第二十七話 覚悟
その違和感は、朝の匂いから始まっていた。
ラノル王国・第二王都ミレア。
朝市の通りには焼き立てのパンの香りと、果物の甘酸っぱい匂いが漂っている。
人々は笑い、手を振り、昨日と同じように一日を始めていた。
――あまりにも、普通すぎた。
「……惣彩」
背後から、低い声。
振り返ると、テレッサが屋根の影に立っていた。
いつもの軽さはなく、目は鋭く、刃物みたいに冴えている。
「今朝から、街の警備が減ってる」
「え?」
「理由は“必要ないから”。
平和な王都だから、だそうよ」
嫌な言葉だった。
「それ、危なくないですか」
「危ないわね。だから、もう“始まってる”」
テレッサはそう断言した。
◆◆◆
アリシア王女は、公式訪問のため、昼前に市庁舎へ向かう予定だった。
表向きは友好の式典。
裏では各国の思惑が絡む、政治の場。
護衛配置は最小限。
それが、ラノル王国側の“誠意”らしい。
「誠意、ね……」
僕は苦笑する。
「惣彩さん?」
馬車の中から、アリシアが顔を出した。
「どうかしましたか?」
「いえ……ただ、炭酸リンゴジュースは飲まない方がいいかなって」
「……はい?」
王女はきょとんとした。
「屋台のやつ、腹壊します」
即答。
テレッサが吹き出した。
「あなた、それ根に持ってるでしょ」
「だってアレックス、死にかけましたし」
「確かにあれは危険ね」
アリシアは一瞬ぽかんとし、それから小さく笑った。
「では、後で温かいお茶にします」
こういうところが、彼女は“王女”なのだと思う。
冗談を冗談として受け止め、場を和ませる。
……でも。
馬車が動き出した、その瞬間だった。
◆◆◆
――パンッ。
乾いた音。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間。
「伏せろッ!!」
テレッサの叫びと同時に、衝撃が来る。
馬車の側面が、内側から叩き割られた。
爆発ではない。
圧縮された衝撃波。
「……風?」
僕は反射的に手を伸ばす。
《疾風壁》――
まだ未熟な僕の風魔法は、馬車の前面に薄い防壁を作った。
だが。
それを嘲笑うかのように、次の一撃が来る。
地面が、めくれ上がった。
石畳が砕け、悲鳴が上がる。
「……始まったわね」
テレッサが、静かに呟いた。
◆◆◆
襲撃者は、最初は“誰もいない”ように見えた。
だが次の瞬間、空気が歪む。
人影が、にじむように現れた。
「……透明化?」
「違う。存在を薄めてる」
テレッサは即座に判断する。
「数は……五、いや七」
騎士三名が、即座に前へ出る。
「王女を守れ!」
その瞬間。
「左!」
アリシアの声が、甲高く響いた。
普段より一段、明らかに高い。
「二時方向、屋根! 距離二十!」
その声に導かれるように、騎士の一人が盾を掲げる。
――直後。
不可視の刃が、盾に激突した。
「……っ!」
「次、後ろ! 惣彩さん、伏せて!」
僕は反射的に地面に転がる。
頭上を、風の刃が掠めていった。
心臓が、跳ねる。
――これ、殺しに来てる。
間違いなく。
◆◆◆
テレッサが、動いた。
音が、消えた。
彼女の姿が掻き消え、次の瞬間、血が空中に舞う。
不可視だったはずの敵が、一人、地面に転がった。
「……一人」
淡々とした声。
続けて、二人目。
三人目。
テレッサの剣は、速さも正確さも異常だった。
だが――
「……来る」
彼女が、初めて眉を寄せる。
空気が、重くなる。
地面が、軋む。
嫌な感覚。
僕の中の何かが、警鐘を鳴らす。
――グレイヴじゃない。
でも、近い。
◆◆◆
それは、人の形をしていなかった。
鎧を纏った“何か”。
中身が、ない。
空洞の兜から、冷たい光が覗く。
「……自律式の殺戮兵器?」
テレッサが息を吐く。
「面倒なものを……」
その瞬間。
「前衛、下がって!
右脚部に集中! 魔力の流れが歪んでいます!」
アリシアの声が、跳ねる。
高く、鋭く、迷いがない。
僕は、走った。
「……《風圧加速》!」
足元に風を纏わせ、無理やり距離を詰める。
才能なんて、ない。
でも――
「今だ!」
テレッサの声。
彼女の刃が、鎧の継ぎ目を正確に斬り裂く。
同時に、僕の風が内部へ叩き込まれた。
――破裂。
鎧が内側から弾け、金属片が散る。
中身は、やはり空だった。
◆◆◆
静寂。
街の人々が、恐る恐る顔を上げる。
誰もが、理解していた。
――平和は、終わった。
アリシアは、ゆっくりと息を吐く。
声のトーンが、元に戻る。
「……皆さん、怪我はありませんか?」
その切り替えに、僕は震えた。
王女は、戦場と日常を、完全に分けている。
だからこそ、強い。
テレッサが剣を納める。
「……これは、前触れね」
「はい」
アリシアは頷く。
「間違いなく、次があります」
僕は、空を見上げた。
雲一つない青空。
なのに。
胸の奥が、ひどく重い。
――アベルがいたら、何て言っただろう。
「怖いなら、前に出ろ」
きっと、そう言った。
僕は、拳を握る。
才能はない。
鍵もない。
でも。
「……それでも、守る」
この平和が壊れる理由が、僕たちに向けられているなら。
逃げるわけには、いかなかった。
遠くで、風が鳴る。
それは、嵐の前触れだった。




