一夕会・陸軍学閥エリートたちの「満州事変」 ③ (人物別説明版)
川田穣『昭和陸軍の奇蹟 永田鉄山の構想とその分岐』(中公新書)を中心に、一夕会の石原莞爾や板垣征四郎、永田鉄山らが主導した「満州事変」について、個人別の説明のまとめ。
◆ 「満州事変」の顛末 ③ (人物別説明版)
● 満州事変における、一夕会・中堅幕僚グループと宇垣派・軍上層部との争い
一般的に満州事変は、軍中央の意向を無視した関東軍参謀の石原莞爾や板垣征四郎らによる暴走だったと評されることが多いが、しかしより厳密には、「事変不拡大方針」を打ち出した軍上層部を、現地の関東軍だけでなく、そのとき陸軍中央にいた永田鉄山ほか、石原・板垣らと同じ「一夕会」に所属する中堅幕僚たちらと一緒になった上で、内閣の決定に従って不拡大方針を受け入れた長州閥宇垣派トップ(南陸相、金谷参謀総長ら)の決定を覆そうとして行われた共同犯行によるものだった。
“ 川田穣『昭和陸軍の軌跡』P.60より
「なお、満州事変について、一般には関東軍に陸軍中央が引きずられたものとの見解がある。だが、これまでみてきたように、関東軍に引きずられたといより、中央の一夕会系中堅幕僚グループが、それに呼応し陸軍首脳を動かしたというべきであろう。したがって、満州事変は、石原・板垣らの関東軍と、陸軍中央の永田・岡村・東条ら一夕会系中堅幕僚グループの連携によるものだといえよう」 ”
満州事変はその後、不拡大方針を最後まで変えなかった若槻礼次郎内閣(立憲民政党)が総辞職に追い込まれた後、満州国建国を求める犬養毅内閣(立憲政友会)の誕生によって事後承認されることとなるが、その若槻内閣の総辞職も、直前に関東軍による「錦州爆撃」や、国内で起こった陸軍現役将校である橋本欣五郎中佐らが若槻内閣打倒を画策して起こそうとしたクーデター未遂事件(「十月事件」)の発生が非常に強い影響を与えた。
「錦州爆撃」は、そのころ、事変を南京国民政府から国際連盟に提訴され、日本に対する国際的な批判が高まる中、不拡大声明を発表した若槻内閣と国連との交渉をブチ壊しにするために石原莞爾が行ったもので、「十月事件」もやはり、事変不拡大に撤しようとする若槻首相を直接に暗殺までしようと計画されたものだった。
永田鉄山はさすがに十月事件には関与してはいなかったが、
「抜かずに内閣にすごみをきかせる方が得策だ」(川田穣『昭和陸軍の軌跡』P.54)
との発言をしていたという。
そしてこの後、増幅する軍部の不満に対し、若槻内閣でも軍部との提携を考えた挙国一致内閣に転ずるべきだという意見を巡って「閣内不一致」となり、若槻内閣は総辞職へと追い込まれる。
「昭和の前半というのは、裏から見ると、テロの脅威に責任者が屈していった過程で、つまりテロによる威嚇で動いていった歴史だ」(秦郁彦)
つまり「満州事変」とは、「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じた「軍人勅諭」の教えにも反し、正規の軍人が堂々と、合法・非合法手段を問わず、その武力を用いた様々な手段を通じて、軍人の求める要求を政治の世界に反映させようとしだした「軍ファシズム」時代突入への始まりとなった事件だった。
それは実際、十月事件を起こした橋本欣五郎中佐の、
「吾人固より軍人にして直接国政に参画すべき性質に非ずといえども、一片皓々たる奉公の至誠は折に触れ時に臨みてその精神を現わし、為政者の革生、国勢の伸張に資するを得べし」(田原総一郎『日本の戦争』P.270)
といった「桜会」結成時における設立宣言の言葉によく表されている。
※ 「東北三省」(旧満州)周辺地図
※ 「東北三省」(旧満州)地形地図
● 満州事変発生時における、それぞれの人物たちの配置状況
・陸軍 長州山県系門閥グループ ① (宇垣派)
・陸軍 長州山県系門閥グループ ②(宇垣派)
・【宇垣一成】大将 (朝鮮総督、陸士1期、陸大14期)
