【002】未知
一
布織物が持つ特有の香りが、鹿羽の鼻をくすぐった。
思考は宙を彷徨い、とりとめのない映像や画像が流れては消えていった。
明日、数学の小テストがあることを思い出した。
予習はまだしていなかった。
このまま無策でテストに臨んでしまえば、どれだけ授業態度が良かったとしても、望む点数は取れないだろう、と。
鹿羽は呑気にそんなことを考えていた。
(ああ、勉強しないと)
目的が生まれたことで、鹿羽の意識は鮮明になっていった。
そして、どうして自分が横になって寝ているのかも思い出した。
「――――ッ!?」
鹿羽は無意識の内に息を呑み、心臓に手を当てていた。
ドクン、ドクン、と。
やや動きが激しいような気もしたが、鹿羽の心臓は一定のペースを守って動いていた。
「なに、が?」
痛みは無かった。
粘つくような感覚も、液体が滲んでいく感覚も、そして死を思わせるあの“寒気”も無かった。
鹿羽自身は、不自然なまでに健康だった。
(あの時、決して浅くない傷を貰った筈だ。完治するほどの時間が経過したのか、それとも自分の状態を客観的に認識出来ないほどの致命的なダメージを被ったのか――)
鹿羽の思考は研ぎ澄まされ、やがて視覚や聴覚も正常な状態へと回復した。
鹿羽は静かに身体を起こすと、周りを見渡した。
言葉にするとしたら、綺麗な部屋だった。
豪華な装飾が施された調度品は、バランス良く配置されていた。
並べられた調度品に対し、鹿羽にはその正確な価値を推定することが出来なかった。
どうやら、この奇妙な空間に存在する綺麗なベッドで寝ていたようだった。
(意味が、分からないな)
鹿羽は現実味の無い環境に置かれながらも、落ち着いていた。
正確に言えば、鹿羽はこの場所に来たことはなかった。
しかしながら、鹿羽はこの場所を知っていた。
むしろ世界中の誰よりも、この場所に詳しいといっても良い、と。
そんなことまで考えていた。
(ゲームの夢を見るとは、ゲーマーの名に恥じない脳味噌の腐り方だな)
鹿羽は、この場所を知っていた。
鹿羽は、この場所を“作っていた”。
この場所は、ゲーム上で鹿羽が作り出した自室を正確に再現した、奇妙な空間だった。
(少なくとも自分が今、夢を見ているとは思えない。無論、断言は出来ないが――)
鹿羽は大袈裟に手の平を開いたり、閉じたりした。
漫画じゃあるまいと自嘲しながら、頬をつねった。
鋭い痛みが走り、鹿羽は思わず顔をしかめた。
現実の時と相違ない感覚であり、特に何も分からなかった。
(ここに居ても何も分からないな……。自分の置かれた状況が分からない以上、下手に動かない方が賢明なんだろうが……)
ふと気になって、鹿羽は自分の服装を確認した。
黒を基調とした、ゆったりとしたローブだった。
(丁寧に服装まで、俺がゲームで装備していたものと一緒か)
鹿羽はこの部屋にある唯一の出入り口を睨んだ。
しばらく気配を潜め、周辺に誰も居ないことを確認すると、静かに出入り口のドアに手を掛けた。
二
幅のある廊下を、鹿羽は極力音を立てないように歩いていた。
見る限り、そして聞く限り、周辺に鹿羽以外の気配はなかった。
そのことが一つの安心材料になっている一方で、この世界に自分だけが取り残されたような、そんな孤独感も味わっていた。
(見たところ、この辺りもゲーム内のデザイン通りになっているみたいだな……。もしかして麻理亜や楓も、ここに来ているんじゃないだろうか)
鹿羽の脳裏に二人の少女の姿が浮かんだ。
ところが、鹿羽はその思考を打ち消すように首を左右に振った。
自分が置かれた状況は間違いなく、非現実。
非現実ということはつまり、現実と交わることはありえない。
もう二度と会えないかもしれない二人のことを考えて、それに縋るのは止めようと。
ありえない希望を抱くのは、後になって辛いだけだと。
鹿羽はそう思った。
「あ、もしかして。もしかしなくても鹿羽殿?」
「……」
「ほら、我であるぞ。漆黒に沈んだ魔界を支配し、神々に挑んだ堕天使メイプルであるぞ」
鹿羽は、深い溜め息をついた。
「“黒の深淵”」
「ん?ああ、そういうことであるか。“白の廻天”」
「“握るは拳”」
「“抱くは勇気”」
「“恋を食わば”」
