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「Dream come true 羊が見る夢」ヘッドハンター矢吹悟郎シリーズ第1話  作者: 虹岡思惟造(にじおか しいぞう)
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「Dream come true 羊が見る夢」ヘッドハンター矢吹悟郎シリーズ第1話

【目次】

第一章 ヘッドハンター

第二章 転落死

第三章 日本橋警察署

第四章 クラブ「アビアント」

第五章 成城「東郷邸」

第六章 旧社屋ビル

第七章 凸凹コンビ

第八章 奥軽井沢リゾート

第九章 向井史郎法律事務所

第十章 容疑者浮上

第十一章 京橋メトログランドホテル

第十二章 猟場

エピローグ

第一章 ヘッドハンター


 碓井軽井沢インターから上信越高速道路に入ると直ぐに長いトンネルがあり、そこを通り抜けてようやく視界が開けた。真夏の午後の日差しが眩しくて、矢吹悟郎は、ダッシュボードからサングラスを取り出して掛けると窓を全開にした。古い型式の外車のピックアップトラックは左ハンドルで、日本の道路を走るには多少の難はあるものの、その武骨な造りが気に入って、悟郎は長年乗り続けている。窓から吹き込む風は、避暑地である軽井沢付近ということで、爽やかであった。

 悟郎の仕事は、フリーランスのヘッドハンターであり、三十歳で会社勤めを辞めて、この仕事に就いてかれこれ三年が経ったところである。会社勤めと違って、スケジュールを自由に組むことができるのがフリーランスの良いところで、ここ数日、仕事に隙間が出来たので、大学時代の友人の軽井沢の別荘に来て読書三昧をしていたのだった。しかし、エグゼクティブクラスの人材を紹介するという仕事の性質上、クライアントやキャンディデイト(紹介候補者)からの急な面談要請は珍しいことではない。今こうして車を走らせているのは、明日、急遽、重要な面談案件が発生したからであった。

 もうしばらくすると、横川のサービスエリアである。釜めしを食べようなどと呑気にステアリングを握っていたのだが、前方を走行する車の動きが何やら妙であることに気付いて目を凝らした。その車は大型の乗用車で、右や左に振れて走行しており、時にはガードレール擦れ擦れまで大きく寄ったりして、尋常な走りではない。

 悟郎はアクセルを踏み込んで、その乗用車に近づいた。その車は、大手企業の役員クラスが使用するような黒塗りのベンツであり、若者がふざけて運転するような代物とは違う。更に近づいて内部の様子を後方から伺うが、内部まではよく見えない。中を確認するには、その車と並走して、側面から見るしかないと思うものの、左右に蛇行する車に並ぶのは、容易ではない。悟郎は、並走する機会を窺い、しばらくその車を追尾するように走っていたが、ベンツが左に寄ったときに加速して進み出て、その車の右側につけた。そのときベンツの後部座席の窓が開いて、女性が悟郎を見て叫んだ。

「助けて!この車を止めて!」

悟郎の車も左ハンドルで、窓を全開にしていたので、必死に叫ぶ女性の顔が間近に見てとれた。何か緊急事態が生じたに違いないと思ううちに、ベンツの中から、男の叫び声が続く。

「止めてくれ! 運転手が気を失った」

 悟郎は、接触しないように注意深く運転しながら、ベンツの中を窺った。その車も左ハンドル仕様である。運転手らしき者は、がっくりと首を垂れ、不自然な姿勢でシートベルトに支えられている。その体を押しのけるようにして、後部座席の男性が、身体を前に大きく乗り出して、ステアリングを握っていた。高速道路走行中に運転手が気を失い、後部座席の同乗者がハンドル操作をしているらしい。

“超ヤバイ!”

しかし、どうしたら車を停止できるか、咄嗟のことで対応策が思い浮かばない。

「早くなんとかしてくれ!もう限界だ」

悲鳴のような切羽詰まった男の声である。対応策をあれこれ考えている猶予はないようだ。

“こうなりゃ、イチかバチかでやってみるしかない”

悟郎は決断すると大声で呼び掛けた。

「これから前に回り込む。速度を徐々に下げて停車させる」

悟郎の声が届いたのであろう、男が叫び返す。

「わかった、はやく頼む!」

悟郎は覚悟を固めると、前に回り込みスピードを下げた。悟郎の車は、中古のシボレー・シルバラードで、幸い車体が大きく頑丈である。何とかなるかもしれない。

ベンツが追突したガツンという衝撃があり、バックミラーで後ろを見る。追突の衝撃で、後続のベンツとの距離が少し開いた。

「ハンドルを確り握っていろ!」

後ろの車に声が届くわけがないが、叫ばずにはいられない。ブレーキを更に踏み速度を下げると、また、追突する衝撃があった。しかし、先ほどの衝撃よりは軽いものであった。その後、何度か追突されながらスピードを下げ続けて、ようやく二台の車は、路肩に停車した。一息入れながらバックミラーに目をやると、ベンツの後部座席から降りた男が、運転席のドアを開けて何やらしている様子が見て取れた。悟郎もエンジンを切り、パワーブレーキをかけて車を降りて、男に近づいて声をかけた。

「大丈夫ですか?」

男は、悟郎に呼びかけられても、しばらく放心状態のようであったが、ややあって緊張が解けたのか、ようやく声を絞り出した。

「運転手が失神してコントロールが利かなくなって、危機的状況でした。あなたのお蔭で助かりました」

四十歳代と思われるその男は、高級そうなスーツを着ており、エリートビジネスマンといった風である。後部座席の女性も車を降りてきた。リゾート風の丈長の白いワンピース姿であるが、直前の恐怖体験が冷めやらないのだろう、その足元はおぼつかない。年の頃は三十代前半か、すらりとした容姿、目鼻立ちの整ったその顔は青ざめ、まだ強張っていたが、悟郎に向き合うと表情を幾分か緩めて、礼を述べた。

「ありがとうございました。一時はもう助からないと覚悟したのですが、助けていただいて、本当にありがとうございました」

「顔色がすぐれないようですが、怪我などしていませんか?」

「私たちは大丈夫です。でも運転手が心配で・・・」

言われて悟郎は、乗用車に近寄り、運転席の中に頭を突き入れ、不自然な姿勢で俯いている運転手の顔を覗き込んだ。続いて手首の脈を探る。

「脈はある、息も幽かだがしているようだ。救急車を呼びましょう」

悟郎は振り返って、背後で悟郎のすることを眺めていた男に告げた。男は、舌打ちをして眉根を寄せ、いかにも忌々し気な様子であったが、それでも「私がやります」と、連絡役を引き受け、てきぱきと救急車の手配や関係先への連絡をした。いかにも有能なビジネスマンといった身のこなしである。背丈は悟郎と同じ一七八センチ位ある。スポーツマンのような引き締まった体形をしているが、細身のメタルフレームの眼鏡を掛けた彫の深い顔は、学究肌の研究者のようでもあった。

悟郎は、運転手のシートベルトを外し、リクライニングを倒して運転手を仰向けに横たえた。その間も女性は心配そうに悟郎の行為を見ていたが「後は私がやります」と言って、悟郎に替わり、運転手のネクタイや衣服を緩めるなど介抱を始めた。

救急車がやってくるまでには、少し間がある。それまでに追突防止のための措置をしておくべきと思い付き、自分の車の荷台のボックスから、三角表示板や発煙筒を取出した。男も悟郎の意図を察したのだろう、上着を脱ぐと、二台の車の後方に着火した発煙筒を置くなど追突防止処置に協力した。炎天下の作業をしたので二人とも汗まみれである。作業が一段落し、男はハンケチで顔を拭うと、車内に脱ぎ捨てた上着を拾い上げ、内ポケットに入れてあった名刺入れから名刺を取り出して自己紹介した。

「改めてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。私は東郷建設の桐野と申します。もしよろしければ、名刺を頂戴できるでしょうか?」

わたされた名刺には、東郷建設株式会社常務取締役 桐野達郎と記されてある。東郷建設は準大手のゼネコンで確か東京証券市場一部上場企業であったと記憶している。悟郎はシルバラードの助手席のバッグから名刺をとりだして桐野に手渡した。

「えーと、ヘッドハンター・・・ですか?」

ヘッドハンターとの肩書印刷がある悟郎の名刺を見て、桐野は怪訝な表情である。

「えぇ、フリーランスの人材紹介業をしています。日本では、サーチ型人材紹介などと呼ばれてますが」

「あぁ、なるほど人材ビジネスをなされているのですね」

「えぇ、まぁそういうことです。ところで運転手は大丈夫ですかね」

運転手のその後の様子が気になった悟郎は運転席に近づき女性に声を掛けた。

「どんな様子ですか?」

「脈はあるけど、呼吸のほうが・・・、早く救急車こないかしら」

 この様子だと、救急車が到着する前に心肺機能が停止するかもしれない。人口呼吸や、心臓マッサージのやり方はどうだったかなどと思う内に、緊急車両のサイレンが遠く聞こえてきた。どうやら救急車が近づいてくるようだ。


 救急車と小型の消防車両が同時に到着した。救急車から降り立った救急隊員達が、運転手の応急処置を施しストレッチャーに乗せ、救急車の中に運び入れる。桐野が別の救急隊員に事情説明をしていたが、そうこうしているうちに、救急車がサイレンを鳴らして病院に向けて動き出した。


「厚かましいお願いですが、もし東京方面に行かれるようでしたら、一緒に乗せていってくれないでしょうか?」

 走り去る救急車を見送っていた悟郎に、女性が近づき話しかけた。

「はぁ、東京に戻る途中だから、お乗せするのは構いませんが・・・」

 悟郎が突然の申出に戸惑っていると、救急隊員への説明を終えた桐野も悟郎のもとにやってきて口添えした。

「私からもお願いします。この後、警察もやってくるそうです。私は、その対応をするために、しばらくはここにいなければなりませんので」

「そういうことならお乗せしてもいいですが、ご覧の通りのぼろ車だから、乗り心地は悪いですよ」

「それは構いません、早く東京に帰らなければならないのでお願いします。桐野さんには、申し訳ないけど」

桐野は滴る汗を手で拭いながら答える。

「ここは私に任せて、どうぞお先にお帰り下さい」

「それじゃあ、警察が来る前に退散するとしますか」

「よろしくお願いします」

悟郎は、女性をエスコートして助手席に乗せると、シルバラードをスタートさせた。

 

「申し遅れましたが、私、東郷と申します。危ないところを助けていただいた上に、厚かましいお願いをしまして申し訳ありません」

 走行車線に入り安定走行状態になるのを見計らったように、助手席に座った女性が自己紹介した。

「東郷さんというと、東郷建設の関係者の方ですか?」

桐野が東郷建設の常務であることを思い出して訊ねた。

「えぇ、主人が東郷建設の社長をしています」

「はぁなるほど」

社長夫人と聞いて、助手席に座る人の横顔を、思わず見やってしまったが、それにしても美しい女性ひとである。どこかで会ったような気もするが、こんなセレブとはまるっきり縁がない人生だったので、多分、思い違いだろう。

「ところで、ご自宅はどちらですか?」

「世田谷の成城です。あっ、でも、都内に入ったら最寄りの駅で降ろしていただければいいですから」

「いや、成城でしたら大した手間ではありません。ご自宅まで送りますよ」

「危ないところを助けていただいた上に、自宅まで送っていただくなんて厚かましい限りですが、そうしていただくと本当に助かります」

「お安い御用です、気にしないでください」

たとえ回り道であっても、独りドライブするより、美人を助手席に乗せてのドライブの方がずっと増しである。


 悟郎が、東郷社長夫人を成城の自宅まで送り届けたのは夕刻の六時頃であった。家に上がるように引き留められたが、悟郎は固辞して、シルバラードに乗り込み東郷邸を後にした。そんな悟郎の車と入れ違うように、東郷邸の車寄せに、黒塗りの大型車が滑り込んできて停車した。運転手が開けるドアから降り立ったのは、東郷建設社長の東郷尚彦であった。


「大変な事故だったそうだが、怪我はないか?」

リビングに入るなり尚彦は聞いた。

「お帰りなさい。心配かけてごめんなさい。私は大丈夫だけど運転手がその後どうなったか気がかりで」

「病院に運び込まれたときは、すでに心肺停止状態だったらしい。その後、死亡が確認されたそうだ」

「そう、誠実な人柄の方だったのに、お気の毒」

「会社としても出来るだけのことはするつもりだ。それはともかく、事故の時、桐野と一緒だったそうじゃないか」

「ええ、桐野さんは、財界セミナーに出席するため軽井沢に来たついでに挨拶に寄ったとのことでした。ちょうど東京に帰ろうとしていた時だったので、一緒に乗せて貰ったのだけど、あんなことになってしまって」

「桐野は何を考えているんだ。なにも別荘にまで挨拶に来る必要はないだろう。それにお前も桐野の車に乗せて貰うなんて配慮がたらん」

尚彦は、苦虫を噛み締めたような表情である。

「済みません、軽はずみでした」

「あぁ・・・ところで、危ないところを助けてくれた人がいたそうじゃないか」

「えぇ、あのときは本当に助かりました」

「その人の名前や連絡先はわかるのか?私からも礼をしなければならない」

「桐野さんが、その方と名刺交換していましたから、名前や連絡先はわかると思います」

尚彦は頷くも、顔を顰めて、何事か考える様子であった。


               ◇◆◇


 江東区の古ぼけたマンションの一室が悟郎の事務所兼自宅である。二LDKの玄関寄りの一部屋に執務用のデスクと小ぶりの応接セットが置かれていて、これをもって一応事務所ということにしている。そんな事務所だったので、大方の用向きは都心のホテルのロビーやカフェで済ませるのが常であった。東郷建設の社長秘書と名乗る男から、訪問したい旨の電話があったときも、会うなら他の場所でと言ったのだが、どうしても訪問したいとの申し出だったので、やむなく承知したのであった。


「わたくし、東郷建設社長秘書の田上たのうえと申します。矢吹悟郎様でございますね」

細身の黒のスーツ姿、秘書らしい愛想笑いは一切なく無表情である。爬虫類を思わせる顔つきで、なにやら一種異様な迫力がある。

「えぇ、そうですが」

「先日お助けいただいた謝礼として、社長から預かってきたものをお届けにあがりました。どうぞ、お納めください。」

封筒を悟郎に差し出し、じっと悟郎を見据える。

「はぁ、それはどうも」

有無を言わせない田上の迫力に、悟郎はなんとなく気圧され、封筒を受け取ってしまった。しかし玄関先でのやり取りであることに気づいて「こんなところではなんですから、どうぞお上がりください。」と勧めるが、「いえ、どうぞお構いなく、謝礼の品をお渡しするだけが私の役目ですから」とにべもない。

「それでは、これで」

用事を済ませて帰ろうとする田上にあわてて声を掛ける。

「あの、ひとつ聞いてもいいでしょうか、社長夫人はお元気にしていますか?」

「私は、社長のお身内のことは存じません。下にタクシーを待たせているので失礼します」

田上は、相変わらずの無表情でそれだけ言うと、立ち去ってしまった。取り付く島もないとはこのことで憮然としていると、電話のコールがした。気を取り直して電話に出る。

「はい、矢吹事務所」

「東郷建設の桐野です。先日はありがとうございました。あの時のお礼といってはなんですが、仕事を頼みたいのですが」

「仕事?ヘッドハンターの仕事ですか?」

「ええ、幹部社員の採用の件でご協力願えないかと思いまして」

「そうですか、仕事の話でしたら、一度お会いして相談させてください」

「わかりました。それでは改めてお会いできる日時をお知らせします。では・・・」

桐野の電話も随分と素っ気ないと思いつつ、田上から受け取った封筒を開けてみた。中には東郷建設社長の東郷尚彦名義の礼状と、百万円の小切手が入っている。礼状は、妻の東郷紗希を救ってくれたお礼の言葉と、運転手が救急搬送先の病院で亡くなったなどの顛末が書かれてあった。また、事故の原因にも簡単に触れていた。運転手は、高速道路をオートクルージングモードにして走行していた為、失神しても減速せずに走り続けたことが、その後の警察の調べで分かったと記されていた。小切手は、謝礼プラス追突時のバンパーの傷の修理代ということのようであった。

 悟郎は社長夫人の名前が紗希であることを知り、大学時代の同期の工藤紗希と気付いた。

“どこかで見たことのあるような人だと思っていたが、やはりそうだったか”と心中で呟き、納得したのであった。工藤紗希は男子学生にとり、マドンナ的な存在の女性だったのだ。


第二章 転落死


 東郷建設の本社ビルは、都心のビジネス街にあり、二十八階建ての高層ビルである。最上階部分に役員クラスの執務室があり、その中の一室で、桐野とその腹心の部下の柴田が、密談をしている。

「で、どうなんだ、その後、うまく進展しているか?」

公的な場や、親しくない人の前では煙草を吸わない桐野だが、自室や身内の集まりなどでは、ヘビースモーカーに変身する。今も煙草に火をつけて、柴田に問いかけた。

「部長・課長クラスへの工作は順調に進んでいます。すでに過半の者が、我が派閥に属したと見ていいでしょう」

真面目な銀行員といった感じの柴田が、やや得意げに報告する。柴田はリゾート事業部長で、同期で最も早く部長に抜擢された男であった。

「ふむ、そうか。では、労働組合はどうなっている」

「労組への工作はやや難航しています。委員長が中立の立場なので、渋谷専務派は、副委員長の取り込みを図っているようです」

「あの副委員長は、食えない男で信頼がおけない。この際、ほっておいてもいいだろう。それより、若手の取り込みを強化した方がいい」

「若手社員は、渋谷専務の守旧的なやり方に反発しています。桐野常務が次期社長になることを、大半の者が待望していることは間違いありません」

「するとあとは、取締役連中の意向次第だが、今、取締役会の勢力は、ほぼ拮抗しているとみていいだろう。もう何人か我が陣営に引き込めればいいのだが・・」

「取締役への工作は、私には少し荷が重いので、常務が直接働きかけていただければと存じますが」

このあたりが柴田の世渡り上手なところで、大事なポイントで上司に頼ることを忘れない。

「わかっている、あの連中は私がなんとかする」

頼られた桐野も満更ではなく、鷹揚に請け負った。と、そのとき、、梧郎が来社し面会を求めているとの秘書から電話があった。


 役員用の応接室に通された悟郎は、しばらく待たされたが、やがてやってきた桐野と柴田に挨拶をした。初対面の柴田とは名刺の交換を行う。

「先日は、大変お世話になりありがとうございました。あのとき助けていただけなかったら大惨事になるところでした」

桐野が改めてお礼を言う。

「イチかバチかでしたが、うまく行って良かったです。でも、社長夫人は大層お疲れのようでしたが、その後、お元気でおられますか?」

「あなたにお会いすることを電話でお伝えしましたが、元気なご様子でした。くれぐれもよろしくお礼申し上げるようにとのことでした」

「そうですか、それなら安心です。ところで仕事の依頼ということですが」

「実は、現在、奥軽井沢で総合リゾート施設を建設中でして、来月には完成の段階になっています。ところが、現地総支配人に予定していた者が、事故で大けがを負いましてね。リハビリなどもあるので復職は大分先になるとのことです。それで、急遽、その代わりの人材を募集しなくてはならなくなりまして」