歴史評論家の倉山満氏曰く「政界の惑星」。大正~昭和初期にかけて、戦前の日本史の重要な場面で常に存在感を示しながら一度も総理にはなれなかった男。しかし本人にしてみれば「政界の彗星」だったに違いない。
大正末年から昭和初期にかけて、清浦・加藤高・若槻・浜口の四内閣で陸相を努め、軍縮を進めつつも、軍の近代化と「国家総動員体制」の構築に向けて力を尽くした。
また、宇垣は軍人としてだけでなく、政治・外交能力にも秀で、自ら国家を担う器だとの強い自負を持った自信家であり野心家だった。(ただし誠実さに欠けるところがあり、政治家としての信用度においてイマイチで、それが彼の総理就任を阻んだ)
満州事変時には朝鮮総督を努めていたが、朝鮮総督は次期首相候補が任されるポジションだった。
宇垣は遠く朝鮮にいながら自派の南陸相や金谷参謀総長を通じて中央政界に影響力を持っていたが、政党政治家寄りだった彼ら閥族派の行動に反発した一夕会の中堅将校グループは、独自に荒木・真崎・林ら三将軍を学閥派のトップに戴いて宇垣派に対抗。さらに「満州事変」を起こして宇垣派軍首脳を振り回し、若槻内閣倒閣後の犬養内閣時には、遂には宇垣派を軍中央から一掃するに至る。
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・陸軍 学閥派トップ三将軍
・【荒木貞夫】中将 (若槻内閣で教育総監部本部長、犬養内閣で陸相就任、陸士9期、陸大19期)
一夕会の若手将校たちから、宇垣派の門閥グループに対抗するために担ぎ上げられた三将軍のうちの一人。
荒木貞夫は陸大の出席卒業者で、その点を見込まれ門閥に対する学閥派のリーダーとして選出され ながら、荒木自身は右翼人脈と強いつながりを持つ大変な皇道精神主義者で、好んで「皇軍」「皇国」という言葉をつかい、「一切の問題は皇道精神で解決できる」、「大御心に添って軍の統一をはからなければならぬ」と説いて陸軍若手将校たち(特にノンキャリアの「隊付け」と呼ばれる現場指揮官の下級将校たち)に絶大な人期を獲得し、荒木将軍のこの皇道精神主義が、満州事変後に形成される「皇道派」の語源にもなった。
荒木将軍は若槻内閣倒閣後、犬養内閣で陸相に就任すると、盟友の真崎中将を台湾から参謀次長に呼び戻して、遂には陸軍中央から宇垣派を一掃し、一夕会のメンバーを中心にした学閥派の面々で人事を一新することに成功する。
しかしこのとき荒木が行った人事は、同じ一夕会の中でも土佐出身の者たち(小畑敏四郎大佐、山下奉文大佐、山岡重厚大佐など)や佐賀出身の者たち(牟田口廉也中佐、土橋勇逸中佐など)を重要するもので、これが一夕会を分裂させ、荒木・真崎ら「皇道派」と永田・東條・武藤ら「統制派」の対立を生むきっかけとなってしまう。
が、この人事はむしろ、永田ら一夕会主流派を崩し、荒木ら皇道派が学閥派グループ内でヘゲモニーを獲得することになった人事だたっという。
ところがその後、荒木は陸相としては蔵相の高橋是清に全く政論で歯が立たず、予算を確保できず、陸軍若手からの信望を失う結果に終わる。
そしてしれから予備役に回った後、今度は日中戦争期間中の第1次近衛内閣・平沼内閣で文相となるが、ここでも得意の皇道精神普及のために力を尽くし、国民精神総動員の委員長も務め、戦時下での思想面における国民の軍国化教育に意をくだいた。
荒木は、軍人としては対ロシア戦の専門家で、外国人記者団に、「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」(竹槍三百万論)などと口にしてア然とさせるなど、人気取りのための荒唐無稽な発言も多かったが、一方で軍の近代化を進めようとするなど、軍事に関しては現実派だった。
この点、むしろ統制派のほうが、構想は壮大でも、ではそれを実際にいざ実行するとなった場合に、むしろ非現実的な側面が強かった。
