第36話 夜の顔
千夏と付き合ってから、夜の時間が増えた。
仕事が終わるのが遅くなって、
帰り道の街は、昼とは違う顔をしている。
ネオンが灯って、
人の数も、声のトーンも変わる。
俺は、この時間帯が嫌いじゃなかった。
仕事帰り、同僚と別れて一人になると、
スマホが震える。
千夏からだ。
『今日は遅くなりそうですか?』
『もう少しかな』
短いやり取り。
それ以上、踏み込まれない。
――助かる。
そう思ってしまう自分を、
わざわざ否定しなかった。
駅前を歩いていると、
見覚えのある顔が視界に入る。
「……あれ?」
声をかけられて振り向く。
「やっぱり」
そこに立っていたのは、
玲奈だった。
前の居酒屋で、何度か見かけた常連客。
仕事の話を少ししたことがある。
「久しぶりですね」
「ほんとだ。今は別の店?」
「うん。カフェで」
立ち話をするには、
ちょうどいい距離感。
玲奈は、少し大人びた雰囲気の人だ。
落ち着いていて、話し方も柔らかい。
「この時間に一人?」
「まあ、仕事終わりです」
「お疲れさま」
その一言が、
なぜか心に残る。
労いの言葉。
余計な感情を乗せない声。
千夏の「無理しないでくださいね」と、
少し似ている。
でも、違う。
玲奈は、俺の生活に何も求めていない。
期待も、確認もない。
それが、楽だった。
「少し話します?」
そう言われて、
断る理由は見つからなかった。
近くの店に入る。
照明は暗めで、音楽も静かだ。
仕事の話をする。
業界のこと、働き方のこと。
玲奈はよく聞く。
相槌も、的確だ。
「ちゃんと考えてますよね」
「そうかな」
「そうですよ」
そう言って、少し笑う。
評価されている感じがする。
それは、
恋人に求めるものとは、
少し違う満足感だった。
時間が過ぎるのは、早い。
「もうこんな時間」
「ですね」
店を出ると、夜はさらに深くなっている。
「じゃあ、また」
「はい。また」
連絡先を交換したわけじゃない。
約束もしていない。
ただ、
次がある気配だけが残る。
帰りの電車で、
俺はふと考える。
――さっきの時間、楽だったな。
千夏とは、違う。
でも、嫌じゃない。
スマホを見ると、
千夏からのメッセージ。
『気をつけて帰ってください』
『ありがとう』
それだけ返す。
嘘も、隠し事もない。
今のところは。
ベッドに横になり、天井を見る。
夜の顔。
昼の顔。
俺は、
どちらも同じ自分だと思っていた。
ただ、
違う場所に立っているだけ。
その違いが、
また一つの線を引き始めていることに、
まだ気づいていなかった。