「それは、大変ですね。でも社内に、その任にあたれそうな人材はいないのですか?」

「リゾート業務経験があることが必須条件です。それに、大型リゾートの総支配人ともなれば、数百人の従業員を管理しなくてはなりませんから、社内の人材ではとても対応できません。他社リゾート施設で、陣頭指揮しているような即戦力の人材をスカウトして欲しいのです」

「わかりました。出来るだけの協力をしますので、求める人材についての詳しい話をお聞かせください」

「お引き受けいただけるようで安心しました。詳しいことは、リゾート事業部長の柴田から説明させます。私は、この後、所要があるので、これで失礼しますが、よろしくお願いします」

桐野は応接室を出て行き、残った柴田が悟郎に人材採用の詳細を説明した。大型リゾートの総支配人は、一見、紹介が難しそうな案件であるが、必要とされる経験やスキルが特定されているので、ヘッドハンターとしてはそれほど難しいオーダーではない。


               ◇◆◇


 暗闇が突然切り裂かれて、ぽっかりと四角い空間が浮かび出た。エレベーターの扉が開き周辺を照らしたのだ。中に誰かいるようだが逆光で定かでない。その人物がエレベーターから降り立つと、扉が閉まって辺りは再び暗闇に戻った。

 しばらくして、照明が点いた。壁の照明用スイッチを探し当て、スイッチを入れたらしい。エレベーターから降り立ったのは東郷尚彦であった。そこは、広めのエレベーターホールで、がらんとした空間であった。

 尚彦は、数メートル先の大きなドアに向けて歩み寄り取手を引いた。開けたドアから部屋の中に光が流れ込む。しかし奥までは届かない。尚彦は、用意してきた懐中電灯を点けると、奥に向けて進みだした。暗い部屋の内部はかなり広く、尚彦は慎重に歩いていたが、やがて立ち止まった。

 懐中電灯の光に照らされて黄金の観音像が、闇に浮かび上がる。この部屋の一番奥は、数段高くなっていて、そこに観音像が祀られていた。尚彦は、観音像に礼拝するでもなく、祭壇を照らして、何かを探す様子。と、懐中電灯の光が、事務用の茶封筒を捉える。尚彦はそれを取り上げると、中に写真が入っているのを確かめ、背広の内ポケットから白い封筒を取り出してそこに置いた。足早に部屋の入り口に戻り、照明で明るいエレベーターホールに出て、周囲をぐるりと見まわす。そして、何かに気付いたようで左を向く。その視線の先に、大きく開いた窓があった。尚彦は引き寄せられるように、その窓の方に歩み寄った。

 その時、辺りは闇に包まれた。暗闇の中、人と人が揉み合うような物音と、「誰だ?」「やめろ!」という尚彦の声、続いて短い悲鳴がした。しばらく、静寂が続いたが、照明が再び点いて辺りが明るくなる。尚彦の姿は無く、目出し帽をかぶり、手袋をした手に茶封筒を持つ人物が一人立っている。その前には、スライド式の引違い窓が開いていた。その人物は、窓から身を乗り出して、下の様子をしばらく伺っていたが、向き直り、多目的ホールの入口に向けて歩き出した。扉を開き、懐中電灯を点け、足早に奥に進み、祭壇に置かれた白封筒を取り上げ、ズボンのポケットにしまい込んだ。そして、エレベーターの前まで戻ると、傍らの壁の照明スイッチを切った。


                 ◇◆◇


 昼ごろ目を覚ました悟郎は、インスタントコーヒーを飲み、トーストを齧りながら、パソコンに向かい新聞社のニュースサイトを開いた。するとトップニュース欄に、「東郷建設社長転落死」という見出しがあったので驚いた。齧りかけのパンをテーブルに放り投げ、見出しをクリックして記事の詳細を見た。


≪東京・日本橋の東郷建設(東証一部上場)の旧社屋の敷地内で、社長の東郷尚彦さん(五十二歳)が死亡しているのが見つかりました。ビルの高い場所から転落死した状況や、防犯カメラの記録から、警察は、自殺の可能性が高いとみて捜査を進めています。なお、同社広報によると、葬儀は関係者のみの密葬で行われ、告別式は社葬として執り行われるとのことです≫


 東郷建設は、求人の依頼を受けているクライアントである。未亡人となった紗希のことも気になり、社葬に参列しようと思い、東郷建設のホームページを開いた。そこには、社長が急死したことが簡潔に記載されており、社葬は、九月八日、青山葬儀場で執り行われるとのことであった。


                ◇◆◇


 青山葬儀場には、沢山の車と、大勢の人が押し寄せていた。悟郎は、一般参列者の最後尾に並び、数十分してようやく斎場の中に入った。場内には焼香の匂いが立ち込め、大勢の僧侶による読経や鉦の音が響いていた。正面には白い花で埋め尽くされた巨大な祭壇があり、その前に和装の喪服姿の東郷紗希がいた。少しやつれたようにも見えるが相変わらず美しい。悟郎は、紗希が喪主の務めを果たすことに懸命な様子を見て、〈自分ごときが声をかけるまでもない〉と思い、焼香を終えて帰ろうとした。そのとき、思いがけず紗希が悟郎の姿を認めて近づいてきた。

「相談したいことがあるので、どこかでお会い出来ないでしょうか。落ち着いたら連絡するのでよろしくお願いします」

周囲に気を使い、声を潜めて用件だけを言う。悟郎は、戸惑いながらも、大きく頷き返事をする。

「分かりました。連絡お待ちしています」

悟郎の返事を聞くと、紗希は素早く喪主の席に戻って行った。


                ◇◆◇


 それから数日後、神楽坂の奥まったところにあるイタリアンレストランで、二人は向き合っていた。

「このたびはどうも、改めてお悔み申し上げます」

悟郎が神妙に頭を下げる。

「告別式にお越しいただきましてありがとうございました」

紗希は服喪期間中ということなのであろう、黒のレース入りワンピース姿である。

「喪主の勤め、大変だったでしょう。お疲れじゃありませんか?」

「色々なことが、一度にあったものですから、大変でした。眠れない夜が続いたりして、一時は心身とも疲れ果てました」

「夜に外出したりして大丈夫ですか?」

「いつまでも、家の中ばかりでは、息が詰まります。たまには外でお食事でもしたいと思っていたところだったので、勝手ですけど、お呼び立てしました」

「それならいいのですが、それではとりあえず乾杯しますか・・・いや乾杯は不謹慎か」

「いいえ乾杯しましょう、大学時代の思い出に」

「えっ!今、なんて・・・?」

意外な紗希の言葉に、つい声が大きくなる。

「あなた、大学同期のシロー、ゴローコンビの矢吹悟郎さんでしょう?」

悟郎は、驚きながらもうれしそうに頷く。

「ええ、そうです。でも学生時代は部活とアルバイトに明け暮れして、教室には滅多に顔を出さなかったので、俺のことなど目に入っていないと思っていたけど」

「学部も違っていたし、教室ではめったにお会いしなかったけど、風変わりな二人組がいるなって気になっていたから」

紗希はいたずらっぽく微笑む。

「風変わりな二人組って、まっ、いいか。それより貴女です。貴女は矢張り、あの工藤紗希さんだったのですね」

「はい、旧姓は工藤でした」

「貴女は俺たちのマドンナでした。たしか学園祭でミスキャンパスに選ばれましたよね」

「いえ私は準ミスでした。私は愛嬌が無いから人気がなくて」

「女子学生はどうか知りませんけど、男子学生には人気絶大でした。それはともかく、うれしいです。乾杯しましょう」

悟郎は笑顔で、ワインのグラスを持ち上げた。

「えぇ、学生時代に乾杯!」

紗希も笑顔でグラスを合わせた。

「乾杯!」

学生時代の同期と分かり、ワインの酔いも手伝って、二人は急に打ち解けた気分になる。

「私だってこと、すぐに気付いた?」

自ずと他人行儀な言葉遣いから、フレンドリーな言葉遣いになる。

「ベンツから降りてきたのを見て、はっとしたよ。紗希さんによく似た人だなって」

「それならそうと言ってくれれば良かったのに」

「でも、その後、話してみると学生時代とはまるで雰囲気が違うので、他人のそら似だと思い直した」

「そう、私そんなに変わったかしら」

「なんかセレブで大人の女って感じがしたけど、こうして話してみると学生時代と、あまり変らない気がしてきた。不思議だね。それより、紗希さんは、いつ俺のことに気付いた?」

「桐野さんからあなたの名刺のコピーが送られてきて、矢吹悟郎ってあったものだから」

「なんだ、顔を覚えていたんじゃなかったのか」

「えぇ、まぁ」

「そう、やっぱりね」

やや失望したものの、その後しばらく学生時代の楽しい思い出に話が弾んだ。


「名刺にヘッドハンター、サーチ&スカウトって書いてあったけど 調査の仕事もするの?」

悟郎に促されて、紗希が用件を切り出した。

「もちろん。人物調査と企業調査はヘッドハンターにとって欠かせない重要な業務だよ」

「そう、それなら、東郷の転落死の件で調べて欲しいことがあるの、お願いできる?」

「あの事件は、自殺と断定されたんじゃなかったかな?」

マスコミで報道されていたことを思い出し悟郎が聞き返す。

「えぇ、捜査を担当した刑事が、自殺とほぼ断定したと報告しに来たわ。でもあの頃、私は動揺していて詳しい話を聞くことが出来なかったから」

「うん、そうだろうね」

「後になって、東郷が何故自殺したか、詳しい理由を知りたいという思いが強くなって、あれこれ悩んでいた時に、貴方のことを思い出したの」

「へぇそれは光栄の至りだね」

悟郎は、少しおどけて相好を崩す。

「あなたなら相談に乗ってくれると思った」

紗希は、真面目な態度を崩さない。

「分かった。具体的にはどのようなことをすればいいのかな?」

「日本橋警察の我妻という刑事に会って、自殺と判断した詳しい理由を聞いてきて欲しいの」

「それ位のことなら引き受けてもいいけど、紗希さん、貴女が直接会って聞いた方がいいんじゃないかな」

「服喪中の未亡人が、警察に出かけて説明を求めるのは憚られるわ。一度は報告を受けていることだし」

「それもそうか。では紗希さんのエージェントとして、その刑事に会ってみるよ。それでいいかい」

「えぇ、それでいい。でも、出来たら他殺の捜査の進展状況も聞いて貰えると有難いわ」

「えっ!どういうこと」

「その我妻という刑事が報告に来た帰り際に、個人的には他殺の疑いを捨てきれないと言って帰ったの」

「分かった。もし聞けるようなら聞いてみる」

悟郎は、紗希から日本橋警察署の我妻刑事の名刺を見せてもらい、姓名と連絡先の電話番号を、スマホのメモ帳に記録した。


第三章 日本橋警察署


 日本橋警察署は、中央区に四つある警察署の一つで、日本橋西部、京橋地区北部を管轄しており、大小の証券会社のビルが立ち並ぶ兜町にある。悟郎は、そんな街並みを眺めながら憮然とした表情で、日本橋警察署の玄関前に立っていた。紗希に教えられた我妻という刑事に会うべく、こうして出かけてきたのだが、門前払いを食らい、警察署を出てきたところだったのだ。


「おい、悟郎じゃないか、こんなところで何をしている?」

声をかけてきたのは、大学時代の友人、向井史郎であった。今は弁護士をしている。

「これは奇遇だな、いや実は、ある事件について調べているんだ。担当刑事に面会を申し入れたんだが、門前払いされた」

ぼーっと立っていたのを見られて恥ずかしい。苦笑いして誤魔化した。

「ふーん、事件の調査をね。ヘッドハンターの仕事辞めて、探偵業に鞍替えしたのか?」

相変わらず史郎は、仕立てのよい高級そうなスーツを着ている。中々お洒落なのだ。背は低いが、がっちりとした体格で、格闘家のような面構えをしている。背が高く、どちらかというと甘いマスクの悟郎とは大違いで、学生時代は、シロー、ゴローの凸凹コンビと揶揄された仲であった。

「いや、そうじゃない。これには事情があって、そうだ、お前にも、少しは関連したことなんだ、覚えているか? 大学時代の同期で、我らのマドンナ」

「うん!?マドンナ・・・それは、一時お前が夢中になっていたあの工藤紗希のことか?」

史郎は急に真剣な表情になり聞き返す。

「あぁ、そういうお前も相当熱を上げていたぞ」

「抜け駆け禁止だなんて互いに牽制し合っているうちに、交際申込みのチャンスを失ってしまったんだ」

当時を思い出すかのように史郎は目を細める。

「それもあるかもしれないが、沙希さんには、なんか近寄りがたい雰囲気があったからなぁ」

悟郎は、紗希の学生時代の若々しい顔を脳裏に思い描く。

「俺たちも意気地がなかった」

「まぁな、それはともかく、この仕事は、その紗希さんの依頼なんだ」

「なんか興味をそそられるな、もっと詳しい話を聞かせろよ。どこかで一緒に飯を食おう」

「俺は構わんが、この辺りに、どこかゆっくり話せる所はあるか?」

「この辺りのことなら、俺にまかせておけ」

史郎は自慢げに言うと先に立って歩きだした。


                ◇◆◇


 史郎に案内されたレストランは証券会館の七階にあるフレンチレストランであった。クラシックのBGMが静かに流れている。ここなら落ち着いて話ができそうだ。ランチの注文を済ませると、史朗は早速話しかけた。

「あの工藤紗希の依頼って、一体どういうことなんだ?」

「まぁ、そう急かすなよ、順序立てて話すから」

悟郎は事の次第を、ランチをほおばりながら話して聞かせた。


「とまぁ、そういう次第で担当刑事に面談を申し入れたというわけだ」

一部始終を語り終えて、悟郎はコップの水を飲んだ。

「なるほど、そういうことか。うむ、それなら、あそこの警察署長と懇意にしているから協力してあげてもいいぞ」

史郎が食後のコーヒーを啜りながら、偉そうに言う。

「おぉ!そうなのか」

悟郎は思わず身を乗り出す。

「協力する前に、一つ確認しておきたいことがある」

「うん、なんだ」

悟郎は、身体を引いて身構えた。

「お前、紗希さんとは特別な仲・・・なんてことないよな?」

「そんなことあるわけないだろう。仕事上の付き合いだけだ」

「それならいいんだ。よし、善は急げ、署長に電話してみよう」


 史朗が席を外し、レストランの隅に行きスマホで電話をし、戻ってくる。

「OK,大丈夫だ。担当刑事と面談できるように段取りした」

「すまんな、ここのランチはおれが奢ろう」

「こんなチンケなランチで済まそうなんて、そうはいかんぞ」

「冗談だよ、いずれちゃんとした礼をするさ」

「その“いずれ”というのが曲者なんだが、まあいい。我らがマドンナのためだ」

「ついでに、お前の伝手で、この事件に関する情報を集めてくれないか」

「相変わらず厚かましい奴だな。まっ、乗りかかった船だ。調べてやるよ」

「そうこなくちゃ、史朗、悟郎コンビの復活だ」

二人は愉快そうに笑いあった。

 ランチを終えて史郎は、仕事の予定があるといって、そそくさと帰ってしまった。我妻刑事のアポは三時にとれたとのことである。悟郎は証券会館の一階にあるカフェで時間を潰し、時間を見計らって日本橋警察署に向かった。


               ◇◆◇


 応接室に案内された悟郎は、しばらくしてやって来た我妻に、名刺を差し出して挨拶する。

「初めまして、矢吹と申します。よろしくお願いいたします」

我妻は、受け取った名刺を、しげしげと眺める。

「ふーん、ヘッドハンターってか、映画や小説ではこの手の職業の男が登場するようだが、実在するとは思わなかったぜ」

年の頃は五十歳前後か、がっしりした体格、柔道を長年してきたようで、耳が潰れている。我妻は興味なさげに悟郎の名刺をテーブルに放り投げた。

「今時、そんなに珍しい職業じゃありません。もっともヘッドハンターと自称する者は、日本じゃまだ少ないかもしれませんが」

「だろうな、ま、そんなことはどうでもいい。ヘッドハンターなんて、刑事には無縁だからな。で、用件は?」

「今日伺ったのは、東郷尚彦の転落死に関することをお伺いするためです。私は、社長夫人の東郷紗希さんから依頼されてやってきました」

無礼な態度に、悟郎は内心ムッとしつつ、丁重に答える。

「社長夫人? えーと確か、紗希さんといったかな。エライ別嬪さんの奥さんだったな」

「えぇ、その紗希さんに頼まれました。自殺に至った経緯や、その理由を、詳細に教えて欲しいのです」

「俺がわざわざ成城の東郷邸に出向いて、報告しただけでは足りないと言うんだな」

どうもやりにくい相手だと悟郎は心中ボヤきつつ、フォローする。

「いやいや、わざわざお越しいただいたことは、紗希さんも感謝しています。でもその当時は、ご主人が無くなって間もない頃で、落ち着いてお話を聞く余裕が無かったのです。しかし時間が経過すると、何故、自殺したのか、その理由をもっと知りたくなって、私に相談したという訳です」

「ふーむ、だがな、捜査情報を、赤の他人に話すことは出来ないな」

「でも、私は死亡した社長の妻のエージェントとして伺っているので、赤の他人と違います」

「あの美人の未亡人が直接聞きに来れば、話さないでもないが、ヘッドハンターなどという訳のわからん者には話すことはできんよ」

我妻は、意地悪そうに、“にっと”笑う。愚弄された悟郎は“むっと”する。

「わかりました。改めて紗希さんと一緒に参ります」

紗希に事情を話して、一緒に来るしかないと思い、立ち上がりドアに向かった。すると。我妻は、少し慌てた様子で「まぁ、待てよ」と呼び止め、悟郎に近づき耳もとで囁いた。

「短気は損気、話は最後まで聞くものだ。俺はな、署内では話せないと言っているんだ」

悟郎は怪訝な顔をして聞き返す。

「じゃあ、どこでなら話を聞けるんですか?」

「銀座に知り合いのクラブがあってな、これがそこのクラブのママの名刺なんだが、ここなら落ち着いて話せるだろうよ」

我妻はポケットから小ぶりの名刺を出して、悟郎に渡した。

「わかりました。それでは、今夜、七時頃にそのクラブということで如何ですか」

悟郎は無理して笑顔を作っているが、内心は苦々しい思いで一杯である。

「そりゃ急だな」

我妻は手帳を出して、予定を確認すると「ま、いいだろう。それじゃ今夜」と言って応接室を出て行った。銀座のクラブともなれば、かなりの持ち出しになるだろう。紗希に頼んで、経費請求させて貰わなければなどと考えながら、悟郎は日本橋警察署を後にした。



