【012】約束
一
「ふう、はあ」
小綺麗なベッドに体重を預け、鹿羽は深く息をついた。
食事の後、朝に再び集まることを確認し、鹿羽達はそれぞれの自室で夜を明かすことにしていた。
そして鹿羽は、初めてこの世界にやって来た場所に戻ってきていた。
(……殺人鬼に刺されて、ゲームの世界に飛ばされて、NPCが生きているみたいに……、まあ、生きていて――――)
振り返ってみれば、とんでもない一日だったと鹿羽は思った。
少なくとも、常識という“ものさし”で収まるスケールでは無かった筈だ、と。
(唯一救いがあるとすれば、楓と麻理亜がいてくれたことだな)
鹿羽の脳裏に、二人に少女の姿が浮かんだ。
小さい頃から、ずっと一緒に居てくれた二人。
もし二人がいなければ、たとえ今耐えることが出来たとしても、そう遠くない未来に心が折れてしまうだろうと鹿羽は思った。
(この世界にやってきて、楓と麻理亜がいて……。二人は……、俺の目の前にいてくれた楓と麻理亜は、本物なのだろうか――――?)
鹿羽は未だに、この世界にやってきた実感が湧いていなかった。
どんなにリアルな感覚、それこそ現実と全く変わらない視覚、聴覚、触覚、味覚、そして嗅覚が存在していたとしても、ゲームの世界が実在して良い筈がなかった。
そう考えるならば、今までに鹿羽が見てきたものは偽物ということになり、二人の大切な少女が、自分の哀しい妄想なのではないかという恐ろしい結論が妙に現実味を帯びているような気がして、鹿羽は怖かった。
どうして、自分はここに居るのか、と。
拉致されて、最新の科学技術をもってゲーム内の映像を見せられているだけなのではないのか、と。
神様的な超常的存在が、あざ笑いながら夢を見せているのではないか、と。
全て、自分の哀しい妄想の産物なのではないか、と。
鹿羽は、ただ怖かった。
「はーい。鹿羽君起きてるー?」
悪い想像が悪い想像を呼び、鹿羽の精神を侵食していた。
その中で、まさに代えがたいと思っていた彼女の声が聞こえ、鹿羽は思考の渦から引き戻された。
「……ま、麻理亜?」
「言われなくても麻理亜ちゃんだけど……、考え事?」
「い、いや。ボーっとしてただけだ」
強がっている自覚はあった。
洞察力に長けた麻理亜のことなので、もしかしたら、この一瞬で鹿羽の抱いている不安や恐怖は見破られているのかもしれなかった。
ただ、麻理亜は詳しく追及することはしなかった。
「隣座って良い?」
「ああ……、いや、待て。話なら場所を移そう」
「どうして? 移動の手間が面倒でしょう?」
「女の子が一人で……、男の部屋に来るべきじゃない……、だろう……」
鹿羽は言いにくそうに理由を話した。
すると、麻理亜はこれ以上ない笑顔を浮かべた。
「へえ~、女の子扱いしてくれるんだねえ~。嬉しいなあ~」
「……だから言いたくなかったんだ」
麻理亜は、ベッドに腰掛ける鹿羽の隣に腰を下ろすと、楽しそうに脇腹を肘で突いた。
「そ、し、て。どーして女の子である私は鹿羽君の部屋に一人で来ちゃいけないのかな?」
「……乱暴されるかもしれないだろ。俺かどうかは置いといて」
「鹿羽君は私に暴力を振るうような糞野郎なのー?」
麻理亜は笑っていた。
信頼の証なのか、それとも度胸の欠落に対する嫌な自信なのか、鹿羽には分からなかった。
いずれにせよ、麻理亜に対して変なことはしないということは、鹿羽にとっても自明のことだった。
「……分かったよ。ここにいろ。そして離れろ」
「うーん絶妙な距離感だねー」
麻理亜は跳ねるように鹿羽から距離を取った。
しかしながら、鹿羽からすれば、まだ近いように思えた。
「――――で、何しに来たんだ? 用も無く来るような性格じゃないだろう」
「性格に関して言われちゃうとー、私何にも言えなくなっちゃうけどー。鹿羽君に会いたかったから、じゃ駄目?」
「俺に何を求めてるんだよ……」
鹿羽は溜め息をついた。
「冗談冗談。勿論、鹿羽君と会いたいのは本当だけどね?――――この素敵な世界に来て、一日が経とうとしているでしょ? 色々思うところはあると思うんだけど……、とりあえず私の気持ちを伝えておこうかなって」
気持ちを伝えたいと言われれば、思春期の男子であれば誰だって同じ想像をするだろうと鹿羽は思った。
麻理亜のような綺麗な女性が相手であれば、それこそ誰であろうとも。
ただ、麻理亜と鹿羽はそういう間柄ではなかった。
友達以上恋人未満という甘酸っぱい関係ではなく、恋人以上に“友人”だった。
鹿羽は淡い恋の気持ちなど、中学生時代に捨てていた。
否、消えていた。
「随分と思わせぶりな台詞だな。死亡フラグは勘弁してくれよ」
ただ、お互いに信頼し、尊重し、大切に思うだけだった。
