境界線を越えさせる上司は、決して壊してくれない
新しい上司、高橋部長が赴任してきたのは、春の終わりだった。
四十代半ば。落ち着いた低い声。必要以上のことは口にしないが、仕事には冷徹なまでに厳しい人だった。
「ミスだ。やり直せ」
私はよくミスをする。確認を怠らなければ防げるような、爪の甘い失敗ばかりだ。
けれど、彼は突き放すことはしなかった。
厳しい言葉のあとには、必ず的確なフォローがあった。
「次はこうすればいい」
短く、迷いのない指示。
その適度な距離感が、いつの間にか私にとっての「依存先」になっていた。
叱られることで彼と繋がり、フォローされることで許される。
その歪なリズムに、私は救いを見出していた。
「……またか」
「すみません」
呆れたようなため息のあと、少しの間を置いてから入る「次はこうしろ」という言葉。
私は、そのわずかな「間」にある彼の意識が自分に向いていることに、悦びを感じていたのだ。
ある日、ミスのフォローの延長で、初めて食事に誘われた。
店での会話は他愛のないものだったが、眼鏡を外して酒を飲む彼の横顔は、社内では見せない無防備さを孕んでいた。
つい、飲みすぎたのは計算だったのか、それとも逃避だったのか。
帰りのタクシー。
揺れに合わせて彼に体を預けても、彼は拒まなかった。
部屋の前で足元がおぼつかないふりをして支えを求めたとき、耳元に届いた「大丈夫か」という低い声。
ベッドに運ばれ、毛布をかけられる。
けれど、期待した熱は訪れなかった。
静かにドアが閉まる音が、暗い部屋にやけに大きく響いた。
(……帰るんだ、あの人は)
翌朝、彼のデスクに置いた「昨夜はありがとうございました」というメモ。
彼はそれを一瞬だけ眺めると、無造作に丸めてポケットに押し込んだ。
なかったことにされたのだと悟った瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。
それから私は、意図的にミスを「選ぶ」ようになった。
彼に呼ばれたい。叱られたい。
あの「次は」という言葉で、私の存在を肯定してほしい。
だが、彼はすべてを見透かしていた。
「……わざとじゃないよな」
不意に投げかけられた言葉に、心臓が跳ねた。
「仕事は仕事だ。私情を持ち込むな」
冷や水を浴びせられた私は、それから一度もミスをしなくなった。
何度も確認し、完璧な書類を作り上げる。
当たり前のことをこなす日々。
すると、彼に呼ばれる理由は消え、私たちの関係はただの上司と部下に戻った。
そんな時、廊下で見てしまったのだ。
部長と、新入社員の嶋村がすれ違う瞬間。
二人の指先が、ほんの一瞬だけ触れ合ったのを。
嶋村は、私とは正反対の女だった。
若くて、愛想がよく、そして何より——ミスをしない。
部長が彼女に投げかける「よくできてるな」という短い賞賛。
私は一度も手にできなかったその言葉が、彼女には易々と与えられていた。
合同慰労会のキャンプ当日、部長が連れてきた奥さんは、静かな気品を纏った人だった。
二人で並ぶ姿は、入り込む隙間のないほど完成された世界だった。
薪を運ぶ手伝いをしている際、二人きりになった奥さんに、私は「部長とは、夜もよく……」と言いかけ、喉で言葉を飲み込んだ。
奥さんは私を見ることなく、穏やかに、けれど釘を刺すように言った。
「主人はね、線引きだけはしっかりしている人だから。
自分でもわかっているのよ、どこまでが『安全』か」
その言葉の意味を、私は数日後に知ることになる。
「部長と寝たでしょ」
廊下で嶋村に囁かれたとき、血の気が引いた。
「実は私も、一回だけ。でも、それ以上は全然。