「“愛まで”!! ふ、今までに乗り越えし試練の名など、我には簡単過ぎるな……」
「江戸幕府三代将軍の名前は?」
「え……。と、徳川家康……?」
「ああ、間違いない。楓だな」
「なんか馬鹿にされたような気がするぞ!」
鹿羽の前に現れた少女は頬を膨らませた。
その姿を見て、鹿羽は思わず笑ってしまった。
「もう!」
「悪い。からかい過ぎた。でも、本当に楓なんだよな?」
鹿羽の口調は親しみがこもっている一方で、どこか疑念が入り混じっていた。
それは何かを恐れるようで、何かに怯えているようだった。
「我は楓ではない! 神々に挑みし堕天使メイプルであるぞ!」
「まあ、楓だよな……」
目の前の少女が、本当に鹿羽の知っている少女かどうかは分からなかった。
しかしながら、目の前の少女は、鹿羽の記憶の中にいる少女と一致していた。
一先ず、鹿羽は楓が楓であると信じることにした。
「とりあえず、一つ聞きたいことがある。良いか?」
「モチのロンであるぞ! 申せ!」
「楓はどうやってここに来た?」
瞬間、楓は深くうなだれ、その表情を曇らせた。
目の前の少女の急激な変化に、鹿羽は思わず身体を強張らせた。
しかしそれは、杞憂に終わった。
「よくぞ聞いてくれた鹿羽殿! 我は遂に異世界転生し! 堕天使メイプルとして生まれ変わったのだ!!」
「……はあ」
「見よ! 黒鋼雷剣ベルセルクの蒼き輝きを! 我はこの後! 天界に巣食いし腐敗した神々を一掃し! 異世界チートハーレムを堪能して……。あ、でも私がハーレムしてもしょうがないから――」
身長に匹敵するほどの大剣に頬擦りしながら、楓は早口で語った。
鹿羽は溜め息をつくと、再び口を開いた。
「じゃあ、その、なんだ。やっぱり楓も死んだのか?」
「否! 我は“異世界とらっく”なるものによって現世の逃れ難い輪廻から解き放たれたのだ!」
「ベタなのかもしれないが、嫌な死に方だな」
「鹿羽殿は如何にして?」
「殺人鬼に刺された」
「ええ……、怖」
「安心しろ。トラックも十分に怖い」
僅かな間だけ、鹿羽と楓は互いに見つめ合った。
すると堪え切れなくなったように、二人は笑い始めた。
「まあ、また楓に会えて良かったよ」
「ふん。我の力を欲するとは、甘い奴よの」
「楓は俺じゃ不満か?」
「ちょ、急にやめてよ。恥ずかしい……」
楓は顔を赤らめながらそっぽを向いた。
その様子を見て、鹿羽はまた笑うのだった。
「もう」
「悪かったよ。あとは……、麻理亜もここに来ているのか、だな」
「麻理亜殿は病室で大人しくしていた筈。戦いを宿命付けられた我や鹿羽殿はともかく、麻理亜殿が輪廻から解放されるのは少々考えにくい……」
「やっぱり俺ら二人だけなのかね」
「あるとすれば……、病死とか?」
「お前ェ……」
「じょ、冗談である!」
楓は慌てた様子で発言を撤回した。
しかしながら、鹿羽は表面上は怒ったものの、そんな楓をあまり責める気にはなれなかった。
なぜなら、伊峡麻理亜が病死してでも、彼女に会いたいと思っている自分がいることを、鹿羽自身は自覚していたからだった。
我ながら醜悪な考えだと、鹿羽は心の中で自嘲した。
そして自嘲しながらも、鹿羽は会いたいという気持ちを否定することはなかった。
「でも、せっかくなら三人が良かったね」
「……そうだな」
友人に会いたいと思う気持ち。
それ自体に罪は無いと。
鹿羽はそう考えることにした。
「鹿羽殿」
「ああ、分かってる」
「鹿羽殿、鹿羽殿、鹿羽殿」
「分かってるって」
楓は鹿羽の身体を揺さぶりながら、ある方向を指差した。
鹿羽は為されるがまま揺さぶられながら、楓が指差した方向を眺めた。
「で、でっかい虫ィ……っ!」
「……もしかして“死毒蠍/デススコルピオ”か? 随分とリアルだな」
鹿羽達の身長を優に超える大サソリが、両腕の鋏を開閉しながらゆっくりと迫っていた。
楓は顔を青くしながら、さらに鹿羽を強く揺さぶった。
「虫! 虫! 鹿羽殿! 虫!」
「落ち着け。あとサソリは……、一応虫なのか……?」
「どうしてそんなに落ち着いておるのだ!!」
やがて大サソリは二人の目の前に迫り、両腕を振り上げて大きく威嚇した。
「ひえ……」
(さて、どうしたもんかね)
鹿羽は再び、溜め息をついた。