第三十話 亡骸
夜明け前の空は、色を失っていた。
灰色と群青の境目。
光が来る前の、最も静かな時間。
僕は、アベルの亡骸の前に立っていた。
布が掛けられている。
顔はもう見えない。見せてももらえなかった。
血は拭われ、傷も塞がれている。
あまりにも綺麗で――まるで、眠っているみたいだった。
「……」
声が出ない。
泣くこともできない。
怒鳴ることも、叫ぶことも。
ただ、胸の奥に穴が空いている。
◆◆◆
「死因は、魔力貫通による心臓破壊」
テレッサは淡々と告げた。
感情を抑えているのが、逆に分かる。
「助かる可能性は……」
「なかったわ」
即答だった。
「あなたが風で弾かなければ、即死だった。
時間を稼いだ分、言葉を残せた。それだけ」
それだけ。
分かっている。
分かっているのに、心が拒否する。
「……僕のせいだ」
絞り出すように言った。
「違う」
テレッサは、はっきり否定した。
「あなたの鍵は最初から存在しなかった。
王が流した噂。敵を誘き寄せる餌。
――あなたは、最初から囮」
胸が、きしんだ。
「じゃあ……アベルは?」
「囮の隣に立った人間よ」
その言葉は、あまりに重い。
◆◆◆
アリシア王女は、少し離れた場所で祈っていた。
いつもの上品な立ち姿。
だが、肩が小さく震えている。
近づくと、彼女は顔を上げた。
「……惣彩さん」
「はい」
「私は、王女として……彼を失わせました」
声が、かすれている。
「護られる立場でありながら、護衛を死なせた。
それが、事実です」
戦場で指示を飛ばしていた時の、あの高い声とは違う。
今は、ただの少女の声だった。
「……違います」
自然と、言葉が出た。
「アベルは、命令で死んだんじゃない」
彼は、自分で選んだ。
「……彼は、僕を守った」
王女を守るためでも、任務のためでもない。
僕を――“選ばれなかった存在”を。
「だから、殿下が背負う必要はありません」
アリシアは、しばらく黙っていた。
やがて、はっきりと頷く。
「……分かりました」
そして、声のトーンが変わった。
戦闘を見る時の、あの高い、張り詰めた声。
「ならば私は、前に進みます」
迷いが消えている。
「彼の死が“無意味”だったと証明するために」
◆◆◆
テレッサが、僕を見る。
「惣彩。これから先、あなたは確実に狙われない」
「……はい」
「でも、あなたの周囲は違う。
アリシア殿下、あなた自身、そして――」
一瞬、言葉を切る。
「アレックス」
あの軽口ばかりの男の顔が浮かぶ。
「彼もまた、“次”になり得る」
拳を握った。
「……だったら」
初めて、はっきり言えた。
「僕は、囮で終わりません」
鍵はない。
才能もない。
それでも。
「選ばれないなら、選ばせない」
誰かが死んで進む物語なら――
その流れそのものを、壊す。
アベルが、身をもって教えてくれた。
逃げなかった人間の背中を。
◆◆◆
外で風が吹いた。
朝が、来る。
この旅も、終わりに近づいている。
残された時間は、あとわずか。
――次に動くのは、グレイブ。
そして、その背後にいる王。
アベルの名前を、無駄にしないために。
僕は、前を向いた。




