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昭和日本陸軍の歴史  作者: 練り消し
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一夕会・陸軍学閥エリートたちの「満州事変」 ② (詳細説明版)

川田穣『昭和陸軍の奇蹟 永田鉄山の構想とその分岐』(中公新書)を中心に、一夕会の石原莞爾や板垣征四郎、永田鉄山らが主導した「満州事変」の詳細について。

◆ 「満州事変」の顛末 ② (詳細説明版)

 

● 「満州事変」の決行と、その先の「華北・華中分離工作」(支那事変、日中戦争)まで見据えた永田鉄山の軍事戦略家としての野心


 「満州事変」は昭和6年(1931年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発事件が発生したことに始まる。

 奉天特務機関長・土肥原賢ニが関東軍の司令部へと送った報せは、「十八日夜10時半ごろ、奉天北方、北大営西側において、暴戻(ひどく乱暴なこと)なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、わが守備隊を襲い、駆けつけたる我が守備隊の一部と衝突せり。報告により、奉天独立守備第二大隊は現地に向かい出動なり」というもので、爆発自体は小規模なものだったが、関東軍ではこれを南京国民政府の張学良率いる東北軍による破壊工作だと発表し、直ちに軍事行動に移った。


 これがその後の一連の「満州事変」と呼ばれる紛争の始まりとなる「柳条湖(溝)事件」発生の経緯だったが、しかし戦後のGHQの調査などにより、この事件は関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするために自ら行った自演工作の陰謀であったことが判明している。


 事件発生後、奉天独立守備第二大隊では、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺するとともに、旅順の関東軍司令部から駆けつけてきた高級参謀の板垣大佐から命じられて、柳条湖近くにあった国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」を攻撃して占拠した。


 ただし、厳密にはすべて彼らの独断であって、大元帥である天皇の命令なしで下した攻撃命令は、天皇の「統帥権」に触れる行いだった。


 しかしその後、旅順から本庄繁司令官率いる関東軍の本隊が出撃して、翌9月19日までに、奉天、長春、営口の各都市も占領したが、しかし19日の御前6時ころには、東京の金谷範三参謀総長から「不拡大方針に確定した、軍の行動派必要度を越えることなかれ」との電報が届き、関東軍の進撃はここで一旦、動きを止める。


 この事件は、一般には石原・板垣らの過激派関東軍中堅将校が、陸軍中央の命令を無視して独断専行で暴走した事件ととらえられているが、しかし実は、この事変の実行に当たっては、石原・板垣らと同じ「一夕会」と呼ばれる陸軍若手将校の集った革新グループのメンバーだった陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐、陸軍省補任課朝・岡村寧次大佐、参謀本部欧米課長・渡久雄大佐、参謀本部支那班長・根本博少佐、参謀本部欧米課員・武藤章少佐らといった者たちによって、協同して進められていた事件だったということが川田穣氏の書かれた『昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐』という本の中で説明されている。


 石原莞爾の満州事変での行動については有名で、他の媒体でもさまざまに語られているところではあるが、石原莞爾よりも世間一般的にはマイナーな、永田鉄山をはじめ、他の一夕会メンバーの者たちが、はたして一体どのようにこの「満州事変」に関わっていたのか。

 

・永田鉄山

挿絵(By みてみん)



● 実は事前に作戦の実行が陸軍中央と関東軍との間で申し合わせが交わされていた「満州事変」


 「満州事変」を直接画策し、決行に移したのは関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐および板垣征四郎大佐らだったが、しかしその約3ヶ月前の6月の時点で、そのころ満蒙の地で横行していた排日運動に対処するということを名目に、陸軍中央として、およそ一年後を目途に武力行使に出るという計画が進められていた。


 石原莞爾は個人的に、昭和5年(1930年)前後のころには既に、「謀略により機会を作成し」、「満蒙を我が領土とする」べきだとする「満蒙問題私見」を作成していた。


 しかしこの、満州問題を軍が武力で解決するという考え自体は、一夕会の前身となる二葉会、木曜会のころから受け継がれてきたもので、一夕会会員の根本博の回想によれば、昭和4年(1929)ごろには、永田鉄山、、東条英機、石原莞爾、鈴木貞一、根本博らが集り、一夕会の取り決めとして、「満蒙における中国の主権を否定」し、「張学良を武力でもって放逐」し、満蒙問題を武力で解決し、そして日本の領有とするという方針が決定され、それぞれ上司に働きかけ、軍内の空気を醸成していくということが行われ始めていたという。