荒木本人の意識では、青年将校を煽って世直しや政治改革を煽っていたのは、あくまで軍のトップとして下のノンキャリアの者たち信頼を獲得せんがためのものだったといい、また近代軍隊に反する精神面の押し出しも、侵略思想の教育・プロパガンダではなく、それはあくまで「侵略ではなく皇道であって、侵略思想とは正反対の日本古来の精神主義である」というつもりでやっていたことだという。
つまり、皇道派軍人としての彼らは、日本が無謀な侵略戦争をするつもりでやっていたことではなかったということだが、しかし影響を受けた軍人や国民は彼らの想像を超えて、純粋思想貫徹の途を突き進んでいってしまったということなのかもしれない。
これは一方で、戦略を優先させるが余り、その戦略構想が、現実的な戦力問題や実現可能性を無視して飛び越え、無謀な対外自滅戦争遂行へと向けて突き進んでいった統制派の末路と対比をなしている。
・【真崎甚三郎】中将 (台湾軍司令官、陸士9期、陸大19期)
荒木貞夫と共に、一夕会の若手将校たちから、宇垣派の門閥グループに対抗するために担ぎ上げられた三将軍のうちの一人。
荒木にとっての盟友というべく存在で、荒木と同様、精神主義・日本主義の教育に熱心で、また、血気の隊付け青年将校たちの革命気分を煽ってカリスマ的な人気を誇った。
しかし真崎のそうした右翼的な態度は、天皇およびその側近や元老たちからとにかく嫌われまくられ、満州事変発生時も真崎は、宇垣派の南次郎陸相や金谷参謀総長から、「真崎というやつは青年将校を煽っていて危ないぞ」と警戒され、台湾軍司令官に飛ばされていた。
ところが、荒木同様この真崎もまた、青年将校をさんざん煽っておきながら、本人は至って現実主義者で、犬養内閣になって荒木陸相から参謀次長として呼び戻されたときも、真崎は、満州事変の原因を、国家革新の熱病に浮かれた軍部の幕僚連が、理想の国家を満州に作り、そこから逆に日本に及ぼして日本を改造するために引き起こされたものと見なし、事変不拡大・満州事変は満洲国内でおさめることを基本方針として収拾にあたったという。→「真崎甚三郎 - Wikipedia」
関東軍の板垣。石原らによる陰謀工作から発生した「第一次上海事変」でも、真崎は軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵したといい、また、国連脱退後の「熱河討伐」においても、真崎は、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行されるという建前から、万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえたという。
統制派は、下級士官たちのテロや軍規違反を軍の統制を乱すという観点から決して許さなかったが、荒木や真崎も、青年将校たちを煽ってもテロ行為までは認めなかった。
満州事変後の皇道派と統制派の分裂は、思想上の分裂によるものではなく、単純に満州を越えて支 那まで満州と同じように侵略するかしないかの違いだった。
満州事変終結後に、そのまま北進か南進をかを巡って皇道派と統制派の激しい争いとなり、統制派は永田鉄山を皇道派青年将校に殺害されながらも、「二・二六事件」後に皇道派を陸軍中央から排除し、その後、改めて東條・武藤た統制派幕僚たちの手によって「支那事変」が決行されてゆくという展開になる。
・【林銑十郎】中将 (朝鮮軍司令官、陸士8期、陸大17期)
荒木・真崎将軍と同じく、一夕会に担ぎ出された三将軍のうちの三人目。満州事変では朝鮮軍司令官として、なんと内閣の承認も天皇の許可も得ることなく、独断で朝鮮から越境し、満州内へ関東軍の応援に駆けつける。
満州事変後、発生した皇道派と統制派との対立で、予算を獲得できず信用を失って辞任した荒木陸相に代わって岡田内閣で陸相に就任。
