知らない振りをしています
苦しい…。
ダメだ…もう…息が…。
『…!…ッ、…ッ!』
誰…?
*
窓を開け、朝の澄んだ空気を招き入れて思い切り背伸びをする。ついでに大きなアクビもしておこう。これから振りまく笑顔の為にも、しっかりと頬を緩めておかないとね。
----さて。うーん…今日はこのリボンにするか。
私は引き出しの中から薄い緑色のリボンを取り出し、手早く仕事着に着替えてから髪を結んだ。母親譲りの長いくせ毛はまとめるだけでも時間がかかる。そろそろ切ろうかと考えながら窓を閉め、顔を洗いに部屋を出た。
薄暗い廊下を静かに歩き、階段の手すりに手をかける。ふと見れば、私の足音に気付いた父が階下からひょっこりと顔を出して見上げていた。
「おぅ!起きたか、アリヴェル!起きてすぐで悪いが、すぐに用意してこっち手伝ってくれ!」
「ちょっと、お父さん!分かったから朝から大きな声出さないでよ。まだお客さんたち寝てる…うん?」
階段を降りる足を止めて、父の手に握られているモノをじっと見る。父のエプロンの汚れ具合とキッチンから漂ってくる匂いからして、これから起きてくるお客さんたちに出す朝食を作っていたんだろうな、ということが分かった。分かったんだけど…
----お父さん!それ、包丁じゃなくて投剣!商売道具(裏)!!
宿屋の主が薄暗いキッチンでそんなもの出しちゃダメ、絶対。
父は昔からこうだった。普段は一般人と変わらない身のこなしができるのに、焦ると無意識に地が出る。例えば普通に廊下を歩く時って、音を立てないようにしようとか、いちいち思わないでしょう?だって板を張っただけの廊下なんて、誰もいなくても軋む音が鳴るものなんだから。
でも、父は違う。
気を抜くと足音が消えてしまうのだ。消えるというか、消してしまうというか。だから音を立てて歩くことすら父にとっては『身のこなし』になる。そりゃまぁ、標的に気付かれないようにする為だってのは分かるんだけ…いや、今はそんなことより、早くアレをなんとかしなければ。
「あ、そうだお父さん。」
私は一瞬で階段を駆け降り、キッチンに戻ろうとする父の背中を叩いた。振り向くタイミングを見定め、意識が私に向くほんのわずかな瞬間を狙って暗器を抜き取り、包丁を差し込む。自分でも惚れ惚れするほど見事な手さばきだ。
「なんだ?」
「昨日、酒屋のおじさんが来てたよ。この前話してた良いお酒が手に入ったから、朝のうちに届けるって言ってた。」
「あぁ、そういえば前にそんな話してたな。分かった。ほら、早く顔洗ってこい。」
「はーい。」
父がキッチンに入ったことを確認して、背中に隠したモノを確認した。良かった、刃は欠けてないみたい。
----まったくもう!なんで気付かないのよ!?うわっ、ニンニク臭いし!!
顔を洗いに外に出たついでに、刃についた汚れを綺麗に洗い流しておく。臭いが消えたことを確認してから懐にしまい、溜息をついて顔を洗った。
*
私の父バルト・ランワーズは宿屋を営んでいる。先祖代々受け継いできた店で、父は…何代目だったか忘れた。街では二番目に有名な宿屋で、連日多くのお客様にご利用頂いている。ありがたいことなんだけど、おかげで毎日が忙しくて休む暇もないのよね。
そしてもうひとつ、代々受け継いでいるものがある。それは、隠密業。これも父が何代目か忘れた。私のひいひいひいおじいさん…?とにかく、昔は暗殺業をしてたらしいけれど、どこかの代で隠密業に切り替えたらしい。『コソコソ悪行を重ねるのは良くない!』って理由らしいけれど、その点はたいして差がないような気がする。
ちなみに母の一族もそうだった。母は三年前に病で亡くなったが、それは表向きの理由。本当は、任務中に受けた傷から入った毒が死因だった。でも私に病死だと言った父の気持ちを汲んで、そう信じることにした。
父は隠密業をしていることを私に隠している。さっきの暗器の件といい、全然隠しきれてないところがまた腹立つんだけど、自分が闇家業をしているなんて可愛い娘には言いたくない、という気持ちはすごく分かる。まぁ、知ったところで私にはなんの得も無いからね。これも父の気持ちを汲んで知らない振りをし続けている、というのが私の今の状況だ。