 そして陸軍中央の立場では、昭和6年(1931)3月に、建川美次参謀本部情報部長の下、渡久雄欧米課長(一夕会)、重藤千秋支那課長、橋本欣五郎ロシア班長、根本博支那班長(一夕会)、武藤章欧米課員(一夕会)ら情報部中心のメンバーによって「昭和六年度情勢判断」が作成され、満蒙問題解決に向けた三つの案(1:満蒙を中国主権下での親日政権として独立させる、2:独立国家として中国の主権から切り離させる、3:日本の領地として奪い取る)が提示される。


 さらに、昭和6年(1931)6月になって、永田鉄山陸軍省軍事課長(一夕会)、岡村寧次補任課朝(一夕会)、山脇正隆参謀本部編制動員課長、渡久雄欧米課長(一夕会)、重藤千秋支那課長らによる「五課長会議」が発足し、この五課長会議で「昭和六年度情勢判断」にさらに検討が加えられて「満州問題解決方針の大綱」が決定される。

 そしてこの「満州問題解決方針の大綱」において、もし満蒙における排日運動が収まらなければ、その場合にはついに「軍事行動のやむなきに至る」ことがあるとして、今後およそ一年後を目途に、満蒙での武力行使に向けて準備を行うという主旨が決められることとなるのだった。


 なお「五課長会議」はその後、8月からは山脇に代わって東条英機(一夕会)が参謀本部編制動員課長となり、さらに今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長(一夕会)の二人が新たに加って「七課長会議」になる。


 彼ら一夕会中心の陸軍首脳が、軍部独自に兵を動かして満州の張学良政権に武力行使を強行しようとしたのには、そのころ幣原喜重郎外務大臣が進めて協調外交による対中融和政策に対する反発からだったという。

 当時、日本は、南満州鉄道に加えて新たに「満蒙五鉄道」と呼ばれる五つの鉄道線を敷設しようとしていたが、そのうち洮南-索倫線、延吉-海林線、吉林-五常線の三線は、対ソ戦対応を主眼とした陸軍側の強い意向によって計画されたものだったという。

 ところが幣原外務大臣はその三線を、対中融和政策のため、昭和5年(1930)11月14日に「満州における鉄道問題に関する件」と題する方針策示すと、日中間の「共存共栄」および中国側に対する「感情融和のため」、「支那側の自弁敷設に委せ」ることにすると決定してしまったのだった。

 これに対して陸軍省では、中国との「共存共栄」など不可能であると猛反発したが、『昭和陸軍の軌跡』の川田穣氏によれば、このときに永田鉄山ら一夕会の中堅幕僚たちは、民政党内閣の行う対中政策に、キッパリと見切りをつけたのだろうとの指摘をされている。



● 「万宝山事件」「中村大尉事件」と、相次いで起こった満州における反日事件の発生を受け、満蒙問題武力解決(満州事変)の決行が早まる


 昭和6年(1931年)6月、永田鉄山ら一夕会の中堅幕僚主導による「五課長会議」による「満州問題解決方針の大綱」の決定で、それからおよそ1年の先を目途に、満州に対する武力行使の決行が準備されることとなったが、ところがまさにちょうどその6月ごろに、満州の地で「万宝山事件」や「中村大尉殺害事件」といった、中国人による反日暴動事件が発生する。

 この事件に対する日本国内の反響も大きく、8月17日になって新聞報道が解禁になって各新聞が一斉に事件を報じると、日本国内の国民感情は対中強硬姿勢で昂ぶり、日本を一気に対外戦争容認へと逆転させる契機となっていった。


 「万宝山事件」とは、昭和6年(1931年)7月2日、中国吉林省長春市郊外の万宝山で起きた朝鮮移住民と中国農民との間で発生した衝突事件で、当時、日本の植民地朝鮮では、農民の満州移住が進められ、31年には63万人に達していたという。

 しかし、朝鮮からの移住民は日本による侵略の手先と見られ、彼らが作った灌漑用の用水路を破壊しようとした中国側農民と、日本側の武装した警官隊との間で争いになり、事件となった。


 一方、「中村大尉事件」とは、 やはり昭和6年(1931年)6月に、陸軍参謀本部員の中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長が、 北満地方で奉天軍所属の中国兵に捕えられ、スパイ容疑で銃殺されたという事件。


 当時、中華民国(蔣介石の南京国民政府)では「革命外交」と呼ばれる急進的な反日運動が展開されていて、日本との不平等条約の破棄や、日本に奪われた利権回収の実現をめざし様々な対日強硬政策が展開中だった。

 そのなかで、日本が満州に有していた旅順・大連の租借権や満鉄なども利権回収の対象とされていたといい、日本側では関東軍を中心として、満州における日本の各種権益は武力をもっても死守すべきとする議論が高まっていたという。