しかし陸相に就任した林は統制派の永田鉄山を陸軍省軍務局長に任命し、永田と一緒になって、そのとき利参謀次長から教育総監になっていた真崎甚三郎を軍中央から追放する。林は林で荒木や真崎に個人的な恨みが生じていたという。
・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・皇道派グループ)
・【山岡重厚】少将 (歩兵第1旅団長、陸士15期、陸大24期)
満州事変時は、歩兵第1旅団長で直接の出番はなし。皇道派という名前が持つ後世一般的なイメージに反し、彼も、通信兵・砲兵・衛生兵・工兵・空兵といった特殊兵科の充実など軍の近代化を推進した一人だという。
荒木陸相就任後に荒木から重用された山岡・小幡・山下らは皆、高知県出身で、一夕会内におけるこの土佐系の人物たちが、満州事変後に現われる「皇道派」グループの主体を形成していく。
・【小畑敏四郎】中佐 (陸軍大学校教官、荒木陸相時に参謀本部作戦課長就任、陸士16期、陸大23期)
ロシア大使館付武官時代に永田鉄山、岡村寧次ら「一六期の三羽鳥」とドイツのバーデンバー-デンで陸軍の門閥打破と国家総力戦体制構築に向けて誓いを交わした一人。
荒木貞夫と同様、対ソ戦の専門家で、同じく対ソ戦戦略の専門家だった一夕会の鈴木率道と共に、大正15年(1926年)には「統帥綱領」の再改訂に携わった。
軍政の権威だった永田に対し、小畑は軍令(作戦)のエースだったという。
小畑は対ソ戦の専門家として、あくまでロシアを主敵とし、中国侵略には手をつけるべきではないとして、満州事変後、続けて華北分離工作へと移行しようとする永田鉄山と決裂して袂を分かつ。そして対ソ戦を重視する荒木・真崎・小畑・鈴木・村上らで「皇道派」が形成され、満州事変に続けて支那事変決行をもくろむ永田・東條・武藤ら「統制派」とで激しい内防抗争に発展する。
小畑は荒木中将が陸相になったときに参謀本部作戦課長に呼ばれるが、荒木陸相辞任とともに陸大幹事、陸大校長となり、さらにその後、皇道派青年将校が起こした「二・二六事件」失敗後の粛軍人事で予備役に回され、軍からは追われる結果となる。
・【山下奉文】大佐 (歩兵第3連隊長、荒木陸相時に陸軍省軍事課長、陸士18期、陸大28期)
荒木・真崎・山岡・小畑・鈴木率らと共に皇道派の主要メンバー。統制派の東條英機とは最初は仲が良かったが、「二・二六事件」で山下も青年将校を煽った一人と東條から判断されて敵対関係となる。
「二・二六事件」後の粛軍人事で粛正されそうになるが、中立派だった川島義之陸相の助けで歩兵第40旅団長への転任で済まされる。
日中戦争では第4師団長として転戦し、太平洋戦争開戦時には第25軍司令官に親補され、マレー作戦(E作戦)を指揮し、電撃戦を展開してイギリス軍を次々と撃破しマレー半島(イギリス領マラヤ)を制圧。その活躍から国内で「マレーの虎」と賞賛され国民的英雄となる。
大戦末期にはフィリピン防衛のため再編成された第14方面軍司令官に任命されるが、そのとき東條英機と対立して軍の中央から追われていた統制派の武藤章を第14方面軍参謀長として迎え、共に戦うこととなる。
・【鈴木率道】中佐 (陸軍大学校教官、荒木陸相就任後に参謀本部第一課長、陸士22期、陸大30期)
荒木・小畑と同じく対ソ戦略のエキスパートで、陸大ではあの石原莞爾を抑えて主席で卒業。鈴木は、大正15年(1926年)に、に抜擢され、荒木貞夫参謀本部第一(作戦)部長、小畑敏四郎参謀本部作戦課長の下、参謀本部作戦課課員として「統帥綱領」の大幅改訂に携わる。
荒木貞夫少将はその鈴木少佐の能力に感嘆し、以後、小畑中佐は「作戦の神様」、鈴木少佐は「作戦の神童」と呼ばれたという。
満州事変後の皇道派と統制派の争いでも、鈴木は荒木・真崎・小畑らと組んで永田・東條らと激しく争うが、「二・二六事件」後の粛軍人事で陸軍航空部のほうに飛ばされ、東條英機が首相を務めていた昭和18年(1943年)に予備役送りとなる。
・【村上啓作】 (陸軍大学校教官、荒木陸相就任後に参謀本部作戦課長、陸士22期、陸大28期)
