我が名は女なり
ある日、惟広は、母と姉の由布の末屋敷に、いつものように呼び出されたが、目通りするなり、惟広は、由布にいきなり物を投げつけられた。その顔は怒りに満ち、声を荒げて言った。
由布「おぬしに裏切られようとは思わなんだわ!!!」
惟広「な、何事ですか?」
由布「おぬし、桔梗と通じておったろう!?」
惟広「な、なんと!?」
由布「とぼけても無駄じゃ!! すでに報告は受けておる。しかも、男と女の関係にあったとか。許せん!! ほんに許せん!!!!」
惟広は、バレたと思いつつも、意を決してとぼけ続けた。由布は確信を持っているようだが、認めたら、自分だけでなく桔梗の破滅でもある。それだけは避けなければならない。惟広は、どんなに由布に責められ、たとえ白々しくなっても、桔梗との関係を認めなかった。
惟広「そのようなくだらない話なら、もう付き合う必要はない。」
由布「惟頼殿に言うぞ!」
惟広「どうぞ、ご自由に。姉上の錯乱も、そこまでとは思わなんだ。」
由布「おのれ惟広!!」
惟広「では、失礼つかまつる。」
そして惟広は、強引に席を立って屋敷を出て行った。
しかし、怒りの収まらない由布は、すぐさま堀江山城に向かい、惟頼が留守であることをいいことに、ずかずかと桔梗の部屋に真っ直ぐ入って行った。
由布「桔梗!! おのれ、不貞のやからめが!!!」
すると、いきなり由布は、桔梗の頬を平手打ちにした。
傍にいた女中が間に入った。
女中「何をなさいます!?」
由布「何をなさいますではないわ!! この女、夫がありながら、他の男と通じておったんじゃ!!」
女中「な、なんと!?」
桔梗「!?」
桔梗は、言葉を失い愕然とした。ついに…
しかし、桔梗はすぐに気を強くした。
例え真実でも認めるわけにはいかなかった。
桔梗には、守るべきものがある。
由布「こんな奴、こうされて当然なのじゃ!!」
すると由布は、制止する女中を振り切って、桔梗にせっかんを始めた。
由布「桔梗、認めよ!! おぬし、惟広殿と通じておったろう!!」
女中たちは、由布から飛び出す信じられない事実に、呆然とそれを見守るしか出来なかった。
けれども、桔梗は開き直っていた。
桔梗「そのような事はしておりませぬ。」
由布「何を白々しい!! すでに証拠は上がっておるのじゃ!!!」
卑怯なのは解っていた。
こういう時は、潔くすべきなのも解っていた。
由布が言っている事は真実だ。
真実に背くことは人の道ではない。
けれども認めたら、愛するべきものが全て壊れてしまう。
女として愛した惟広も…
母として愛した子供たちも…
妻として愛した惟頼と築いてきたものも…
自業自得なのだから、自分が悪女の名を着て滅び去る事はもう構わない。
それを弁解しようなどとは思っていない。
けれども、そんな自分のために、愛する者たちを巻き添えにするわけにはいかなかった。
愛する者のために生きるのが女の務め。
それが女の本懐であり、そのために死ぬことは女の本望。
私は、人である前に女である。
桔梗は、心を鬼にして女になった。
我が名は女なり
桔梗は、こうなった時の覚悟は、すでに惟広との関係を持った時から決めていた。
だからこそ、こんなわずかな時間でも意を決する事が出来た。
あとは、女としての本懐を遂げるだけであった…
桔梗は、どんなに白々しくなっても、どんなに卑怯に見えても、惟広との関係を認めず、黙って由布のせっかんに堪え続けた。女になった桔梗にとって、それは何の苦しみでもなかった。むしろ、これで愛する者全てが守れるなら幸せだった。
やがて桔梗は、由布にせっかんされる中で気を失っていた。
それに気付いた女中が我に返り、由布を止めて、桔梗を別室に運んだ。
この騒動を聞きつけた惟広が城にかけつけたが、桔梗は、すでに満身創痍で気を失い床に伏せていた。由布は、城を出てすでに自分の屋敷に戻っており、惟広が駆けつけた時には城にはいなかった。
惟広も、まさかこんなに早く由布がこんな大胆な行動を起こすとは思わず、不意を突かれた感じであった。
傍にいた女中が、事の経緯を惟広に話した。
女中「まさか、惟広様。本当に桔梗様と…」
惟広「それはない… それは無い…」
惟広は、力なく肩を落とした。
それを見た女中も何かを察して、それ以上は何も聞かなかった。
惟広(この上は、俺が腹を切って…)
自分が責めを負えば、全てが解決する…
惟広も、そう思い詰めるようになっていた。
しかし、惟広はすぐには腹を切らなかった。未練があったということもあったが、何より、桔梗の事が気がかりでまだ死ねなかった。もし、真実が知られてしまえば、桔梗には誰も味方がいなくなる。そうなった時に自分がいなければ…
騒動は、惟頼の知れるところとなり、惟頼は、真偽を確かめるため、桔梗と由布、そして惟広を呼び出し、事の真相を確かめる事にした。
呼び出された惟広は、もしもの時は腹を切る覚悟であった。もちろんそれは、桔梗の命と引き換えにだ。桔梗を生かしてくれるなら、惟広は、喜んで腹を切るつもりであった。
だが、1人では死なない。死ぬ時は、由布も道連れにするつもりであった。由布を残したまま、死ぬことだけは惟広には出来なかった。
由布は、とにかく憎き桔梗を葬り去る事しか頭になかった。
そして桔梗は、これを前にして、一通の手紙をしたためていた。