 そのころ「東三省」(寧遼省、吉林省、黒竜江省)と呼ばれていた満州一帯の地域は、袁世凱の北京政府から分派した奉天派(奉天軍閥)を率いる張学良によって支配されていたが、しかし張学良は昭和3年(1928年)に父の張作霖が日本の関東軍の謀略で殺害されたのを機に、彼は亡き父・張作霖から軍閥を引き継ぐとともに、日本軍に対抗すべく、蔣介石の国民政府に従うことを明らかにしたため、満州においても激しい反日排日の状況は変わらなかった。 


 そして、この「万宝山事件」や「中村大尉事件」の発生からおよそ3ヶ月ほどが経った昭和6年(1931年)9月に、遂に日本の関東軍独自の軍事行動による「満州事変」が引きこされるに至る。


 「万宝山事件」や「中村大尉事件」の発生当初、日本では、協調外交を推進していた幣原喜重郎外相の判断で、やはり外交的な解決方法が模索されるが、この決定に対し不満を募らせた関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐は昭和6年(1931年)8月12日、陸軍省軍事課長の永田鉄山宛に次のような内容の書簡を送ったという。


・石原莞爾

挿絵(By みてみん)


・外務当局の厳重抗議により迅速に事が解決するというのは空想に過ぎない。

・もしそのようなことが可能なら、数百の未決事件が総領事の机上に山積するわけがなく、満蒙問題なるものは存在しない。

・今日の満蒙問題なるものは外交交渉が無力であることから生じたものである。

・中村事件の根本原因は、洮南地方において中国側が不当に日本人を圧迫していることにある。

条約を無視して邦人の居住、営業を妨害し、洮索鉄道には日本人の乗客することも禁じられているなど、言語に絶する暴状である。

・満蒙問題の国策遂行は急速を要し、「満蒙問題解決の方策大綱」に示された「一年間は隠忍自重して待て」という中央部の意向には同意しがたい。 (「中村大尉事件 - Wikipedia」より)


 つまりこの「万宝山事件」や「中村大尉事件」の発生により、石原や板垣は満州事変の決行時期を予定より早めることにしたのだった。


 しかしこれら関東軍側の要求に対しては、永田鉄山のほうもまた、「現地〔関東軍〕がこの秋でなければダメだと云うなら現地のいうところに従うべき」(『昭和陸軍の軌跡』p.32)という発言を残していたという。



● 満州事変は単に関東軍だけが暴走したのではなく、関東軍と陸軍中央に在籍していた「一夕会」所属の中堅幕僚グループたちによる協同謀議で引き起こされたもので、現地と中央で共同して、最終的に軍上層部と政府に対し、満州の地に傀儡の独立政権をつくることを承認させることが目的だった


 石原莞爾が永田鉄山に手紙を送る直前の昭和6年(1931年)8月11日には、人事異動で本庄繁大将が新しい関東軍の司令官として赴任してきている。本庄大将は板垣参謀からの「何か突発事件が起きた時、陸軍中央にどうすべきかの請訓を仰ぐか、あるいは独断専行しますか」との問いに、「私は軍司令官としてはあくまでも陸軍中央の指示に従うつもりではある。が、独断専行を決するに躊躇するものではない」(半藤一利『昭和史』p.65)と答えたという。

 満州事変は単に出先関東軍の参謀・石原莞爾や板垣征四郎らによる単独の犯行ではなく、陸軍中央内にいた同じ一夕会メンバーである永田鉄三ら中堅幕僚グループと結託した犯行によるもので、現地と中央で中堅幕僚グループが事変を引き起こし(例えば「錦州爆撃」と「十月事件」の同時的発生など)、さらに上の陸軍のトップと内閣の閣僚たちに軍の暴走を事後承認させていこうとするものだった。


 永田鉄山は、青年時代より「陸軍を独走(暴走)させない」という信念を持っていたといい、また、「重臣を殺したり、クーデターをやることは、もはや間違っているばかりでなく、危険でもあり、愚劣でさえある、しかし多勢の軍人のことだから、理論的にも確りした、建設的な具体案で、かつ漸進的で段階的に、かくすることによって革新出来るというものを、よく得心させる必要がある」などとも語っていたという。

 

・ 永田鉄山 - Wikipedia → https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E9%89%84%E5%B1%B1#%E8%A9%95%E4%BE%A1


・ 「彼がいれば東条の時代は来なかった」真面目なインテリ軍人・永田鉄山はなぜ殺害されてしまったのか | 文春オンライン → https://bunshun.jp/articles/-/13128


 だが、彼の場合「軍の暴走」といってもそれは、永田鉄山自身の意思やコントロールを離れた状態のことを意味するものなのではないか。



・陸軍 長州山県系門閥グループ ① (宇垣派)

