【163】苦くて甘い
一
とある場所にて。
(――――知らない天井? はて。記憶が飛ぶほどの酒を飲まされた記憶は無いが……)
アポロは目を覚ますと、薄暗く、そして覚えのない天井が目に映った。
身体を覆う毛布は肌触りが良く、程よく伝わってくる暖かさは非常に心地の良いものだった。
(……?)
アポロは寝ぼけた様子で身体を起こすと、毛布の隙間から冷気が流れ込み、ベッドの外は少し寒いことに気が付いた。
そして、自分が裸で寝ていたことにようやく気が付いた。
(……っ!!??)
意識が急速に鮮明になっていく中、アポロは慌てた様子で毛布を被ると、辺りの様子を窺った。
アポロの居る空間は、どうやら寝室のようだった。
部屋の壁などは暗い色の木目調になっており、隅にポツンと置かれた素朴な調度品も相まって決して豪華とは言えなかったが、それでも統一感のある内装は手入れの行き届いた貴族の屋敷を彷彿とさせた。
そして、この寝室にはベッドが二つあった。
アポロが寝ていたベッドの隣にも、同様にベッドが置かれていた。
「な、な……っ」
そこには、アポロと同様に裸で寝ていると思われる一人の少年の姿があった。
そしてその少年は、鹿羽に酷似していた。
「ん、あ……。――――ぐ……っ。おはよう……。早いな……」
「あ、ああ……」
「……今日は俺が朝ご飯の当番だったか?」
「え、あ、その……。どう、だろうな……」
アポロは必死に身体を隠しながら、小さな声でそう言った。
対する少年はお互いに裸であることを一切気にする様子もなく、呑気に伸びをした。
「――――冗談だ。ちゃんと作るよ。アポロはその辺でくつろいでいてくれ」
少年はそう言うと、慣れた様子でクローゼットに入っていた寝間着を身に纏い、寝室を後にした。
(ど、どういうことだ……?)
アポロは状況を飲み込めず、しばらく毛布の中で呆然としていた。
二
とある場所の、リビングにて。
アポロと少年の二人は、互いに寝間着を纏った状態で朝食を共にしていた。
(普通に美味しくて、なんか腹立つな……)
少年が作った朝食は、焼き魚を主菜にした少し手の込んだものであり、確かに美味しいものだった。
しかしながら、同時に何とも言えない感情をアポロに与えるものでもあった。
「今日はどうする? 久しぶりにサテラ通りの方へ行ってみるか?」
「……任せる」
「そうか。じゃあ決まりだな」
アポロ達は朝食を食べ終わると、少年は慣れた様子で食器を洗っていた。
やることのないアポロは少し気まずそうに椅子に座っていたが、対照的に少年はむしろ陽気に家事を遂行していた。
「――――ほい」
「……ありがとう」
「はいはい。どういたしまして」
そして少年は、アポロにミルクたっぷりのコーヒーを淹れていた。
(――――独特な香りがするな……。見た目はただの泥水にしか見えないが、流石に飲まない訳にはいかないか)
アポロはコーヒーの存在を知らなかったが、少年が何てことない様子で飲んでいるのを見て、恐る恐る口を付けた。
「面白い味だな」
「……? 気に入らないか?」
「いや、そういう訳ではないが……」
「毎日同じように作ってるつもりなんだがな。そういうもんか」
少年はそう言うと、再びコーヒーに口を付けた。
(私は今日初めて飲んだがな)
そしてアポロもまた、甘くて苦いコーヒーに口を付けた。
三
「……別に無理してオシャレしなくて良いんだぞ?」
「時間が掛かっただけだ」
「はいはい。そういうことにしとくよ」
少年は、穏やかに笑いながらそう言った。
アポロはこの家の何処に服があるのかを知らなかった為に、着替えにかなりの時間が掛かっていたが、少年は特に気にした様子を見せなかった。
「――――でもまあ、嬉しいもんだな。意識してくれてるってことだろ?」
「黙れ」
「はっはっは! なんか懐かしいな。付き合いたての頃みたいだ」
「……」
嬉しそうに笑う少年に、アポロは少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「久しぶりに手を繋いで歩かないか?」
「……お前がそう言うなら」
少年の手は、少しだけ冷たかった。
四
とある場所にある、カフェにて。
「――――これ。けっこう美味しいな」
「ああ」
アポロ達は、テラス席で軽い昼食を取っていた。
アポロは口に含んでいたパンを飲み込むと、少年の方を向いて口を開いた。
「……最近、どうだ。調子は」
「ん? どうもこうも見た通りだ。いつも通りだよ」
「そうか」
少年の何てことない返答に、アポロはクスリと笑うと、再び口を開いた。
