第9話 私って、何なの?
その日は、特別なことは何もなかった。
講義を終えて、いつも通りに合流して、少し歩いて。
夕方の空は薄く曇っていて、風が冷たい。
美咲は、いつもより口数が少なかった。
「疲れてる?」
「ううん」
即答だったけど、どこか無理をしている感じがする。
俺は深く考えなかった。
最近は、こういうことが増えている気がしたけど、
それでも最後には落ち着く。
今までは、そうだった。
ベンチに座ると、美咲はしばらく黙っていた。
スマホを見て、閉じて、また見て。
「ねえ」
しばらくして、美咲が口を開く。
「ん?」
少し、震えている声。
「……私さ」
言葉を探すみたいに、一度息を吸ってから。
「私って、何なの?」
一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
「彼女、だよね?」
確認するみたいな言い方。
「もちろん」
迷う理由はなかった。
「じゃあさ……」
美咲は、俺をまっすぐ見た。
「私って、ちゃんと大事にされてる?」
胸の奥が、少しだけざわつく。
でも、答えは決まっている。
「されてるよ」
即答だった。
「だって、好きだし」
それは事実だ。
今この瞬間、嘘じゃない。
美咲はそれを聞いて、少し安心したように笑った。
「……そっか」
でも、その笑顔は、どこか弱い。
「ねえ」
「ん?」
「私だけ、だよね?」
その一言で、ようやく分かる。
これは確認じゃない。
不安だ。
俺は、美咲の方に体を向ける。
「当たり前じゃん」
そう言って、肩に手を回す。
「美咲が彼女なんだから」
美咲は少しだけ身を寄せてくる。
「……信じていい?」
「いいよ」
そう言うと、美咲は目を閉じた。
その反応を見て、俺は内心で思う。
――やっぱり、こうすればいい。
難しく考える必要はない。
言葉にして、触れて、安心させる。
それで、ちゃんと落ち着く。
美咲の手が、俺の服を掴む。
「ごめんね。変なこと聞いて」
「変じゃないって」
そう言いながら、頭を軽く撫でる。
そのまま、自然に美咲の部屋へ向かった。
特別な話し合いをするつもりはなかった。
ただ、一緒にいればいい。
夜は静かで、部屋の灯りは柔らかい。
言葉は少なかったけど、距離は近い。
美咲は、何度も俺の名前を呼んだ。
それに応えるたび、
彼女の不安が少しずつ溶けていくのが分かる。
朝、美咲は俺の腕の中で眠っていた。
昨日よりも、表情が穏やかだ。
それを見て、俺は思う。
――大丈夫。
ちゃんと、解決した。
彼女が不安になったら、
こうやって向き合えばいい。
それで、また元に戻る。
この頃の俺は、
このやり方が、
一番正しいと思っていた。
まさかそれが、
美咲の中に、
別のものを溜め込んでいるなんて――
気づくはずもなかった。




