第32話 温室の案内人 その三
小角の小さな唇の上にかぶさり、花坂はそのまま自分の唇を重ねた。彼女の鼻をつまみ、息を吹きこむのではなく吸っていく。必然的に彼女の肺から空気が抜け、より多くの酸素が必要となった。過剰供給で中毒を起こしていた生理機能が部分的に回復する。
「は、花坂さ……」
「糸……日光をさえぎる布を……できるだけ広く……」
そこまで伝え、花坂は小角の隣に顔を沈めた。
墨を流したような暗闇を、花坂は目を覚ますことでようやく実感した。呼吸は不自然に乱れているものの、息苦しさは大幅に減っている。ただし、身体は仰向けに倒れたままだ。
「まだ見つからないのか。通路にしかいないはずだろう」
どこかで聞いた声がする。そのせいで、手足が固まった。危うく反射的にもがくところだった。
「そう思うのなら、あなたも探したらいかがです?」
これは桐中だ。
「私にそんな口の利き方をしていいと思っているのか!」
どこかで聞いた声が、不快感をむきだしにした。
「まあまあ、桐中さんも悪意はないんですし。ただ、スマホ不携帯はまずかったですねぇ」
二つ目の、どこかで聞いた声がなだめにかかった。
「話をすり返るな! そもそも、桐中がちゃんと仕事をこなしていればすんだことだ!」
最初のどこかで聞いた声は、あとの二人よりは立場が高いようだ。
「あなたが恐れているのは、三辻さんにこの失態がバレることでしょう」
「また心を読んだな! 覗き屋めいた真似をする暇があったら、あいつらの居場所でもつきとめたらどうなんだ!」
「読んでません。誰でも想像できます」
「だからといって……」
「所長、二回も往復しましたし、一度引きあげませんか?」
所長……そうだ、恵みの大地を任されている勝島所長。宗教団体と称して見学しにきたとき、講師役を勤めていた。
そして、あと一人は桑葉。こちらも記憶がもどってきた。
引きあげるということは、自由に出入りできるということだ。すなわち、小角の力が……少なくとも部分的には……逆用されている。さらには、やはり三辻はここにいない。
桑葉の力も恐ろしくはあったが、勝島とともに刃物でもピストルでも使って奇襲すれば成功間違いなしだったろう。それができなかったのは、侵入はともかく武器の持ち込みまでは不可能だということだ。小角はそこまで成長していた。浮橋が注射器を持ちこんだことを、きっかけにしたのだろう。地味だが頼りになる。
そして、三人の話しぶりからすると、自分達は通路にいない。そこはまだ事情がはっきりしない。
「うるさい、もう一回探すんだ」
勝島の命令を、本心がどうあれ、桑葉も桐中も実行することにしたらしい。三人分の足音がまとめて遠ざかった。
「どうにかうまくいきましたね」
耳元で、何者かが囁きかけた。
「うわっ!」
さすがに、花坂も声が出た。
「しいっ。静かに。まだ何もしないで」
声は、若い……小角と同世代くらいの……女性に思える。味方のようではあるが、黄金が送ったのだろうか?