キッチンに入ってエプロンをつけながら、さっきの暗器を父がよく使う引き出しにそっと入れた。足は洗っているが、護身用に至る所に置いてあるのだ。ま、あれは懐に隠しているものだったんだろうけど。
何事もなかったかのようにテーブルを拭き、椅子を綺麗に並べていく。背後で『うおっ』という小さな驚き声が聞こえてきたが、聞こえない振りをしてあげた。
二種類のスープと三種類の野菜の炒め物、それからひき肉の炒め物をカウンターに置いて、前日のうちに用意しておいたパンを取り出し、スライスしていく。
「よし、と。」
これで準備が整った。あとは、お腹をすかせて降りてくるお客さんたちに順番に出していくだけだ。肩を回してフゥと息をつく私に、父が声をかけてきた。
「お疲れさん。お客さんらが来る前に飯食っとけ。そこに用意してあるから。」
「わ、やった!お肉がある!」
「今日はお客さんが多くていつもより忙しくなるからな。しっかり食っとけ。」
「わーい!いっただっきまー…」
スプーンを持ち、大きく口を開けて、今まさにお肉を食べようとした時だった。出入口の扉が勢いよく開いて、招かれざる客が来たのである。
「おはよう、俺のアリヴェル!」
出た。招かれざる客こと、庭師の息子のルタード・パーシルだ。半年前にふらりと店を訪れ、私に一目惚れしたらしいこの男は、三日と開けずにやって来る。それも、今みたいに接客してない時に。
「おはようございます、ルタード。扉に掛けてある『準備中』の札は目に入らなかったんですか?」
「だから入ってきたんじゃないか。」
「でしょうね。食事中ですので、お引き取りを。」
って言ったのに、なぜ目の前に座る?
ルタードはブロンドブラウンの髪と緑色の瞳をした、典型的なハンサムガイだ。聞いてもいないのに二か月前の五の月に二十一歳なったと言っていた。そう、聞いてもいないのに自分の情報を伝えてくるのだ。肝心なところは隠しているくせに。
----せっかく朝からお肉が食べられるのに、見られてたら食べにくいんだけど…。
しかし、そこは肉の威力である。私は目の前の男を大きな岩だと思い、無視して食べることにした。
「もうすぐ十八歳だな。」
「なんで知ってるんですか。」
「むしろなんで俺が知らないと思うんだ。未来の妻のことなんだから、知ってて当然だろう。」
「そうですか。」
食べてるのに話しかけてくるし…。早くどっか行ってくれないかなぁ。
そんなことを考えていると、その全てが表情に出ていたのか、ルタードは静かに立ち上がった。
「今日は顔を見に来ただけなんだ。また来るよ。」
「来なくていいです。お気をつけてお帰り下さい。」
満面の笑みで去っていくってことは、絶対『お気をつけてお帰り下さい』の部分しか聞いてないな。本当に…どうしてあの男はこうも私にまとわりつくのだろう。
自分の大事なものを狙った相手なのに。
そう。私は今、記憶がない、という振りをしている。
*
私はいわゆる天才というやつで、物心がつくころには足音を消し、大人の背丈くらいの塀なら軽く跳び越え、暗器の全てを使いこなしていた。例えば的を見ずとも、その中心に投げたナイフを刺すことができる。それがどんなに速く動いている的だとしてもだ。
幼い頃から天才隠密として両親の期待を一身に背負ってきた。ただ、私の類い稀な才能とそれを発揮するに相応しい冷徹さに、両親は期待以上に恐れるようになった。
十歳にはすでにその技術と見た目の幼さを活かして標的から情報を持ち帰り、十二歳には初めて人を殺めた。もちろん、最初から殺そうとしたわけじゃないけどね。成り行きというか…まぁ、どんな理由があっても言い訳にしかならないけど。
私の隠密としての最後の任務が、パーシル侯爵家の潜入捜査だった。そう、このパーシル侯爵家がルタードの本当の家だ。どういうつもりで庭師の息子とか名乗ってるんだか知らないけれど、奴は私にそのことを隠している。
----何が未来の妻よ。アンタみたいな腹黒そうな男、お断りだっての。
あの夜、月明かりの下で見たルタードの凍てつくような冷たい瞳は一生忘れない。そしてその日を境に、父は隠密業から足を洗った。自分の代で終わらせることにしたらしい。
そんなことより、今はお肉だ。奴のせいですっかり冷めてしまったことに言いようのない怒りが湧いてきたが、ひと口食べたらあまりの美味しさにどうでも良くなった。
さすがはお肉だ!