「――――私にこんなものを見せて何のつもりだ。この偽物野郎」
突然放たれたアポロの声に、少年は静かに目を細めた。
「……はは。急にどうしたんだよ」
「お前の言う通り、どうもこうも見た通りだ。随分と都合の良い世界だな。私を殺したいのなら、そのまま都合の良いように脳味噌をぐちゃぐちゃにしてやれば良いだけの話だろう。――――こんなものを見せて、何のつもりだ」
アポロは低い声で、問い詰めるようにそう言った。
しばらくの間、二人は互いに見つめ合っていた。
すると少年は観念した様子で、クスクスと笑った。
「……よく分かったね。違和感を緩和する術式も発動していた筈なんだけれど」
「妄想に救いは無い。楽しい夢ばかり見て、身を滅ぼすつもりは毛頭無いからな」
「君のような過去を持つ人間はおおよそ心が弱いと思ったんだけど、そうでもないみたいだ。やはり、気丈な人には効かないね」
少年は淡々とした様子でそう言った。
その姿は、もはやアポロが知っている少年とは全く異なるものになっていた。
「――――お前は何者だ。私を早くこの世界から出せ」
「君が強く願えば、この世界は簡単に出られるようになっている。そして私が何者かの質問に関してだけど……」
少年は一瞬躊躇った様子を見せると、再び淡々と語り出した。
「……私は“機械”だ。君とこうして話しているのも、人格を模したプログラムが正常に機能しているに過ぎない。私は、人間はおろか、生物ですらないんだ」
「じゃあ、お前を作ったのは誰なんだ。こんなことをする意味は」
「言っただろう? 私は機械なんだ。機械は意味なんて考えず、あくまで命令を素直に遂行するだけだ。――――たまたま私を手に入れた少女が、私に触れた者全てに幸せな夢を見せろ、とね」
「……その少女は、金髪で愚かな少女か?」
アポロはエルメイ達と共に対峙した少女――ミユキのことを思い浮かべながらそう言った。
「ああ。きっと君が考えている相手だろうね」
そして少年は、同意した様子でそう言った。
「――――前者の質問にも答えろ。お前を作った人間は誰だ」
「……データとして記録されているものを答えることは出来る。しかしながら、それは君が理解出来るものではないよ」
「良いから答えろ」
「……分かった」
少年は、あまり気が進まない様子で口を開いた。
「*****、さ。――――どうだい? 分かるかな」
そして、認識出来ない空虚な発音が、アポロの耳を叩いた。
アポロは、そもそも音なのかどうかも怪しい“何か”に眉をひそめると、少年はやれやれと言わんばかりに溜め息をついた。
「――――私の中で、私を作った人物のデータだけが綺麗に破損している。これは物理的な要因でも、人為的なものでもない。まるで世界からその人の存在だけが無かったことにされたみたいに、彼、或いは彼女のデータが消失しているんだ。これは正直、私も有り得ないことだと思っている。時空間や存在性に強く干渉する手段があれば、話は別なのかもしれないけど……」
そしてアポロは、少年が語った説明をイマイチ理解することが出来なかった。
「まあいい。私がこの世界から出たいと思えば、出られるんだな?」
「そうだね。――――でも、君の目的は私と同じ姿をした少年だろう? 君は自由に出られるけれど、この少年は閉じ込められたままさ。それで良いのかい?」
「そんな質問をする暇があるなら、サッサと出せ」
「……私としては出してあげたいところだけど、残念ながら、権限を持たない人からの命令を実行することは出来ない。理解してくれ」
「じゃあどうしろというんだ」
少年の言葉に、アポロは苛立った様子でそう言った。
「簡単さ。君自身が少年を説得してやればいい。あくまでこの世界から出る条件は、本人が出たいと思うかどうかなんだ」
「要するに、カバネはその世界に溺れてしまっている、ということか」
「そういうこと。逆に君みたいな人は珍しい。自分に甘い世界を否定出来る人間は、そう多くは無いからね」
少年はアポロから視線を逸らすと、遠くを見ながら、嘆くようにそう言った。
「――――早くカバネが居る世界に連れていけ。サッサと終わらせてやる」
「念の為、警告しておくけれど、その世界で君が溺れてしまえば、君自身も出られなくなってしまうからね」
「他人にとって都合の良い世界など糞食らえだ。問題無い」
「それもそうか」
アポロの頼もしい発言に、少年はクスリと笑った。
「それじゃあ、頑張っておくれ。応援しているよ」
瞬間、世界が崩壊し、アポロの意識が暗転した。