荒木・小畑・鈴木率らと同じロシア駐在武官勤務を経て、「統帥綱領」の改訂版となる「統帥参考」の編集に携わる。
満州事変発生時には、同じ一夕会の永田鉄山陸軍省軍事課長の下で軍事課員として事変に関わる。
「二・二六事件」後は陸大教官に回されるが、太平洋戦争期間中の昭和18年(1943年)3月~12月には有名な「総力戦研究所」の五代目所長に就任したりしている。
終戦間際に第3軍司令官として満州へ出征するが、戦後はシベリア抑留となり、ハバロフスク収容所で病死。
・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・統制派グループ)①
・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・統制派グループ)②
・【永田鉄山】大佐 (陸軍省軍事課長、荒木陸相就任時に参謀本部第二部長、陸士16期、陸大24期)
満州事変のころまでは、永田は同じ16期の小畑敏四郎や他の一夕会の仲間たちとも良好な関係を保っていた。しかし満州事変からその先をどうしていくかということになったとき、意見が決定的に分かれた。
永田鉄山は、若槻内閣から代わった犬養内閣によって満州国が正式承認された後の昭和7年(1932年)4月に、陸軍省軍事課長から参謀本部第二(情報)部長に任命されるが、作戦を担当する第一部長は古荘幹郎という中立派の人物で、実質はその下の参謀本部第一課長となった鈴木率道中佐と参謀本部第三(運輸・通信)部長になった小畑敏四郎少将という荒木と同じ対ソ戦略のエキスパートたちによって握られていた。
昭和8年(1933)5月31日に「塘沽停戦協定」が結ばれて満州事変が終結する直前の4月中旬から5月上旬にかけて、陸軍省と参謀本部の局長、部長、課長が集まって、合同の首脳会議が開かれ、この席上で対ソ戦略をめぐり、小畑の「予防戦争論」と永田の「支那一撃論」で激論となる。
小畑は、ソ連を喫緊の難敵とみなし、ソ連が次の「第二次五ヵ年計画」完了で国力をさらに充実させる前に、昭和11年(1936年)前後を目途に、対ソ開戦を行う必要があると主張した。
対して永田は、第二次五ヵ年計画が終了してもその数年後まではソ連の戦争準備は完了せず、戦争遂行の力を発現する事態にも至ることはないと。そのため対ソ開戦を時期まで設定して無理に戦争することを決定してしまうことは妥当ではない、とした。
それにソ連と戦うなら支那と協同しなくてはならなくなるが、その前に一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならないと。
また、永田の計算では、満州の地下資源は乏しく、その農業開発だけだと、日本はソ連には戦力的に対抗ができない。そのため「北支(山西省に石炭、河北省に鉄が出た)・中支」までの豊富な地下資源と人的資源を獲得した上で、満州と北支・中支の土地や資源とを一体的に用いた開発を進めることが必要だとも訴えた。
永田は、対ソ戦に踏み切るとしても、①満州国経営の進展、②国内事情の改善、③国際関係の調整、などの後に実施すべきだと主張した。
獲得した領土で開発を進め、国内では「国家総動員体制」を構築し、満州に五族協和の王道楽土を建設して、侵略だと非難してくる国際社会の評価を覆して日本の信用を取り戻さねばならないと。
また、永田はもうこの時点で「日ソ不可侵条約」の締結に踏み切るべきだとも主張した。それと、満州を得たことで、ソ連が満州内に作っていた北満鉄道の買収も提言した。
これに対し小畑や荒木は、支那を叩くといっても武力では簡単には片付かない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になると反論した。
ソ連との不可侵条約も、やはり共産主義を恐れる米英との関係悪化を招く。それと北満鉄道の買収も、買収の利益によってソ連を強化させることにつながるため不可だと。