「ここは植物園の中で、茂みの下です。小角さんと、もう一人の女性は、あなたの前後にいます。あと、小声でなら会話しても良さそうです」
「とりあえず、あなたは誰ですか」
まずはそこからだろう。
「柿庭。柿庭 乃蘭です」
「柿庭……」
黄金からは一言もない。むろん、資料で示されたTWCの社員でもない。
「小角さんの友人です。急性心不全で死んだ」
「ああ……」
それこそが、より正確には柿庭の葬式に参列したところから、市宮による小角へのストーキングが始まった。
だが。
「気がつくと、この植物園で花の中にいたんです」
「な、なんてことだ」
市宮や夢矢もいるにはいた。どうしてそんな羽目になったのか、何となく当たりはつくがつけたくない。
「ここにいる、他の人達から聞いたんですけど、私達は三辻とかいう人の研究材料にされるとか」
死んでまでこんな目に会うとは。市宮らがそうなるのはどうでも良いが、柿庭の運命は理不尽としか表現できない。
「俺は、どうやってここにきたんです?」
「小角さんと、知らない女の人が、二人がかりであなたをここまで運びました。でも、そこで倒れてしまいました」
小角が自分の力で布を作り、日光を遮断する。光合成のできなくなった植物は呼吸だけを行う。そして、塚森の方が代謝が小さい分、酸素濃度の低下には敏感に反応できる。つまり早く目が覚める。同時に暗闇で桐中達もごまかせる。
花坂としては、植物園のごく一部だけが暗くなるのかと思ったいた。まさか全体がすっぽり布で内張りされることになるとは。
そうはいっても、相当の苦難だったはずだ。タイミングとしてもぎりぎりだったろう。完全に回復する前に荒行をこなしたせいで、二人ともまた気絶してしまった。
「勝島達は、懐中電灯か何かは持ってないみたいですね?」
「はい。スマホでもあれば、ライトが使えるのにといっていました。業務中は、スマホを決まった場所に保管しておく規則があるんだそうです」
だから桑葉があんなことをいっていたのかと、花坂は納得できた。さすがに、小角といえども、武器になりにくい品までは持ちこみを制限できないということだ。
柿庭は、花坂達を物理的にどうにかできたのではない。これからも、そんなことはできない。ただ、必要に応じて黙ったり喋ったりするだけだ。しかし、花坂には……恐らく、小角も塚森もそうだろうが……天の助けと思えるほどありがたかった。これが市宮達だったとしたら。考えたくもない。
同時に、はっきりした怒りも湧いてきた。
これまで、花坂は小角の境遇に義憤や共感を持ってはいた。現社長や帯男を、いけすかなく思っていたのも事実だ。
が、それらはどこか主体性を欠いていた。当然ながら、小角や塚森と戦うことに何の不満もなく、二人が自分を信頼してくれているのも嬉しくはある。その反面、野犬が襲ってきたから倒すといった感覚も、どこかにあった。
今、花坂は生まれて初めて、帯男の直接の犠牲者と接した。柿庭は無力である。無力であるが故に、この上なく花坂の精神を昂らせた。
「お前達の探し方が悪いんだ! もっと気合いを入れろ!」
姿こそ見えないものの、勝島の怒鳴り声が、花坂の怒りに油を注いだ。もう横たわってなどいられない。
「そんな根性主義はよそでどうぞ」
桐中の冷ややかな反論で、連中の仲間割れは最高潮に達した。
「こいつ! 黙って聞いてやってれば……ぐううっ! ががっ! げ、げぼっ! かははっ!」
「気合いが足りないのはそっちですよ、所長」
桑葉が、桐中顔負けの冷ややかさで切り捨てた。
「き、貴様……酸素を……酸……」
「三辻さんには、最後まで気合いを入れてましたって報告しときますから」
楽しそうにさえ聞こえる言い草で、桑葉はしめくくった。
「さてと、もう出ようぜ」
「そう見せかけて、私を犯そうとしてますよね」
桐中は、ことここに至っても冷静だった。
「ああ、そうだよ。どうせ二人きりだし」
「犯してから殺して、所長と私の死体を適当に始末する、と」
「うん。お前もな、読心術だけじゃ俺に逆らえないよな」
「三辻さんは、あなたが思ってるほど生ぬるくないですよ」
「そんなことはお前の知ったことじゃない」
桐中は、もはや反論の言葉を紡がなかった。
目も闇に慣れてきたし、これほどべらべら喋っていたら、嫌でも位置が知られる。拳を握りしめ、花坂は猛然と隠れ家を出た。
桐中は、塚森や小角がいればどうでもいい。まずは桑葉こそ。
「きゃあああっ! 嫌あああっ!」
突然、桐中の全身に火がつき、辺りがパッと明るくなった。
仰天したまま硬直する桑葉まで駈けよりつつ、塚森が桐中を燃やしたことは、すでに理解している。ぐだぐだ思案するのはあとだ。
「花……」
大きく目を見ひらいた桑葉は、花坂の名前を半分しか口にできなかった。その下唇に右ストレートが叩きこまれ、歯が折れる音と下顎にヒビが入る音が、花坂の右拳から脳へとじかに伝わった。
「や、やめて……熱い……助けて……」
桑葉より十分の一秒ほど早く倒れた桐中は、転げまわることすらできず、うつ伏せになって手足をけいれんさせながら慈悲を願った。
「うん、助けてあげたよ。あんた自身の人生から」
「先生!」
「花坂君、良く頑張ってくれたね」
足をまっすぐ伸ばし、胸を張る塚森は、花坂とはまた異なる怒りを帯びているようだ。周囲の花々が、がさがさと揺れた。




