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塩谷の堀江兄弟

塩谷惟純が塩谷郡に復帰して20年以上の時が流れていた。その間の治政は安定し、塩谷の地には穏やかな時が流れていた。


しかし、この時代は、源氏にとっては不遇の時代であった。


惟純の伯父為義の子、つまり従兄に当たる源義朝(みなもとのよしとも)は、惟純が塩谷郡の支配を固めている頃、上総国(かずさのくに)(現在の千葉県)を中心に南関東で勢力を拡大し、上総御曹司として勇名を馳せていた。


そして仁平3年(1153年)、関東で最大の勢力を誇るようになって京に戻っていた義朝は、わずか31歳という若さで下野守に任命された。これは、父為義をも上回る出世であり、これが父子の軋轢を生むことになる。


保元(ほうげん)元年(1156年)7月、時の崇徳上皇と後白河天皇の対立が激化して戦となると、義朝は後白河天皇側につき、為義は崇徳上皇側について袂を分かち、父子で雌雄を決する事になると、義朝の活躍もあって後白河天皇側が勝利。為義は、義朝の前に降伏し、義朝は父為義の助命を願い出るが、聞き入れられず、逆に処刑を命じられて、義朝は、為義だけでなく、為義についた弟や一族郎党の全てを処刑する事になった。いわゆる保元の乱である。


これが源氏の衰退を招く事になる。


この3年後の平治(へいじ)元年(1159年)12月9日、義朝は、平治の乱を起こす。同29日には京で戦闘状態になるが義朝は敗退。明けて平治2年(1160年)1月3日、家臣の裏切りにあって殺害される。


この時、義朝には男女合わせて11人の子らがいたが、長男の悪源太義平(あくげんたよしひら)や次男の朝長(ともなが)らは討死したが、多くの子は全国各地に散らばって雌伏する事になった。その中には、のちに源平合戦で活躍し幕府を打ちたてる事になる源頼朝(みなもとのよりとも)義経(よしつね)などがいた。


ただ、義朝が亡くなって以降は、源氏の勢力は大きく衰退し、代わって平清盛を筆頭として平氏が台頭する事になる。


同じ頃、奥州の地では、奥州藤原氏がその支配を固め、清衡から基衡(もとひら)、そして秀衡(ひでひら)へと、その当主は代替わりしていた。


保元の乱の翌年の保元2年(1157年)、家督を継いだ秀衡は17万騎の旗本を支配する奥州の王となり、その力は中央で勢力を拡大していた平氏ですら手を出せないほどに強大なものとなっていた。中央が混乱する間に平和であった奥州は力を蓄えていたのだ。


その象徴が、奥州の都である平泉であった。その人口は、当時の日本の都であった平安京次ぐもので、日本第二の都市にまで拡大し、また絢爛豪華な文化が花開いていた。


同じ源氏である惟純は、この源氏不遇の時代の影響を受ける立場ではあったが、塩谷郡は奥州に近く、むしろこの奥州繁栄の影響の方が強く、領地は大きく発展を遂げていた。


この間、惟純には2人の男子が誕生していた。嫡男を惟頼(これより)、二男を惟広(これひろ)と言った。兄の惟頼は学問に優れ、惟広は武勇に優れていた。兄弟はとても仲が良く、やがて兄弟は立派に成長し、嫡男の惟頼が惟純の家督を継いだのは、嘉応(かおう)元年(1169年)の頃であった。


すでにこの頃には、平氏は全盛期を迎えており、その中心にいた平清盛は、仁安(にんあん)2年(1167年)には、従一位太政大臣にまで上り詰めていた。この太政大臣は、天智天皇の時代、その皇子であった大友皇子(おおとものみこ)(弘文天皇)のために、皇太子や摂政に匹敵する役職として創設されたものであり、その敬称は、摂政と同じく太閤(たいこう)とする。太閤というと、後世の豊臣秀吉の影響で、関白を辞したものが名乗るものという解釈が一般的になったが、もともとは、摂政と太政大臣の敬称である。


これは名誉職ではあり、実質的な権力を伴うものではなかったが、天皇に次ぐ者として平氏が位置付けられたことを象徴とするものとなった。


その清盛は51歳となり、仁安3年(1168年)には病に倒れて出家してしまうが、その後も権力を掌握し、娘を天皇の妻としたり、当時の中国の王朝である宋との貿易(日宋貿易)を拡大したり、その権勢はまだまだ衰えを見せなかった。


 平氏にあらずんば人にあらず


そんな時代の中で、源氏は肩身を狭くしながら世情を細々と生き抜いていたのだった。



惟頼が家督を継いだ頃には、頼純、惟純の二代に渡って堀江家を支えた堀江十勇士の重臣たちは、老臣となり相次いで没し、家臣団の面々も、その子や新しい顔ぶれの若い世代に一新されていた。


その惟頼には、桔梗(ききょう)の方という美しい妻がいた。昔を知る者からは弥生の生き写しとも言われるほどに美しく、その評判は近隣諸侯にまで広がっていた。惟頼は、この桔梗との間にすでに2人の男子をもうけ、幸せな日々を送っていた。


ところが、嫁の評判が良いと、なぜか姑や小姑が妬みを持つというのは今も昔も変わらないもので、惟頼の塩谷治政は安泰であったが、惟頼は、思わぬところで内憂を抱えていたのだった。







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