しかし最終的にはすべて荒木・小畑派の要求通りとなるのだが、ところが、続く政府の「五相会議」(斎藤首相以下、外相、蔵相、陸相、海相)では、荒陸相の対ソ戦争準備方針とその為の軍備拡張の主張は、高橋是清蔵相、広田弘毅外相らによって抑えられ、荒木は予算を獲得することに失敗してしまう。
この失敗は荒木の軍内での評価を矯激に低下させ、荒木は責任を取るように、病気を理由に陸相を辞任させられる結果となる。
これでそれまで、「清盛の専横」とまで言われた荒木・真崎派による陸軍ポスト独占の時代が終わり、同時に永田は、辞任した荒木に代わって新陸相となった学閥派三将軍のもう一人・林銑十郎大将を担いで、軍内から荒木・真崎派の一掃を図る。
そしてそれにより、荒木退任後も、引き続き陸軍三長官のポストである教育総監の身分に留まっていた真崎甚三郎大将はその地位から蹴落とされ、ほどなく予備役に追い込まれることとなる。
しかし皇道派青年将校たちの絶大な信頼を得ていた真崎を退任に追い込んだことは、永田にとっての仇となり、皇道派の青年将校・相沢三郎中佐によって、永田鉄山は執務中に襲撃を受けて斬殺される悲劇の末路を迎える。
・【東條英機】大佐(陸軍参謀本部編制動員課長、陸士17期、陸大27期)
ドイツのバーデンバーデンで小畑・永田・岡村らの三人が長州閥打倒の盟約を交し合ったとき、東條も駐在武官としてスイスに赴任していて、岡村に呼ばれて一緒に盟約の仲間に加わることとなった。
東條の父・英教は陸大一期の主席卒業者でありながら、陸軍のドン山県有朋に向かって直接、長閥の弊害を訴えたことによってそれからずと干されてしまい、東條は誰よりも長州派閥を憎むところが激しかった。幼年学校時代に講演に訪れた長閥の寺内正毅陸相を、「これが父親をいじめている張本人か」と、ずっと憎悪の目で睨み続けたこともあったという。
東條は柔和な外見とは裏腹に大変な激情家で、小学校時代からずっと負けん気が強く、数人の相手にも怯まず向かって喧嘩を挑みかけるような武闘派だった。
そうした気性は長じて軍人になってからも変わらず、満州事変のとき、東條は参謀本部編制動員課長として、盟友の永田鉄山陸軍省軍事課長と組んで事変拡大のため陸軍上層部の説得に奔走するが、若槻内閣倒閣後の犬養内閣で、荒木陸相と真崎参謀次長が佐賀系の山岡・小畑・鈴木率らを優遇して皇道派を形成し、永田派との対立を深めるようになると、東條は敵意を剥き出しにして小畑参謀本部第三部長やや鈴木率道参謀本部作戦課長、山岡重厚陸軍省軍務局長らと、連日、面と向かって侮り合いの喧嘩を繰り広げたという。
そのため東條は皇道派に睨まれて第二十四旅団長として九州の久留米に飛ばされるが、そこで永田鉄山斬殺事件が発生する。事件後東條は関東憲兵隊司令官に任じられて満州に赴き、憲兵組織を積極活用した満州の赤化防止と治安維持強化に励む。またそのとき「二・二六事件」が東京で発生するが、東條は満州の地で率先して皇道派危険分子の取締りを徹底して、事件後の高い信任を得る。
それから、陸軍中将に昇進して昭和12年(1937年)に、関東軍参謀長に任命されるが、しかしここで東條生来の、独断専行癖が飛び出す。東條は誰よりも天皇に対する忠義心が厚く、軍規に対して厳格な性格でありながら、時には天皇の大権に触れるような独断専行を平気で行う悪癖があった。それも満州事変のときから、一度や二度のことではなかった。
「軍人は何より決断を尊ぶ」というのが彼の信念で、曖昧な両論併記を許さず、また甲論乙駁も好まず、上からの命令に生整然と下の者たちが従うことを求めた。 そのため、下士官たちに改革の気分を煽って軍内に下克上の雰囲気を蔓延させるかのような荒木・真崎大将ら皇道派士官たちの行動を嫌った。
ところが、で、ありながら東條自身は平然と天皇の大権と軍の統帥に違反するようなことをしでかす。