あの人、境界線を越えさせてくれるけど、そこに留まらせてはくれないんですよね」
彼女は小さく笑った。
その笑みには、私と同じ「選ばれなかった者」の寂寥感が張り付いていた。
彼は越える。けれど、続けない。
一線を越えるという行為さえ、彼にとっては「フォロー」の一種に過ぎなかったのかもしれない。
その夜、私は無理を言って彼を自室へ招き、すがりつくように首に手をかけた。
「……やめろ」と言いながらも、彼は強く振りほどかなかった。
曖昧で、どこか義務的な、ひどく静かな時間だった。
終わったあと、彼はネクタイを締め直し、短く言った。
「これで終わりだ」
数日後。
私はいつも通り、完璧な書類を持って彼の前に立った。
「部長、確認をお願いします」
「ああ」
ペンが動く音だけが響く。
耐えきれず、私は言葉を零した。
「部長、次は……次は誰なんですか」
彼の手が止まる。
「なんのことだ」
相変わらずの低い声。
そして、彼は手元の時計を一瞥して付け加えた。
「今日は結婚記念日でな。妻と食事に行く」
彼はそれだけ言って、鞄を手に取った。
私の横を通り過ぎる時、微かに香った石鹸の匂いが、あの夜の曖昧な熱を思い出させて胸が詰まる。
私は、彼が去ったあとの静かなオフィスで、しばらく動けずにいた。
残されたのは、彼にチェックされ、完璧に整えられた書類の山。
もう私には、彼に叱ってもらうための理由さえ残っていない。
重い足取りで会社を出ると、夜の冷たい空気が頬を刺した。
エントランスの街灯の下、一台の車が停まっている。
その傍らに、キャンプの時と同じ、穏やかな微笑みを湛えた女性が立っていた。
部長の奥様だった。
逃げ出すタイミングを失った私に気づくと、彼女は避けるどころか、親しげに小さく手を振った。
私は幽霊にでも会ったような心地で、吸い寄せられるように彼女の前へ歩み寄る。
「お疲れ様。主人、もうすぐ降りてくるかしら」
その声はどこまでも優しく、棘など一つもなかった。
けれど、私は昨夜の罪悪感と、先ほど彼に突き放された喪失感で、まともに彼女の目を見ることができない。
「あ……はい。今、出られました」
かろうじて絞り出した声が震える。
私は逃げるように立ち去ろうとした。
その時、すれ違いざまに彼女が、ごく自然な動作で私の腕に軽く手を添えた。
「ねえ」
立ち止まった私の耳元に、春風のような軽やかさで、彼女の言葉が落ちる。
――彼、線引き分かってたでしょ?
心臓が凍りつく音がした。
見上げた彼女の瞳は、すべてを知っていた。
部長が私と何を送り、嶋村と何を交わし、そしてなぜ今、自分の元へ帰ってくるのか。
そのすべてを。
「……っ」
「大丈夫。あの人は、絶対にこちら側を壊したりしないから」
彼女はいたずらっぽく、少女のように軽く微笑んだ。
その笑みは、勝利宣言ですらなく、ただの「事実」の確認だった。
私たちがどれだけ足掻いて、彼の境界線を越えたつもりになっても、彼女の庭の中で遊ばされていたに過ぎないのだ。
背後で、自動ドアが開く音がした。
足音に振り返ると、そこにはいつもの、無駄なことを言わない落ち着いた表情の彼が立っていた。
「待たせたな」
「ううん、今来たところよ」
彼は私に一瞥もくれず、ごく自然に奥様の肩を抱き、車の助手席のドアを開けた。
滑らかに走り去るテールランプを、私はただ見送る。
彼が引いた境界線。
その向こう側にあるのは、情熱でも愛でもなく、冷徹なまでの「日常」という名の要塞だった。
私は、選ばれなかったのではない。
最初から、彼らの人生という盤上の、ただの駒でしかなかったのだ。
明日もまた、私は何もなかった顔をして、彼の前に書類を置く。
消えない指先の感触を、呪いのように抱えたままで。