第四章 クラブ「アビアント」


 夜の銀座に来るなんて実に久しぶりである。社会人になってすぐの頃、上司に連れられて、接待の宴席に連なった時以来であるから、かれこれ一〇年ぶりであった。銀座八丁目のクラブ街は電飾看板が煌めき、夜の務めに出るホステス達が路上を行き交っていた。悟郎はその付近をしばらく彷徨って、ようやく目指すビルに行き着いた。そこは、バーやクラブが沢山入居するソシアルビルで、我妻から渡された名刺のクラブは、その五階にあった。入口の扉には「A bientot」という小さなプレートが取り付けられている。


「いらっしゃいませー」

扉を開けると、和服姿の女性が待ち構えていたかのように声をかけてきた。

「あのー、日本橋警察の我妻刑事とここで会う約束をしているんですが」

銀座のクラブということに、悟郎は気遅れ気味である。

「はい、はい、承知してます。アガちゃんから、連絡有りました。もう少ししたら着くそうよ」

「アガちゃん!?」

思わず口に出してしまったが、それが我妻刑事のこととすぐに思い当たり、なんとなく頷く。その女性は、この店のママの由香里だと自己紹介すると、先に立って、フロアの奥に案内した。左手にバーカウンターがあり、右側にメインフロアがある。数組の客がホステスと談笑しており、飲み物などを運ぶ蝶ネクタイ姿のフロアスタッフが歩き回っている。

「どうぞ、こちらにお掛けになって、何をお飲みになる?」

ママの由香里は、悟郎に一番奥のボックス席に座るように勧め、自分も向かい側に坐る。

「えーと、それじゃビール貰おうかな」

場慣れしていない悟郎がとっさに思いつくのは、ビール位しかない。

「カレンちゃん、こちらビールね」

ママが大声でバーカウンターに向かって注文を入れた。

しばらくすると、露出度の高いドレスをきた若い娘がやってきてカレンと名乗り、悟郎の隣に座った。カレンは陽気で、ぐいぐい押してくるタイプである。悟郎はその対応にへどもどしていたが、ようやく吾妻がやってきてホッとする。


「いやー、どうも暑いな」

我妻は急いでやってきたらしく、顔に汗をかいている。九月の中旬はまだ残暑の季節だ。

「いい店だろ、寛いでいるか?」

ママから渡されたおしぼりで、顔をゴシゴシと拭う。

「こういうところは、慣れていなくて」

悟郎が困惑の表情をして、しなだれかかるカレンを見やり、首を竦める。

「カレンちゃん、あんまり迫っちゃだめだよ。こちら迷惑しているじゃないか」

我妻は、ママが注いでくれたビールを、美味そうに飲み干す。

「いいじゃない。わたしのタイプなんだから、ねっ、迷惑なんかじゃないよね」

カレンが拗ねて口を尖らせる。

「はいはい、いい子だから大人しくあっち行って。おじさん達はこれからお仕事の打合せするんだから」

子供をあやすように我妻が言ったが、それでもまだカレンは愚図ついている。それを見ていたママが、引き立てるようにしてカレンをその席から連れ去った。


「それでは、先ずは乾杯するとするか」

我妻は、グラスを手で掲げる。悟郎も形だけ乾杯してグラスをテーブルに戻した。

「早速ですが、事件の話をしてくれませんか。どうも野暮で申し訳ありませんが」

「構わんよ、ノープロブレム! 仕事はいつだって優先するべきだ。話が終わったら、あんたはここの支払いを済ませてとっとと帰る。俺は残って酒を飲む。それで双方ハッピーってわけだ」

どうにもやり難い相手だが、話が早いのは大いに助かる。

「はぁ、それでは、警察が自殺と断定し、捜査を打ち切った理由や経緯について、なるべく詳しく話していただけないでしょうか?」

「詳しくと言われても困るがなぁ」

我妻はそう前置きして話し出した。

「あんたの知っての通り、東郷尚彦は高所から転落して死亡した。刺し傷や切り傷、絞殺などの痕跡は無く、財布などが盗まれた形跡も無かった。死亡推定日時は、その前の晩の十一時頃、司法解剖の結果だから間違いないだろう」

「そのあたりは、マスコミの報道で知っています」

「黙って聞けよ、順序立てて話しているんだから」

「はぁ、スイません」

ここは逆らわずに、低姿勢に徹するに限る。

「死亡推定時刻の少し前、旧館ビルの社員用通用口に設置してある防犯カメラに、尚彦が一人で入って行く映像が残されていたんだ。エレベーターで七階まで上がった痕跡もある。尚彦の指紋がついてる懐中電灯が、七階のエレベーターホールに残されていた。つまり、自殺か他殺かはともかく、自分の意思で旧館ビルに行き、七階まで行ったということは、物証があり紛れもない事実なんだ」

我妻が空いたグラスを差し出す。

「はぁ、自分一人で出かけたとなると、矢張り自殺と考えるのが自然かもしれませんね」

悟郎が、差し出されたグラスにビールを注ぐ。

「あぁ、他殺と裏付ける物証が有れば別だが、それが無い以上、自殺と考えるのが順当だ。その上、尚彦がうつ病を患っていたことが後になって判明してな、これがダメ押しになって、自殺とほぼ断定されたって訳だ」

「そのうつ病って、かなり重症だったのでしょうか?」

紗希からはそのようなことは、聞かされていなかった。

「いや、東郷かかりつけの医者の話しでは、軽度ということだった。しかし、うつ病は、自殺に至る危険が高い精神疾患でな、軽度であっても何かの拍子に、自殺してしまうこともあるということだ」

「そうですか。でも自殺だとしたら、東郷は何故、旧館ビルから飛び降りたりしたんでしょう?死に場所は他にいくらでもあるはずでしょう」

かねて気になっていたことを問う悟郎に、吾妻は教え諭すように言う。

「ふむ、それについては、捜査会議でも議論があってな。あのビルの七階に、先代社長が安置した観音像があるのを知ってるか?」

「いえ、知りません」

「先代社長は熱心な仏教徒だったらしい。それで自社ビルを作ったとき、七階のホールに観音像を祀ったのだが、尚彦はその観音像の前まで行っている」

「はぁ」

まだ話の筋が見えなくて、悟郎は間抜けな受け答えをしてしまう。

「捜査会議の結論としては、死ぬ間際に父親が大切にしていた観音像にお参りして、その後、七階の窓から飛び降りしたという結論になった。旧館とは言え、自社ビルだ。ほかの場所で死ぬより、人様に掛ける迷惑はずっと少ないしな」

「なるほど、一応理屈はつきますね」

我妻の説明に得心が行った悟郎であったが、それで引き下がるわけには行かない。紗希から頼まれたミッションがまだ残っている。

「他殺の物証は無いとのことですが、我妻さん、あなたは他殺についてどう思われているのでしょう?」

「警察としては、自殺と見て捜査終了したが、俺個人としては、まだ他殺の線を崩していない」

「それは、またどうして? 」

「遺書のような物証があれば自殺と断定していいが、そうじゃない。それに死んだ東郷を巡ってはいろいろあってな」

「それはつまり、殺人動機を持つ者がいるということですか?」

「ま、そういうことだ」

「もう少し、詳しく教えていただけませんか?」

悟郎は我妻にビールを注ぐ。

「一応捜査は終了しているので、話してもいいが、俺から聞いたことは他言無用だぞ」

注がれたビールを一息に飲み干し、念を押す。

「わかっています。私もヘッドハンターとしての矜持があります。情報源は必ず守秘します」

「ヘッドハンターとかいう得体の知れないものを信用するわけには行かないが、あんたという人間は人が好さそうだ。信用するとしよう」

「はぁ、まっ、いっか、では、殺人動機を持つ者とは誰なんでしょう?」

「あの会社には、派閥抗争があって、渋谷専務派と桐野常務派が、主導権を握ろうとして、激しい抗争を繰り広げている」

「そのようですね」

「東郷は、自分の後継を親族でもある桐野と公言し、次の株主総会では代表権のある副社長にする腹積もりでいたんだ。しかし、最近になってそれを撤回する意向を周囲に漏らしていた」

悟郎は、頷き次の言葉を促す。

「桐野の急激な事業多角化路線に懸念を抱いたというのが、表面上の理由だが、実のところは、桐野と紗希夫人との仲を疑ってのことらしい。そんな東郷の思惑を察知した桐野は、このまま時間が経過すれば、後継候補から外されると焦った」

“紗希さんが不倫!?”悟郎は内心驚き思考停止状態に陥る。

「おい、俺の話し聞いているか?」

我妻が悟郎の顔を覗き込む。

「あっ!聞いています。つまり、桐野は、東郷社長が死ねば、後継社長は、ほぼ間違いなく自分のものになると考えた」

「可能性としては、そういうこともあり得るという、まぁ仮定の話だがな」

「なるほど」

「もう一方の派閥の渋谷専務の殺人動機だが、東郷は役員定年制の導入を計画しており、専務取締役の場合は七十五歳で定年とする案を渋谷に示した。それに対し、今年七十三歳の渋谷は、あからさまな、自分に対する追い落とし策だとして猛反発したんだ」

「いくつになっても権力の座にしがみつく者がいますからね」

「渋谷専務は、まぁ、大番頭とでもいうのか、創業時代からのたたき上げで、東郷社長にとって、目の上のこぶのような存在であったらしい。経営の近代化を図る東郷にとって、守旧派のボスである渋谷を早く排除したかったのだろうが、これがなかなかに強かで、反社会勢力と今も裏で繋がっているらしい。こんな奴だから、東郷も相当手を焼いていたんだ」

「東郷社長が死ねば、役員定年制は一旦沙汰やみになり、あわよくば社長の座が転がり込んでくるかもしれないと」

「ま、そんなところだが、あくまで仮定だぞ」

「他にも殺人動機を持つ者がいるのでしょうか?」

「そんなに急かすなよ、ちょっと喉を潤さないことには話を続けられんよ」

悟郎は、我妻のコップにビールを注いでやる。我妻はそのビールを美味そうに飲む。

「あとは、所謂、痴情のもつれというやつだな」

「男女関係で恨みを持つ者がいたということですか?」

「東郷は、自分の秘書だった女と出来ていたんだ。東郷が、今の夫人と結婚する段になって、邪魔な存在になり、強引に別れたのだが、恨みを残すことになった」

「これまた、よくあるケースですね」

「社長と女秘書ってか、まったくベタな話だよ。社内では公然の秘密だったらしい」

「殺したいほど恨んでいたのでしょうか?」

「東郷が結婚したのが、自分と同じ女子社員だったことが、その女のプライドをえらく傷つけたということだ。別れ話に逆上して、刃物を持ち出すなど、修羅場を演じたんだ。女の恨みは恐ろしい」

「紗希さんはそんなことがあったなんて何も言わなかったけど」

「略奪結婚まがいのことをしたとは、自分の口からは言えんだろうが」

「はぁ、略奪結婚ですか」

悟郎は力なく返事して考え込む。

“紗希さんの過去にどんなことがあったんだろう。略奪結婚だの、不倫だのって、訳わからない”

悟郎は、紗希のことを何も知らないことに、今更ながら気づくのであった。

「さぁ、もういいだろう、話はこれで終いだ。あんたは、さっさと帰っていいんだぞ。それとも、何か、カレンちゃん呼んで、もっと飲むか?」

「いえいえ、これで失礼します。ありがとうございました」

悟郎は、慌てて答えると、支払いを済ませ、あたふたとしてアビアントを退散した。

         

アビアントのあるソシアルビルから街に出た。辺りは客を見送るホステスの嬌声や、酔客の笑い声で騒々しい。悟郎は裏路地に入り、スマホを取り出した。メールのチェックをしようとして、紗希からの電話着信記録に気づく。

「もしもし、電話くれた?」

「えぇ、我妻刑事との話は済んだ?」

「今、話を終えて店を出てきたところだけど」

「そう、詳しい話を聞くことは出来た?」

「あぁ、出来たよ。それに他殺に関することも」

「そう、それなら早く知りたい。お疲れの所、申し訳ないけど、こちらに来てくれないかしら」

腕時計を見ると八時半を少し過ぎている。

「こんな時間に未亡人の自宅に訪問していいのかな?」

少しおどけた調子で答えたが、内心は不倫の件について会って話を聞きたい。

「深夜というわけでもないし、そんな気遣いは無用よ。矢吹さんらしくない。私一人きりなら問題かもしれないけど、住込みの家政婦もいるし」

「らしくないって、まっ、いっか。でも今夜は夕飯抜きだったので、腹が減って、そこらで何か食べてから行きたいんだけどいい?」

「こちらは構わない、ゆっくり食事してきて」

「なるべく早く行くよ。成城学園前に着いたら電話するから」

「わかった。いつも無理ばかりでごめんなさいね。それではお待ちしています」

電話を切ると悟郎は、新橋方向に向け歩き出した。途中にラーメン屋位あるだろう。


               ◇◆◇


 悟郎と我妻が銀座のクラブで話し合っている同じころ、桐野は赤坂の料亭で、取引先メインバンクの役員と歓談していた。柴田も同席している。別室の宴席から、三味線の音が微かに聞こえてくる。


「ご指摘のように、部長・課長クラスの中には、今でも渋谷専務に忠義を尽くす者がいます。渋谷専務に睨まれると怖いという意識がまだ抜けないのでしょう」

桐野が苦々し気に言って、メタルフレームの眼鏡に手をやる。

「渋谷専務は執念深いという話しだし、なにやら得体の知れない連中と繋がっているそうじゃないか」

銀行役員は、柴田の酌を受けながら桐野の表情を伺う。

「いやまったく、困ったもんです。上場企業の役員が反社会勢力と繋がっていることが世間に知れたら大変なことになります。それでも、義理と人情を捨てるような真似はできないとか言って、腐れ縁を続けているんです」

「それが事実なら、メインバンクとしても看過できない問題だな」

「例え噂としても、裏社会との繋がりがある者を、後継社長にしてはなりません」

桐野は、我が意を得たりと勢いづく。

「はは、つまり、次期社長は桐野さん、あなた以外にはいないと」

「恐れ入ります。社内の体制固めはほぼ済んでおります。後は、債権者であり、大株主の銀行団の意向次第ということなので、ご支援、よろしくお願いします」

桐野が深く頭を下げるのを見て、柴田もそれに倣う。

「ところで、大株主と言えば、社長夫人の意向はどうなんです?」

「紗希さんは、必ず支援してくれると思っております。紗希さんは東郷社長が、渋谷専務を役員から外そうとしていたのをご存知です。それに紗希さんとは、ニューヨーク時代から昵懇の仲ですから」

「いや、それならいいんだがね。銀行内部では、創業家の意向を重視するべきだという者が少なからずいるものだから」

「確かに創業家の意向は重要です。社長夫人には、引き続き支援要請をしてまいります」

「あぁ、確り頼みます。さてと、私はここらで失礼させて貰います。実は、この近くのホテルで、昵懇にしている政治家がパーティーを開いていてね。顔だけでも出して帰らないとまずいもんで」

「分かりました。本日はお忙しいところ、有難うございました」


 桐野と柴田は、銀行役員を料亭の玄関まで見送って座敷に戻る。

「常務、予定より大分早く終わりましたね。まだ九時前です。二人で飲み直しますか?」

柴田が腕時計を見ながら桐野に聞く。

「君と二人で飲むのは気が進まんな。さてどうしたものか」

桐野は、細身のメタルフレームの眼鏡に手をあて思案する。柴田は、そんな様子を見て、桐野が口を開くのをじっと待つ。

「私はこれから、成城の東郷邸に行くことにする」

「えっ!これからですか、またどうして?」

「創業家の意向が大事だということが改めて分かった。そうだろう?」

「えぇ、それはそうですが、夜間に押し掛けるのは、ちょっとまずいのでは」

「いや、夜だから好いのだよ。私に考えがある。君は帰っていいぞ」

桐野はにやりと笑って、柴田に車の手配を命じた。



第五章 成城「東郷邸」


 桐野が成城に到着したのは、十時少し前であった。東郷邸は、豪邸に相応しいモダンで立派な外構えをしており、中央に人が出入りする門扉、左手にシャッター付きの大きな車用の出入り口がある。桐野は門扉に取り付けられたインターホンに向かい、何と言うべきか考え込む。しかし、中々良い思案が浮ばない。何時までこうしていても始まらないと見切りをつけ、桐野は思い切ってインターホンのボタンを押した。

「はい、お待ちしておりました」

桐野が何も言わぬ内に、家政婦と思われる声がして、門扉の施錠が外れる音がした。

「今、鍵を開けましたので、中にお入り下さい」

“うん、何故だ!?”