「ごちそう様!あー美味しかった!」
「アリヴェル、食ったら表の札を替えといてくれ。」
「はーい。」
私は使った食器を片付け、外に出て『営業中』の札を掛けた。
----よし、今日も一日頑張るか!
*
「お嬢さん、注文いいかい?」
「はーい、ただいま!」
「お嬢さん、次はこっち頼むよ!」
「はいは~い!ちょっと待ってて下さいね!」
朝食を食べに来たお客さんたちの注文を聞きながら、空いた席を片付けて回り、料理を運ぶ。言葉にすれば簡単に聞こえるけれど、これを一人でやってるって結構大変なんだよね。本当なら人を雇えば済むことなんだけど、うちはややこしい裏稼業のせいで他人を入れられない。それがこの忙しさに拍車をかけてるのよ。
「アリヴェル、これ運んでくれ!」
「はーい!…うん?」
スープを乗せたトレイを置く父の背後に目を向ける。確かに引き出しに入れたはずのモノが、まな板の上に乗せられていた。
----また!?うわ、またニンニク切ってる!!
もう知らない。毎回包丁に戻してたら、私が気付いてるってバレちゃうし。隠密業を継ぎたくないわけじゃないけど、わざわざ暗い仕事を進んでやりたがる年頃の娘は、この家には生まれなかったというだけのことだ。
私はそのまま見て見ぬ振りをして、トレイを持ってテーブルを回った。後ろから『おっとアブね!』という声が聞こえてきたが、振り返らないであげた。
*
私が最後の任務に向かったパーシル侯爵家の当主ラナス・パーシルは、父の若い頃からのライバルだった。なんのって…もちろん隠密業の。つまり、パーシル侯爵家も裏では代々隠密業をしていて、その跡取り息子であるルタードももちろん一通りの技術は叩き込まれていた。
父は平民。パーシル侯爵は上級貴族。身分は天と地ほどの差があるが、腕は父の方が上だったらしい。そして、パーシル侯爵が密かに想いを寄せていたのが、他でもない私の母ミランダだった。身分の違いで結ばれることは叶わず、さらにはライバルである父に持っていかれたことに相当腹が立ったのか、父と母が結婚してから数年間は財力と権力を使って隠密の仕事をかっさらっていたらしい。やることが子供よね。
ま、腹いせに父を襲わなかったことを考えれば、父のことを恨んでるわけではないみたいだけど。
余計なことを考える暇もなく忙しい時間が過ぎ、ようやく一息つけるようになった。父と一緒に遅めの昼食をとりながらお客さんから聞いた噂話を話すのが私たちのささやかな楽しみのひとつだ。
宿屋の特性とも言うべきか、ここには毎日、各地から多くの人々がやってくる。皆がそれぞれに内に秘めたものがあり、他人に言いたくても言えないような話を旅のしおりにこぼしていくのだ。
「へぇ、あのご老人はそんな激しい恋をしていたのか。そんな風には見えなかったな。」
「そうだよね。どこから見ても平穏な人生を歩んできたような、穏やかな見た目だったもんね。実は恋多き男だったなんて誰も思わないよ。」
「同じ男としちゃあ羨ましい限りだ。」
「お母さ~ん。お父さんがなんか言ってるよぉ~!」
「やめろって!アイツは本当に化けて出てくるような女なんだからな!」
天井に向かって声を上げる私に慌てる父がおかしくて笑っていると、扉を叩く音が聞こえてきた。
「はーい!あ、いらっしゃい、マット!」
「よ、アリー!今日も元気だな。」
返事をして顔を出すのはパン焼き職人の息子のマットだ。私の幼馴染であり兄のような存在であるマットは、こうして毎日決まった時間にこねておいたパン生地を取りに来てくれる。
私は席を立って用意しておいたカゴを手に持った。ここ数日は泊ってくれるお客さんが多いから、こねるパン生地も多くてその分重い。マットがいてくれて本当に助かっている。
「すごい量だな。」
「そうなの。この時期は旅商人が通るから、それを目当てに来たお客さんが泊っていってくれるのよね。でも多くなるのは毎年のことなんだけど、今年は特に多い気がする。」
「あー、そうか。もうそんな時期なんだな。一年経つのって早いよなぁ。」
