【036】難民と用心棒
一
空腹は、人の心を容易に打ち砕く。
腹が背中と“くっ付く”とは良く言ったものだが、実際に体験してみると、本当にそうなっているのではないかという錯覚に陥る。
ただ、惰性で吸い込む空気だけが、腹を膨らませる。
食事で賄うべき活力は既に失われ、不快な冷や汗が肌を伝っては消えていく。
苦しみの果てが地獄だというのなら、空腹は間違いなく地獄と言えるだろう。
「ねえ」
誰かが呟いた。
その声に応じる人は誰も居ない。
もう疲れているのだ。
他愛のない会話すら億劫に感じてしまうほど、皆疲れてしまっているのだ。
「――――――――」
聞き慣れない声だった。
ついに耳までいかれたかと辟易としたが、それは杞憂だった。
「――――水と食料は用意した。動けない者はいるか――?」
二
場所は鹿羽達のギルド拠点近くの森――ターツァ山脈ふもとの森にて。
男達を率いて何とか生計を立てているライナスの下に、三十に届くかという数の男女が押し寄せていた。
「――――まあな? 助けてもらった恩があんのは重々承知してんだが……。お前らも結構図々しいよな」
「食糧に関しては追加で支給するから問題は無い。一時的に面倒を見てやってはくれないか?」
呆れた様子で喋るライナスを前に、鹿羽は淡々と告げた。
ギルド拠点にて、困窮した人々の存在に気付いた鹿羽は、麻理亜達に相談し、助けることに決めた。
水や食料を用意し、一先ず直近の問題を解決することが出来たものの、彼らに安定した生活が確保された訳ではなかった。
「そうは言ってもな……。俺達は適当に革や布を敷いて寝てんだぜ? 野郎はともかく、女子供は辛いだろうよ」
「住居の問題か。確かにそれは考えてなかったな……」
取り敢えず根は優しいライナスを頼れば、文句を言いつつも引き受けてくれるだろうと鹿羽は考えていた。
しかしながら、人間が生きていくにはそれ相応の環境が必要であることを鹿羽は失念していた。
「あのう……、少し、良いですか……?」
「――――? どうかしたか?」
独りよがりな好意で人々を助けたことを少し後悔し始めた鹿羽に、助けられた人々の内の一人が声を掛けた。
「いえ……、住居と聞こえましたので……。材料さえあれば、自分達で作れますが……」
「そうか。なら――――」
「待て待て待て。お前にとっちゃピンとこねえ話かもしれねえけどな、ここは結構危ない所なんだぜ? 家なんて目立つもん構えたら、魔物の恰好の的じゃねえか」
「ひ、ひえ……っ。そ、そんな危ないところなんですか……っ!?」
ライナスの言葉に、声を掛けた男は震え上がった。
この世界において、森というのは、まだまだ人間の支配下とは言い難い環境だった。
そして、人よりも遥かに身体が大きく、更には人を襲う獣の存在も、森という環境においては決して珍しいものではなかった。
ライナスには男の振る舞いがやや大げさに思えたが、身の安全に関しては、注意してもし過ぎることはないことをライナスは理解していた。
「少なくとも、ある程度は身を守る術が身に付いてねえとな」
「…………分かった。ここに一人、用心棒を派遣しよう。少なくとも“屍食鬼/グール”の軍勢を相手取る程度のことは出来る筈だ」
「お前な……」
ライナスは呆れた様子で、そう言った。
「――――まあいい。ところで、だ。どうしてわざわざ、あのキツイ山脈を越えてこんな所まで来たんだ? 向こうで戦争でもあったのか?」
「……いえ、我々の住んでいた場所はターツァ山脈の高地でしたから。戦争が起きたって影響なんてありませんよ」
男は苦笑しながら答えた。
そして、ゆっくりと事の顛末を語り始めた。
「――――実はですね、竜が出たんです。普段は魔物だって近付いてこない、良い所だったんですがね。急に空が暗くなったと思ったら、いきなりドーン、と」
「……ドラゴンか。そりゃあ、どうしようもねえな」
「はい。不幸中の幸い、その時は犠牲者は出ませんでしたが、着の身着のまま逃げてきましたからね。水も食料も無くて、それはそれは大変でした。彼が助けてくれなければ、我々は飢え死にしていたでしょうね」
そう言って男は鹿羽の方へ振り向くと、感謝の言葉を改めて口にした。
「――――という訳だ。ライナス。助けてやってはくれないか?」
「この話の後で言うのは卑怯ってもんだろ……。――――分かった。他の奴らの説得は俺の方でしておく。お前は早急に、その用心棒とやらを連れて来てくれ」
「ああ。そうさせてもらう」
三
鹿羽がライナス達の護衛として選んだのは、E・イーター・エラエノーラだった。
対集団における数々の有利な能力と、高い戦闘継続能力が拠点の防衛に適しているとの判断であったが、鹿羽達のギルド拠点防衛において、E・イーター・エラエノーラがいなくてもさして影響はないという理由も少なからず存在した。
「ふわ……。ここを守る……、エル、です」
「また個性の強そうな奴が来たな……。こいつも魔術師か?」
「魔術師……? 魔法、少し使えるけど……。コッチの方が得意……」
手ぶらだった筈のE・イーター・エラエノーラの右手に、何時の間にか槍が握り締められていた。
その槍は先端の刃に限らず、持ち手の部分も同一の金属によって出来ており、まるで巨大な針のようだった。
「見ての通り、近接戦闘の方が得意だ」
「随分となげえ得物だな。使いこなせんのか?」
「ふわ……? 使いこなせる、よ?」
「ライナス。不安なら手合わせしてみるか?」
E・イーター・エラエノーラは比較的高身長の部類に入っていたが、その手に握り締めた槍は、その彼女の背丈を優に超える大きさだった。
大男がそれを振り回せば迫力満点だっただろうが、E・イーター・エラエノーラはどこかフワフワとした雰囲気を感じさせる女性であり、その槍が飾りに見えてもおかしくはなかった。
「――――勘弁してくれ、と言いたいところだが……。俺も強さに関しては貪欲なんでな。そんなことを言うんなら、受けさせてもらうぜ?」
「ふわ……? えっと、ニームレス様? どうすれば、いいんでしょうか……?」
「怪我をさせない程度にやっつけてくれ」
「怪我をさせないで、やっつける……。わ、分かりました」
E・イーター・エラエノーラは小首を傾げながらも頷いた。
「――――どうせ俺より遥かに強いんだろ? なら、手加減はいらねえよな?」
「危なくなったら俺が止めるさ。いざとなったら治癒魔法を使えば良いからな」
「はっ! 便利なこった」
ライナスは吐き捨てるようにそう言った。
(怪我をさせないでやっつける。怪我をさせないでやっつける。怪我をさせないでやっつける――――――――?)