桐野は怪訝に思いながらも、面倒な手間が省けたことに安堵する。門扉を入り、少し右斜め方向に進むと玄関があり、初老の家政婦らしい女性が中から現れた。

「夜分に押し掛けまして申し訳ありません。紗希さんはいらっしゃいますか?」

桐野は神妙に声をかける。

「えぇ、いらっしゃいますよ。どうぞお入りください」

家政婦は、桐野を邸内に迎え入れると先に立ち、奥に導いた。

「お客様を案内してまいりました」

リビングの入口で、家政婦は室内に向け声をかけた。桐野は家政婦の後ろに立っている。

「ありがとう、梅崎さんはもう休んでいいわ。後は私がやるから」

紗希の幾分弾んだ声がする。

「さようですか、それでは私はこれで失礼します」

家政婦は、後ろの桐野に頭を下げて、自分の部屋に戻って行った。桐野はその後ろ姿を見送ってから、リビングに足を踏み入れる。そこは北欧調に統一され、一部が吹き抜け構造になっている広い部屋であった。


「何であなたなの!?」

突然現れた桐野を見て、ブルーのドレス姿の紗希が驚きの声を上げる。

「ずいぶんなご挨拶ですな、貴女とは長い付き合いなのに」

桐野は皮肉っぽく答え、室内の中央に進み、紗希の前に立つ。

「どんな用事か知らないけど、こんな時間に押し掛けるなんて非常識だわ」

「私は無理やり押し入ったわけではありませんよ。インターホンを押したら、お待ちしていましたといって扉を開けてくれたんです」

桐野は落ち着いて答える。

「それは、私どもの勘違いです。とにかく今日はこのままお帰り下さい」

「まぁ、そう言わず少しは私の話しを聞いて下さい」

桐野は勝手にソファーに座ると、紗希も座るように手で示す。紗希は仕方なく、向かい側のソファーに座った。

「実は先ほどまで、メインバンクの役員と後継人事のことで話し合っていたのですが、創業家の意向はどうかと聞かれましてね」

「何度も言っているように、後継人事のことは取締役会に任せています。私は誰も支援しません」

「それじゃ困るんです。中立的な立場の取締役や機関投資家は、創業家の意向次第という状況になっています。メインバンクの役員がそういうのだから間違いありません。だから、どうしても紗希さんの支援が必要なんです」

桐野はそう言うと立ち上がり、紗希の隣りに座る。

「やめて!元の席に戻って下さい」

紗希は両手を突っ張り、桐野を遠ざけようとするが、桐野はその手を払い除け、紗希の肩に腕を回す。

「私が紗希さんのこと、ずっと好きだったということは分かっているでしょう」

桐野が強引に抱きすくめようとしたとき、テーブルの上のスマホが振動し、着信音が鳴った。桐野がビクッとして身体を引いたときに、紗希はすばやく、スマホをとり、立ち上がった。

「あぁ、矢吹さん。お願いすぐに来て」

スマホを通じて、悟郎の驚いたような声が聞こえてくる。もう大丈夫、すぐに悟郎が来てくれるだろう。そんな紗希の様子を、桐野は憮然とした表情で眺めながら、元の席に戻ると、タバコを取り出し、火をつけた。


 時間は少し戻る。悟郎は小田急線の成城学園駅に着いて、紗希のスマホに電話した。するとこちらから何も言わない内に紗希の声がした。

「あぁ、矢吹さん。お願いすぐに来て」

ただならぬ様子に緊張が走る。

「分かった。すぐそちらに向かう」

手短に答えると悟郎は全力で駆けた。息を切らして東郷邸の前に至ると、弾んだ呼吸を整えながらインターホンを押した。待ち構えていた紗希がインターホンに出て、門扉の施錠を開けてくれる。

“どうやら紗希さんは無事らしい”

紗希の声を聞いて、少しホッとする。しかし焦る気持ちは変わらない。もどかしげに玄関のドアを開け、リビングに向かった。


 リビングルームに入り先ず目に飛び込んできたのは、窓際に立つ、血の気の引いた顔をした紗希の姿だった。

「紗希さん、大丈夫ですか?」

悟郎の姿を見て、紗希はほっとして緊張を解く。

「ええ、なんとか」

悟郎も安堵して室内を見渡し、桐野がソファーに腰かけているのに気付く。大きなソファーの背もたれが邪魔になって、桐野の姿が目に入らなかったのだ。

「桐野さん、どうしてここに?」

悟郎は、紗希の立つ窓際に歩み寄り、桐野に向き合う。

「急ぎ報告しなければならないことがあって来たんだ」

桐野は忌々し気に答え、手にしたタバコを携帯灰皿で揉み消した。

「こんな時間に?」

「あんたこそ、こんな時間にやってくるとはな。紗希さんと随分親しげじゃないか?」

予期せぬ反撃にあって悟郎はたじろぐ。

「いや、私も大事な報告があって、いやそんなことより、紗希さん、本当に何もなかったんだね」

紗希は、何か言おうとするが、遮るように桐野が声をはさむ。

「紗希さんは何か勘違いしたようだ。私も酔っていたので、失礼なことをしたかもしれない。とにかく夜も遅いので、私はこれで失礼する」

桐野は、悟郎と紗希の返事を待たずに、そそくさとリビングルームを出て行った。


「あら、ごめんなさい。どうぞ座って下さい」

立ったままでいることに気づいた紗希が、悟郎に声をかける。

「これで、助けられたの二回目ね」

向かい側に腰かけた紗希の表情は、先ほどの硬い表情が消えている。

「やはり、ヤバイ状況だったということ?」

「ええ、無理やり抱きついてきて」

紗希は、悔しそうに顔を顰める。

「そんな・・・」

何と言っていいかわからず、悟郎は言葉を失う。

「でも大丈夫、桐野さんは酒に酔っていたようだし。それより、喉が渇いたわ。何か飲む?」

そういえば桐野は酒の匂いを発散させていた。

「あぁ、俺も喉、カラカラ、なんせ全力で走って来たからね」

口を開いて、はぁはぁとオーバーに呼吸して見せる悟郎を見て、紗希は微笑み立ち上がった。部屋の隅にバーカウンターがある。紗希はそこで、ブランデーの水割りセットを用意して、元の席に戻ってきた。


 アルコールが回って、気分も落ち着いてきた。頃を見計らって、悟郎は我妻から聞いたことを紗希に話して聞かせた。しかし、それでも紗希は、“どうしても東郷が自殺したとは思えない。女の感って言うのかしら、一緒に暮らしていれば分かる。東郷は自殺なんて絶対にしていない”と言い張って、引き続きの協力を依頼するのだった。


「それで次のお願いなんだけど、東郷が転落死した旧館ビルに、一緒に行って欲しいの。事故現場に花をお供えしたいし、先代社長が大事にしていた観音像にもお参りしたい。それに現場を見れば何か分かるかもしれないでしょう」

「一緒に行くのは構わない。実を言うと、俺もあのビルに、一度行ってみたかったんだ」

殺人の疑いがあるなら、現場は見ておいた方が好い。

「それともう一つ、お願いしてもいいかしら?」

青ざめていた紗希の顔は、酔いが回り、血色が大分良くなっている。不謹慎とは思うものの、どうにも色っぽい。

「俺に出来ることなら引き受けてもいいけど」

デレデレした顔つきにならぬよう、気を付けて答える。

「矢吹さんなら出来るわ。だって、エグゼクティブな人材を紹介しているでしょう」

「あぁ、そうだけど」

「それなら人物を見る目が確りしている筈だわ」

紗希は中々、乗せ上手だ。

「うん、まぁ」

悟郎は、満更ではない調子で相槌を打つ。

「私がお願いしたいことは、東郷建設の次期後継者の選定について相談に乗って欲しいということなの」

「それは、渋谷専務か桐野常務か、どちらを選ぶべきか、アドバイスが欲しいということ?」

「残念だけど今は、その二者択一しかないわね。創業家としては、後継者選びは取締役会に任せると言い続けてきたのだけど、そうもいかない状況になってきて」

「うーん、それは責任が重いな」

上場会社の後継社長についてアドバイスするのは、さすがに荷が重い。悟郎はしばらく考え込む。そして気が付いたのが弁護士をしている史郎のことだった。

「シロー、ゴローコンビの向井史郎、知ってるよね」

「えぇ、もちろん。凸凹コンビ」

「あの史郎は今、弁護士をしているんだ。あいつなら、会社関係のトラブルや、後継者問題に詳しい。どうだろう、この相談は史郎にしたらいいと思うけど」

「そうだったの、あの史郎さんが弁護士、分かったわ、それじゃ、シロー、ゴローのお二人にお願することにするわ。それならいいでしょう?」

「あぁ、でも少し気になることがあって」

我妻から聞いたことが、ずっと心の中で蟠っていた。

「何?なんでも聞いて」

「それなら聞くけど、“東郷社長は、紗希さんの不倫を疑っていた”と我妻さんは言ったんだ」

「あぁ、そのこと。それは全くのでたらめ。私と桐野さんが不倫関係にあるという噂が流れているのは知っている。あれは、誰かが意図的に流した噂よ。そもそも私は、ああいうエリートタイプで野心家は、好きじゃない」

「分かった、信じるよ。俺もあのタイプは苦手だ」

先ほど、このリビングルームであったことを考えれば、紗希が桐野に好意を持っていないことが分かる。

「紗希さんの申し出は、明日にも史郎に伝えるよ」

悟郎は、そう約束すると立ち上がり、別れの挨拶をして東郷邸を後にした。


第六章 旧社屋ビル


 東郷直彦が転落死した旧社屋ビルは、東郷建設子会社の東郷リアルエステートが管理していた。その社長は、上月喜美夫といい、紗希がニューヨーク時代、一緒に仕事をした旧知の人物だったので、悟郎と紗希が現場を見ることを快く承知してくれた。その上、上月自身が現場への案内もしてくれるということで、悟郎と紗希は、永代橋の近くにある東郷リアルエステートを訪れたのだった。

 

「こちらの矢吹さんは、大学の同窓生で色々相談に乗っていただいています」

紗希が悟郎を紹介する。上月は四〇歳代、少し暗い感じがするが、歌舞伎役者の女形を思わせる中々の好い男である。

「そうですか、大学時代からのお知合いなんですね。えーっと、お仕事は、ヘッドハンターですか?」

上月は、悟郎から受け取った名刺を眺めなら、やや怪訝な顔をしている。

「ええ、フリーランスの人材紹介ヘッドハンターをしています。日本じゃあまりメジャーな職業ではありませが」

「確かに日本ではあまり知られていませんね。でも米国では、ステータスの高い職業ですよ」

悟郎としては我が意を得たりで、そう言ってくれた上月が急に好ましく思える。

「ええ、アメリカではそのようですね。そういえば上月さんは、ニューヨーク駐在経験がお有りでしたね」

「ええ、紗希さんと一時期ニューヨークで一緒に仕事をしました。ところで本日の御用件は、現場をご覧になりたいということでしたね」

上月が紗希を見ながら要件の確認をする。

「えぇ、東郷が亡くなった場所に、花を供えたいと思って。それに先代社長が大切にしていた観音像にもお参りしたい」

紗希は持参した花束を上月に見せる。

「もし迷惑でなければ、防犯カメラや飛び降りた窓などについても、説明してくれませんか。警察は自殺と判定したようですが、まだ他殺説を捨てない刑事がいます。私としては、その辺のところを、この目で確認したいのです」

悟郎としては、現場検証のつもりで来ているので、熱心に頼み込む。

「分かりました。そういうことなら、現場に案内する前に、旧館ビルの概略について説明しましょう」

上月は「少しお待ち下さい」と言って、立ちあがり、別室に行ったが、しばらくすると、図面のようなものを抱えて戻ってきた。元の席に座った上月が説明を始める。

「あのビルは東郷建設の本社ビルとして、約五十年前に建設されました。その後、会社規模が急拡大し手狭になり、建て替えすることが決まったのです。解体に着手しようとして分かったのですが、あのビルには多数の地権者がいて、建物の一部がそれらの者達の区分所有になっていたんです。ビルを解体するのは、所有者全員の同意を取り付けなければなりません。そのため、すぐに暗礁に乗り上げてしまったのです。地権者達との煩瑣な交渉に嫌気がさしたこともあったんでしょう、先代社長は、思い入れが深いこのビルを、一部を資料館、その他を倉庫とすることにしたのです。そうした経緯があって、このビルは何とか解体を免れていたのですが、尚彦さんが社長になると、何事も合理的な考えの持ち主でしたから、このビルは、解体と決めたのです。ところが、渋谷専務など古参社員が反対して、もうしばらくの間、解体せずにおくことになりました」

上月は、説明を中断すると、持参してきた旧館ビルの図面をテーブルに広げた。

「それでは、ビルの図面を使って説明します。このビルは日本橋川沿いに建てられていて、裏側は川、両隣は同じようなビルが建っています。ビルの入口のある表側が、通りに面しているという立地になっています。建物は、地上八階、地下一階、各階フロア面積は百二十坪程度、エレベーターは二基ですから、当時としては、一般的な中規模オフィスビルと言っていいでしょう。地下室は、倉庫と機械室、一階は玄関ホールと打ち合わせコーナーなど、二階から六階は事務所スペース、七階は入社式や社員研修などのための多目的ホールで、観音像はこのホールの一番奥に安置されていました。そして、八階が役員室と取締役会用の会議室という配置です。ビルの入口は正面玄関と社員通用口、それにビルの裏側に地下室への出入り口があります。」

上月の丁寧な説明に紗希と悟郎は礼を言う。図面での説明は大助かりである

 「後は現場で詳しく説明します。それではそろそろ、行きましょうか」

上月はそう言うと、二人を促し立ち上がった。


               ◇◆◇


 日本橋の旧社屋ビルに、上月が手配した車に乗り出かけたが、ものの十五分もかからない内に到着することが出来た。そのビルは、日本橋川に架かる新常盤橋の近くにあり、付近は小規模なビルや倉庫が立ち並んでいる。日本橋界隈は、大手ディベロッパーが大規模な再開発を進めているが、河川沿いのこの辺りは取り残されたままであった。

 

 ビルの周囲は、不審者などが入り込めないように、工事用の高いフェンスが巡らされている。上月はフェンスの出入口に二人を案内すると、上の方を指差して、防犯カメラが取り付けられていると教えた。

「するとこのカメラに、東郷社長が入るところが映っていたんですね」

悟郎がカメラを見上げながら聞く。

「そうです、このカメラにも記録されていましたが、通用口のカメラにも映っていました。そのカメラのことは後で説明します」

 上月がフェンス入口の鍵を手に取り開錠しようとしている。

「その鍵は、暗証番号方式なんですね?」

「えぇ、こんなビルでも、メンテや警備など出入りする業者は結構います。いちいちカギの授受をするのが面倒なので暗証番号式にしています。さぁ鍵が開きました」

上月は、開錠を済ませフェンスを押し開く。

「東郷社長は、暗証番号を知っていたのでしょうか?」

「その件は警察が抜かりなく捜査しています。担当の刑事から聞いた話しですが、東郷社長は亡くなる数日前に、秘書に命じて暗証番号を調べさせたとのことです。秘書は、本社総務に問い合わせて社長に報告したそうです」

「担当の刑事って、もしかしたら我妻という名じゃありませんか?」

「そうです、そうです。現場検証でお会いした他に、私の会社にも見えられて色々聞いて帰られました」

「我妻さんとは、昵懇な仲なんです。如何にも刑事らしい刑事でしょ」

「そうですね、我妻刑事と会うことがあれば、今後も協力を惜しまないとお伝え下さい。じゃ中に入りましょう」

上月が先になり、紗希と悟郎も後に続きフェンスの中に入った。


 三人が入ったすぐ前は、ビルの正面入り口で、今はシャッターが下りている。フェンスとビルに挟まれた狭い通路を、右の方にしばらく進む。

「狭いので気を付けてください。ここを左に回ると社員用の通用口があります」

上月は左に曲がり、鉄製の扉の前に立ち止まった。

「ここにも防犯カメラが取り付けられています」

 上月が扉の上方を見上げる。

「するとこのビルには、フェンスの出入り口に一台、この通用口に一台の計二台があるわけですね。そして、両方のカメラに東郷社長が一人で入るところが映っていた」

「そうです。両方のカメラに記録されていました。さてと、館内に入る前に東郷社長が倒れていたところに、先ずご案内しましょう」

上月は紗希に向けて告げると、更に奥に進んで行く。

「突き当りのフェンスの先は、日本橋川です。そこをまた左に回ります」

三人は左に回り、ビルの裏側に出た。数メートル先の壁際に、萎れた花が置かれている。紗希がそれを見て、はっと息をのむ。

「東郷社長は、ここに倒れていました。この丁度真上の七階の窓から転落したと思われます」

紗希は持参した花束を、そこに置き屈みこんで両手を合わせた。悟郎と上月もその後ろに立ち、合唱する。

「発見したのは誰ですか?」

紗希が立ち上がるのを待って悟郎が上月に聞く。

「翌朝、清掃するために入った者が見つけました。何時ものようにエレベーターで七階にあがると、窓が開いていたので下を覗き込むと人が倒れていたのです」

悟郎は上を見上げ、七階のあたりの窓を眺めるが、どの窓も閉められている。

「さぁ、それでは戻って館内に入りましょう」

上月はそう言って戻りかけたが、悟郎は、ビルの裏側にあるという、地下の出入り口が気になった。

「確かビルの裏側に、地下室への出入り口があるということでしたね?」

「はい、あります。ご覧になりますか?」

 悟郎が見たいと言うと、上月はビルの裏手の、更に奥まった方に二人を案内した。

行く手に、レンガ造りの造作物がある。煙突らしいものがついているので、どうやら焼却炉のようである。

「あれは、焼却炉ですか?」

「えぇ、建設会社は設計図や建物の模型など、シュレッダーでは断裁できないものが、山ほど出るので、そういったものをこの焼却炉で、燃やしていました」

業務用としても、かなり大型の焼却炉であった。地下への出入口は、その焼却炉のすぐ近くにあった。

「これがその出入口です。と言うか、正確には消防法に定められた非常用の脱出口です」

「ここの鍵はどこにあるのでしょう?」

「守衛室のロッカーに保管してあります。機械室の鍵や屋上に出る扉の鍵などこのビルに関する鍵はすべて、そこで保管されています。さぁそれでは、戻って館内に入りましょう」

 

 三人は通用口のあるところまで戻ってきた。

「この通用口も暗証番号式です」

上月は扉の横に取り付けられている暗証ボックスを示して説明した。

「正面入り口と、都合二か所、暗証番号入力しなければならないわけですね」

「えぇそうです。二か所とも、四桁の数字を入れる方式です。しかし番号を別にすると面倒なので同じにしていますがね。あぁそうだ。この四桁の数字わかりますか?」

 上月がいたずらっぽく悟郎と紗希の顔を見る。

「それはもしかして、一、ゼロ、五、ゼロじゃないかしら」

 紗希が考え込むでもなくあっさりと答える。

「当たりです。紗希さんならすぐわかると思いました」

悟郎は頭の中で、一、ゼロ、五、ゼロ、一、ゼロ、五、ゼロと唱えてやっと気づく。

「東郷建設、とうごう、一、ゼロ、五、ゼロ、あぁなるほどね」

分かってみればたわいない。


「どうぞお入りください」

暗証番号を入力し、扉を開けた上月が声をかけた。上月、紗希、悟郎の順で中に入る。

左側に守衛室がある。その先は、打ち合わせや来客を応接するコーナーになっていて、更に少し進むと広いエントランスホールに出た。左側が正面入り口、右側にエレベーターがあった。

「こういっては何ですが意外と綺麗ですね」

廃墟ビルのようなイメージを抱いていた悟郎は意外に思った。

「この一階と観音像がある七階は、時折、掃除させています」

紗希も物珍し気に、辺りを見回しながら、エレベーターホールに向かう。

「エレベーターは使えるのですか?」

エレベーターの前に立った悟郎が聞く。歩いて七階まで登るのは、ちょっと辛い。

「ビルのメンテナンス上必要なので、二基あるうちの一基だけは、今も動くようにしています。それに渋谷専務が月に一度ほど、七階の観音像にお参りにくるので、動かしておかないと大変なんです」

上月は苦笑いしながらエレベーターの昇降ボタンを押す。扉がすぐ開いたが、紗希は入るのをためらう様子である。

「大丈夫です。このエレベーターは、定期的に保守点検していますから。さぁどうぞ」

恐る恐る紗希はエレベーターに乗り込む。二人も後に続いた。


 七階でエレベーターを降りる。そこは広めのホールになっていて、数メートル先の正面に、両開きの大きな扉がある。多目的ホールの扉だろう。エレベーターの左手には、トイレや給水室の施設があり、右手は内階段の入口になっていた。

