第一話 よろず屋
ダンジョン六十階層。
人呼んで『絶望の断層』。
上層から降りてきた冒険者が例外なく膝を折り、血反吐を吐いて死に転がる悪夢の境界線だ。
「はぁ……っ! はぁ……っ! もう、ダメ……脚が……っ!」
「諦めるなルシア! あそこ! あの角を曲がれば、安全地帯だ!」
湿った岩肌を濡らすのは、夥しい量の血だった。
駆け抜けるのは二人組のパーティ。先頭を走る軽戦士の青年が、肩を借りて青ざめる魔法使いの少女を必死に叱咤する。しんがりを務める大盾の重戦士は、すでに左腕が変な方向に折れ曲がっていた。
背後から迫るのは、この階層の主『大蜘蛛』。
鉄をも溶かす毒液を撒き散らし、狂暴な八本脚で岩肌を削りながら迫ってくる。
「クソッ、勇者パーティを追い出されて二人で立ち上げたパーティだったが……ここで終わりかよ……!」
「ごめんなさい、ライルさん……私が、足を引っ張ったから……」
「謝るな! とにかくあの安全エリアへ!」
死に物狂いで角を曲がり、岩の割れ目へとなだれ込む。
ダンジョンの理において、セーフエリアには魔物が立ち入れない。追撃の蜘蛛が悔しそうにギャギャッと叫び、岩壁を叩きつける音が響いたが、なんとか一線を超えたようだった。
「助か……った……のか……?」
「あはは……生き、てる……っ」
二人はそのまま荒い息を吐きながら、冷たい岩肌に倒れ込んだ。
ルシアの詠唱用ロッドは途中で砕け、自慢の法衣は蜘蛛の爪でズタズタに引き裂かれている。胸元から太ももにかけて白い肌が露わになり、露出した肩からはタラリと血が伝っていた。まさに満身創痍。命があったことだけが奇跡だった。
「……なぁ」
「なに、ライルさん……もう、一歩も動けないわよ……」
「いや、そうじゃなくて……ここ、本当にセーフエリアか?」
重戦士の声に違和感を覚え、ルシアは辛うじて顔を上げた。
ゴツゴツした暗い洞窟。青白く光る鉱石が天井を照らす、殺伐としたダンジョンのセーフエリア。
……のはずだった。
二人の視線の先には、あり得ないものが鎮座していた。
温かみのある木目調の壁。
風にゆらゆらと揺れる、紺色の暖簾。そこには丸っこい文字で、こう書かれている。
『万能よろず屋』
さらに、暖簾の横には木札の看板が立てかけられていた。
『本日のおすすめ:角豚の特製塩煮込み定食 / ポーション各種 / 装備修繕 / 魔力温泉・個室風呂あります』
「「はい……?」」
二人分の情けない声が重なった。
ここはダンジョン六十階層だ。国家騎士団すら決死隊を組んで挑む地獄の深層手前だ。
そこに、城下町の裏通りにでもありそうな気取らない雑多な店が、あまりにも自然に佇んでいる。
ルシアが呆然と口を開ぐぐらせていると、カランコロン、と涼やかな鈴の音が響いた。
「お、お客さんかい。珍しいねぇ、最近はめっきり誰も来なかったんだが」
暖簾をくぐって出てきたのは、白いエプロンを身につけた男だった。
黒髪を短く刈り込み、体つきは引き締まっているが、漂う雰囲気はどこまでもマイペースで穏やかだ。手には使い古された布巾と、湯気の立つ湯呑みが握られている。
「ひ、人……!? なんでこんなところに人が」
「あーあ、ボロボロじゃねぇか。お嬢ちゃん、服が破れて丸見えだぞ。ほら、とりあえずこれ羽織りな」
男は驚く風でもなく、ルシアの惨状を見るなり「やれやれ」と首を振り、自分が着ていた大ぶりのダボッとした木綿のシャツを脱いでルシアの頭からすっぽり被せた。
男の体臭と、どことなく甘い薬草の香りが鼻腔をくすぐる。ルシアはカァッと顔を赤くしながら、すっぽりと彼シャツ状態になった裾を必死に引っ張った。
「あ、あの! あなた一体何者なんですか!? ここがどこだか分かってるんですか!?」
「何者って言われてもなぁ。ただの店主だよ。名前は……まあ、好きに呼んでくれ。ここで『万能よろず屋』をやってる」
男……店主はそう言って笑うと、倒れ込んでいる重戦士の折れた腕をひょいと覗き込んだ。
「ひどい骨折だな。それに毒も回ってる。……まあ、ウチに来たからには死なせねぇよ。入れ入った。冷えた茶でも飲みながら話を聞くからさ」
「っ……騙されるなルシア、ライル! こんな階層にまともな人間がいるわけがない! 高級な高位アンデッドか、ダンジョンの幻影だ!」
重戦士が必死に叫び、残った右腕で短剣を構えようとした、その時だった。
ガァァァァァン!!
洞窟全体が揺れた。
セーフエリアの境目。先ほど二人を追い詰めた『大蜘蛛』が、獲物を諦めきれずに巨体を滑り込ませてきたのだ。セーフエリアの結界が弱まっていたのか、あるいはあまりの狂暴性に結界の反発が追いつかなかったのか、蜘蛛の毒牙が店主の背後に迫る。
「ヒッ……!? 後ろ、後ろ――!!」
ルシアが悲鳴をあげる。
大蜘蛛の鎌のような脚が、店主の首元を目がけて一閃された。絶望的な切断音がセーフエリアに響き渡る。
ゴチン!!
「あ?」
ルシアたちの時が止まった。
大蜘蛛の鋭利な脚は、店主の首筋に命中していた。
しかし、切れたのは店主の首ではなく、大蜘蛛の脚の方だった。バキンと景気いい音を立てて折れ飛んだ脚が、コロコロと床を転がる。
「あー……痛ぇな。なんだいきなり」
店主は首を少し傾げると、ボリボリと首筋を掻いた。血の一滴すら出ていない。どころか、蚊に刺されたのを気にする程度のリラックスぶりだ。
「営業妨害は困るんだよなぁ。うち、いま開店休業から久々の客が入ったところなんだから」
店主はエプロンのポケットから、使い古された鉄製のフライパンを取り出した。
大蜘蛛が予期せぬ反撃に威嚇の声をあげようとした瞬間。
ドゴォォォォンッ!!
鈍い大音響。
店主が軽々と振り抜いたフライパンが、大蜘蛛の頭部を完璧なポイントで捉えていた。
体長五メートルを超える巨大な魔物が、まるでピンポン球のように吹き飛び、洞窟の壁面に深々と埋まる。蜘蛛は足をピクピクと痙攣させた後、そのまま動かなくなった。
「さてと。あの素材は後で解体して……特製スパイスの出汁にでもするか」
フライパンの埃をポンポンと手払う店主。
その背中を、二人は開いた口が塞がらない状態で見つめていた。
(な……なに今の……? 素手で深層BOSSの攻撃を弾いて、フライパン一発で粉砕……!?)
(このおじさん……ただの店主じゃ……ない……!?)
「よし、お邪魔虫も消えたことだしな。お嬢ちゃんは怪我の手当てが先だ。奥に温泉掘ってあるから、まず服脱いで浸かってきな。その間に防具直して、なんか美味いもん作っとくから」
店主は気さくにニッと笑い、暖簾の奥へと消えていった。
後に残された二人は、顔を見合わせるしかなかった。
深層の絶望と、あまりにも不条理な安心感。
こうして、ダンジョン最奥の手前でひっそりと営業する『万能よろず屋』の、いつも通りの日常が幕を開けたのだった。




