月若の上洛
更科の葬儀が終わると、月若は、権太夫に目通りして言った。
月若「すべては更科から聞きました。私が、源氏であり、堀江頼純の子である事。そして、この仇を討てと言って、更科は逝きました。今まで大変お世話になりましたが、岩瀬を離れる不幸をお許しください。」
月若の決意を聞いた権太夫の隣で、権太夫の妻は、ついにこの時が来てしまったかとむせび泣いていた。出来れば、ずっと我が子のままでいて欲しかったという思いからだった。
権太夫「そうか。更科は、討てと言い残して逝ったか…」
権太夫は、これが定めか…と大きくため息をついた。
権太夫「すべて知ってしまったからには仕方ない。止める事は出来ぬ。ただ、何の身支度も供もないままに行かせるわけにはいかぬ。立派な武将として、塩谷の地に帰るが良い。」
月若「ありがたき幸せ…」
月若にとっても、父と母の悲しむ顔を見るのはつらかった。運命など知らねば、岩瀬で土になっても良かった。しかし、知ってしまったからには、武士として行かなければならない。
権太夫は、月若の出立の準備を進める一方で、安藤太に使者を送った。
すると安藤太から意外な返事が返ってきた。それは塩谷の地には帰ってくるなというものだった。ただ、その判断は、実に冷静なものだった。
安藤太は、まず塩谷の地に来るのではなく、上洛して、朝廷より国司追討の許しを得てくるように説得してきたのである。ただ帰ってきて戦を起こしても、ただの反乱にしかならない。国司や重房を討つには大義名分が必要である。父頼純を討たれた不当を訴えて、朝廷の許しを得なければ戦う事は出来ない。安藤太はそう考えていたのである。
この安藤太の考えに権太夫は感心した。
権太夫(なんという冷静な男よ。この者ならば、月若を正しく導き、大願成就させる事が出来るだろう。)
安藤太は、下野には入らず、源氏の影響力が強く、行利の影響力が最も弱い常陸国から東海道に入り上洛するように月若に伝えた。月若は、これに従い、権太夫がつけた従者とともに間もなく岩瀬の地を旅立った。
時に保延6年(1140年)の事である。
月若の消息をつかめていなかった行利は、まさか月若が元服をして自分を討つために行動を開始したなど、知る由も無かった。月若は、行利が国司を務める常陸国を、さしたる妨害も受ける事なく順調に通り過ぎ、常陸から武蔵と抜け、やがて、月若の一行は上田山に差し掛かった。
月若「ここでわが父が討たれたのか…」
上田山には、そんな戦が行われたことなど忘れたかのように、穏やかな時が流れていた。戦跡らしいものも全く見当たらない。
家来「さぞや、父上は無念だった事でしょう。」
月若「そうかも知れぬ。だが、俺は、父の顔を覚えていない。母の顔も… だから、不思議と心穏やかでいられる。本当は、子としてはそうであってはならないのだろうけどな。」
家来「…」
月若「それに、父は敵将の全てを討ち取ったと聞く。あれから10年以上の歳月も過ぎて、あるいは、父の無念も晴れているやも知れぬ。」
家来「若、それでは…」
月若「いや、仇討はやめぬ。これは、俺の問題だ。父の無念を晴らすのではなく、源氏の将として、成すべきことを成すだけだ。」
家来「近くに死者が葬られた回向塚があると聞きます。立ち寄りますか?」
月若「いや。このまま行こう。」
月若は、上田山の頂上で、天竺の方角である西に向かって念仏を唱えた。その方角は、父が目指した京の方角でもある。
月若「南無八幡大菩薩…」
そして月若の一行は南下して海に出た。そこにあったのは、父頼純が目指した海であった。上田山を越えていれば、頼純と弥生が見ていたはずの光景を横目に、月若は潮風に吹かれながら、そんな思い入れのある場所とも知らずに通り過ぎていった。
その後も、特に困難もなく旅は進み、予定よりも数日早く月若の一行は都である京に入った。安藤太は、すでに宗綱に手を回して、月若の入京がスムーズに進むように手を打っていた。そして月若は、朝廷に父頼純が討たれた不当性を訴え、国司と重房の追討の許しを願い出たのである。
ただ、裁可はすぐには下りなかった。そうした訴えや陳情は全国からあって、手続きに手間取った事もあったが、それ以前に月若は無位無官であり、優先順位で、訴えが後回しにされたという事があった。
それよりも厄介だったのは、京が今、二大勢力の対立によってキナ臭い状況になっていた事だった。
当時は、崇徳天皇の御世であったが、政治の実権は、院政を敷いていた鳥羽上皇が握っていた。この両者が対立していたのである。鳥羽上皇は、系図上は崇徳天皇の父親に当たり、鳥羽天皇の譲位によって、崇徳天皇はわずか5歳で即位するが、これは、鳥羽天皇の本意ではなかった。
この譲位を決定したのは、鳥羽天皇自身ではなく、当時院政を敷いて政治の実権を握っていた白河法皇であり、鳥羽天皇にとっては祖父にあたる。そして、鳥羽天皇自身も、白河法皇の意思により5歳で天皇として即位するが、所詮は、白河法皇が実権を掌握し続けるための傀儡に過ぎなかった。
白河法皇は、鳥羽天皇が20歳を超え自分の意思を持ち扱いづらくなってくると、鳥羽天皇を退位させて、5歳の崇徳天皇に譲位させたのだった。ただ、この崇徳天皇、実は、鳥羽天皇の子ではなかったとされている。崇徳天皇が生まれた時、鳥羽天皇はわずか17歳、これは数え年なので、現在で言えば16歳であった。現代でも、16歳の父親がないわけではなく、当時でもそうなのだが、確かに早かった。
崇徳天皇の母親は、藤原璋子と言い、崇徳天皇を生んだ時、数え年で19歳(現在で言えば18歳)であったが、この璋子は、白河法皇の養女として7歳より育てられ、数えで17歳の時に白河天皇の命により鳥羽天皇に嫁いでいるが、実は、白河法皇の寵愛を受けていて、崇徳天皇は、白河法皇の子であったと言われている。
そのため、白河法皇にとっては扱いやすく、鳥羽天皇にとっては、崇徳天皇はうとましい存在であった。
ところが、その崇徳天皇の後見となっていた白河法皇は、大治4年(1129年)7月7日に崩御すると、それまでの崇徳天皇と鳥羽天皇の立場は逆転する。当時、崇徳天皇がまだ11歳と若かった事を良い事に、鳥羽上皇は、院政を敷き、全ての権限を掌握してしまったのである。
その崇徳天皇も、月若が上京する頃には成人し、次第に実権を掌握する鳥羽天皇と対立するようになっていた。そんな政争の最中に、月若は上洛したのである。
しかし、月若側は、この事態をも利用しようとしていた。シナリオを描いたのは、もちろん安藤太であった。安藤太は、当時の政治情勢を正確に把握しており、国司である行利が、この両陣営の対立において、崇徳天皇側になびこうとしていた事を察知していたのである。
そこで安藤太は、届け出を鳥羽上皇にするように月若に告げていた。そうすれば、国司討伐の院宣を得やすいと考えていたのである。この安藤太のもくろみも、見事に的中した。
いよいよ、月若の訴えの審議が始まると、鳥羽上皇は、たちまち行利討伐の院宣を下したのである。
そして、院宣が月若に下された。
月若「はは! ありがたき幸せ!!」
こうして、月若は、鳥羽上皇の院宣を得て、下野国に帰る事になった。目指すは、今度こそ塩谷の地。まさに十数年ぶりに、月若丸が塩谷に帰ろうとしていたのだった。