尚彦が飛び降りたとみられる窓は右端にあり、スライド式の引き窓であった。

「これが問題の窓ですね。開けてみていいですか?」

「えぇ、構いません。ですが転落しないよう気を付けてください」

窓は腰の高さのあたりから開口部になっており、身を乗り出せば落ちてしまいそうである。悟郎は慎重に窓を引き開いた。

「なるほど、この窓からなら飛び降りることは容易ですね。でも、こんな危険な窓がどうしてあるのですか?」

「この窓は、避難用の窓なんです。今はありませんが、窓の下には避難器具用の大きな格納箱が置いてありました」

「なるほど、その格納庫があれば、それほど危険ではないですね。でも、今は無いのはどうして?」

「このビルが使われなくなり、救助器具の耐用年数も過ぎてしまったので、撤去したようです」

「東郷はこうした窓があることを知っていたのでしょうか?」

先ほどから、黙って二人のやり取りを聞いていた紗希が、上月に聞いた。

「東郷社長は若いころ、このビルで働いていましたから、避難用の窓が各フロアにあることは知っていたでしょう。格納箱が撤去された最近の状況も、このビルを解体するために、何度か視察に訪れているのでご存じだったと思います」

紗希はその説明に納得したのであろう、上月に頷いてみせた。悟郎は窓から下を覗いて、転落した位置を確認して窓を閉めた。

「さて、それでは観音像があるホールに参りましょうか」


 両開きの扉を開けて入った部屋は、入社式や研修会などに使われる多目的ホールで広々とした空間であった。突き当りは、数段高いステージ状になっており、最奥部の壁に大きな厨子が設けられている。そこには、二メートルほどの背丈の黄金の観音像が安置されていた。

「観音像の回りは綺麗にしておこうと思いまして、私がときどき掃除したり、燈明をあげたりしています」

言われて観音像の足元の祭壇を見ると、燈明を灯した痕跡がある

「お参りしたいけどいいかしら」

 一番前で、観音像を見上げていた紗希が、振り返り上月に聞いた。

「ええ、勿論。ぜひお参りしてください」

紗希は、ハンドバックから数珠を取り出すと手にかけ合掌した。悟郎と上月も、その後ろで合掌する。


「創業社長は、熱心な仏教徒でした。初めて自社ビルを建てたときに、社員が集会する場所に観音像を安置して、社員にも参拝するよう奨励したんです」

紗希のお参りが済むと、上月は観音像を見上げながら説明した。

「はぁ、なるほど」

「しかし、先代社長が亡くなり、尚彦さんがその跡を継ぐと、真っ先に観音参拝を廃止しました」

「経営刷新を目指す新社長としては、当然の判断でしょうね」

「私もそう思います。しかし、紗希さんを前にしてこう言うのもなんですが、先代の思い入れの深い観音像を荒れるがままに放置しておくのは、感心しません」

「おっしゃることは、わかります。あの人は、先代社長に対する反発心が、異常に強かったから」

 紗希はそう言うと、何か思い出したようで顔を曇らせた。

「いや、いらぬことを言ってしまいました。さてと、このビルの説明は一通り終わりました。何かご質問が無ければ引き上げたいと思います」

悟郎と紗希は上月に厚く礼を言い、帰路に就くことにした。



第七章 凸凹コンビ


 今日、悟郎は史郎と共に、東郷建設本社に来ている。紗希から依頼されたことを、史郎に告げると、「我らのマドンナの頼みなら」と引き受けてくれたのだ。今日の訪問の目的は、渋谷専務に面談して会社経営に関する意見を聴取すると共に、信頼に値する人物か見極めるためであった。守旧派のボスとか、裏で暴力団に繋がっているとか芳しからぬ評判の人物だが、月に一度、今も観音像にお参りするなど、律儀なところもある人物である。なるべく先入観を持たずに会おうと心に決めてやってきたのだった。


 東郷建設本社の役員応接フロアは、二十五階にあった。エレベーターを出るとそこに秘書と思われる女性が立っていて、悟郎と史郎に向かい恭しくお辞儀をした。

「お待ちしておりました。ご案内します。どうぞこちらへ」

三十代前後と思われるその女性は、オフィスには不似合いなピンヒールを履いており、タイトスカートには深いスリットが入っていた。長い廊下の左右に応接室がいくつもあるが、そこを通り過ぎ、最奥の応接室の前に至ると、その応接室のドアを開けて二人を招じ入れた。

「こちらにお掛けになってお待ちください」

秘書は嫣然と笑って、二人に告げると、扉を丁寧に閉めて部屋を出て行った。


「おい、今の女、あれが高木奈美恵じゃないか?」

秘書が部屋を出ると、史郎は悟郎に小声で話しかけた。

「うん、そうらしい。東郷社長の元愛人。妙に色っぽいな」

悟郎と史郎は、紗希から高木奈美恵の情報を得ていた。奈美恵は東郷尚彦との別れ話に逆上して、自分の手首を切るなどの騒ぎを起こしたが、退社することは頑として拒んだと言う。尚彦は、そんな奈美恵を遠ざけるために、都内の支店に異動させたが、尚彦が亡くなると、どういう手段を講じたか知らないが、本社秘書室に戻り、今は渋谷専務付きの秘書をしていると聞いていたのだった。

別の若い秘書が、飲み物を持ってきて間もなく、渋谷が応接室に姿を現した。

「やあ、お待たせしました」

七十三歳らしいが、恰幅が良く、赤ら顔で厳つい風貌である。悟郎と史郎は名刺を出し初対面の挨拶をすると、渋谷は、如才ない調子で、にこやかな笑顔で応えた。

「社長夫人から用向きは聞いています。まっ、言ってみれば次期後継者に相応しい人物か見極める面接といこうことですな」

率直な渋谷の物言いに、悟郎は思わず苦笑する。

「有体に言えばそういうことです。そういうことなら、無駄な前置きは抜きにして、単刀直入にお伺いします」

「それは、わしも望むところだ。なんでも聞いてくれ」

先ほどから、史郎は、ニコリともしないで、じっと渋谷の顔を見つめていたが、身を乗り出すと、おもむろに質問を開始した。〈さすが弁護士だ〉と悟郎は内心感心する。


 史郎が最初に質問したのは、経営方針に関することであったが、渋谷は従来の持論である建設業の本業である土木、建設分野を今後も堅実に展開して行くと主張した。次に、桐野常務が推進するリゾート開発や高級レジデンス分譲など事業の多角化について問うと、渋谷は様々な根拠を挙げて、明確に反対の立場を表明した。史郎は、その他に、投資・財務戦略や海外戦略など会社経営に関する専門的なことを聞いて質問を終えた。

   

「最後に私から質問があります。次期社長は、清廉潔白な人物でなければなりません。あなたは、反社会勢力と関係があるという情報を耳にしています。今もそれは続いているのでしょうか?」

史郎の質問が終わるのを待って悟郎が訊ねる。

「根も葉もない噂だと言いたいところだが、かっては、そうした時期が確かにあったよ。ゼネコンというビジネスは、綺麗事だけでは済まないんだ。公共工事を巡る許可、認可。それに地上げ、談合などその筋を頼らねばならぬことが色々ある。誰かが、そういう汚れ役を引受けなければならんのだよ」

「今は反社会勢力との繋がりは無いのですね?」

「今は無い。それより清廉潔白という点なら桐野の方が問題と思うが」

「と、言いますと?」

「桐野と社長夫人の不倫だよ。しかし、わしの口から言ったのでは、君たちは信用しないだろう。よく知っている者をここに寄こすから、直接聞いたらいい。わしは所用があるのでこれで失礼するが、また何か聞きたいことがあれば何時でも応じるよ」

そう言い置いて渋谷は出て行った。


「渋谷専務からここに来るように言われて参りました」

しばらくして、応接室にやってきたのは、高木奈美恵であった。意外な人物がきたので悟郎は内心驚く。奈美恵は、史郎に勧められてソファーに座る。

「桐野常務と社長夫人の不倫についてお聞きになりたいとか」

足を揃えて、やや斜めに座った奈美恵が微笑みかける。そんな奈美恵に、思わず見とれてしまう悟郎だったが、史郎に促されて質問する。

「えぇと、その不倫ですが、本当のところはどうなんでしょう?」

「桐野常務と社長夫人が不倫関係にあることは、社内の誰もが知る周知の事実です。あの二人は、ニューヨーク勤務時代から昵懇の仲でした。二人が社外で親し気に会っていることも、何回か目撃されています。軽井沢から二人仲良く同じ車で帰ってきたのは、あなたもご存じですよね」

「えぇまぁ」

「秘書仲間の話しでは、東郷社長は不倫について、当初は、単なる噂話と聞き流していたけど、軽井沢から桐野常務と一緒に帰ってきたのを知って、噂話が本当だと信じるようになったと言うことです。相当悩んでいたらしいから、それが自殺の原因に違いありません」

「軽井沢から帰る時の事故には、私も立ち会ったけど、二人はそんな関係には見えなかったな。それになにより、紗希さん本人が、不倫関係ではないと、明言しています」

「こう言っては失礼ですが、騙されてはいけません。紗希さんの父親は犯罪者です。その血が流れている紗希さんは、表面はお上品で綺麗だけど、悪賢い冷酷な女です。私から略奪するように、東郷を奪ったのはあの女です」

奈美恵は、紗希が如何に悪い女であるか、自分が如何にみじめな思いをしたか、思いのたけをすべて語りつくして、応接室を出て行った。


 悟郎と史郎は蛇の毒気に当てられた蛙のように、げんなりしていたが、紗希の父親が犯罪者という言葉が気になる。史郎も思いは一緒だったようで「紗希さんの父親のこと、調べてみるよ」と言い立ち上がった。

「あぁ、よろしく頼む。それにしても俺たち、紗希さんのこと何も知らなかったんだな」

「まったくだ。さて、それでは退散するか」

悟郎と史郎は、奈美恵とは別の若い秘書に見送られて、東郷建設本社を後にした。


第八章 奥軽井沢リゾート


 東郷建設が開発していた奥軽井沢のリゾートが、九月下旬にようやく完成した。ゴルフ場、スキー場、プール、スパなどを併せ持つ複合型リゾートで、宿泊施設は、本館のホテルルームの他に、独立戸建てのヴィラも備えていた。オープンに先駆けてセレモニーが開催されることになり、紗希と悟郎も参加することになっていた。紗希は、桐野から“このリゾート開発は、東郷社長が特に熱心に取り組んでいた事業なので、是非、亡き社長に代ってその完成を見届けて欲しい”と懇請されての参加であった。悟郎は、このリゾートの総支配人を紹介あっせんした関係者として招かれていた。

 セレモニーは、リゾートのお披露目、宣伝という目的もあり、招待客は一泊し、本館のコンベンションホールで行われるディナー付きのセレモニーパーティに参加するという形をとっていた。悟郎は招待状にドレスコード「ブラックタイ」とあったので、あまり深く考えず、ダークスーツにネクタイを締めてやって来たのだが、どうやら違うらしい。男性はタキシードを着用しなければいけないようで、どうしたものかと悩んでいたが、桐野が予備のタキシードを貸してくれると言うことになり、甘えることにした。


 オープンセレモニーの当日、本館二階にあるコンベンションホールのロビーは、正装した男女がいくつも群れていた。パーティー会場の入り口には、東郷建設の幹部達が、にこやかにゲストを迎えている。タキシード姿の桐野や柴田の姿も見える。

 会場内は、間接照明が多用され、全体の光量は抑えられており、あちこちに配された豪華なイベントフラワーをスポットライトが照らしていた。正面は全面ガラス張りになっており、ライトアップされて青く輝く屋外のプールを眺めることが出来た。会場のサブステージでは、生バンドが音量を抑え気味に、ボサノヴァを演奏している。


 ゲストの出迎えが一段落したようで、桐野が会場に入ってきた。タキシードを借りた礼を言わねばと、悟郎が声をかける。

「お借りしたタキシード、誂えたようにピッタリです」

「それは良かった。私と背格好が同じなんですね」

桐野は無事、リゾートがオープンに漕ぎつけたので上機嫌である。

「ええ、桐野さんのタキシード借りられてほんと助かりました」

「高級リゾートを売りにしているので、ブラックタイと気取ってみたのですが、なんかご迷惑かけたようですね」

「タキシードなんて柄じゃないので、何か落ち着きません」

「いやいや、よくお似合いですよ。ところで紗希さんにお会いになりましたか?」

「いえ、私は先ほど着いたばかりで、まだ会っていませんが、おっと、紗希さん来たようですよ」

 ちょうどその時、会場の入り口から、黒いイブニングドレス姿の紗希が入ってきた。社長夫人と知る関係者から寄せられる挨拶に応えながら、柴田に案内されてこちらの方にやってくる。その姿は、着飾った大勢の人の中でも、ひと際美しく、気品に満ちていた。悟郎はそんな紗希の姿に見とれていたが、桐野は素早く紗希に近づき、セレモニーに出席してくれたことへの礼を述べた。悟郎も桐野に続いて簡単な挨拶を交わす。

「それでは、来賓席までご案内します」

桐野が先に立って歩きだしたので、紗希も後に続く。悟郎としては報告したいこともあり、もっと紗希と話し合いたいと思ったが諦めて、指定された関係者の席に向かった。


 大型モニターを用いたリゾート施設の案内や、ショウステージなどのイベント、その後の本格的ディナーが済み、セレモニーの主要な催しが終わった。悟郎は、紗希に話し掛ける機会を窺っていたが、紗希が席を立つのを見て、悟郎も素早く席を立った。


「紗希さん、ちょっといいかな」

会場を出たところで、紗希に追いつき声をかけた。

「あぁ、矢吹さん、今日はお疲れ様」

「いや紗希さんこそ疲れたろう、来賓席は、政治家の先生だの取引銀行の役員だの爺様ばかりで、いかにも窮屈そうだった」

「まぁね」

紗希は、悪戯っぽく、肩を竦めて笑った。

「これからどうする?よかったら飲み直さないか?ディナーでワインを飲んだけど、どうも口に合わなくて。それに報告したいこともあるし」

「それなら、私のヴィラで飲みましょう。三十分位経ったら来て、お酒の用意しておくわ」

「あぁ、分かった。それじゃまた後で」

紗希が立ち去る後ろ姿を見ながら、思わずガッツポーズをする悟郎であった。


 三十分後、悟郎は紗希のヴィラに行くために館外に出た。ヴィラと本館は屋根付きの回廊で結ばれているが、吹き曝しである。標高が高い奥軽井沢は、九月下旬ともなると夜はかなり冷え込む。しかし、ほろ酔い気分の悟郎にとっては、むしろ心地よく、心弾ませる思いで、紗希のヴィラを訪れたのであった。


                ◇◆◇


 ヴィラは独立棟で、リビング、ベッドルーム、露天風呂、ジャグジーなどが備えられたゴージャスなものであった。紗希は、リビングルームに悟郎を招き入れると、悟郎にソファーに座るよう勧め、自分も座った。テーブルには、洋酒のボトル、ミネラルウォーター、氷の入った容器などが置いてあり、紗希は水割りを作り、悟郎に差し出した。

「ウイスキーでよかったかしら」

「ワインじゃなければなんでもいいよ」

紗希は自分の為の水割りを作り、二人はグラスを合わせて乾杯した。長袖のイブニングドレスはエレガントであるが、胸元や背中が大きく空いており、大人の女の色香が漂う。

「史郎さんと一緒に渋谷専務と会ってくださったのでしょう」

「あぁ、会った。一言で言うと老獪な狸という印象だったが、思っていた程のワルではなかったな。でも史郎はどうかな。あいつはシビアだから」

「渋谷専務は、創業以来の功労者であることは間違いないし、桐野さんに比べれば、そんなに悪い人じゃないと思うけど、経営者としてどう見るかね」

「うん、年齢が年齢だし、将来を担う人材かというと、そこが問題だね。詳しいことは、今、史郎がレポートに纏めているから、そのうち提出するよ」

会話が一段落して、紗希は悟郎のために水割りを作る。

「高木奈美恵に会った?」

グラスを悟郎に差し出しながら、さりげなく聞いた。

「あぁ」

悟郎はグラスを受け取り、思案する。

〈どう話すべきだろうか?〉

自問するが良い考えは浮かばない。結局、なるべく傷つけぬように気を付けて話すことにした。紗希は、悟郎の話しを黙って聞いていたが、矢張り聞くのが辛いのか、急ピッチでグラスを空けていた。


「ねえ、わたしの事どう思っている?」

紗希はかなり酔いが回っているらしい。首筋や耳が桃色に染まっている。

「どうって・・・」

「お金目当てに、ずっと年上の男と結婚した最低の女、略奪結婚した悪い女、そう思っているんでしょう?」

取り乱しているとまでは行かないが、紗希は普通じゃない。

「なに言ってるんだ、そんな風に思うわけないよ」

高木奈美恵の言葉が脳裏に浮かぶが振り払う。

「他の人にはどう思われてもいい、でも・・・」

「でも・・・でも俺は学生時代からずっと貴女のことが好きだ」

紗希は悟郎の言葉に頷き、両手で顔を覆い嗚咽を漏らした。悟郎は立ちあがると、震える紗希の肩にそっと手を触れた。それに応えるように紗希は立ちあがる。悟郎と紗希は、互いに強く抱き合い、口づけを交わした。


 激しく求め合い、熱い嵐のようなひと時が過ぎて、紗希は悟郎の横で安らかに眠っている。悟郎は紗希が目覚めぬように、そっとベッドを抜け出すと服を身に着けた。

ヴィラから出て、空を見上げると、大きな月が天空に輝いていた。悟郎は熱い余韻に浸りながら、自分の宿舎として宛がわれたヴィラに向け、回廊を歩いて行った。


               ◇◆◇


 自分のヴィラに着く。門燈に灯りが点いているので、玄関周りは明るい。悟郎は、ポケットからカード式のキーを取り出し、扉を開けた。その時、後ろから背中を強く押されて、悟郎は部屋の中によろめき入った。

「誰だ!危ないじゃないか」

振り返り叫んだその先に、黒い人型のシルエットがあり、悟郎に続いて部屋に入りこむと、扉を閉めた。

「ナイフで刺されたくなかったら、静かにしろ」

照明が点いていない暗い部屋に、押し殺した男の声がして、息遣いが迫ってくる。悟郎はじりじりと後退し、リビングの窓際まで追い詰められた。大きな窓から、月の光りが差し込み、窓辺の周囲は仄かに明るい。その微光の中に浮かび上がったのは、ピエロの面をつけたタキシード姿の男だった。右手には大型のナイフを握りしめている。

「人違いしてないか。俺は殺される覚えはない」

悟郎は腰を落として身構える。大学時代に合気道同好会に所属していたので、刃物を持った相手と素手で渡り合う技を知らないではなかった。しかし所詮は実戦経験の無い道場技で、その腰は引けている。