「うわ、お父さんみたいなこと言ってる!やーいオジサン!」
「俺はまだ二十歳だ!!」
マットが拳を振り上げて怒る真似をして、私は頭を隠して笑い声を上げた。
マットは幼い頃から一人っ子の私を気に掛けてくれていて、仕事の手伝いをする合間にうちによく遊びに来てくれた。その時に持ってきてくれる焼き立てのパンがとても美味しくて、いつからかマットが来てくれるのを心待ちにしていたのを覚えている。
うん、美味しいものは正義だ。すっかり懐柔されてしまった。
「じゃ、焼き上がったらまた届けに来るよ。」
「うん、ありがとう。よろしくお願いします。」
「こういう時だけしおらしいよな、お前。」
「これも商売ですんで。」
ヘヘッと笑って可愛く舌でも出しておこうか。
調子いい奴、と笑って、マットはカゴを抱えて帰っていった。
----さてと。空いた部屋を片付けたら夕食の準備に取り掛からないと。
今日出て行ったお客さんの部屋には、明日新しいお客さんが泊まる予定になっている。それまでにシーツを換えて部屋を掃除しておかなくてはいけない。そろそろ予備のシーツが減ってきたから洗っておかないと…
「やぁ、アリヴェル。」
また出た。このいけ好かない声は、ルタードだ。
「こんにちは、ルタード。また来たんですか?」
「また来るって言っただろう?」
「そういえば、そうでしたね。社交辞令だと思ってました。」
「俺はいつでも君に正直だよ。」
噓つけ。思いっきり隠しごとしてるくせに。何が目的かは分からないけれど、とにかく付きまとうのはやめてほしい。私の正体は知っているはずだ。
あの夜、潜入した私を殺そうとしたのは、他でもないルタードなのだから。
*
「アリヴェル、任務だ。これが無事に終わらせられたら、一人前の隠密として認めてやる。」
ちょうど一年前の、綺麗な月が浮かぶ夜だった。当時十七歳になったばかりの私を呼び付け、父は真剣な眼差しでそう告げた。任務といっても、内容はとても単純なものだった。
「三日後、お前は使用人としてパーシル侯爵家に入ることになっている。」
私は頷いた。前置きのない急な話で気になることはあるが、今は任務の内容に集中しなくてはと後回しにした。
「そこで、ある物を盗み出して欲しい。」
「ある物?」
「そうだ。パーシル侯爵家に代々伝わる物でな。屋敷の中にあるのは確かなんだが、どこにあるのかは分からない。それを調べて探し出してくる、というのが任務の内容だ。」
なんともザックリしている。まるで宝探しゲームだ。今の私だったら、そんな胡散臭い仕事はすぐに疑ってかかっていただろう。しかし、たった一年前とはいえ私はまだ幼かった。いや、自分の才能に酔いしれ過ぎて、余裕でこなせると思っていたのだ。そこに、つけ込まれた。実の父親に。
「それで、そのある物って何?」
「それはな…分からん。」
「分からん?」
「だって、見たことないから。」
「だって、じゃない。分からないものをどうやって探せっていうのよ!」
「だから!それを探すのがお前の役目なんだ!これ以上、不毛なやり取りをするつもりは無い!」
完全に逆切れだった。それでも愚かなのは私の方だった。そんな父の言葉に余計に燃えてしまったのだから。こういう時は感情がより昂った方が負けなのだ。父より私の方が毛がある分、燃える勢いが大きかった。
父の言いつけ通りに使用人としてパーシル侯爵家に入ったのは、それから七日後の事だった。父が慌てて日にちが変わったことを言いに来た時は、歳だなぁとしみじみ思ったわ。
同じ日、私の他にも十数人の使用人が入り、皆が私ぐらいの歳の娘ばかりだった事を覚えている。そして、その中の七人が私と同じ匂いを持っていたことも。
ちなみに彼女たちに私の正体はバレていない。バレるのは、彼女たちがその程度だからだ。案の定、日を追うごとに彼女たちは順番に姿を消した。どうなったのかは知らないけれど、無事ぐらいは祈ってあげた。そして、私だけが残った。
*
----ここがルタードの部屋ね。さて、と…
