第38話 気づかれない
千夏は、何も知らなかった。
「おつかれさまです」
「おつかれ」
仕事終わりに合流して、いつも通りに歩く。
駅までの道、他愛ない会話。
「今日はどうでした?」
「まあまあ」
「それならよかったです」
それだけで、会話は十分だった。
俺の顔をじっと見て、探るようなことはしない。
言葉の裏を読もうともしない。
千夏は、信じることを前提にしている。
それが、楽だった。
店に入って、並んで座る。
メニューを見る時間も、沈黙も、自然だ。
「何にします?」
「いつものでいい?」
「了解です」
細かい確認はいらない。
それだけで成立する関係。
俺は、胸の奥にある重さを、
そのまま棚に置いた。
考えなければ、存在しないのと同じだ。
料理が来て、食べる。
千夏は美味しそうに笑う。
「最近、忙しそうですね」
「そうだな」
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
その言葉を、
否定も、説明もせずに受け取る。
――優しいな。
それ以上、考えない。
夜、千夏の部屋に行く。
シャワーの音を聞きながら、
スマホを置く。
通知は、来ていない。
玲奈からも、連絡はなかった。
それが、逆に都合がよかった。
問題は起きていない。
誰も傷ついていない。
だから、何もなかったことにできる。
ベッドに入って、千夏が俺の腕に寄ってくる。
「落ち着きます」
小さな声。
俺は、軽く頭を撫でる。
「よかった」
その一言で、千夏は安心したように目を閉じた。
呼吸が、ゆっくりと揃っていく。
俺は、天井を見る。
――バレてない。
その事実が、
安心よりも先に、
静かな自信に変わる。
やっぱり、
ちゃんと分けていれば大丈夫だ。
千夏との時間は、千夏のもの。
玲奈との時間は、玲奈のもの。
混ざらなければ、問題は起きない。
そうやって、
自分の中で整理する。
翌朝、千夏はいつも通りに笑っていた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
その背中を見送りながら、
俺は何も感じなかった。
罪悪感も、焦りもない。
ただ、
うまく回っているという感覚だけが残る。
でも、
気づかれないという事実は、
いつか必ず、
形を変えて返ってくる。
それが、
誰にとって、
どんな形になるのか。
この時の俺は、
考えもしなかった。
まだ、
何も起きていないのだから。