「殺しはしないから安心しろ。いいか紗希さんに手を出すな。もしまた同じようなことをしたら、その時は殺す」

男はスッと悟郎の懐に飛び込むと、ナイフを悟郎の首筋に当てた。悟郎は成す術もなく、仰け反る。

「うん?お前、桐野じゃないな」

間近に迫った男が、月明かりに照らされた悟郎の顔を見て呟き、首に当てたナイフを手元に戻した。

「だから言ったろう、人違いするなって」

悟郎は必死で抗議する。男は、一歩退き、無言でその場に佇んでいる。何か考えているようにも見えるが、仮面で覆われた顔の表情は分からない。

「とにかく俺は桐野じゃない。わかっただろう」

無言の睨み合いに耐えられず、悟郎が再び声を上げる。すると、男はナイフを脇のホルダーに収め、ゆっくりと身を翻して立ち去って行った。

 悟郎は大きく息をつくと、ナイフを当てられた首を手で撫でて、傷ついていないか確かめた。痛みも無く、血も流れていないようなので、一先ずホッとする。

警察に通報することも考えたが、先ずは紗希に事の次第を知らせるべきと思案した。先ほど悟郎を襲った男は、紗希に何らかの関係のある人物に違いないと思ったからである。


               ◇◆◇


 紗希のヴィラを再び訪れた悟郎を、紗希はシルクのナイトガウン姿で迎えた。悟郎は一部始終を話して聞かす。

「桐野さんと間違えられたのね。背格好が同じだから」

話しを聞き終えた紗希が、申し訳なさそうに言う。

「うん、顔はまるで似てないけどね」

「とにかく無事でよかった。傷は無い?大丈夫?」

「あぁそれは心配ないけど、警察への通報はどうする?」

「警察には知らせないで」

「襲った男に、心当たりがあるらしいね」

「えぇ、それは田上に違いないわ。桐野から、何度も執拗に迫られて、困り果てていた時に、相談したことがあるから」

田上という名前は、どこかで覚えがある。が、すぐには思い出せない。

「警察に通報しないでと言うけど、俺はナイフで脅されたんだ。その理由を聞かせてくれないか」

「そうね、分かった、理由を話すわ。実は・・・」

紗希はそこで言い淀んだが、気を取り直して続けた。

「田上は、血が繋がっていないけど私の兄なの」

紗希は、田上の身の上を詳細に話した。その概要は、次のようなものであった。


≪田上は旅役者の子として生まれ、小さい時から子役として舞台に立っていた。しかし母親が若い役者と駆け落ちしてしまい、父親は酒と博打におぼれて大きな借財をこしらえ、夜逃げした。孤児となった田上を、見かねた関係者が、頼ったのが紗希の父親である工藤理之助であった。不憫に思った理之助は田上を養子とした。

理之助は、躾こそ厳しかったが、実の子である紗希と分け隔てなく育てた。紗希とは、かなり年が離れていたが、田上は紗希をとても可愛がり、紗希も田上を実の兄のように慕っていた。しかし、田上は、自分の立場を弁えており、紗希を恩義ある工藤家のお嬢さん、自分は紗希の庇護者という態度を貫いていた。

田上は、高校を卒業すると、劇団に入団し演劇の道に進んだ。芸名は田上譲治。特異な風貌もあって、個性派脇役として次第に注目されるようになった。しかし、病身の理之助に頼まれて、その仕事を手伝うようになった。理之助が亡くなった後は、東郷尚彦の私的な秘書として働くようになった≫


「あぁ、思い出した。俺の事務所に訪ねてきたことがある」

社長秘書と名乗り訪れた、あの爬虫類を思わせる男だ。

「兄は私の為を思ってやったことなの。だからお願い、警察には通報しないで」

「分かった、そういうことなら通報しない」

「ありがとう、兄には、貴方の事よく言っておく」

「あぁ、それじゃ夜も遅いので、俺は帰るよ」

「本当にごめんなさいね。それじゃお休みなさい」

ヴィラを出ると冷たい風が身に染みた。見上げる南の空に、満月が煌々と輝いている。



第九章 向井史郎法律事務所


 史郎とは、メールや電話では情報の交換をしていたが、込み入ったことは矢張り会って話さないと埒が明かない。今日は久しぶりに史郎に会って、じっくり話し合うつもりであった。史郎の法律事務所は、赤坂の特許庁近くの古ぼけたビルの五階にある。ビルはショボいが、三十三歳にして自前の弁護士事務所を構えているのだから、立派なものだと悟郎は来るたびに感心する。


「間違われて襲われるとは、とんだ災難だったな」

応接室に入ってくるなり史郎が声をかける。

「まったく、いい迷惑だ」

奥軽井沢のリゾートで、田上に襲われた事は、その概略を電話で伝えていた。

「しかし何だな、紗希さんには、随分と物騒な兄さんがいるんだな」

「あぁ、その兄もそうだが、父親の工藤理之助もなにやら物騒な人物のようだ。理之助について調べてくれたそうだな」

紗希の父親は犯罪者と言った、高木奈美恵の言葉が気になって仕方ない。

「おぉ、色々調べてみた。意外な事実が分かったぞ」

史郎は、紗希の父親、工藤理之助について語り始めた。

「工藤理之助は、兜町の風雲児と言われた大物相場師の辛島智也の参謀的な人物で、世間にはあまり知られていないが、その筋では有名な人物ということだ。大学を出て証券新聞社の記者をしていたんだが、辛島に請われてそのグループに入った。主に裏社会や右翼などの資金運用を担当したらしい。理之助は頭脳明晰なうえに、度胸もよかったので、普通の人が、ビビるような人物とも物怖じしないで渡り合った。そういうところが、暴力団の組長などに気に入られ、動かす資金量は、辛島グループでトップとなり、辛島に次ぐナンバーツーに上り詰めたんだ」

史郎はお茶を飲んで一息入れ、話を続ける。

「東郷建設の先代社長とは、当初は株式の上場などの相談に乗っていたんだが、互いに宗教に深い関心があることが分かり、急速に親しくなったと言われている。なんでも、一緒に、四国四十八か所の霊場巡りをしたということだから、親友と言っていいだろう。で、家族ぐるみの交際になり、東郷建設の先代社長は、紗希が幼い頃から大層気に入って、将来は、自分の息子の嫁にと思うようになったって訳だ」

紗希が東郷尚彦と結婚したのには、そうした経緯があったのかと悟郎は合点が行く。

「先代社長は、“紗希さんが大学を卒業したら息子の尚彦の嫁になって欲しい”と申し込んだんだが、当の本人の紗希さんは、大学卒業後は社会に出て働きたいという気持ちが強くて、結局その話は纏まらなかったんだ。でもあきらめきれない先代社長は、数年後の結婚を前提に紗希さんの東郷建設入社を要請した。紗希さんは父親の強い説得もあり入社を承諾した」

「そうか、紗希さんの結婚は、親同士が推し進めたものだったのか」

「そういうことだ、で、紗希さんは尚彦と将来結婚する含みで入社したんだが、簡単には結婚に至らなかった」

「それは、尚彦に高木奈美恵という愛人がいたから?」

「それもあるが、尚彦は敷かれたレールに乗るのを潔しとせず、結婚を渋って中々結婚しようとしなかったんだ。紗希さんが大物相場師の娘であることなども結婚をためらう理由だっただろうな」

「それでも結局は結婚した」

「そこが尚彦のお坊ちゃまたる所以だよ。何だかんだ口先では反抗して見せても、父親に、“わしの言うことを聞かぬなら、次期社長にはさせんぞ!“と一括されたら従うのだからな」

「それで、邪魔になった奈美恵を捨てたって訳だ」

「そうだよ、あの奈美恵が憤るのも分かる」

「その奈美恵が、紗希さんは犯罪者の娘とか言っていたが、そうなのか?」

「あぁ、理之助は総会屋とも深い繋がりがあったんだが、株主総会の運営を巡る利益供与事件に関与したとして逮捕され、拘置所に拘留中にクモ膜下出血で急死したんだ」

「死んでも有罪になるのか?」

「被疑者死亡のまま書類送検され、有罪になった。だから犯罪者の娘というのは、あながち間違いではない」

裕福な家庭のお嬢さまだとばかり思い込んできた。しかし、人に言えぬ苦労を背負ってきたのだと分かり、悟郎の心は痛んだ。

「おい、何しょぼくれているんだ。こんな時こそ、紗希さんの役に立ってあげなければならんだろう。しっかりしろ」

悟郎が塞ぎこむように考え事をしているのを見て、史郎が叱りつけた。

「あぁ、そうだな。紗希さんを支えてあげなきゃな」

悟郎は、気を取り直し、紗希から聞いた田上の生い立ちについて話して聞かせ、渋谷専務に関するレポートの内容などを打ち合わせして、向井法律事務所を出たのであった。


第十章 容疑者浮上


 我妻から珍しく連絡があり、尋ねたいことがあると言う。悟郎も相談したいことがあったので丁度良かったのだが、我妻が指定した会談場所は矢張り、銀座のクラブ、アビアントであった。そのような次第で、悟郎はアビアントの一番奥のボックス席で我妻と相対している。


「ついこの前のことだが、タレコミがあってな。匿名の手紙が届いたんだ。その手紙には、東郷尚彦は、田上という男に殺されたって書いてあった。田上は、社長夫人と近しい関係ある人物とも書かれているんだが、あんた、社長夫人のエージェントだろう。田上という男に何か心当たりはないか?」

いつものように、単刀直入に用件に入ったが、口火を切ったのは我妻だった。

「田上なら知っています。東郷社長の秘書をしていた男です」

「それは、こちらの調べでも分かってるさ。しかし、秘書と言っても東郷社長が個人的に雇っていたそうじゃないか。東郷建設に問い合わせたんだが、“当社には、そのような社員は現在も、過去も在籍しておりません”とにべもない返事だ。あんたならもっと詳しいこと知っているんじゃないのか?」

「はぁ、詳しいことは分かりませんが、ある程度のことは」と前置きして、悟郎は紗希から聞いたことを話して聞かせた。ただし、田上に襲われたことは、紗希との約束があるので伏せておいた。

「ほう、社長夫人の兄さんだったのか。そいつは驚きだ」

「血の繋がっていない兄です」

ここは強調したいところなので、悟郎は語気を強める。

「ふむ、そこが問題だな。いいか、よく考えてみろ。二人は幼い頃から、とても仲がよかったんだろう。もしかすると、兄妹ではなく、男女の仲であったかもしれん。世間にはよくある話だ」

「そんな馬鹿な、あり得ませんよ。田上は自分の立場を良く弁えており、紗希さんのことを工藤家のお嬢さま、自分はその庇護者という姿勢をずっと崩さなかった。田上はそういう男です」

「分かったよ、でもな、もしもだ、田上と社長夫人が男女の仲だったら、田上は、愛する人を奪った尚彦を恨んだろうな。つまり怨恨という殺人動機があるってことだ」

我妻は、目を細めて悟郎の顔を見つめる。

「いや、仮にしたって、そんなことはあり得ません。紗希さんは、そんな人じゃない」

「そうムキになるなよ。あの社長夫人に惚れたか?」

虚を突かれたというか、図星だったので悟郎は大いに慌てる。

「何を言うんです。紗希さんはクライアント、私はそのエージェントというだけの関係です」

「まぁいい、調べればわかることだ。ところで、そちらの用件はなんだ?聞こうじゃないか」

我妻はニヤリと笑い、グラスのビールを一息に空けた。

「実は、十日ほど前、東郷社長が転落死した現場を見てきたんです」

「ほお、それはご苦労なことだな」

「それでいくつか気になることがあって、我妻さんの考えをお聞きしたいんです」

「なんだ、言ってみろ」

「あの事件が他殺だとしたら、どのような方法で行われたか推理してみました」

「ふむ、それで」

「犯人は何らかの方法で、東郷をあの旧社屋ビルに誘き出した上で、地下の非常出入口から入り込み、七階の物陰に隠れる。東郷が観音像のあるホールに入ったときに窓を開け、東郷がホールから出てきたところを襲い、窓から突き落とした」

我妻がどのような反応を示すか、その表情を伺う。

「素人にしては、上出来の推理だ。そこまで推理したのなら教えてやるが、あの事件は殺人の疑いが強まった」

「えっ!ほんとですか?」

意外な成り行きに、悟郎は驚きの声を上げる。

「あぁ、最近になって通用口や周辺ビルの防犯カメラの詳細な分析結果が出た。死亡推定時間の少し前に、あのビルの上の方の階の照明が、何度も点いたり消えたりしていることが分かったんだ」

「はぁ、それが殺人と関係があるんですか?」

「死んだ翌日の朝の現場検証で分かっていたことだが、七階の照明は切られている状態だった。そのことを前提に推理するとだな、自殺より他殺と考える方が自然ということになった」

「もう少し分かりやすく教えてください」

「当初我々は、東郷は七階に着いても照明は点けず、懐中電灯を使って、観音像にお参りし、窓を開けて飛び降りたと考えた。照明のスイッチは切られた状態だったし、遺留物の懐中電灯があるので、そう考えるのが順当だった。しかし、照明が点いたり消えたりしていることが判明した、これは何を意味するか?東郷は、七階に着き、先ず照明をつけて、窓を開ける。窓から飛び込む前に、エレベーター近くまで戻って照明を消し、まだ窓のところに行って、飛び込む・・・なんてこと普通しないだろう。ましてや点いたり消したりを二回もしているとなれば猶更だ」

「それはそうですね」

「それであんたが推理した通りのことを、我々も推理したという訳だ。つまり、東郷は七階にやってきて、先ず照明を点ける。そして照明は点けたまま観音像があるホールに入る。その隙に隠れていた犯人が窓を開け、また身を潜める。東郷がお参りをしてホールを出てきたところで、犯人が照明を消す。暗闇の中で犯人は東郷を襲い、開け放った窓から突き落とす。犯人は照明を点け、辺りを点検した上で、明かりを消し、エレベーターで地階に降り、非常用出口から立ち去る」

「素晴らしい、さすが日本の警察は優秀です」

「お褒め頂くのはまだ早い。まだ解明しなければならんことがある」

「犯人は、地下の出入口からどうやって入り込んだか」

「確かにそれもある。しかしそれは、事前に鍵を持ち出しておくとか、スペアキーを作るとかすれば可能だ。最大の謎は、犯人はどうやって、東郷を深夜、それも一人で、誰もいない旧社屋ビルに誘い出したかということだ。つまり、犯人はそうすることが出来る人物でなければならない。よほど親しい人物とか、信頼できる人物とかが犯人という可能性がある」

「まさか、紗希さんを疑ってなんかいないでしょうね?」

「最も親しいという点では、妻が一番だがな」

「じょ、冗談でしょ。紗希さんには、夫を殺す動機が無いじゃありませんか」

「はは、安心しろ、社長夫人を疑っているわけじゃない。疑わしきは、タレコミがあった、東郷の私設秘書をしていたというその兄さんだ」

我妻はそう言うと、これで用件は終わりとばかり、ホールスタッフを呼んで、ママに来るように伝え、ついでにビールを注文した。悟郎も今日はこれで終わりと、腰を浮かせかけたが、ふと思い出して言い足した。

「あぁそうだ。旧社屋ビルの管理会社の社長が、我妻さんに会ったら、よろしく言って置いて下さいとのことでした」

「確か上月と言う名だったな。現場検証などで何度か世話になっている」

「そうらしいですね」

「上月とは、どのような人物だ?」

「桐野常務と入社が同期で、ニューヨークでは、桐野さん、紗希さんと一緒に仕事したそうです。実直で信用の置ける人物と思いますが、何か?」

「いやなんでも無い。ちょっと聞いただけだ。さぁ、仕事の話はこれで終わりだ」

要件が終わったら、悟郎は支払いを済ませてとっとと帰る。残った我妻は、存分に飲む。この二人のルールに従って、悟郎は早々とアビアントを出たのであった。


第十一章 京橋メトログランドホテル


 十月七日、夜の七時少し前、京橋メトログランドホテルのフロントで女がチェックインしている。眼鏡を掛けている上に、マスクをしているので素顔は分からないが、黒のスカートスーツ姿でキャリーバッグを引いており、東京出張に来た地方のキャリアウーマンのような出で立ちだった。フロントでカードキーを受け取るとエレベーターホールに向かった。

 女は、九階でエレベーターを降り、キャリーバックを引いて、九一三号室の前に来ると、カードキーを取り出し部屋に入った。


 七時半頃、桐野は九一三号室の前に立っていた。ドアの扉が少し開いたままになっているので不審に思ったが、ドアチャイムを押してみる。数回押しても返事がないのでドアを開けて中に入った。入ったすぐの右側には、洗面室、トイレ、浴室などがあり、その先にツインのベッドがある造りの部屋であった。桐野は奥に進み、様子を伺うが、部屋には誰もいない。と、その時、背後でドアが閉まる音がしたので振り返る。そこには女が立っていた。

「あっ!失礼しました。部屋を間違えたようです」

桐野は、無断で女性の部屋に入ってしまったことに慌てる。女は無言でその場に立ち尽くしている。

「チャイムを何度も押したのですが、返事が無くて・・・」と言いかけて桐野はギョッとして息を飲む。その女の手に光る鋭利な刃物を見たからだ。医療用のゴム手袋をした手に握りしめているのは、メスであった。

 女が近づいてくる。桐野は右手を前に差し出し、身を守りながら後ずさる。女がスッとメスを一閃させた。桐野の手の平から血が流れだす。桐野は恐怖と痛みで顔を引き攣らせ尚も後退するが、間近に迫った女の顔を見て叫んだ。

「お前は!」

女はにやりと笑うと、踏み込み、メスを桐野の胸に深々と突き刺した。


 女は、桐野が死んだのを見届けると、慌てる様子もなく、返り血を浴びた服を脱ぎ捨て、キャリーバックから取り出した服に着替えた。脱ぎ捨てた服は、キャリーバッグに無造作に押し込む。傍らの鏡に映った自分の顔を覗き込み、メイク直しをして、眼鏡とマスクを掛けた。最後に、辺りを入念にチェックすると、キャリーバッグを引いて、部屋を出て行った。


               ◇◆◇

 

 悟郎はスマホの電話コールで目を覚ました。スマホをオンにして時刻を見ると七時少し前である。

「おい、今朝のニュース見たか」

いきなり用件を言うのは、史郎の癖である。

「ちょっと勘弁しろよ、日曜の朝位ゆっくり眠らせろよ」

「そんなこと言っている場合か、桐野常務が殺された。昨日の晩のことだ。ネットニュースで速報が流れているからすぐ見てみろ」

驚いた悟郎が質問するする間もなく、史郎は、それだけ言うと、勝手に電話を切った。

〈まさか?〉

半信半疑で、ニュースサイトを開く。するとトップニュース欄に“ゼネコン東郷建設の役員とみられる他殺体発見される”との見出しがあるではないか。慌ててクリックする。


≪八日午前十一時ごろ、東京都中央区京橋のホテルの客室内で、男性が血を流して倒れているところを、ホテルの従業員が発見しました。通報を受けた警察が駆け付け、検証の結果、殺人事件と断定され、日本橋警察署に捜査本部が設置されました。捜査関係者によると、男性は胸部を鋭利な刃物で刺されており、死因は外傷性ショック死、死亡推定時刻は前日七日の夜八時ごろ、被害者は所持品から東証一部上場の東郷建設の常務取締役桐野達郎さんとみられるとのことです≫