パーシル侯爵家に潜入してから二十日ほど経ったころ、私はようやく『ある物』の正体とその在り処を探し当てた。まず『ある物』は亡きパーシル侯爵夫人の形見であるオーダーメイドのペンダントだ。金でできたそれは、ルタードが産まれた日にパーシル侯爵から贈られたものらしい。どこが代々伝わる物よ。情報が適当すぎて、呆れてものも言えない。そしてそれを保管しているのが、あのルタードの部屋だった。
さっきもチラッと言ったが、私は自分の才能に溺れていた。さっさと脱落した他の刺客たちの存在が、さらにそれを助長したと言っても過言ではないほどに。本当はもっと注意すべきだったのだ。その刺客たちに手を下したのが、他でもないルタードだったのだから。
私は室内に気配がないことと、家具の配置、それから脱走ルート確認した。今思えば、私が奴への注意を欠くことになってしまったのは、まさにこの時が原因だった。
----何よ…この隙だらけの部屋は…。
やる気あるのかと説教したくなるようなスカスカ具合だった。仮にも裏で隠密業をやってるなら、そしてその後継者なら、もうちょっと警戒しろと言いたくなった。もし私が奴の教育係だったら、こんな部屋を見た瞬間…って、熱くなってしまったわ。うん、あんな奴の事はどうでもいい。
時間は限られている。皆さんの時間でいうところの、せいぜい一時間ほどかしら?私はいつ誰が来てもいいように、全身の神経を張り詰めて任務に当たった。そして見つけたの。ペンダントは奴の部屋のクローゼットの中だった。私はそれを見つけた瞬間、まるで野生の本能のようにこう思った。
----逃げなきゃ!
壁際にあるクローゼットは、脱走ルートから一番離れている場所だった。しかもよく見れば部屋の壁や床がやや斜めになっていて、クローゼットの前に立って室内を見渡すと目の錯覚で部屋の中が歪んで見えた。隙だらけに見せかけていた家具は、実は目の錯覚を引き起こすように配置されていたの!
----うぇ…何これ、気持ち悪い…。
錯覚によって見えているものと実際に見ているものが頭の中で喧嘩している、とでもいうのかな。私は酷い吐き気と目まいから正気に戻ることに気を取られすぎて、背後に迫る気配に気付くのが遅かった。背中に恐ろしい悪寒が走ったけれど、咄嗟に構えた剣でルタードの攻撃を受け流せたのは本当にラッキーだっ…ううん、実力よね。私ならそれぐらいできて当然だわ。
「クッ!!」
「へぇ!よくかわしたなぁ。今までこの一撃から逃げられた奴はいないのに。君、名前は?」
「チッ…」
私はルタードの質問には答えず、奴の目に視線を刺したまま目を細めた。口元は笑っているが目元は冷ややかなんて、分かりやすい態度を取るんじゃないわよ。っていうか、乙女に剣先を向けて名を尋ねるとは何事か。
立ち位置からして、逃げるには確実に相手を倒さなければならない。でも、できれば命を奪うようなことはしたくないのよ。ならば、と細めておいた目に神経を集中させて、ルタードだけを見る。私はもう一本剣を取り出し、両手に構えて踏み込んだ。ちなみにこの両手用の剣は、私専用の強度抜群・特注短剣。それはもう、デザインから強度から刀身の長さまで全てにおいてこだわり抜いたものよ。
特に、この時のような狭い場所から逃げるにはとても役に立つ。相手を動けなくする為に、数撃入れればいいのだから。
ガキンッと剣のぶつかる音がする。ルタードが私の攻撃を受け止めた一瞬をついて、一気に脇をすり抜けた。この時後ろから私を追う声が聞こえたんだけど、どうしてこういう時に『待て!』って言うのかしら?待てって言われて待つ馬鹿なんているわけないのに。
私は今確実に逃げられるのは窓ではなく扉だと判断して、一直線に扉へと向かった。
「クッ…!」
正解だったようで、ルタードの焦る声が聞こえる。私は手を伸ばして取手を握ろうとした。そうしたら…
ガチャッ
「!?」
「え!?きゃあぁぁ!!」
私が開けようとした扉は目の前で開き、その先には少女が驚愕に目を見開いて立っていた。そして、後ろからはルタードの投げた短剣が…。
----チッ…!!