「私は死なないし、鹿羽君の場合は勘違いにならないと思うけどね。――――まあ、良いや。私はね、今とっても幸せなの。こんな素敵な世界に飛ばされて、また三人で集まれたなんて、とっても素敵なことだと思わない?」
「三人でまた集まれたことは俺も嬉しい。でも、この世界で分からないことが多過ぎる。手放しで喜べる状況ではないと思うが」
「もう。悲観主義者」
慎重な姿勢を崩さない鹿羽に対して、麻理亜はそう評するのだった。
僅かな沈黙が舞い降りた。
麻理亜はこの沈黙を気にしていない様子だったが、鹿羽はこの沈黙を掻き消すように口を開いた。
「……一つ訊きたいことがある。良いか?」
「内容によるとしか言えないけどねー。なあに?」
「病気のことだ。結局……、良くなったのか?」
鹿羽は、麻理亜の病気のことが気になっていた。
無論、これは個人のプライバシーに深く関わるデリケートな話題であり、容易く詮索して良い内容ではなかった。
そして鹿羽も、普段であれば、決して麻理亜に尋ねるようなことはしなかった。
しかしながら、今の状況は特殊だった。
もし麻理亜が病気を抱えていて、それが悪化する可能性があるなら、見過ごすことは出来ない、と。
たとえ麻理亜の心情を害することになろうとも、鹿羽は麻理亜の為に動くつもりだった。
「そうね。鹿羽君にはどう見える?」
「元気に見える。でも、麻理亜はそういうのを隠すのが人一倍上手いだろ? もし何かがあるなら、悪いが放っておけない」
「嬉しいこと言ってくれるんだね。――――病気は治ったよ。何処も痛くないし、何処も悪くない。私が今、幸せを感じているのは、病気が良くなったことも大きいと思うな」
「……本当か? 嘘はつかないで欲しい。俺は麻理亜と違って心は読めないからな」
「超能力を持っている訳じゃないんだけどね。嘘はつかないよ。特に、鹿羽君と楓ちゃんにはね」
「……そうか」
いつもとは違う麻理亜の真剣な口調に、鹿羽は納得するように頷いた。
「……麻理亜は、元の世界に帰りたくないのか?」
「そうね。究極的に言っちゃえば、三人一緒ならどこでも良いんだけど……。また病院で闘病生活はちょっと嫌かな。私、病気のせいで色々諦めてたから」
「……そうか」
“諦めていた”。
それは容易に察することの出来る事実であり、麻理亜が抱えていたであろう最大の悲劇だった。
気休めの台詞など、両者にとって何の救いにもならないことを鹿羽は理解していた。
麻理亜という人間の悲劇を身近に見てきた鹿羽には、掛けられる言葉などありはしなかった。
「そう言う鹿羽君は? もしかして鹿羽君は、元の世界に帰りたかったり?」
「……分からない。この世界が良いものなら、ここに居たいと思うかもしれない。でも酷い世界なら……、帰りたいと思うかもしれないな」
鹿羽は、この世界を全く知らなかった。
この世界の良いところと言えば、楓と麻理亜が一緒に居てくれるかもしれないということだったが、たった一日で二者択一の決断を出来るほどの度胸は今の鹿羽には無かった。
「じゃあ、私からも質問良い? 意地悪な質問かもしれないけど」
「お互い様だ。何でも答える」
「……これからもずっと、三人一緒に居てくれる?」
愚問だった。
少なくとも鹿羽には、答えるまでもない質問だった。
「その質問をするなら、楓もいた方が良いんじゃないか?」
「楓ちゃんったら、部屋で必殺技の練習をしているんだもん。あんな楽しそうな声を聞かされちゃうと、呼ぶに呼べないよね」
「はは。目に浮かぶようだな」
麻理亜につられて、鹿羽も苦笑してしまった。
「で、何でも答えるって言った割には答えていないよね。どうなの鹿羽君」
「……そうだな」
ずっと、三人で一緒に。
遠い昔、そんな約束を地元の公園でしたような気がした。
“ずっと”とは、いつまでのことなのだろうか、と。
三人の内、誰かが結婚して、誰かが死ぬかもしれない中で、そんな幼い友情が永遠に続くことなど、あるのだろうか、と。
愚問だった。
具体的な期限など、問題ではないのだ。
鹿羽自身、どう思って、どうしたいのかが、この質問の答えだった。
「出来る限り、一緒にいよう。三人で、一緒に」
間違いない、鹿羽の願いだった。
「鹿羽君らしいね」
「そうか?」
「うん。とっても満足。来て良かったわ」
「ちょっと照れ臭いけどな」
鼓動が早くなり、顔が熱くなるのを鹿羽は感じた。
対して麻理亜は、通常運転で笑顔を浮かべていた。
「はい、じゃあ戻ろうかなー。夜更かしはお肌に悪いからねー」
麻理亜は立ち上がり、いそいそと部屋の出入り口に移動した。
そして振り返ると。
「じゃあね。愛してるよ鹿羽君」
ふざけた様子で言い残し、あっという間にいなくなるのだった。