挿絵(By みてみん)


・陸軍 長州山県系門閥グループ ②(宇垣派)

挿絵(By みてみん)



・陸軍 学閥派トップ三将軍

挿絵(By みてみん)


・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・皇道派グループ)

挿絵(By みてみん)


・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・統制派グループ)①

挿絵(By みてみん)


・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・統制派グループ)②

挿絵(By みてみん)


・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・関東軍メンバー)

挿絵(By みてみん)


・陸軍 その他「一夕会」メンバー

挿絵(By みてみん)




◆ 「満州事変」の展開


● 満州事変発生後の経過


 満州事変が発生したときの内閣総理大臣は若槻礼次郎(立憲民政党)内閣で、外務大臣は幣原喜重郎。

 一方、軍部のほうは、陸軍省は南治郎陸軍大臣、杉山元陸軍次官に、小磯国昭軍務局長、永田鉄山軍事課長、中村孝太郎人事局長、岡村寧次補任課長といった顔ぶれで、南、杉山、小磯ら三名はいずれも山県系長州閥・宇垣派の門閥グループに属する者たちで占められていた。

 また陸軍参謀本部のほうも、金谷範三参謀総長、二宮治重参謀次長、建川美次作戦参謀らトップはいずれも宇垣派だった。


 「満州事変」とは、昭和6年(1931年)9月18日午後10時ころ、柳条湖付近の満鉄線路が爆破される「柳条湖事件」が発生したことをきっかけとして、関東軍と奉天軍との間で軍事衝突が発生し、それから満鉄沿線の日本人居留民の安全を守ることを名目に遼東半島の駐屯地から関東軍(関東軍の任務が関東省の防衛および南満州鉄道の保護だった)が出動を行い、当時は「東北三省」(遼寧省、吉林省、黒竜江省)と呼ばれていた旧満州領域内に駐留していた張学良率いる国民党の奉天軍閥を攻撃して追いかけ回し、最終的に満州外に追い出して代わりに日本軍が占領したという事件。

 張学良軍を駆逐した後、東三省にはそれぞれ日本軍によって親日の傀儡政府が樹立され、事実上、日本の支配下に収められてしまう。


 そして最終的には、先ず「事変不拡大方針」を決めていた民政党の若槻内閣が閣内不一致で総辞職となった後、昭和6年(1931年)12月13日に成立した犬養毅内閣(立憲政友会)によって、軍部の求めに従い満州に「独立国家」を建設することが容認され、そして昭和7年(1932年)3月1日、国家元首にあたる「執政」に清朝の廃帝・愛新覚羅溥儀を招き、「満洲国」の建国が宣言されるに至る。


※ 「東北三省」(旧満州)周辺地図

挿絵(By みてみん)


※ 「東北三省」(旧満州)地形地図

挿絵(By みてみん)




◆ 「満州事変」の展開についての詳細と細かい解説


● 林銑十郎朝鮮軍による独断越境「統帥権干犯」


 「満州事変」発生当初、若槻首相と幣原外相は、この事件は関東軍の陰謀工作によって引き起こされた疑いがあるとして「事変不拡大の方針」を決定するが、しかし石原・板垣ら現地関東軍の独断専行に振り回されていく。


・若槻礼次郎首相

挿絵(By みてみん)


 石原莞爾は、この満州事変遂行にあたって関東軍だけでは兵力が足りなかったため(張学良が指揮する東北辺防軍の総兵力約45万に対し関東軍の兵力約1万)、林銑十郎少将率いる朝鮮軍の増援を求めていた。

 林司令官は本国に出兵の許可を求めるが、しかし海外派兵の決定には、陸相・参謀総長のみならず、内閣の承認が必要とされ、さらに天皇の裁可と奉勅命令の下達まで得なければならなかった。


 事件発生から日付が変わった昭和6年(1931年)9月19日午前7時、陸軍省と参謀本部との合同で第一回目の会議が開かれる。

 参加者は、陸軍省から杉山元次官、小磯国昭軍務局長、参謀本部からは二宮治重次長、梅津美治朗総務部長、今村均作戦部長代理、永田鉄山軍事課長などが出席。

 この会議では小磯軍務局長が、「関東軍の今回の行動は全部至当の事なり」と発言し、関東軍の行動を「支那軍の暴戻に対する自衛の戦い」だとして全面的に擁護した上で、閣議にも兵力の増派を提議していくことが決められた。

 しかしこれは、満州での事件内容も調査確認することなく、即座に関東軍の出動を是認し、しかも増派まで認めるというスピード決定だった。


 が・・・、同19日午前10時から開かれた閣議に南次郎陸相が参加すると、そこで幣原喜重郎外相から、事件が関東軍によって計画的に引き起こされたことを示唆する奉天領事よりの電文が示され、増援の提議どころか、戦いを収拾させる不拡大方針の政府決定に従わされる結果となる。

