第二十六話 後悔
王国は穏やかで、だからこそ不気味だった
ラノル王国は、あまりにも平和だった。
国境を越えた瞬間、空気が変わったのが分かる。
王都ユーベルにあった張り詰めた緊張も、瓦礫の臭いも、死の気配も、ここにはない。
石畳は整い、道沿いには果樹が並び、商人の呼び声が響いている。
笑っている人間の顔を見るのが、こんなにも久しぶりだとは思わなかった。
「……静かですね」
僕の呟きに、隣を歩くテレッサが小さく鼻で笑う。
「平和な国よ。少なくとも、表向きはね」
「表向き、ですか」
「ええ。平和な国ほど、裏で腐っているものよ」
相変わらず容赦がない。
護衛隊は最小限。
騎士三名と、テレッサ、そして僕。
アリシア王女は馬車に乗っている。
カーテン越しに見える影は、姿勢正しく、いかにも“王女”だ。
――でも。
ふとした瞬間、馬車の中から視線を感じることがある。
こちらを観察するような、鋭い気配。
戦闘の時の彼女を知ってしまった今、
その沈黙すら、僕には少し怖かった。
「惣彩」
テレッサが声を落とす。
「顔色が悪い。昨夜、眠れなかった?」
「……はい」
嘘をつく気力もなかった。
目を閉じると、どうしてもあの光景が浮かぶ。
グレイヴの刃。
アベルの血。
最後の、あの笑顔。
「無理もないわ」
テレッサは、それ以上踏み込まなかった。
無理に慰めないのも、彼女なりの優しさなのだと思う。
やがて、馬車が止まった。
「ラノル王国、第二王都に到着いたしました」
御者の声が響く。
馬車の扉が開き、アリシア王女が降り立つ。
「皆さん、長旅お疲れさまでした」
いつもの、柔らかく上品な声音。
完璧な王女。
その姿を見て、周囲の人々が一斉に頭を下げる。
……この人は、どれだけの顔を使い分けて生きているのだろう。
◆◆◆
用意された宿は、王族専用と言っていいほど豪華だった。
だが、アリシアはそれを当然とは思っていないらしい。
「惣彩さん。こちらのお部屋でよろしいですか?」
「え? あ、はい。十分すぎるくらいです」
「そうですか。よかった」
その微笑みは、心から安堵しているように見えた。
王女なのに。
それが、逆に胸に引っかかる。
部屋に入ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
椅子に腰掛け、無意識に胸元を押さえる。
――何も、ない。
以前なら、そこに“何か”を感じていた。
鍵だの、核だのと呼ばれていた、正体不明の存在。
今は、本当に空っぽだ。
「……僕は、ただの人間だ」
呟いた言葉は、思ったより重かった。
その時、扉がノックされる。
「惣彩、少し話せる?」
テレッサだ。
「はい」
彼女は部屋に入るなり、窓を確認し、音を遮断する結界を張った。
「……用心深いですね」
「今はね」
テレッサは腕を組む。
「ラノル王国は、安全。でも“完全”じゃない」
「何か、あるんですか」
「情報が多すぎる」
意外な答えだった。
「多すぎる?」
「ええ。あなたのこと、アリシア様のこと、王都襲撃のこと……
広まる速度が異常に早い」
背中が冷えた。
「じゃあ……」
「誰かが、意図的に流している。
グレイヴか、それ以外かは分からないけど」
テレッサは、はっきりと言った。
「この国も、安全圏じゃない」
沈黙。
僕は、ゆっくりと息を吐く。
「……でも、逃げません」
自然と、そう言えていた。
「逃げたら、また誰かが死ぬ。
それが……嫌なんです」
テレッサは、少しだけ目を見開き、そして微笑った。
「……変わったわね」
「そう、ですか」
「ええ。前はもっと、自分を小さく見てた」
それは、褒め言葉だった。
◆◆◆
その夜。
ラノル王国の空は、驚くほど澄んでいた。
星が、近い。
中庭で風に当たっていると、背後から足音がする。
「……惣彩さん」
アリシア王女だった。
「眠れませんでしたか?」
「……少し」
彼女は隣に立ち、同じ空を見上げる。
「平和な景色でしょう?」
「はい」
「でも私は、こういう景色を見ると……少し怖くなります」
意外な言葉だった。
「失う前の、静けさみたいで」
胸が、きゅっと締め付けられた。
アリシアは、静かに続ける。
「惣彩さん。あなたは……これからも戦うのですね」
「……はい」
迷いは、なかった。
「才能はありません。
特別な力も、もうない」
それでも。
「それでも、僕は――
逃げないと決めました」
アリシアは、少しだけ声のトーンを上げた。
「……それは、命令では?」
戦闘時に近い、高く澄んだ声。
「いいえ」
僕は首を振る。
「僕自身の、選択です」
その答えに、彼女は目を細め、穏やかに微笑んだ。
「……そうですか」
そして、小さく。
「なら、私はあなたを信じます」
その言葉が、胸に深く落ちた。
遠くで、風が鳴る。
穏やかで、優しい風。
でも――
その奥に、確かな違和感があった。
世界は、静かすぎる。
嵐の前のように。