東條は、関東軍参謀の立場でありながら参謀本部の作戦に注文を入れるような越権行為を働いたり、反対に、軍中央からの命令がきても無視することが度々だった。
昭和13年(1938年)6月に、カンチャーズ島でソ連軍と満州国軍との間に衝突事件が発生したが、軍中央からは現状維持の不拡大方針が通達された。にもかかわらずこのとき関東軍は満州事変のときと同様に、軍中央の命令を無視して一方的に砲撃を浴びせてソ連軍の砲艦を静めた。
そしてその直後に今度は「盧溝橋事件」が派生し、日本の敗戦まで長きに渡って続く「支那事変」(日中戦争)が勃発するが、するとそこでも東條は、軍中央の許可のないまま、チャハル省に中国軍が侵入してきたら脅威だとして、一支隊を送り込んだという。
その後、参謀本部からの諒解が下って、東條は3個旅団を率いて察哈爾省に侵攻し、張家口を占領する「チャハル作戦」を決行するが、やっていたことは完全に満州事変と同じだった。東條はチャハル作戦を成功させると、蒙古に三つの自治政権を成立させる。
支那事変も目的は満州事変と一緒で、何か理由を設けては南京国民政府に戦争を吹っかけ、敵を排除すれば親日政権を国民政府から切り離して独立させ、日本の傀儡にして支配下に収めようとした。
支那事変のとき、日本から蒋介石率いる国民政府に出された要求は、(一)満州国の承認、(二)容共抗日満政策の放棄、日満両国の防共政策に協力、(三)内蒙に防共自治政府を樹立、(四)内蒙、華北、華中の一定地域を日本軍が必要期間確保する、という四点だった。
これはまた、東條が師事していた故・永田鉄山が抱いていた、日本が中国に資源と市場を獲得するという彼の軍事構想を実現に移す作戦でもあった。
だが、軍部の究極の願望は「速やかなる支那殲滅」と「蒋介石の下野」にあった。そのためやはり満州事変のときと動揺、いつまでも終わらない戦争となった。常に、ついでにもうここでここまでやってしまおうと欲張って、作戦に切れ目がなくなる。
というより、本来なら、満州事変から引き続いて支那事変に突入していておかしくなかったが、そこで南進か北進かを巡って対立する皇道派と統制派の対立が発生し、永田鉄山が殺害される事件まで生じて流れてしまった。
「二・二六事件」後の日中戦争では、既に皇道派が軍中央から一掃されていて軍内に敵対派閥はいなくなっていたため、東條や武藤ら統制派の暴走を止める対抗勢力が消滅してしまっていた。
これは海軍でも同じで、かつてロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、海軍では条約をそのまま受け入れようとする「条約派」と、艦隊数を日本の要求通りにしようとする「艦隊派」に分かれて争いとなるが、ロンドン会議では条約派に艦隊派が破れた。
ところが、このときの報復で、後に艦隊派が主導した「大角人事」によって、条約派の将官が一斉に予備役に送られるという報復人事が断行された。
そしてこのとき、もし彼らが生き残っていれば太平洋戦争は違った結果になっていたかしれないというほどの人材だったという海軍の山梨勝之進大将や、堀悌吉中将が軍の現場から追われる結果となった。山本五十六中将は「(日本海軍にとって)巡洋艦戦隊(条約の7割にわずかに足りない分をこのように表現した)と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか」と言って歎いたというが、陸軍もまったく同様で、特に東條英機の行った「東條人事」においてその弊害が酷かった。
東條はまるで風紀に厳しい学校の教師のように、彼らから見て態度が悪いと思った人間は徹底して軍の中枢から排除し、また、憲兵を使って不穏分子を取り締まった。
その結果、彼の周りには「三奸四愚」と呼ばれるような無能者ばかりが集り、国策を誤る運命となった。
