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16歳と13歳の結婚

堀江頼純(ほりえよりずみ)が、上野国(こうづけのくに)(現在の群馬県)板鼻城主 原重房(はらしげふさ)の娘の弥生(やよい)と結ばれたのは保安(ほうあん)4年(1123年)の事だった。この時、堀江頼純は16歳、弥生は13歳という若さだった。


それから3年後の大治元年(だいじがんねん)(1126年)、2人の間に子供が生まれていた。名は月若丸(つきわかまる)。弥生は16歳になっていたが、当時の年齢は数え年であり、現在の年齢で言えば15歳。それで子供が出来て生んだのだから、その体の負担は当然大きなものだったが、当時はそれも珍しいことではなく、子供を生んで産後の肥立ちが悪く亡くなる娘も少なくなかったが、幸いにして弥生は病む事もなく無事子供を生んだのだった。


頼純は、まだ若い少年だったが、生まれた時から父はなく、母も間もなく亡くなり、すでに下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)の塩谷郡を支配する領主で、塩谷郡衙(しおのやぐんが)(塩谷郡の中心の役所)と堀江山城を居城とする有力武士となっていた。


その父は源義親(みなもとのよしちか)と言い、源氏の棟梁とうたわれた八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の子で、頼純は父義親の死後に摂津国(せっつのくに)(現在の大阪府)の堀江の生まれたが、父が謀反人であったため、かの地に流されてきたのだった。


だが、謀反人の子供とは言え、名門の出の家柄。祖父の義家は、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)にまで上り詰めた武士の棟梁(とうりょう)である。鎮守府将軍とは、奥州(おうしゅう)(現在の東北地方)の支配者としての最高権威である。頼純がくだった関東には、義家を慕う者は多く、その孫である頼純は地元の武士たちの協力を得て一郡の支配者となっていた。


弥生は、近隣諸侯には美しい娘として知られていた。わが妻に、わが子の嫁にという引き合いは多く、父の重房は、どこに弥生を出して家門の権威を高めようかと、そのことばかり考えていた。


他方、頼純も源氏の出の者として、わが娘を嫁にという申し出が多かった。鎮守府将軍の孫ということもあったが、その凛々しさもまた近隣では有名で、将来有望視されていたのである。


そんな2人を結びつけたのは重房だった。頼純ならば、原一族の権威も高まると考えた重房は、2人を見合いさせたのだ。そして、頼純と弥生は、お互い一目見て惹かれあったのだった。初めての出会いは、頼純が15歳、弥生が12歳の時だった。


それから婚姻までは早かった。そして、第一子が誕生したのだった。


頼純は、月若の誕生を喜び、無事に生んでくれた弥生をますます愛して大切にした。弥生も、そんな頼純を心から愛し、2人は、相思相愛の仲睦まじい夫婦となっていた。



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