第37話 越えてはいけない線
玲奈と連絡を取るようになったのは、それからすぐだった。
特別な約束をしたわけじゃない。
前に会った時、「また話しましょう」と言われて、
それに頷いただけだ。
『今日、仕事終わりどうですか?』
短いメッセージ。
一瞬だけ、千夏の顔が浮かぶ。
でも、すぐに打ち消した。
仕事の話だ。
それに、少し話すだけ。
『少しなら』
そう返していた。
店は前より少し落ち着いた雰囲気のところだった。
照明も、音楽も、控えめ。
「忙しそうですね」
「まあ、最近は」
「頑張ってますね」
それだけで、変な期待は生まれない。
少なくとも、そう思っていた。
話題は自然と仕事の話になる。
愚痴を言えば、否定せずに聞いてくれる。
「それ、しんどいですよね」
「ですよね」
共感だけ。
評価も、要求もない。
時計を見ると、思ったより時間が経っている。
「もう一軒、行きます?」
玲奈が、軽く聞く。
断る理由は、ちゃんとあった。
彼女がいる。
遅くなれば、千夏が心配する。
頭の中では、分かっている。
でも、口はこう動いた。
「……少しだけなら」
その一言で、線は薄くなる。
二軒目は、さらに静かだった。
カウンター席に並んで座る。
距離が、近い。
肘が触れる。
離そうと思えば、離せる。
でも、しなかった。
玲奈は何も言わない。
視線も、落ち着いている。
だから、余計に意識する。
「彼女さん、大丈夫ですか?」
不意に、そう聞かれた。
一瞬、呼吸が止まる。
「……大丈夫だと思います」
正直な答えだった。
問題が起きている実感は、ない。
「そうですか」
それ以上、踏み込まない。
その距離感が、
なぜか安心できてしまう。
店を出る頃には、終電はなかった。
「どうします?」
玲奈が聞く。
また、止まれる地点だ。
タクシーを呼ぶ。
ここで別れる。
選択肢は、あった。
でも、選んだのは別の方だった。
「……歩きます?」
「そうですね」
夜の道を並んで歩く。
会話は減っている。
でも、気まずくはない。
建物の前で、足が止まる。
どちらからともなく。
沈黙が続く。
越えてはいけない線が、
すぐそこにある。
俺は、分かっていた。
ここから先は、
「一晩だけ」では済まないかもしれない。
でも、同時にこうも思っていた。
――今だけだ。
――ちゃんと戻れる。
理屈は、後からいくらでも付けられる。
ドアが閉まる音が、
静かに響く。
その夜のことを、
俺は詳しく覚えていない。
覚えているのは、
止めなかったという事実だけだ。
翌朝、目を覚ました時、
胸の奥に、少しだけ重さがあった。
後悔かと聞かれれば、
そうとも言い切れない。
ただ、
――やってしまったな。
そう思った。
それだけだった。
シャワーを浴びながら、
自分に言い聞かせる。
千夏とは、別だ。
これは、別枠だ。
仕事の延長。
大人同士。
そうやって、線を引き直す。
越えてはいけない線を、
一度越えてしまったあとで。
それでも、俺はまだ思っていた。
――大丈夫だ。
誰にも言わなければ。
誰も傷つかなければ。
線は、越えても見えないままだと。
この時の俺は、
線が見えないのではなく、
もう戻れなくなっているだけだということに、
気づいていなかった。