それを1人の女中に託した。
桔梗「私にもしもの事があった時は、これを惟広様に届けてください。」
女中「まさか、桔梗様…」
桔梗「全てはお家のため… 惟頼様、我が子たち、惟広様… 堀江家のためです。」
女中「…解りました。」
桔梗は、安堵の笑みを浮かべると、それから子供たちのいる部屋に立ち寄った。
そして、自分が産んだ子供たちの1人1人を抱きしめた。
子供らは、何も解らず、母のそれを受け入れた。
桔梗(こんな母を許しておくれ… 女である事を捨てられなかった私を…)
そして桔梗は、後ろ髪をひかれる思いを振り切り、惟頼たちの待つ広間へと向かった。
堀江山城の広間には、惟頼を上座にして、すでに由布と惟広が待ち構えていた。
それぞれが覚悟を秘め、場は異様な空気に包まれていた。
桔梗が来ると、惟頼は、広間を4人だけにして、他の者を下がらせた。
惟頼「それでは、始めるとするか。姉上、桔梗が惟広と通じておるとはどういう事じゃ。」
由布「ある日、桔梗に仕える者より密告があったのじゃ。」
惟頼「…さようか。では惟広に聞く。桔梗は、わが妻じゃ。」
惟広「存じております。」
惟頼「本当に、桔梗と通じておったのか?」
惟広「そのような事は…ございません。」
由布「嘘をつけ!!」
由布が声を荒げた。
由布「おぬしたちを見た女中は1人2人ではないわ!!」
惟頼「誰と誰が見たのか?」
由布「それは言えぬ。知れれば、惟広と桔梗に口封じに殺されてしまうわ。」
惟頼「……」
惟頼は、桔梗の事を信じたかった。
けれども、惟広の事は、信じ切れていなかった。昔からこういう事は得意なやつ。もしかしたら、桔梗までをも奪われてしまったかも知れない… このような事があると、桔梗の事まで疑心暗鬼になってしまう。
惟頼「桔梗、本当に惟広とは何も無かったのか…」
桔梗「はい…。」
しかし、惟頼は、役目上城を留守にする事は多かった。その間、城代を務めていたのは惟広だ。そういう関係になろうと思えば出来たろうし、それをやられたら防ぎようもない。考えれば考えるほどに疑わしい。何より… 惟頼は、惟広の性格をよく知っていた。特に嘘をついた時の表情や仕草… 今の惟広は、惟頼には、嘘をついているように見えた。
惟頼「桔梗、本当に惟広とは何もないのだな…」
すると桔梗は、今までに見せた事のない覚悟を決めたするどい目線で、惟頼を見つめた。
桔梗「との、私を信じていただけませぬか。」
惟頼「いや、そのようなわけではないが…」
桔梗「いえ、信じていただけておりませぬ。」
由布「信じられるわけが無かろう!!」
桔梗「黙れ! 由布!!」
由布「!?」
それは、初めての事だった。
桔梗が由布に向かって刃向ったのは、それが初めてだった。
その気迫に由布は驚き、言葉を失ってしまった。
桔梗「私は、堀江のために尽くしてまいりました。その堀江の家を裏切るような事は決していたしておりませぬ。されど、こうして疑われたのは、私の不徳のいたすところ。なれば、潔白を証明し、不徳の罪を拭わなければなりません。」
すると桔梗は、胸元から懐剣を取り出した。
惟頼「な、何を…」
桔梗「これが私なりのケジメにござりまする!!」
そして桔梗は、その懐剣を自らの胸元に突き刺した。
桔梗「ぐ…」
惟頼「き、桔梗ぉ!!!」
惟広「!?」
惟頼と惟広がすぐさま桔梗に駆け寄った。
桔梗「との…申し訳ありませぬ…」
惟頼「桔梗、わしが悪かった! 疑ったわしが…」
惟頼は、すぐさま懐剣を引き抜いたが、すでに桔梗は虫の息だった。
桔梗「惟広様にも申し訳ありませぬ。これからの堀江の事…お頼み申し上げまする…」
惟広「き、桔梗…どの…」
惟広の目に熱いものがあふれた。
桔梗「このような私を…お許し下さい…」
そして、桔梗は息絶えた。
惟頼「桔梗!!!」
すると惟頼は、怒り狂った表情で由布をにらみつけた。
惟頼「こうなったのも、全てお前のせいじゃ。いい加減な諫言をするからじゃ!!!」
由布「な、何を…」
由布は腰を抜かして動けなくなっていた。
そんな由布に惟頼は刀を抜いた。
惟頼「お前だけは許せぬ!!」
惟頼は、ためらいなく刀を振り下ろした。
由布「ぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
広間は、由布の真っ赤な血に染まり、由布もあっという間に息絶えた。
こうして、全ては終わりを告げた。
桔梗は、全てを終わらせるつもりだった。
終わらせるために、自らの命を賭した。
その思いは、最後にしたためた惟広への手紙に残されていた。
惟広が自分の館に戻ると、そこには桔梗の侍女が待っていて、最後に託された手紙を惟広に渡した。そこには、惟広には生きていて欲しい事、惟頼と子供たちの今後の事、そして堀江家を支えていってほしい事、桔梗の心残りの全てが書き記されていた。
桔梗「私は、もう疲れました。だから、これで全てを終わりしたいと思います。」
惟広「き、桔梗…」
惟広は、手紙を前に泣き伏していた。
こんなに泣いたのは初めてかもしれないと思うほどに泣いた。
桔梗と由布の死後、間もなく、桔梗を苦しめた母も病でこの世を去った。人々は、それを桔梗の呪いだと噂した。そして後世、堀江山城があった場所は、桔梗ヶ原として伝えられる事になったのである。