勇者ですが村の女性たちに引き止められて旅に出られません
メトヒキの村。
山奥にあるこの小さな村の入り口に、一人の少年が立っていた。
彼の名はムラオ・ダセーヌ。黒い短髪に精悍な顔つき。
旅装束に身を包み、手入れの行き届いた剣を背中に差し、朝日を浴びて緑に輝く木々の隙間から見える遠くの空を見据えている。
ムラオは勇者だった。
勇者。それは生まれつき拳に特徴的なアザを持つ、選ばれた存在。
人並外れた身体能力を持ち、魔王を倒すという宿命を背負った者。
名残惜しそうに生まれ故郷の村を振り返り、そのまま静かに村を出て行こうとする。
が、一人の女性に呼び止められ、ムラオは足を止める。
「ムラオ……本当に出て行っちゃうのね」
少しクセのあるブラウンヘアーのその女性は、勇者の幼馴染で十七歳、同い年のミジーナだった。
茶色を基調とした村娘装束に身を包み、寂しげな目でムラオを見つめている。
ムラオは踵を返すと、ミジーナの元へと歩み寄る。
「ごめんね。あんたが黙って出て行こうとしてたの、わかってたんだけど……どうしても言いたいことがあって」
ミジーナが両手を胸に当て、何かを決心したような力強い眼をムラオに向ける。
「あたしさ。あたし……。あんたのこと、ずっと好きだったんだ」
幼馴染からの突然の告白に、ムラオは目を丸くする。
「覚えてる? 子供の時にしたベタな約束のこと」
少し思案した後、あれか、とムラオが手を打つ。
「そう、大人になったら結婚しようねって……。他愛のない子供の戯言だったんだろうけど……あたしはずっと心のどこかで、あんたのおよめさんになるんだって想ってたの」
どうしていいかわからず、ムラオは照れくさそうに後ろ頭をかいた。
「ムラオが勇者としての使命を帯びてるのは知ってる。でも……でも、このままお別れなんて嫌なの」
ミジーナがムラオに駆け寄り、ぶつかるようにその身を預ける。
「一日だけ……あんたの時間をあたしにちょうだい。思い出が欲しいの……ね? ……だめ、かな?」
上目遣いでムラオを見上げるミジーナが妙に可愛らしく見える。
どうするか迷った末、ムラオはミジーナの両肩に手を置き、小さく頷いた。
「ほんと!? よかった……。それじゃあさ、あたしの家においでよ。朝ごはんご馳走してあげる。それでその後は、昔遊んだ場所に行ったりしてさ……」
その日のデートプランを嬉しそうに語るミジーナと肩を並べ、ムラオは再び村の奥へと戻って行った。
――翌朝。
窓から差し込むやわらかな朝の光と、小鳥たちのさえずりに優しく意識をゆり起こされたムラオは、ゆっくりを身を起こし、ベッドの脇に腰掛ける。
ムラオの後ろでは、ミジーナが幸せそうな表情で小さな寝息をたてている。
二人とも、衣服は着ていなかった。
ムラオは頭を抱え、こう思った。
やってもうた、と。
すでに魔王は復活し、人類圏へと侵略を開始しているという噂が届いているというのに、使命を忘れ幼馴染としっぽり楽しんでしまった己を恥じる。
ミジーナを起こさぬよう、そっと身支度を整えると、ムラオはミジーナの寝顔を名残惜しそうに見つめ、部屋を後にした。
そして、決意を新たに再び村の入り口へとやってきた。
今度こそ、と。ムラオは遠くの空を睨み、心地よい疲れを残した体で、いざ、とその一歩を踏み出す。
「ムラちゃん」
と、再び誰かがムラオを呼び止める。
ムラオが振り返ると、その瞳に映ったのは桃色のロングヘアーの大人びた女性だった。
彼女の名前はレーノ・アコーガ。
ムラオの家の隣に住む、三つ年上のお姉さんだった。
レーノは弟のようにムラオをかわいがり、ムラオもまたレーノを本当の姉のように慕い、幼い時から何かと世話になってきた。
「よかった……もう旅立っちゃったかと思ってたわ」
ホッと胸をなでおろすレーノを前に、ムラオはなんとも言えない複雑な表情を浮かべていた。
「私ね、ムラちゃんが旅立つ前に、どうしても伝えておきたいことがあって……」
ムラオはデジャヴを感じていた。これはまさか、と思ったが、その予感はすぐに的中した。
「あなたのこと、ずっとかわいい弟みたいに思ってたけど……いつしか弟ではなく、男として見ている自分に気づいちゃったの……」
頬を染めながらも、申し訳なさそうにレーノが俯く。
「魔王討伐の旅って、いつ帰って来れるかわからないんでしょ? だから、旅立つ前に……姉と弟じゃなく、女と男として……あなたと一緒に過ごしてみたいの」
そう言うと、レーノはムラオに背を向け、両手を後ろで組む。
「ダメ、かな……?」
そう問いかけるレーノの背中は色っぽく儚げで、気づくとムラオはレーノの体を後ろから優しく抱きしめていた。
「……嬉しい。今日は私の家でいっぱいお話しようね」
こうして二人は、手をつないだままレーノの家へと向かった。
――翌朝。
窓から差し込むやわらかな朝の光と、小鳥たちのさえずりに優しく意識をゆり起こされたムラオは、ゆっくりを身を起こし、ベッドの脇に腰掛ける。
