源姓塩谷氏の誕生
下野国府は、現在の栃木県栃木市田村町にある宮延神社付近にあった事が、昭和54年(1979年)の発掘調査で明らかになった。昔から都賀郡にあるとだけ伝えられていたが、この時、具体的な場所が判明した。都賀郡の「都」という字も、この辺に由来しているのだろう。
もっとも、最初からここに置かれていたわけではなく、昔は思川の西岸、古国府という地名の場所にあったらしい。いつ頃から、国府として機能していたかは解らないが、続日本紀によれば、宝亀4年(773年)に火災で焼失した記録が残っている。
しかし、平安時代末期になると、その機能もほとんど失われ、国府自体も廃れ始めていた。国司の立場も形骸化し、支配と言うよりは、朝廷との調整役程度の役割しか果たしていなかった。重房を失った行利には、もはや味方する者は誰もいなくなっていた。
それでも行利にはプライドがあった。中納言という身分であり、自分は公家の高貴な身分であり、下等で野蛮な下野武士などに負けるわけがない。そう信じていたのである。
一方、惟純の下には、北下野の諸将が駆けつけ、その軍勢は1000騎にもなっていた。宗綱自身は参陣していなかったが、その中には宗綱の援軍もあった。この時代の1000騎は、のちの戦国時代の1万騎に相当するような大変な数である。
惟純は、重房を討った後、いったん塩谷に帰り、六房寺の頼純と弥生の墓前に重房の首を供えた。そして、重房の首塚を作り、ねんごろに弔った。
初めて人を斬った惟純は、これでやっと自分も一人前の武士になれた気がした。そして、重房に対する思いが少しずつ変わっていた。そこに、重房を祖父のように思う気持ちが芽生えていたのである。実際、重房は祖父なのだが、討つまでは、ただの父母のかたきであり、祖父であるなんて感情は微塵もなかった。けれども、重房を討った後…いや、重房は、まだ人を斬った事がない自分のために、自らの命でそれを教え、本当の武士にしてくれた気がしていた。
そして惟純は、すぐさま塩谷の地を経ち、諸悪の根源である行利がいる国府へと向かった。
この間、行利は、妻を得て2人の子を産んでいた。11歳と9歳になる男子であった。その長男の方は左馬介と言った。現代で言えば、10歳と8歳の幼い子らは、鎧を着て戦う準備を整えていた。行利は、妻と子らには逃げるように言ったが、妻も子もこれを拒んだ。
左馬介「父上、国司の子として、わたしは戦いとうございます。」
行利「さようか。ならば止めぬ。」
行利は、事ここに至っても、まだ負けを認めてはいなかった。従う手勢は100にも満たなかったが、諸将に書状を発し、誰かが助けに来てくれると信じていたのである。その根拠は、自らが高貴であり、下僕は上の者を助けるのが当然という思いだけだった。
だが、当然、誰も助けになど来なかった。世の全てが、すでに行利という男を見限っていたことに、行利自身が気づいていなかったのである。
堀江勢が国府を取り囲み、行利は、完全に逃げ場を失っていた。
行利「なぜじゃ!! ワシは帝より信任された中納言ぞ。なぜ誰も助けに来ぬ!?」
最後の最後まで哀れな男であった。
堀江勢が国府になだれ込むと、行利の手勢はほとんど戦う事もなく降伏。行利や妻、2人の子は、自害する間もなく捕虜となった。
行利と妻、2人の子は、縄を打たれて惟純の前に引き出された。
行利「何をするかっ無礼な!? わしは国司であるぞ!!」
惟純「黙れ逆賊。すでに貴様を討つ院宣は受けておる。」
行利「逆賊!? このわしが逆賊か!? 下郎のくせに!!!」
これを見ていた堀江の家臣たちはいきり立った。そして安藤太は、2人の子を引き出し、行利と妻の前に並べて座らせると、すっと刀を抜いた。
惟純「斬るのか!?」
驚いたのは惟純だった。国司の行利の首だけを取ればよいと思っていた。見れば、2人とも自分よりも幼い子供。それを殺すのは、惟純には忍びなかった。
安藤太「これも堀江の安泰のため。」
しかし、安藤太は、2人を生かしておけば、いずれ大きくなって、惟純に仇を為すと考えていた。惟純が重房を討ったように… だから幼子といえども容赦は出来なかった。
左馬介「父上!! 母上!!」
左馬介は、恐怖のあまり暴れ、涙を流して叫んでいた。
弟はもっとうろたえていた。
妻が叫んだ。
「どうか!! どうか子供たちだけはお助けを!!」
だが… 安藤太は容赦しなかった。
堀江物語絵巻は、こう記している。
若君2人と御前に縄をかけてひきいだし、
日頃の無念を晴れてあり、
これ見たまえと御目にかけ、
御母上の目の前にて、
2人の若を刺し殺し…
左馬介が細首を宙にすんと撃ち落とす…
安藤太は、行利の目の前で頼純と弥生の恨みを晴らすかのように、左馬介ら幼い兄弟を殺し、その首を落とした。
行利「左馬介!!!!」
妻「いやぁぁぁぁ!!!!!」
だが、悲鳴を上げたのはその2人だけだった。堀江の兵たちは、2人の幼子の首が落とされると、どっと勝鬨をあげた。残酷だが、これが戦の世のならい。子らには罪がないのに… そんな理屈は、非常な世には通用しなかった。
だが、安藤太は手を緩めなかった。次は、行利の妻を引き出して、別れを惜しむ間も与えず、その首を打った。
そののち又御前の御首を打ち落とし、
一千余騎の者ども勝鬨をどっとあげける…
堀江物語絵巻は、その悲惨な光景を現在にこう伝えている。
そして、行利を生きながらに苦しめた後で、安藤太は国司の首を打った。
こうして全てが終わった…
堀江山城に戻った惟純は、晴れて塩谷郡の支配に復帰した。
安藤太「若、おめでとうござりまする。」
惟純「うむ。」
惟純にとっては、人生観が変わるほどの激動の初陣であった。一回り大きくなれたと思う一方、重房とあの2人の子の最期の光景が忘れられない、そんな複雑な心境だった。
惟純(犠牲は…あまりにも大きすぎた…)
だが、念願は果たした。
安藤太「若、これよりわが家は、塩谷氏を名乗りなさいませ。」
惟純「塩谷とな?」
安藤太「は。最初に塩谷姓を名乗り、我が家で代々継承していく事を宣言するのです。」
惟純「うむ、俺は堀江惟純ではなく、塩谷惟純となるわけだな。」
安藤太「さようにござりまする。」
惟純は、安藤太の勧めに従い、以後、塩谷姓を名乗る事にした。源姓塩谷氏の誕生である。
以後、源姓塩谷氏による塩谷郡支配が始まるのであった。
第一章「堀江物語」 完