「見た、大変なことになったな」

“見たら連絡しろ”というのが史郎の意図だと知っているので、すぐに電話する。

「犯人は、もしかして田上じゃないか?お前、桐野常務に間違われて脅されたんだろう?」

ニュースを見て、最初に思ったのは正にその事だった。田上は東郷尚彦殺人事件でも容疑者と目されている。

「あぁ、遺体には、鋭利な刃物で胸を刺された傷があるらしい。俺も田上にナイフで脅された」

「捜査の進展具合では、紗希さんに警察から連絡が行くかもしれない。おまえ、日本橋警察の刑事と知り合いがいたな」

「あぁ、おまえがいつか、アポ取りしてくれた我妻刑事だけど」

「その刑事に詳しいこと聞いてくれないか」

「了解、もし警察から何か言ってきたら、お前、弁護士なんだから紗希さんを助けてやってくれ」

「勿論だ、とにかく事件の詳細を掴むことが先決だ。情報収集よろしく頼むぞ」


 史郎とのスマホを切って、悟郎は紗希にすぐさま電話した。電話に出た紗希は、事件についてまだ知らなかったようで、悟郎の知らせに驚き「えっ!桐野さんが」と言って絶句した。

「もしもし紗希さん大丈夫?」

衝撃が大きかったのだろうと、悟郎は紗希を気遣う。

「犯人は誰か分かっているのかしら?」

ややあって、紗希がかすれ声で聞いてきた。

「いや、まだニュース速報を見ただけで、皆目見当がつかないんだ。所轄は日本橋警察だから、我妻刑事に聞けば、詳しいことが分かると思う」

「そうね、どんなことでもいいから何か分かったら教えて」

「あぁ、分かった。それから、警察から連絡があるかもしれない。我妻刑事は紗希さんの兄さんに関心を持っているみたいなんだ」

「やはりそうなのね。警察に追われていることは、兄が良く行くバーのママから聞いていたわ」

「バーのママ?」

話しの前後がよくわからず聞き返す。

「神保町に兄が毎晩のように行くバーがあるの。兄の携帯に何度も連絡を入れたのだけど、繋がらないので、そこに電話したら、兄が警察に追われているって聞かされて」

「そうか、とにかく俺は我妻さんに会って情報を仕入れてくるよ」

「もし、警察から連絡があったらどうしたらいい?」

「その時は、弁護士と相談して回答すると答えておいてくれないか。史郎に紗希さんを助けるよう言ってある。何かあったら遠慮せず、俺か史郎に連絡して、史郎の携帯の電話番号は、後で知らせる」

「ありがとう、そう言ってくれると心強いわ。何かあったら連絡する」


 次に電話をしたのが、我妻であるが案の定「今は忙しくてそれどころじゃない、電話でいちいち説明などしていられない」と言いつつも「俺からも頼みたいことがある。今晩か、明日の昼頃、日本橋警察署まで来てくれんか」と、自分の要求は突き付けてくる。悟郎は少し考え、明日の昼に行くと告げて電話を切った。


               ◇◆◇


 十月十日、日本橋警察署の前は、報道陣でごった返していた。報道各社のテレビカメラが玄関口を取り囲むようにしており、数人のレポーターがマイクを片手に実況中継をしている。それらの人垣をかき分けるようにして暑内に入り、受付で我妻刑事と約束していると告げて、応接に案内して貰った。


「やぁ、待たせたな」

徹夜明けなのだろう、腫れぼったい目、無性ひげの我妻がやってきて声を掛ける。

「お疲れの様ですね」

「いや、こういうのは慣れている、毎度のことだ。ところで電話でも伝えたが、あんたに頼みたい事がある」

いつものように用件をすぐに切り出す。

「はい、なんでしょう」

何を言われるかと、悟郎は身構える。

「これまで参考人として行方を追っていた田上を、重要参考人として、厳しく行方を追及することになった」

「重要参考人って、田上が犯人?」

「いや、犯人と決めつけた訳じゃない。極めて犯罪の嫌疑が濃いと我々が判断した者を重要参考人と言うんだ」

「犯罪の嫌疑が濃い理由を教えてくれませんか?」

紗希に説明してあげねばならない。

「あんたが、田上は工藤理之助の養子だと教えてくれたんで、奴の本名が分かった、工藤壌くどうゆずると言うのが戸籍上の名前でな、その名を前歴照会に掛けたんだ。すると恐喝罪で逮捕された前歴があることが分かった。尤も、その事件は不起訴処分になったので、前科持ちという訳ではない。しかしだな、その事件の関係者を調べて行くうちに、田上は、養父の理之助が投資顧問をしていた暴力団や右翼などとの連絡役を務めるほか、理之助の用心棒的な仕事をしていたことなど、相当手荒いことも辞さない危険な男と分かった」

「そんな前歴があっただなんて、俺も知りませんでした。」

「それに、あんたも知っての通り、東郷社長の転落死に関して、田上が犯人だとするタレコミもある。更にだ、我々が手を尽くして捜査しても、行方が分からない。となれば、田上は逃亡を図っていると疑われて当然だ。どうだ、これだけ揃えば、疑うに十分だろう」

「なるほど、そうですか」

これだけ根拠を並べられたのでは、肯定するより仕方ない。

「そこでだ、田上の妹である社長夫人に、捜査の協力を頼みたいという訳だ。それをあんたから伝えて欲しい。下手な隠し立てや、協力拒否は、田上の嫌疑を一層強くすると共に、社長夫人の立場も悪くするってな」

「捜査への協力って、事情聴取とかそういうことですよね。でしたら、友人の弁護士に相談しないことには、何とも言えません」

「おぅそうだったな、うちの署長と懇意にしている弁護士がいたんだったな」

「えぇ、現在、彼は、紗希さんの法律顧問をしています」

「それは面倒だな、まぁ、社長夫人に言うだけは言っといてくれ。あくまで任意であって無理強いはしないとな」

署長と懇意にしている弁護士がついていると知った我妻は、強面姿勢を一変させた。

「はぁ、一応、我妻さんの要請は、紗希さんにお伝えします」

我妻の要請が大分トーンダウンしたので、ホッとする。

「あぁ、ところで、前にもちょっと聞いたが、旧社屋ビルの管理会社の社長なんだがな」

「上月さんですか?」

「うむ。実はな、古参刑事に聞いたのだが、その昔、日本橋周辺で起きた、OL失踪事件の参考人リストに上月の名前があったというのだ。個人の名誉にも関することなので詳しいことは言えんが、どうも気になってな」

参考人リストとは、容疑者候補をアップしたものであろう。上月を知る悟郎には、とても信じられないことである。

「何かの間違いじゃないですか?あの時も言ったように上月さんは、実直な人ですよ」

「そうかもしれん。しかし何か引っかかるものがあるんだ。そこでだ、社長夫人と上月はニューヨーク時代からの長い付き合いなんだろう。上月に関して何か知っていることがあれば、何でもいいから聞いておいて欲しいんだ。この頼みなら社長夫人も承知してくれるよな」

「分かりました、私から聞いて我妻さんに報告します」

「うむ、さてと、こちらの用件はこれで終わりだ、そちらの用件を聞こうじゃないか」

「そうですか、それじゃお忙しいところ申し訳ありませんが、今回の事件について、出来るだけ詳しく教えてくれませんか?」

「矢張りそう来るか。話してやるが、これはあくまで捜査協力者に対する情報提供ということだ。言わずもがなだが、他言無用だぞ」

我妻が話してくれた事件の詳細は、以下のようなものであった。


≪十月八日、十一時頃、部屋の清掃に入ったスタッフが、血を流し床に倒れて男を発見し、警察に通報した。致命傷は、鋭利な刃物による胸部の刺し傷、心臓まで達していた。死因は、外傷性ショック死。致命傷の他に、防御傷と思われるものが右手にあった。死亡推定時刻は前日七日の二十時前後、現場に遺留物は無く、犯人と思われる指紋も検出されなかった。

 事件のあった部屋をチェックインしたのは、眼鏡とマスクを掛けた黒のスカートスーツ姿の女で、時刻は十九時半ごろであった。フロントと、九階エレベーターホールの防犯カメラに、同じ格好をした女がキャリーバックを引いて歩いているところが映っており、その記録から、女がホテルを去ったのは二十時少し過ぎと推定される。チェックイン時に記入された、宿泊者名簿の氏名、住所は出鱈目であることがすでに判明している≫


「それじゃ、犯人は女ということですか?」

ほんの一瞬ではあるが、紗希のことが脳裏に浮かび、冷やりとする。

「いや、それがそうとも限らんのだ。チェックインに立ち会ったホテルマンの供述から、女装した男の疑いも出てきたんだ。ホテルマンの感ってやつは、大したもんでな、眼鏡とマスクをしていても、女装かどうかは、なんとなくわかるらしい」

「犯人は男かもしれないのですね」

「そうだ、防犯ビデオを検証した結果、犯人は女装した男性の可能性もありうるということになった。その女と、田上の背格好がほぼ同じということも重要な点だ。そういう次第で我々は、田上を藤堂及び桐野殺害事件における重要参考人として行方を追うことにしたんだ」


 報道陣でごった返す、日本橋警察署を出て、悟郎は大きく息を吐いた。

「何か妙に疲れた」

悟郎は呟き、史郎に電話をするべく、スマホを取り出した。


               ◇◆◇


 警察を出た悟郎は、その足で史郎の法律事務所に向かった。至急会って相談したいと無理を言って押し掛けてきたのである。

「今日は、とにかく忙しいんだ。手短に話せよ」

史郎は応接に入ってくるなり、話を急かせる。

「了解、それじゃ要点を話す」

悟郎は、田上が重要参考人とされた経緯と桐野殺害事件の顛末を話した。史郎は黙って聞いていたが、眉間にしわを寄せ難しい顔をしている。

「しかし、重要参考人とはな」

「あぁ、俺も驚いた。重要参考人というのは、ほぼ容疑者ということなんだろう?」

「容疑者という訳ではないが、押収、家宅捜索、逮捕状申請など何らかの法的な手続きが開始された時点で、重要参考人は容疑者、つまり被疑者となるんだ」

なるほどそういうことかと悟郎は得心する。

「紗希さんは、捜査に協力するよう要請された。どうしたらいい?」

紗希に会ったら、警察への対応について説明する必要がある。

「原則としては、捜査に協力するべきなんだが、親族に限っては、協力しなくとも許容される事が多い。紗希さんと田上は兄妹だから、拒否しても、責められたり立場が悪くなったりはしないだろう。紗希さんの気が進まないのなら、断っても差し支えない」

「分かった、そう伝える。紗希さんは兄さん思いだから、警察に協力するなんて出来やしないさ」

「しかし、逮捕状が出ると、強制捜査が可能になる。警察は家宅捜査や、スマホの押収なども出来るようになるので、覚悟しておいた方が良い。紗希さんに、そう伝えておいてくれ」

「あぁ、伝えるよ。とにかく俺は、これから紗希さんのところに行ってくる。何か動きがあったらその都度連絡する」

悟郎は、成城の東郷邸に向かうべく、史郎に別れを告げた。


               ◇◆◇


 成城の東郷邸に行き、田上が重要参考人となった経緯や、桐野殺害事件の顛末を、紗希に話したが、思いの外、冷静に聞いてくれた。警察への捜査協力については、悟郎が思った通り、犯人を前提とした捜査には、協力したくないとの意向であった。但し、上月に関する我妻の依頼については承知して、以下のように答えた。

「ニューヨーク時代のことだけど、桐野さんから“上月は変質者だから注意した方が良い”と言われたことがあったわ。地元のコールガールを、上月さんが傷つけたとして、マフィアから高額な慰謝料の請求があったというの。あまりにも酷い話だし、桐野さんは、競争相手を蹴落としてでも這い上がろうとする性格だから、私を上月さんから遠ざけるための策謀と思って信用しなかった。だけど、今思うと、それは本当だったのかもしれない」

紗希の話を聞いて、悟郎にも思い当たるものがあった。

「上月さんは、OL失踪事件の参考人リストに載っていたらしい。若い女性が失踪したとなると、変質者を先ず、リストアップするんじゃないのか、つまり上月さんは、変質者として警察からマークされていたということにならないか」

二人はしばらく黙り込み、それぞれが思案を巡らす。


「ずっと考えていたんだけど、警察はどうやって、兄の行きつけのバーを知ったのかしら」

ややあってから、紗希が疑問を投げ掛けた。

「それは、タレコミがあったからだろう」

密告の書面に、田上の立ち寄り先が書いてあったと、悟郎は推測する。

「でも、兄が、そのバーの常連客だということを、知っている人は、ごく限られているわ。私と桐野さんと上月さん位と思う」

「もしそうなら、消去法的に考えて、タレこんだのは上月さんということになる」

「あぁ、何だか分からなくなってきた。今まで、上月さんは、実直で信用置ける人と思ってきたのに」

二人は再び黙り込んでしまう。上月への疑惑は、益々深まるばかりだった


               ◇◆◇


 紗希から電話があったのは、数日後の十月十四日の夕方であった。

「今さっき、美容室から戻ったんだけど、兄から留守番が入っていたの。これから上月さんと会いに、旧社屋ビルに行くって内容だった。私心配で」

「他には何か言ってなかった?」

「心配を掛けていることと思うが、自分は犯人ではない、犯人は上月だって。でもこのままでは、状況が悪くなるばかりなので、決着をつけることにした。上月に会って、本当のことを白状させる。上手く行ったら、警察に連絡するので、今は警察に、決して連絡するなって」

「しかし、それは・・・」

「二人が会えば、何か恐ろしいことが起きそうでとても不安なの。私なら兄を引き留めることが出来ると思う。私は、これから旧社屋ビルに行くわ。だからお願い、あなたも一所に来て」

「分かった、これからすぐに旧社屋ビルに向かう」

「私は兄が無実だと信じる。だから、警察には言わないで」

「しかし、現場の状況次第では、警察に連絡するよ。これだけは承知して」

「えぇ、それで構わない。いつも助けてくれて、本当にありがとう」

「あぁ、くれぐれも気を付けて来てくれ」

悟郎は、手早く身支度を整え外に出ると、シルバラードを置いてあるマンションの駐車場に向け駆け出した。



第十二章 猟場


 旧社屋ビルがある新常盤橋周辺は、再開発から取り残された一画で、夜ともなると、人影はおろか、車が行き交うことも稀である。工事用フェンスに囲まれた旧社屋ビルは、黒々としたシルエットになっており、まるで廃墟のようだった。

 そんな旧社屋ビルの社員通用口の前に、佇む一人の人物がいた。それは黒いスーツ姿の田上で、キーボックスの暗証番号を押して鍵を開けたところだった。田上は扉を開け、中の様子を窺っていたが、意を決したかのように、館内に足を踏み入れた。一階ロビーの照明は点いている。守衛室の前を通り、更に奥に進んで、広いエントランスホールに出る。田上は辺りを注意深く見渡し、人影が無いのを確認してから呼びかけた。

「今着いた、どこにいる?」

無人のホールに声が響く。

「ここだ、申し訳ないが地下まで降りてきてくれないか、そこは、ガードマンが巡回してくる」

くぐもっているが、それは上月の声で、開け放たれた内階段の中から聞こえてくる。田上は顔を顰め、逡巡する素振りを見せたが、スーツの腋下のホルダーからナイフを抜き出すと、右手にしっかり握りしめ、地下への階段を慎重に降りて行った。


               ◇◆◇


 悟郎は旧社屋ビルの前に、シボレー・シルバラードを停車させ、周囲を見回す。江東区の悟郎の自宅兼事務所から、日本橋までは車で十五分足らずである。成城からはどんなに急いでも、一時間弱はかかるだろうから、紗希は当然ながらまだ来ていない。車から降り、フェンスの出入口に向かう。その鍵は開いていたが、社員通用口の扉は施錠されている。暗証番号「1050」を押すと、果たして開錠した。

 館内の照明は点いていた。悟郎は耳を澄まし、人の気配を探る。誰もいないようなので先に進み、エントランスホール出た。

「誰かいませんか?」

悟郎の呼びかけに答える者はいない。

「田上さん、居るんでしょう。いたら返事してください」

エレベーターの前まで来て、地下に通じる内階段の扉が開いているのに気付く。

 

 階段を降りた地下一階にも、狭いながらエレベーターホールがあり、その奥に倉庫や機械室に通じる扉があった。その扉がわずかに開いているので、そうっと開けて中を覗き込む。室内は、小さな灯りが点いているだけで薄暗い。中に入るのはさすがに躊躇われて、しばらくそうしていたが、目が慣れて部屋の様子が分かるようになった。悟郎はギョッとして目を凝らす。床に人が倒れていたからだ。 思わず駆け寄り、屈みこんで、うつ伏せに倒れている人物の顔を覗き込んだ。

「た、田上!」

爬虫類を思わせる特異な人相は、田上に違いなかった。改めて足元を見ると、そこには大量の血が広がっている。田上は完全に死んでいるようだった。

 その時、扉が閉まる音がした。悟郎が振り返ると、扉を背にして一人の人物が立っていた。薄暗くてよく分からないが、手術用のガウンのようなものを着ている。


「おやおや、これは意外なお客さんですな」

その声は聞き覚えがある。上月の声だ。

「上月さんですね。これは一体どういうことですか?」

「どうにもこうにも、見ての通りですよ」

「真面目に答えてください。この死体は田上さんでしょう?」

上月のふざけたような言い回しに、怒りが湧いてくる。

「そのようですね」

「あんたが殺したのか?」

「まぁそうなりますか、でも先に襲ってきたのは田上です。握っているナイフが証拠です。正当防衛ですから私に罪はありません」

言われて、倒れている田上の手を見る。確かに右手にナイフが握られている。

「これからどうするつもりだ、警察に自首するのか?」

上月の馬鹿丁寧な話し方に苛つき、悟郎の言葉は、ぞんざいになる。

「いや、それはできません」

「どうしてだ、正当防衛なんだろう」

「これは正当防衛ですが、他の事件はそうじゃない」

「他の事件?そうか、桐野さんを殺したのは、矢張りあんただったのか」

もしやと思っていたことが、現実となったかと愕然とする。

「えぇ、しかし、それだけではありません」

「なんだって、まさか・・・」

「はい、東郷社長を殺したのもこの私です。だから自首なんて出来ません」

「それじゃ、どうするというんだ?」

これから何が起こるのか、得体のしれない恐怖が湧き出てくる。

「知らない方がいいと思いますが・・・それでも知りたいですか?」

知りたくもあり、知りたくもない。悟郎は答えない。

「返事がありませんが、まぁお話しするとしましょう。あなたには、ここで死んで貰います」

「何を言う。そう簡単に殺されはしないぞ。あんたなんかに負けるわけがない」

最悪の展開になってきたが、ここは踏ん張りどころだ。

「何も分かっていないようですね。物騒極まりない田上を倒したのは、この私ですよ。何故、私が勝つことができたか知りたいですか」

「そんな話聞きたくない」

「まあそう言わずに。夜はまだ長い。あなたも死に急ぎすることはないでしょう。私が田上に勝ったのは、戦いの場所がこの地下室だったからです。ええ、この地下室は、私の猟場なんです。猟場、分かりますか?狩人が獲物を仕留める場所のことです。私はね、この地下室で過去に何人も人を殺しています。ホームレスだったり、OLだったりいろいろですが、ここに引き入れて電気を消した闇の中で、いたぶりながら殺すんです。ええもう、一度やったらやめられません。この猟場のどこに何があるか、トラップをどこに仕掛けてあるか、闇の中でも手に取るようにわかるんです。だから田上にも勝つことができたんす。失礼ですが、あなたクラスの獲物なら仕留めるのは、訳無いことです」

