第40話 慣れ
千夏とのやり取りは、いつの間にか日常になっていた。
『おはようございます』
『今日も頑張ってください』
『お疲れさまです』
返事をするのも、しないのも、
俺のタイミングでよかった。
急かされることはない。
怒られることもない。
それが、ちょうどいい。
仕事は忙しかった。
残業も増えてきて、帰りは遅い。
でも、それは嫌じゃなかった。
――今は、頑張りどきだ。
結果を出して、評価されて、
もっと上に行きたい。
そのための時間だと思えば、
多少の無理も納得できる。
千夏も、それを分かっている。
「今日も遅いですね」
そう言いながら、
責めるような響きはない。
「ごめん」
「いえ。大丈夫です」
それで終わる。
――理解あるよな。
そう思うたびに、
少しだけ安心する。
ある夜、仕事終わりに玲奈から連絡が来た。
『今日、少し話せます?』
一瞬、考える。
千夏とは、今日は会っていない。
連絡も、さっき返したばかりだ。
『少しなら』
そう返していた。
玲奈と会う時間は、
不思議と気を使わなくて済む。
仕事の話をして、
評価されて、
労われる。
それだけで、
頭が軽くなる。
千夏の「待ってます」という言葉と、
玲奈の「無理しすぎないで」という言葉。
どちらも、優しい。
でも、
求められているものが違う。
俺は、その違いを
深く考えなかった。
考えなくても、
回っているからだ。
千夏は、今日も普通だ。
笑うし、怒らない。
玲奈との関係も、
まだ表に出ていない。
――この程度なら、大丈夫だ。
そう結論づける。
以前にも、似たような場面はあった。
その時も、何とかなった。
だから、今回も同じだ。
慣れ、というのは厄介だ。
最初は引っかかっていた違和感も、
何度も繰り返すうちに、
「問題じゃないもの」に変わっていく。
俺は、
選んでいるつもりだった。
千夏も大事。
仕事も大事。
そして、
今の自分にとって必要な距離感も大事。
全部、両立できている。
そう、思い込むのは簡単だった。
夜、部屋に戻ってベッドに腰を下ろす。
スマホを見ると、
千夏からのメッセージ。
『今日はありがとうございました』
それだけ。
短くて、優しい。
俺は、少し考えてから返す。
『こちらこそ』
嘘じゃない。
何も間違っていない。
少なくとも、
俺の中では。
この「慣れ」が、
どれだけ危うい土台の上にあるのか。
今の俺は、
まだ気づかないままでいられた。
慣れてしまえば、
不安は音を立てなくなる。
壊れる時も、
きっと同じように静かだろう。
そう思っていた。
この時までは。