張り切った様子で身体を伸ばすライナスを横に、E・イーター・エラエノーラは鹿羽の言葉を頭の中で反芻していた。
そして、ある一つの結論がE・イーター・エラエノーラの中で導き出された。
(……怪我させないで、どうすればやっつけられるんだろう?)
「――――準備は良いか? エルさんとやらよ」
「準備は、良い、けど、えっと、うん。大丈夫」
「そんなら、チャッチャと始めさせてもらうぜ」
ライナスは静かに剣を鞘から引き抜いた。
「格上とやれる機会は貴重だからな。思う存分、勉強させてもらう」
(斬っても駄目、貫いても駄目、叩いても、ぶっても、焼いても凍らせても噛み付いても駄目……)
「そんじゃ、行くぜ?」
「ふわ……」
E・イーター・エラエノーラが漏らした呟きを肯定と受け取ったのか、ライナスは剣を構えて飛び出した。
「はああああああっ!」
そして、E・イーター・エラエノーラの持っていた槍の隙間を縫うように、強烈な突きが繰り出された。
「――――」
「はっ! 手加減しなくて正解だったぜ!」
剣の先端がE・イーター・エラエノーラの首を貫こうとした瞬間、強引に槍は振るわれ、ライナスの突きを弾き返した。
(隙だらけ……。ここを叩けば……)
並の戦士から見れば、二人の間で展開された攻防は苛烈なものだった。
そしてライナス自身も、この瞬時の読み合いが高度なものであると自負していた。
しかしながら、E・イーター・エラエノーラには、既に一手で勝利を掴み取る道筋が見えていた。
強引に叩き潰しても、隙間を縫って突き刺しても、魔法を唱えても、ただ蹴りを入れるだけでも。
思い付く手段は全て上手くいくだろうと、E・イーター・エラエノーラは半ば無意識に確信していた。
(あ、でも、怪我をさせちゃ駄目だから、出来ないや)
何の躊躇いもなく殺して良い相手だったならば、E・イーター・エラエノーラは何の躊躇いもなく、いずれかの方法を用いて相手を仕留めていた。
しかしながら、E・イーター・エラエノーラの脳内にあったのは、“怪我をさせずにやっつけること”だった。
鹿羽自身は、程々に手加減して欲しいという願いからそう命令したのだが、E・イーター・エラエノーラにはその細かな意図が伝わっていなかった。
「はああああ!」
ライナスの怒号と共に、刃がE・イーター・エラエノーラに迫った。
反撃という手段に出られないE・イーター・エラエノーラは、必然的に防御に徹していた。
「ライナスさんが押してるぞ!」
「いけえ!」
ライナスの仲間達が歓声を上げた。
傍から見れば、ライナスが次々と斬撃を繰り出し、E・イーター・エラエノーラが防戦を強いられているように見えた。
(……どうしよう。やっぱり、カバネ様の命令、難しい)
「槍のリーチが活かせていないみたいだな! これも手加減か!?」
「ふわ……、難しい」
「だろうな! 逆に、この間合いで防がれていることが不思議だぜ!」
「――――だから、とりあえず、剣を飛ばすね」
「あん――――?」
ライナスは一瞬、E・イーター・エラエノーラの言ったことが理解出来なかった。
そして、気が付けばライナスの剣は宙を舞っていた。
「は――――?」
握り締めていた筈の“相棒”が消失し、手応えの無い感触に戸惑うライナス。
斬撃を防御する為に構えられていた筈のE・イーター・エラエノーラの槍が、既に振るわれた後のように移動しているのを見て、ライナスはこの一瞬に何が起きたのかを理解した。
「武器が無ければ、怪我をさせずにやっつけられる、かも」
そして、武器を失い、無防備になったライナスを、E・イーター・エラエノーラは容易く組み伏せた。
「――――何なんだよ」
「ふわ……。怪我をさせずに、やっつけた。上手くいって良かった」
E・イーター・エラエノーラは嬉しそうにそう言った。




