでは、下野南部の有力豪族である足利氏も加わっていたが、この足利氏は、のちに幕府を開く源氏を源流とする足利氏ではなく、藤原氏を源流とする足利氏で、この戦いをきっかけに衰退し、代わって源氏の足利氏が台頭する事になる。

惟頼と惟広は、この合戦に頼朝側として参戦し、戦功を挙げた。


その後、関東をほぼ手中にした頼朝であったが、それよりも先に京へ上洛を果たした源氏がいた。木曽義仲である。この頼朝と義仲の2人の源氏の棟梁は、その対立を深めていくのである。








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