 陸軍上層部の宇垣派である南次郎陸相や金谷範三参謀総長は、若槻首相や幣原外相の不拡大方針を受け入れて、「すみやかに事件を処理して、旧態に復する必要あり」との見解を部内に示すが、これに一夕会のメンバーを中心にした中堅幕僚たちが猛反発。

 このとき永田鉄山は一夕会を中心とした同じ課長クラスの中堅幹部同士でまとまると、独自に「時局対策」を作定し、陸軍トップの「三長官会議」(南陸相、金谷参謀総長、武藤信義教育総監)に承認させる。

 その内容は、

 “ 「事態を拡大せざることに努むる廟議の決定」には反対する必要はない。しかし、それと軍の行動とは別であり、軍は任務達成のため情勢に応じ「時宜の措置」をとらしめるべきであり、中央からはその行動を「拘束」しない。満蒙問題の「根本的禍根」を除去しないかぎり、「軍の態勢を旧状に復するは断じて不可」である。関東軍の出動は「帝国自衛権の発動」によるものであり、これを機機に満蒙諸懸案の一併解決を、「最後の決意」をもって内閣に迫るべきである ” (『昭和陸軍の軌跡』p.39)というものだった。


 これを受け、南陸相から出された陸軍側からの要請に、若槻首相は朝鮮軍からの増兵については同意したものの、他の閣僚たちはすべて反対で意見の一致をみなかった。金谷参謀総長が大元帥としての天皇にお願いにいくが、天皇も事変拡大反対で許可は下りず。


 ところが・・・、軍や内閣はおろか天皇の同意さえ得ないまま、昭和6年(1931年)9月21日午後1時、林朝鮮軍司令官はなんと独断で軍に出動を命じ、朝鮮軍は国教を越えて満州内へと突入していってしまう。


・林銑十郎

挿絵(By みてみん)


 林司令官の独断専行は、明白な天皇の統帥権に対する大権干犯行為に他ならなかったが、ところが陸軍では大権干犯行為を犯した林司令官のほうを擁護し、だけでなく、もし朝鮮軍の独断越境が大権干犯行為と政府から判断された場合は、陸相・参謀総長が共に辞任するということまで申し合わされた。

 つまり、もし事変完遂を政党政治家たちから阻止された場合には、陸相が辞任することで内閣そのものを総辞職させるという決定を下したのだった。

  

 ところが、翌9月22日、朝鮮軍独断越境の報を聞いた若槻首相は「すでに出動せる以上は致し方なきにあらずや」といってあっさり容認してしまう。

 閣議においても、他の閣僚たちも朝鮮軍出兵について異議を唱える者はいなくなっていたという。

 これにより、朝鮮軍の満洲出兵に関する経費の支出が認められ、また、天皇にも奏上され、朝鮮軍の独断出兵は事後承認によって正式の派兵となった。

 昭和天皇は、政治問題の判断については議会の決定を最優先するという立場だったため、内閣の出した決定に対して許可を与えたのだった。

 


※ なぜ、最初の閣議決定を覆して、林司令官の独断越境をだの閣僚たちも反対しなくなったのか?


 若槻首相は大権干犯行為にほかならない林司令官の独断越境を「やってしまったものはしょうがない」などという理由で認めてしまったが、他の閣僚たちにしても、最初の閣議では皆が満州への増派に反対していたにもかかわらず、林司令官の独断越境についてはもう誰も異議を唱える者がいなくなってしまっていた。

 その理由について、田原総一郎氏の『日本の戦争』には次のように書かれている。

「それではなぜ、幣原たちは、22日の閣議で、『(林朝鮮軍司令官の)大権侵害の動員』に反対しなかったのか。<略>秦郁彦(日本大学教授)は『昭和の政治家たちは、結局、軍のテロの恐怖に脅かされながら国の舵取りをせざるを得なかった』と書いている。31年(昭和六)、満州事変の起きた年には、三月事件、十月事件と、軍による二つのクーデター未遂事件が起きた。幣原や若槻たちは、『(軍が)やってしまったこと(出動)まで否定すると、クーデターを呼び起こすのではないか』と恐れて『既成事実は認め』、しかし不拡大政策は固守するという方針にしたのではないだろうか。」(田原総一郎氏P.345『日本の戦争』)


 

 一方、政府が朝鮮軍の独断越境を承認したのと同じ日、関東軍のほうでは、関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐、関東軍の作戦主任参謀・石原莞爾中佐、関東軍司令部附(奉天特務機関長)・土肥原賢二大佐、関東軍参謀・片倉哀大尉などが三宅関東軍参謀長・三宅光治少将の居室に集り、「満蒙問題解決案」を独自に作成し、陸軍省と参謀本部に提出した。

