第1話 女商人は、勇者に捨てられて置き去りにされる
「うそ!?うそでしょ!!」
早朝の砂浜をアリアは走る。寝巻のままで、髪もセットもせず、すっぴんのままで。
その先にあるのは海原。アリアは砂浜を一気に駆け下りて、そのまま海へと入る。
バシャバシャと海水が跳ねて、スカートが濡れるのも気にせずに、それでも前へと進んだ。そして、胸元まで浸かったとき、ようやく足を止めた。これ以上は進めないからだ。
遠い遥か彼方——。海原を一隻の船が遠ざかっていく。
アリアは叫び、腕がちぎれんばかりに思いっきり振るが、引き返す様子はない。それどころか、その姿は小さくなるばかり。
「ははは……」
アリアの口から乾いた笑いがこぼれた。
今にして考えてみれば、おかしな話だった。
いくら商都と呼ばれるルクレティアの商業大学を首席で卒業したとはいえ、LV1の駆け出しの商人である自分が今を時めく勇者パーティにスカウトされるなんて話。
信じた方が馬鹿だったのだ。
「挙句の果てに……異大陸の何もない開拓村に連れてこられて置き去りにされるとは……」
情けなさすぎて涙も出ない。
勇者アベルに仲間にならないかと誘われてからの二週間。毎日がとても楽しい日々だった。
見たこともない豪勢な食事に舌鼓を打ち、夕日が沈む船のデッキでは愛を語り合ったりもした。もちろん、昨夜も激しく……。
「なにが……『君の才能をボクのためだけに役立ててみないか』よ……」
それは、スカウトされた日に、初めてかけられた言葉。
「なにが……『君の瞳に乾杯』よ……」
夜景が美しいルクレティアの五つ星ホテルの最上階で、初めて抱かれたときに囁かれた言葉。
どれもこれも、昨晩までは思い返してはニタニタする、アリアの大切な心の拠り所であった。
それなのに、朝起きたら彼はベッドの隣どころか、この村から荷物と他の仲間と共に消えていた。「さよなら」の置手紙一つすら残さずに。
宿に居た遊び人風情の男から聞いた話によれば、この開拓村には商人が必要で、そのためだけに自分は連れてこられたのだという。
勇者が懇意にしているハルシオン王国に戻れば、褒賞として『とある宝玉』が与えられるという。
そんな話、信じたくなかったけど……勇者を乗せた船はもう水平線の彼方に消えていた。戻ってくる気配もない。すべての思い出が色を失った。
(こんなことなら、お母さんの言う通りに商務省に就職しておけばよかった……)
一人取り残された浜辺で、アリアは心の底から後悔した。ちょっと勇者がイケメンだったからと、ホイホイついていった二週間前の自分をぶん殴りたくなった。
「……ああ、アリア。君に涙は似合わない!!」
だが、そんな悲しみに暮れるアリアの耳に、そのような声が聞こえてきた。振り返ると、そこには勇者たちの旅立ちを教えてくれたレオナルドが立っていた。彼は、アリアを買い取ったこの開拓村の村長の息子だ。
「泣いてないけど、なに?」
アリアは泣きたい気持ちをグッとこらえて不愛想に答えた。それなのに……レオナルドはなぜか両手を広げた。
「かわいそうなアリア。……おいで。僕の胸で泣いてもいいんだよ」
ド派手な衣装に奇抜な髪型。まさに『遊び人』という名がふさわしいレオナルドにアリアはイラつき、二週間前の自分を殴る代わりに、その大きく開かれた胸に……飛び蹴りをかました。
「黒!!これはまた予想外……グフォ!!」
衝撃に耐え切れず、レオナルドは砂浜に沈んだ。そんなレオナルドに目をくれずに、アリアはもう一度海原の方を向き、腹の底から思いっきり叫んだ。
「クッソたれが!!おぼえていろ!!絶対に!絶対に!絶ったーいにっ!!復讐してやる!!!!」
もうすでに、船は地平線のかなたに消えて何も見えない。声が届くはずもない。
それでも、言葉にした。決意を示すために。
アリアは、一先ず村に戻ることとした。もう海原を振り返ることはなかった。