「警察は甘くないぞ。あんたが危険な人物だってこと、我妻刑事は既に掴んでいる」

「警察は死体があがらなきゃ動かない。ホームレスやOL達の死体と同じように、あなた方の死体は、このビルの裏にある焼却炉で始末します。実は、この医療用のメスを使って、田上の死体をバラバラにしようとしていたんです。そこに、あなたがいきなり現れたので、私もいささかびっくりしました。おかげで、二人分の死体を処分しなければならなくなりました。やれやれです」

上月は、医療用手袋をした手に持つメスを、顔の高さまで上げて軽く左右に振って見せた。

「いい加減なことをいうな。そこをどいて、扉を開けろ」

「扉は開けられませんが、幕を開けることはできますよ。さぁ、それでは、ショウの開幕といきますか」

照明が消え、周囲は真っ暗になる。上月が照明のスイッチを切ったのだ。

 

 悟郎はスマホを取り出して電源をオンにした。画面の明かりで、悟郎の手元が闇に浮かぶ。

「百十番通報はできませんよ。ここは古いビルの地下室です。電波はまったく届きません」

暗闇の中、上月が近づいてくる気配がする。

「くそ!」

悟郎は、スマホを懐中電灯代わりにして、上月がいると思われる辺りを照らす。

「ほぉ、そんな使い方があるんですか。でもどれだけ電池が持つんですかね」

スマホの光りが、わずかに上月の姿をとらえる。手にしたメスがきらりと光る。

「うるさい!」

悟郎は闇の中、後方に動こうとして、何かに躓きよろめいた。その拍子に、手にしたスマホが手を離れ床に転がる。

「うっ!」

悟郎は、左の足首の痛みにうめき声を出す。何か細く硬い線が、床に張られているようだ。

「さっき言いましたよね。トラップが仕掛けられているって。ピアノ線をあちこちに張り巡らせています。怪我をしたくないなら、あまり動き回らない方がいいですよ」

床に転がったスマホの明かりが消え、また暗闇に戻る。

しばらく沈黙が続いた後、悟朗が口を開く。

「田上をどうやってここまで、誘き出したんだ?」

「誘き出したんじゃありません。田上が勝手にここへやって来たのです。田上は、警察に密告したのが私と見抜いて、犯人との見当を付けたようです。そこまではさすがですが、私を甘く見過ぎました。私と会って腕ずくで白状させようとしたんです。会いたいとの申し入れがあったので、このビルだったら会ってもいいと返事をしました。腕に自信のある田上は、承知してここまでやって来たという訳です」

その間も、悟郎は慎重に足元を探りながら、少しでも上月から離れようと移動する。

「そ、そうか、それじゃ桐野を殺した理由はなんだ?」

「何か話さなければ怖くて仕方がないのでしょう。ほとんどの人がそうでした。暗闇の中での沈黙には耐えられないようですね」

「そんなんじゃない。どうしても気になって仕方ないから聞くんだ」

「はいはい、気になるならお話ししますよ。疑問を持ったまま死ぬのは、嫌ですものね。桐野は私と同期入社でね。ライバルでニューヨークでも一緒だった。でも私の性的な嗜好を知った桐野は、そのことを会社の上層部に告げ口して、私を競争相手から引きずり降ろしたんです。お陰で私は、ちっぽけな子会社に追いやられ飼い殺しです。あぁそれから、桐野のことだから、紗希さんにも告げ口しているかもしれませんね」

「それで桐野を殺したのか。しかし、あの用心深い桐野をどうやって京橋のホテルに誘い出したんだ」

「それは、勝手ながら、あなた方を利用させて貰いました。私もあなた方と共に、紗希さんから相談を受けていると桐野に信じ込ませたんですよ。その上で、我々の内、一人を取締役に迎え入れるなら、後継者を桐野常務にすることを、紗希さんも了承すると伝えたんです。桐野はそのオファーを承知しました」

「我々って、俺と史郎、それにあんたということか?」

「えぇ、そうです。あなた方を絡ませたのがポイントです。そうすることで、桐野は私の申し出を信用したのです」

「意味が分からない。俺が聞きたいのは、どうやって、ホテルに誘き出したかということだ」

「まぁ、そう急かないで下さい。順を追って説明します。さて、先ほどあなたが言ったように、桐野は用心深い男です。だから、桐野は、紗希さんに会って確認したいと言ってくるに違いないと思い、次の手を準備していたのです。つまり、ホテルのレストランで、桐野、紗希さん、それに私が立会人ということで、三人が会食して相互確認をするという仮の舞台を設えたんです。そして、その当日、三人が会食する前に、二人だけで内密に会いたいと申し入れました。桐野は私が金を要求してくると思ったのでしょう、渋りながらも、私の申し入れを承知したのです。それとなく、金銭の要求を匂わせたておいたのが、見事に功を奏しました」

「なんて悪賢いんだ」

悟郎は呻き声をあげる。

「さぁ、次は東郷を殺した方法をお教えしましょう。まだ死にたくないのなら是非聞いて下さい。私が一番苦心した殺人ですからね」

自分が苦心して作った楽曲を、誰かに聴いて貰いたいとでも言うような口振りである。

「あぁ、聞いてやる。話したくて仕方ないんだろう」

悟郎としても、なんとか時間稼ぎがしたい。

「ご配慮有難うございます。それでは先ず、何故、東郷を殺したか説明しましょう。東郷は私を子会社に追いやり、あの手この手で、私を退社するよう仕向けました。しかし、私は意地でも会社は辞めないと決意し抵抗したので、会社側も無理やり辞めさせることは断念しました。その代わりに徹底的に無視する策に出たのです。捨て置かれたのです。私は、まさに、社畜でした」

「それを恨んで殺したのか?」

「二〇歳近くも年の離れた紗希さんを、強引に自分のものにしたのも許せないことです。だから、いつか殺してやると心に誓い、色々と計画を立てました。社畜だって夢は見るんですよ。復讐と言う甘い夢をね」

「俺には理解できない」

「ドリーム・カム・トゥルー、夢は必ず叶えられるって言うじゃないですか。私の夢もいつか実現すると信じて、辛い日々をやり過ごしていたんです」

「常軌を逸している。あんたは殺人に取り憑かれているだけだ」

殺すことを生き甲斐にするなんて、狂気以外何物でもない。

「あなたのそのご指摘は、甘んじて受け入れます。それはともかく、東郷をどのように殺したかですが、これは簡単ですね。東郷をこのビルに誘き出し、七階のあの窓から突き落としたんです。苦心したのは、このビルに如何に誘い出すかという事でした」

暗闇に中、憑かれたかのような上月の声が、少しずつ近づいてくる。

「私は周到に計画を巡らし、東郷が罠にかかるのを待ったのです。ええ、それは辛抱強くね。まず私がしたのは、紗希さんと桐野が不倫していると東郷に思わせることでした。紗希さんと桐野の不倫に関する匿名の手紙を何度も送り付け、その手紙には、二人が密会していると思われるような写真も同封しました。社内に噂も流しました。そうしているうちに、高速道路を走行中の運転手が失神すると言う、あの事故があったのです。その話を聞いたとき、これは千載一遇のチャンスだと直感しました。東郷は、紗希さんと桐野が車に一緒に同乗していることを知って、今まで以上に疑惑の念を強めているに違いないと踏んだのです。そこで、決定的な証拠写真があると言って、あの日、旧社屋ビルに誘き出しました。この場合も、金が目的と見せかけたのが功を奏しました。金銭目的なら、自身の身の危険には注意が行かないものですからね」

「東郷社長は来ないとは思わなかったのか?」

「そこは賭けですよ。実を言うと、来る、来ないはヒフティ・ヒフティと思っていました。あの夜、物陰に隠れて長い間待ち続けたんですが、それはそれで、とても充実した時間でした。そして、私は賭けに勝ったんです。東郷はやってきました」

「あっ!くそ!」

右腕に鋭い痛みが走る。

「メスがどこかに当たったようですね。致命傷でないといいのですが」 

「ほんのかすり傷だ」

「それは良かった。あっさり死なれては張り合いがありませんからね」


 小さな炎が辺りを照らした。悟郎がライターを点火したのだ。悟朗は右手に持ったライターを前に突き出し、左手で、血が流れる上腕部を抑えた。

「おやおや、今度はライターですか? どうせ使い捨ての安物でしょう。すぐに燃料切れですよ」

炎の光の中に、上月が現れる。右手にメスを握っている。

「それ以上、近づくな」

「おや、腕に傷を負ったようですね」

傷ついた手が震えて、ライターの火が消える。

「ほほ、もうガス欠ですか。いやに早いですねえ」

震える手で、何回か点火してやっと火が付く。悟郎は炎が消えぬ間に、床に散らばっている紙屑を拾い上げ、火をつけた。紙はめらめらと燃えて灰になる。悟郎は、とにかく明かりが欲しくて、辺り一帯に散乱する紙屑を搔き集めて火をつけた。それは、小さな焚火となって周囲を照らす。悟朗は、更に紙屑を集めて火に投じる。炎はかなり大きくなるが煙が出て、悟郎は咽る。

「いろいろと考えますね。でもこんなところで焚火をしてもらっては困ります」

「そうかい、困るのか。それなら、もっとやってやろうじゃないか」

悟郎は、周囲に積んである段ボールから書類を引っ張り出して炎に投じたり、周囲に垂れ下がっている襤褸布などを放り込こんだりする。炎は更に大きくなり天井に届く勢い。煙がもうもうと発生し充満してくる。

「やめろ。それ以上燃やすと本当の火事になる。私は逃げ出すことができるが、あなたは逃げられない。ここで焼け死ぬぞ!」

「構わない。あんたに切り刻まれて死ぬより焼け死んだ方がましだ。焼け跡から死体が二つ見つかりゃ、立派な殺人事件だ。あんたは間違いなく逮捕される」

「さぁそれはどうでしょうかね。ともかくこれ以上ここにはいられません。私はこれで失礼しますよ」

扉が開閉する音がした。上月はここから逃れ出たのだろうとホッとするも、煙が濛々と立ち込め、息をすることも出来なくなってきた。悟郎はハンケチで口を押え、姿勢を低くして地下の非常出口を探すが、炎と煙は増すばかりである。意識が遠のき、悟郎はその場に倒れ込んだ。


               ◇◆◇


 紗希が、悟郎よりも四十分ほど遅れて、旧社屋ビルに到着した。暗証番号を入力して通用口から館内に入る。エントランスホールは静まり返っており、人影はどこにも見当たらない。田上も、悟郎もそこにいないことが不安を煽る。七階に行ったのかと思いエレベーターに乗ろうとして、その脇の内階段の扉が開いているのに気付く。地下の灯りが点いている。紗希は逸る気持ちを抑えて、慎重に一歩一歩、地下への階段を下りた。


 地下のエレベーターホールも無人であった。しかし微かだが、扉の向こうから、人の話し声が聞こえてくる。そっと扉に近づき耳を当て、中の様子を伺う。

悟郎と上月らしい声が聞こえるが、何を言っているのかまでは分からない。紗希は、もっとよく声が聞こえるように、扉をわずかに開けた。話が聞き分けられるようになり、紗希は戦慄した。上月の話すことは、あまりにも恐ろしいことだったからである。

 悟郎がライターで紙屑に火をつけ、次第に燃え広がるのが見えた。一刻も猶予がならない。史郎に助けを求めようと、紗希は急いで一階に上がり、スマホを取り出し電話した。

〈お願い出て〉

願い空しく留守電になる。

「紗希です。今、旧社屋ビルにいます。矢吹さんが危ない。警察に連絡して」

必死の思いで、スマホを操作し、メッセージを残した。そして、守衛室のロッカーから地下脱出口の鍵をとると、館外に走り出た。


 地下非常出口に鍵を差して扉を開け、地下に入る。煙がどっとあふれ出てくる。一瞬ひるむが、扉の奥に向けて叫ぶ。

「矢吹さん、悟郎さん、いるなら返事をして!」


               ◇◆◇


 気を失いかけた悟郎の耳に、何か聞こえる。声がする方に、這って進む。新鮮な空気が流れ込んでくる。

「ここだ、ここにいる」

紗希は床に倒れている悟郎に走り寄り、抱え起こす。

「悟郎さん、大丈夫?確りして」

「あぁ、大丈夫だ」

「歩ける?早くここから逃げなきゃ」

紗希は肩を貸して、悟郎が立ち上がれるよう支える。悟朗はどうにか立ち上がり、二人は縺れるようにして地上に出た。そして、二人、支え合いながら、焼却炉の近くまで来て倒れ込んだ。


「血が流れている」

紗希はハンケチで、悟郎の上腕部をきつく縛る。

「上月にメスで切られた」

煙で痛めた悟郎の声は、しわがれている。

「紗希さんにとって辛い知らせがある」

告げるのは悟郎にとっても辛い。

「兄さんが死んだ。東郷社長も桐野常務もみんな、上月に殺された」

紗希はあまりの衝撃に、声を上げることもできない。その眼に涙が溢れだした。


 この間にも旧社屋ビルの地下室の火は燃え盛り、一階の窓からも小さな火の手があがり、寄り添う二人の姿を照らした。しかし、ビルの壁から少し離れた焼却炉の裏側は暗い。その暗闇の中に蠢く人影があった。

 その人影は、悟郎と紗希の背後に忍び寄り、手にしたメスを振りかざした。紗希が気配を感じて顔をあげる。

「危ない!」

悟郎は紗希の叫び声に辛くも反応して、体をかわした。悟郎に向けて差し出されたメスは、わずかにそれる。手術用のガウンを身に着けた上月は、冷徹な外科医のように無表情で、更に迫ってくる。悟郎は気力を振り絞り立ち上がり、紗希をかばって身構えた。

「この火事だ、もうすぐ消防と警察がやってくる。どうせ逃げ切れない。あきらめて自首しろ」

遠く、複数の緊急車両が発するサイレン音が聞こえる。

「おっしゃる通りです。どうせ逃げ切れません。それなら、ついでに、あなた方も殺してしまおうって思ったわけですよ」

「罪をさらに重ねるつもりか。いいかげんあきらめたらどうだ」

上月は襲撃の手を緩めようとしない。悟郎と紗希は追いつめられて焼却炉を背にする。

「私はね、東郷、桐野、田上の他にも沢山の人を殺してきたんです。捕まれば当然死刑です。あなた方を殺しても、あきらめて自首したとしても、いずれにせよ死刑は免れないのです」

上月が繰り出したメスが悟郎の腿を傷つける。ピアノ線で痛めた足首、メスで切られた上腕、満身創痍となった悟郎が、もはやこれまでかと、覚悟を決めたその時、駆け寄ってくる複数の足音が聞こえてきた。


「あそこだ!あの焼却炉のところに誰かいるぞ」」

「後ろに回れ、取り囲むんだ!」

口々に叫びながら警官たちが、周囲を取り囲んだ。

「動くな!警察だ、武器を捨てろ」

息を切らして駈け付けた我妻が、立ち竦む上月に向けて一喝した。その姿を見た途端、緊張の糸がぷつりと切れ、悟郎は意識を失った。




エピローグ


 気が付いて目を開くと、先ず眼に映ったのは、白い天井であった。首を少し左右に回すと、仕切りのカーテンや、点滴のスタンドが眼に入る。

「おう、気が付いたか?」

声のする方に顔を向ける。我妻刑事の顔が間近にある。

「なんだ、我妻さんか」

「なんだとはなんだ。俺で悪かったな」

「もう助からないと思ったのに、俺、生きているんですね」

「危機一髪のところで助けてやったのは、この俺だ。日本橋警察署がすぐ近くだったから、何とか間に合ったんだ」

悟郎は、首を回して辺りを見渡す。

「残念だな。紗希さんはいない」

「はぁ、ここは一体どこですか?」

「救急車で運び込まれた病院だよ。傷は大したことなかったが、有毒な煙を吸ったのが何やら大変だったらしい」

左の足首と太股、それに右の上腕が包帯でがっちり固められている。

「そう言われてみれば、今も喉が痛みます。それより紗希さんは、無事ですか?」

「紗希さんは、別の病院で療養中だ」

「えっ、どうしたんですか。怪我かなんか?」

「いや、そうじゃない。紗希さんも煙を吸ったんで、医者の勧めで入院したんだ。でも心配ない。今日、明日にも退院するそうだ」

「それならよいのですが、あぁそうだ、上月はどうなりました」

「自分の胸を刺したが、すぐに救急搬送して、一命をとり止めた。回復次第、拘留の上、送検する」

「そうですか」

「まぁなんだ、警察にすぐ連絡しないなど問題無きにしも非ずだが、あんたのお陰で、俺が担当する殺人事件が、一挙解決、犯人も確保出来た。警視総監賞は間違いない」

「それはよかった。そのうちあの銀座のクラブでお祝いしましょう」

「おう!望むところ、ウエルカムだ」

「あなたの驕りでね」

「うーむ、それは・・・まっ、いいか」


我妻が去り、入れ替わりに史郎がやって来た。


「なんだ、元気そうだな」

「ご挨拶だな。何が元気なものか、大変だったんだぞ」

「さっきここにいたのは、我妻刑事?」

「あぁ、今度、彼の驕りで飲むことになっている。お前も一緒にどうだ?」

「あの刑事なら面白そうだな。いやそんなことはどうでもいいんだ。今日はお前に聞きたいことがある」

「なんだ、急に真面目な顔して」

「お前、約束破って抜け駆けしたろう」

「約束? 約束っていつかのランチの時のアレか? 」

「何とぼけているんだ。紗希さんのことだよ。二人は好い仲なんだろう。白状しろ」

「うーん、いつとはなく、そんな仲になったみたいだな」

「この裏切り者が、どんと豪勢に奢れよ」

史郎は、それだけ言うと、悟郎の返事も待たずに、さっさと病室を出て行った。


                               ~第1話 完~


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