 その主旨は「我が国の支持を受け東北四省(遼寧省、吉林省、黒竜江省、熱河省)及び蒙古を領域とせる宣統帝(溥儀)を頭首とする支那政権を樹立し在満蒙各民族の楽土たらしむ」というものだったが、本当の狙いは、満蒙については、満州における中国の主権は残したまま、たとえばかつての張作霖のように扱いやすい軍閥に満州を統治させて権益を守ればいいと考えていたその頃の日本政府の閣僚や陸軍中央のトップたちに、あくまで満州は中国の主権から切り離した独立国とさせるのだという意思表示をするためだったという。




● 石原・板垣ら現地軍が独断専行し、中央で永田ら中堅幕僚グループが軍の上層部と内閣にて「不拡大方針」を撤回させ、満州独立の容認を迫る


 若槻首相は朝鮮軍の増援は認めたものの、それらはあくまで「帝国自衛権の発動」のためのもので、不拡大方針は変わらず、治安が回復されたのなら兵も引かせようと考えていた。

 そもそも日本軍は満鉄の沿線部に治安維持の守備隊を駐屯させる権限を持っているだけに過ぎなかった。


 日本がもともと満州方面に有していた領土は日露戦争で獲得した旅順・大連を含む「関東州」と日本側によって名づけられた遼東半島のほんの先の部分だけ。それ以外では南満州鉄道(旅順~長春)と安奉鉄道(安東~奉天)の鉄道経営権および満鉄沿線に属する炭鉱の採掘権のみ。それとその鉄道の安全を守るために鉄道守備の軍隊を駐屯させる権利を持っていたに過ぎなかった。

 だが、関東軍では、その鉄道が張学良軍に攻撃されたという口実を作って戦争をふっかけ、そこから満鉄爆破の柳条湖事件発声から3年の後には、何とほぼ満州の全域にまで軍事侵攻をかけて占領し支配下に収めてしまった。


 若槻内閣の不拡大方針に対し、当初は陸軍トップの南陸相と金谷参謀総長も政府の方針を受け入れ、日本側守備隊を攻撃してきた敵を反撃して危険の原因を除き、居留民の安全が確認されたのであれば、日本軍は満鉄付属地内に撤退するように命令を下した。


 が、なおも関東軍の進撃行動は止まらず、北部は爆破事件の発生(実は石原が回した甘粕正彦らによる自演工作)を理由にハルビンへ進撃し、南部は逃げた張学良軍を追って錦州方面へ軍を進めようとした。


 関東軍では、危険の排除を理由に軍を動かして張学良軍を東三省の地から追い出した後は、軍事制圧をしたまま、満州に新政権を樹立して中国政府から独立させようと画策した。

 遼寧省には袁金鎧を委員長、干冲漢らを副委員長とする「奉天地方自治維持会」(のちに遼寧省地方自治維持委員会に改組)、吉林省には、熙洽を主席とする「吉林省臨時政府」、そして黒龍江省には張景恵の「東省特別区治安維持委員会」といった独立政権が日本の支援の下に組織されていった。


 関東軍参謀の石原莞爾、板垣征四郎らは、当初のうちは、一気に日本軍による「満州領有」まで考えていたが、両人は昭和6年(1931年)10月2日に、「満蒙を独立国として、これを我保護の下に置く」との「満蒙問題解決案」を作成し、そしてもし、この独立国家方針が政府に受け入れられない場合には、究極、「一時日本の国籍を離脱して目的達成に突進する」との申し合わせまで行ったという。

 

 ここまでくればもはや内乱だが、一方、陸軍中央のほうでも、石原と同じ一夕会メンバーである永田鉄山軍事課長が、南陸相や金谷参謀総長の出した「満鉄の外側占領地点より部隊を引揚ぐべきこと」という指示に従わず、中堅幕僚同士で「七課長会議」を組織して昭和6年(1931年)9月25日に「時局対策案」を作成し、逆に陸軍トップに向かって、満蒙新政権の樹立を要求した。


 こうした点について、『昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐』の作者である川田穣氏は、以下のように指摘している。


 「なお、満州事変について、一般には関東軍に陸軍中央が引きずられたものとの見解がある。だが、これまでみてきたように、関東軍に引きずられたといより、中央の一夕会系中堅幕僚グループが、それに呼応し陸軍首脳を動かしたというべきであろう。したがって、満州事変は、石原・板垣らの関東軍と、陸軍中央の永田・岡村・東条ら一夕会系中堅幕僚グループの連携によるものだといえよう」(川田穣『昭和陸軍の軌跡』P.60)