けれども本人たちはそれが「国防のために」正しいことだと思っているのだからしようがない。現在でも例えば保守・安倍内閣が、憲法改正・再軍備・安保法・秘密保護法・家族条項・緊急事態といった事に賛成だという議員を優先して集めたら、「魔の2回生・3回生」といった問題の多い議員の人たちが増えるようになってしまったりとか、けれども戦前の軍人たちも、軍人にして軍縮を進めるなど国を滅ぼす売国奴だぐらいに思っていた。
陸軍の宇垣一成も自ら軍縮を断行して恨まれ、遂に首相になることなく終わったが、せめて彼に自分の政策に軍の者たちを従わせるだけの信用があれば、日中戦争も上手く片付けて、太平洋戦争突入などという無謀な選択を選ぶようなことにはならなかっただろうと言われている。
東條は支な事変(日中戦争)が始まると本国へ呼び戻されるが、それは、初期の軍部の予想に反して長期戦の様相を見せ始めたことに対し、天皇と近衛首相が、陸相を杉山元から板垣征四郎に代えて事変の収拾を図ろうとしたのに対し、てあくまで軍の要求を政府に認めさせるための軍の代弁者として選ばれたからだった。
当時の陸軍省の意思とは、日中戦争を処理しつつ、国家総力戦にそなえ軍備拡充をはかり、対ソ戦と対英米戦に備えるということだった。英米に備えるというのは、日本は中国から英米資本をしめだしていたから、軍部ではいつか衝突があるかもしれないと考えた。
東條は、支那事変を収拾させようとする政府に対抗し、ソ連と英米を同時に相手にした「南北二正面作戦」への突入も覚悟した上で、支那事変の貫徹を訴えた。
東條はこの抵抗もあって、すぐに陸軍次官を辞任させられるハメになるが、しかし自らの辞任と引きかえに、支那事変不拡大論者の多田駿参謀次長を同時に退任に追い込んで自らの使命を全うした。
その後、第二次近衛内閣では再び軍中枢に呼び戻されて遂に陸相にまでなるが、やることは変わらず、日米衝突がいよいよ現実となってきた近衛文麿首相が弱気になって支那からの撤兵を考慮しはじめると、東條は、「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と激怒して反対し、閣内不一致で第二次近衛内閣は総辞職に追い込まれた。
東條は天皇の持つ大権に対する姿勢でも、東條にとって大事なのはもはや生身の天皇ではなく、天皇とは美しく正しい日本の象徴であって、逆にもし天皇にして、正しい日本に相応しくない行動を取れば、それは天皇のほうが間違っているということになる。日本にとって必要なことなら、天皇は当然、それに従ってもらわなければならない。
東條が幾度にも渡って、平気で神聖不可侵の天皇の大権を犯すことができたのは、彼から見て、日本国として取らなければならない絶対の正義が基準として存在していたということだ。
そうした姿勢は、東條が嫌っていた皇道派の青年将校たちにおいて同じだったが、彼らの矛盾は、彼らの天皇に対する態度がそのまま「天皇機関説」になっていた点にある。
かつて明治時代に、大国ロシアとの戦争に、もし負ければどうするのだと不安がる明治天皇に対し、伊藤博文は、もしそのときは自分が天皇を担いでどこまでも逃げ延びると答えたというが、もし東條が昭和天皇から同じ質問をされれば、東條なら、正しい日本の行動に則して、国民と一緒に運命を共にすべきだと答えていたに違いない。が、そこまでの任には堪えられず、実際にはその前に職を辞すことになるであろうが。
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・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・関東軍メンバー)
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・陸軍 その他「一夕会」メンバー
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まだ途中ですが、さらに修正を加えながら書き足していきます。