第七話 絶望戦
森の奥から歩いてきた“何か”は、
僕らの目に入った瞬間、世界の色を奪った。
黒い外套。
影に沈む半分の顔。
右腕だけ異様に肥大し、黒紋が脈打つように蠢いている。
「……観測、開始」
その一言で、膝が勝手に折れた。
「な、なに今の声……!? 脳みそ直接殴られたみたいなんだけど!?」
「惣彩、後退しろ……! ハッシュ、構え——」
「ム、ムリィィィィィィ!!!!」
ハッシュはもう完全に泣いていた。
僕だって泣きたい。むしろ泣く余裕すらない。
グレイヴが一歩踏みしめるたびに——
ズン……ッ
地面が呼吸するみたいに沈んだ。
「歩くだけで地震起こすなよ!!!!」
「惣彩、叫ぶと気づかれるぞ」
「いやもうこっち見てるゥゥゥ!!!!」
黒い影の瞳が、僕をまっすぐ射抜いていた。
「異界の鍵。接続の匂い……強い」
「鍵って何!? 俺、そんな立派な金庫機能ねえよ!?」
「確認する」
「確認の方法が暴力なのやめろォォォ!!!!」
グレイヴの右腕が、音もなく構えられた。
その瞬間、風景が赤く揺らぐ。
地面がひび割れる。木々がざわめく。
拳ひとつで世界が殴られているみたいだった。
「まずい……惣彩、逃げろッ!!」
「無理だよ!!!! 足に根生えてる!!!!」
「なら引っ張る!!」
アレックスが僕の腕を掴んだ瞬間——
ドンッッ!!!!
地面が爆ぜた。
「ぎゃああああああああ!!!!?」
「惣彩!! 伏せろ!!」
「伏せてる余裕ねえええええ!!!!」
衝撃だけで体が浮き、転がり、木にぶつかる。
息が一気に抜ける。
「ッ……あ、あれで本気じゃない……。まだ“風圧”だ……」
「風圧で死ぬかと思ったんだけど!!!?」
「ひぃ……ひ、ひぃぃ……あの右腕、見たら……めまいが……」
「ハッシュ! しっかりしろ!」
だがハッシュが一歩下がった瞬間、グレイヴが指を向けた。
「邪魔」
ただそれだけ。
次の瞬間——
バギィィィィンッ!!
衝撃波が飛び、ハッシュの体が木に縫い付けられる。
「ハァァァァァッシュ!!!!」
「死んでない……! 気絶してる……!」
「いや死亡寸前のやつ!!!!」
「惣彩を……渡すか……!」
アレックスが剣を構え、決死の突撃をした。
だがグレイヴは一瞥もくれず、
右腕を軽く振り下ろした。
ガァン——ッ!!
空気が割れ、衝撃波が壁のように広がる。
「ぐッ……うぉぉッ!?」
アレックスが吹き飛ぶ。
地面を転がり、木に衝突して止まった。
「アレックスさああああん!!!!」
「……大丈夫……だ……まだ……立てる……」
「立たないで!! 死ぬよ!? ほんとに死ぬよ!?」
「立たなきゃ……惣彩が死ぬ……!」
「俺は死にたくないッ!!!!」
気づけば目の前にいた。
本当に“瞬きひとつ”で距離が消えた。
「確認する」
「やめてやめてやめて!!!!」
巨大な右手が僕の胸に触れた瞬間——
黒い瘴気が体内に流れ込み、骨の奥を焼くような痛みが広がる。
「ひ、あああああああああ!!!!」
「……やはり。接続点がある。異界と繋がる“穴”だ」
「穴とか言うな!!!! 俺の体はポータルじゃねえ!!!!」
グレイヴは淡々と言った。
「壊れても困るが……強度は確かめる」
「だから殴るなってえええええ!!!!」
右腕がゆっくりと振りかぶられた。
“その瞬間”
森の色が赤に塗り替わる。
大気が圧で歪む。
地面が震え、木々が悲鳴を上げる。
「惣彩……逃げろ……!」
「逃げられねえよこんなん!!!!」
拳が――振り下ろされる。
そのとき。
『……待て、グレイヴ。鍵を壊すな』
どこからともなく響いた声。
グレイヴは拳を止め、空を見上げた。
「……分かっている」
拳がゆっくり下ろされる。
「今回は見逃す。だが次は……逃がさない」
その言葉を残して、
濃霧のように瘴気が広がり——
グレイヴは姿を消した。
「惣彩……生きてるか……?」
「……は……ふ……なんとか……」
「動けるか?」
「無理ッッ!!!!」
「だよな……」
二人して地面に倒れ、空を見上げる。
「アレックスさん……俺、次あいつに会ったら……」
「間違いなく死ぬ」
「フォローしろやああああ!!!!」
その叫びは森に虚しく響いた。
――こうして僕たちは、“災害を殴って歩く男”グレイヴと初交戦し、
本気で“逃げるしかない”現実を思い知らされたのだった。