● 「支那事変」(日中戦争)への布石 ~露呈する永田鉄山の野心~


 昭和6年(1931年)9月25日の「時局対策案」に続けて、永田鉄山は9月30日に「満州事変解決に関する方針」を作定。

 これは、満蒙を中国本土より「政治的に分離」させるため、「独立政権」を設け、「帝国は裏面的にこの政権を指導操縦」して、懸案の根本的解決を図るということをうたい、彼らが軍上層部の決めた撤退方針に従うどころか、逆に石原ら関東軍の暴走を後押しして政府への決断を迫るというものだった。

 

 しかもこの「満州事変解決に関する方針」に書かれていたより重要なことは、永田鉄山はもはや、満州事変にとどまらず、そのずっと先に行われることになる、満州事変の中国本土への拡大版というべき「支那事変」(=華北・華中分離工作、日中戦争)の実行にまで言及していた点だった。

 この「方針」の中で永田は、

 第一に、華北における張学良の勢力を一掃する必要があり、そのため華北の反蒋介石勢力や旧北洋軍閥勢力を利用する。

 第二に、国民党反蒋派によって樹立された広東政府(第5次広東政府)を支持し、蒋介石らの南京政府の瓦解を策する。

 第三に、華北および華中に日本の好意的支持による政権を立て、満蒙新政権に対する抗争的態度を融和する。

といったことを主張していた。

 だがこれは、「爾後、国民政府を対手とせず」といって、蒋介石政権を徹底的に敵に回して、蒋介石政権とは別に、華北・華中方面に汪兆銘政権をはじめとした親日の傀儡政権を次々擁立して、第二、第三の満州事変の成功を模索して失敗し続けた「支那事変」(日中戦争)における日本陸軍の行動をそのまま書き表すかのようなものだった。


 実際、永田は反日の蒋介石政権を「除くの外なし」といって排除し、支那に親日政権を樹立させる謀略工作に手を出して、そして失敗に終わるという経験も持っていたという。


 “ 一方、天津特務機関長となった板垣征四郎は、当地で反蒋介石勢力によるクーデターを起こさせ、熱河作戦に呼応して現地に親日政権を樹立させるための謀略工作をおこなっていた。この謀略工作には、この種の工作を担当すり参謀本部情報部部長である永田も関係しており、反蒋政権樹立の関係工作資金を板垣に手渡している。そのさい永田は、「蒋介石は敵と看做す」とし、国民党打倒を標榜するわけではないが、「日本の根本的要求に適せざる主義および党派は、これを〔北支から〕除くの外なし」との意見を述べている。しかし、結局この謀略工作は失敗し、反蒋政権樹立はならなかった。 ” (川田穣『昭和陸軍の軌跡』P.63、64)




● 蒋介石によって事圏が国連に提訴される

 

 柳条湖事件当時、張学良は東北辺防軍(蒋介石率いる南京国民政府に所属するいわゆる「奉天軍閥」)の主力13万を率いて北平(北京)に出動した。しかし張学良はもともと、日本軍の暴発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の自軍に指示し、事件勃発後も日本軍への抵抗を禁じ、在満部隊に戦闘不拡大を命じていたという。

 そのため日本軍も敵からの大した抵抗を受けず、スムーズに軍を進めることができた。

 また南京国民政府首席の蒋介石も共産党軍討伐のため、国民政府の首都・南京を離れ江西省南昌で陣頭指揮をとっている最中だった。

 そのため蒋介石も日本軍との正面衝突は回避しようと張学良の方針を支持し、昭和6年(1931)9月21日、事件を国際連盟に提訴した。

 9月22日、連盟理事会はこれを正式議題として取り上げ、日中双方に対し事態の不拡大と両軍の撤退を求める通告を、日本を含め全会一致で承認した。

 一方、そうした国連の決定に対して日本でも、9月24日、政府の立場として正式に「不拡大声明」を発表し、また連盟の芳沢謙吉日本代表も漸次撤兵の意向を明らかにした。




● 政府声明に反し、これまで内閣の不拡大方針に賛成していた南陸相、金谷参謀総長が、永田ら中堅幕僚の突き上げをくらって「撤兵拒否」「新政権工作承認」へと転じる


 しかし、国際連盟の場で「不拡大方針」を日本政府が発表したにもかかわらず、これまでは若槻内閣の不拡大方針に同意していた陸軍トップの南陸相、金谷参謀総長らが、ここで反対に、永田ら中堅幕僚からの執拗な抗議を受け「撤兵拒否」「新政権工作承認」へと転じるようになる。