この時、私は不覚にも判断を迷わせてしまった。短剣など余裕でかわせたけれど、そうするとこの少女に刺さってしまうからだ。直後に左腰に激痛が走った。毒を塗られていたら終わりだと思って、少女を押し退けてひたすら走った。どこをどう走ったのかは覚えてない。血が大量に流れているのは分かっていたけど、それよりも捕まるわけにはいかなかった。
必死で走り続けてなんとか外に出たけれど、とうとう身体を支えられなくなってガクンと倒れ込んだ。私はついてなかった。その倒れ込んだ先が噴水だったのだから。膝ぐらいまでしかない深さでも、私が溺れるには十分だった。身体も動かせず、息もできずで、私は意識を失った。
*
ふと目を開けると、私は自分のベッドの上で寝ていた。起きようとして身体を動かした瞬間、腰に激痛が走った。
「きゃあぁ!!」
私はあまりの痛みに思わず叫んだ。ズクンズクンと脈打つような痛みに今度は声が出せなくなる。頭がグラグラするのは、熱が出ているせいだとすぐに分かった。それは分かるのに、なんでこんな目に遭っているのかはまったく分からなかった。私は記憶を失っていた。
----痛っっ!!何コレ…痛い…うっ…なんで…
私は本当に何も覚えてなかった。いや、何もじゃないな。隠密業に関することだけ覚えていなかった。私の叫び声に気付いて部屋に飛び込んできた父の姿を最後に、私は再び意識を失った。
それからしばらくして傷は完治し、私は今まで通りに宿屋の仕事に従事した。父は何も覚えていない私に何度も隠密業について話していた。最初は必死に思い出させようとしていたけど、まったく覚えていない私を見てそのうち何も言わなくなった。そして父は隠密業から足を洗った。
そして今に至る。ここで疑問に思ったでしょう?なぜ私はこうして全てを思い出し、そして知らない振りをしているのか。
思い出した理由は至って単純。半年前、突然目の前に現れたルタードを見た瞬間、頭の奥がパンッと弾けて一気に記憶が流れ込んできたのだ。それはそれは、あっけなかった。もっとスリリングで胸キュンなエピソードがあればいいんだけど、世の中そんなドラマチックにとはいかないものよね。そして知らない振りをしているのは、パーシル侯爵家への潜入捜査が実はルタードの婚約者選別試験だと知ったから。
父は私の記憶を取り戻そうとしていろんな話をした。その中で、私が記憶を失うきっかけになった今回の潜入捜査についても触れていたんだけど・・・。それはもうペラペラペラペラと白状してたなぁ。私みたいな平民の娘にまで侯爵家から声がかかったのは、パーシル侯爵のライバルである父と、想いを寄せていた母の娘だからっていうだけじゃなく、他を圧倒する実力があったからなのよね。
でも、最終的に残った私(分かり切ってたことだけど)がルタードの婚約者に、というところで記憶が吹っ飛んだってわけ。ね?知らない振りをしている理由が分かったでしょ?誰が好き好んで自分に大怪我を負わせた相手に嫁ぎたいって思うのよ。こちとら傷痕まで残ったっていうのにさ!
でも、ルタードは違った。奴が婚約者選別試験のことを知っていたのかどうかは知らないけれど、半年前からなぜかずっと私に付きまとっている。そういえば、噴水に落ちた私を助けたのはルタードらしい。殺そうとしたくせに助けるとか一体何なの?毎日毎日、口説きに来るのも本当に勘弁してほしい。わざわざ身分を隠す意味も分からない。身分じゃなく俺自身を見てほしい、ってことなのかな?だったらそれこそ無意味なのに。私は隠密業ともルタード自身とも一生関わるつもりがないのだから。
私は外へ出て『営業中』の札を掛けた。さぁ、今日も一日頑張って…
「おはよう、アリヴェル!」
「あ、おはようございます、ルタード。ではさようなら。」
「つれないなぁ。一緒に朝食でもどうだ?」
「もう食べました。ではさようなら。」
「おーい、アリヴェル!これ運んでくれぇ!」
「はーい!今行…く!?」
----お父さんったら、また!!
父の手に握りしめられたモノからスッと目をそらす。
こうして私は今日もまた、知らない振りを通すのだ。