ムラオの後ろでは、レーノが満たされた表情で穏やかな寝息をたてている。
二人とも、衣服は着ていなかった。
ムラオは頭を抱え、こう思った。
またやってもうた、と。
しかし、憧れ続けた年上の女性の誘いを断れるわけなどあろうはずがない、と自分に言い訳しつつも、身支度を整え、そっと部屋を出る。
そして、三度目の村の入り口。
「ちょっと、ムラにい!」
今度は誰だと振り返ってみれば、そこにはオレンジ色の髪を左右で束ねたトモイが両手を腰に当て、不満げな様子で突っ立っていた。
トモイはムラオの一つ下の近所に住む女の子で、小さい頃からムラにい、ムラにい、とムラオの後ろをくっついてきた幼馴染である。
「ミーねぇから聞いたよ! ムラにぃと大人の階段のぼったって!」
ムラオは慌てて口元に人差し指を当て、トモイに静かにするよう促す。
「ずるいよ、ミーねぇだけさ! あたしだって早く大人になりたい……きゃっ!」
朝靄ただよう村の入り口。これ以上騒がれて誰かが来たら困ると、ムラオはひょいと小柄なトモイの体を抱えると、自宅へと駆けて行った。
「ムラにい……」
二階のムラオの自室。
ベッドにはトモイが腰かけ、潤んだ瞳でムラオを見上げていた。
この間まで子供だと思っていたトモイが妙に大人びて見え、ゴクリとムラオが喉を鳴らす。
「……ムラにいに……まかせる、ね」
ムラオは頬を染めるトモイの両肩に手を置くと、そのままゆっくりとベッドに押し倒した。
♢ ♢ ♢ ♢
太陽が一番高い位置に昇る頃。
ムラオはハナ提灯を作り、気持ち良さそうに寝ているトモイの髪を撫でていた。
「すぴー……すぴー……ムラにぃ……んふふ」
ムラオは思った。
この穏やかな寝顔を、絶望の表情に変えない為に、いい加減魔王討伐に旅立たねばならない、と。
半端な時間になってしまったが、今度こそはと自らを奮い立たせ、トモイと母親に向けた書置きを残すと、ムラオは部屋を後にした。
階段を下り、自宅の玄関を出る所で背後に誰かの気配を感じた。
「……ムラオ」
よく聞き慣れた声。安らぐような、どこか気恥ずかしいような気持になる不思議な声。
振り向くとそこには、ツヤのある蒼い髪を後ろで束ねた母親のオクリ・ダセーヌが立っていた。
「朝からお楽しみだったようね?」
母の言葉に、思わずムラオは右手て目を覆う。今すぐここから逃げ出したい気分であった。
「……とっくに旅立ったと思ってたのに。全く困った子ね」
ムラオは目を覆ったまま彫像のように微動だにしない。
「二階から漏れてきた声を聞いて……久々にわたしが女であることを思い出してしまったわ」
少しずつ手をずらすと、開けたムラオの視界には頬を染めた、今まで見たことのない表情を浮かべた母親が立っていた。
「実はね、ムラオ。あなたとわたしは、血のつながりがないの」
衝撃の告白に再びムラオの動きが止まる。
「わたしが十八歳の時、農作業から帰ると家の前に籠が置いてあってね。その中に毛布にくるまれていた赤子のあなたがいたの……村の人たちは誰も知らないって言うから、そのままわたし育てることにしたのよ」
考えてみれば自分と母親は顔も似ていないし、髪の色も瞳の色も違う。
父親がいない理由も、はぐらかされて教えてもらったことはなかった。
ムラオはショックを受けたものの、心のどこかではやはりそうだったのか、とも思った。
「ムラオ……あなた、時々わたしの入浴中に覗いてたでしょう」
ムラオは再び手の位置をずらし、目を覆い隠す。
「実はね。……わたしも時々、あなたの入浴姿を……覗いていたのよ」
ムラオは顔に置いていた右手を勢いよく外し、驚いた様子で母親を見る。
「年々逞しくなっていくあなたを見ていると……心のどこかにしまいこんでいたわたしの『女』が目覚めるのを感じていたわ」
ムラオは目を疑う。目の前に立っているのは母親であるはずなのに、一人の女性に見えたからだ。
「ムラオ……おいで。わたしね……あなたを……。あなたを、他の女の子に取られたくないわ」
母親が両手を広げ、ムラオを誘う。
ふらふらとした足取りでムラオが母親に近づき、その豊満な胸元に顔をうずめた。
「いい子ね……。わたしの部屋に、行きましょう」
そのまま二人は家の奥へと消えて行った。
♢ ♢ ♢ ♢
それから一ヵ月経った。
ムラオは相変わらず村に留まり、新たに現れた女性たちやこれまでに関係を結んだ女性たちと、時には一人、時には二人と爛れた関係を続けていた。
遠くの国が魔王によって滅ぼされたという知らせが村に届いても、もはやムラオの心は動かなかった。
使命を忘れ、ただただ欲望の泉の奥底へとその身を落としていく。
世界が滅ぶその日まで、ムラオがこの村を旅立つことはないだろう。
勇者ムラオは、剣を抜く場所を間違えてしまったのである。
完
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