 そして、南陸相、金谷参謀総長、武藤信義教育総監の三長官会議は、永田ら「7課長会議」が9月30日に作成した「満州事変解決に関する方針」に基いて「時局処理法案」を作成して若槻首相に提出し、政府に対して、表面的な関与は避けつつ、裏面から助力を与えるなどして、満州新政権の樹立に向けて動くようにすべきだとの申し入れを行った。

 

 これまでも南陸相や金谷参謀総長らが出した関東軍への撤兵指示は実施されず、部内に対する新政権不関与の指示も永田ら7課長会議で事実上無視されるといったような状況が続いていたが、ここにきて遂に、永田ら一夕会中堅幕僚の執拗な突き上げが、陸軍トップの姿勢を転換させることに成功したのだった。


 また、昭和6年(1931年)10月8日には、これまた軍中央の許可なく、関東軍の「錦州爆撃」が行われる。当時、遼寧省西武の錦州には、奉天を追われた張学良政権が暫定的に政府を置いていた。

 石原莞爾の独断によるこの爆撃は、日本政府が出した「事件不拡大」「漸次撤兵」という国際声明の信用を失わせる行為で、若槻内閣および国際社会に衝撃を与えたが、もちろんそれが石原の目的だった。石原は、爆撃から帰った直後、参謀の一人が「張学良をやったのか」と聞いてきたのに対して、「オレの爆撃の標的は張学良なんかではない。吹っ飛ばしたかったのは政府の不拡大方針と国際連盟理事会だ」(田原総一郎『日本の戦争』P.347)と豪語してみせたという。

 

 天皇は関東軍によるこの錦州爆撃の報告を聞いて、鈴木貫太郎侍従長に、

「自分の代に大戦が起こるのであろうか。それが日本の運命なのか」(半藤一利『昭和史』P.85)といって歎いたという。




● 「事件不拡大」「漸次撤兵」を表明していた若槻内閣が倒れ、満州に新政権樹立を容認する犬養内閣が誕生する


 国連の場で満州事変に対する「事件不拡大」「漸次撤兵」を表明した若槻内閣だったが、南陸相、金谷参謀総長、武藤信義教育総監ら陸軍のトップ三名が「三長官会議」で若槻内閣に対して、新政権樹立の容認を求めてきたことで、政府もまたやや態度を軟化させる方向に転じる。

 それまで若槻内閣では、事件鎮圧後の日本軍の撤兵については、日本人居留民の安全確認のほかは特段の条件をつけてはいなかったが、それを、鉄道問題や営業権などに関して、中国国民政府と日中間での一定の協定が成立した後でなければ兵を退かせないとし、また、陸軍の行う新政権樹立に向けた工作に関しても、「裏からやるならば、やむをえない」と暗黙の了解をあたえることにした。


 これは、若槻首相が、南次郎陸相の辞任によって、内閣が閣内不一致で総辞職に追い込まれることを心配してからの行為だった。


 が、関東軍のほうはさらに軍を進めて、北満黒竜江省都のチチハルに向けて、南は遼寧省西武の錦州へと向けての進撃を企図した。

 ところがこの関東軍の行動に対し、事変不拡大方針から軟化の姿勢を見せ始めていた若槻首相および、陸軍トップの南陸相、金谷参謀総長までもが、ここでまた現地関東軍と陸軍中央部内中堅幹部たちからの要求を拒絶し、再び慎重な態度をとるようになる。


 その理由は、先ず、チチハルの進撃は、そこはもはやソ連軍との衝突に突入しかねないという危惧があったこと。次いで、南部錦州への進撃についても、そこはまた、イギリス権益の関与する北京・奉天間鉄道(「京奉鉄道」)の沿線に位置し、イギリスとの関係の悪化を招きかねないものとして憂慮されたからだった。


※列強の勢力圏と利権を持つ鉄道

挿絵(By みてみん)


 これまで満州事変は内外で、一夕会のメンバーを中心とした石原、永田ら中堅幕僚グループによって進められていたが、しかし一方、陸軍の上層部を占める上級幹部のほうは、ソ連を第一の仮想敵国とみなし、そのために中国の権益は侵さず、英米とも連携して対処するということを基本としていた宇垣一成派の面々ら(南陸相、金谷参謀総長、杉山元陸軍次官、二宮治重参謀次長、小磯国昭軍務局長、建川美次作戦部長)によって構成されていた。

 そのためここにきてようやく、中堅幕僚グループによる独断専行に、陸軍トップの寛容も我慢の限界を迎えたという感じだった。




● 桜会による政府転覆を狙ったクーデター未遂事件「十月事件」が発覚し、事変不拡大に努めていた若槻内閣を揺さぶる


 これまで永田鉄山軍事課長をはじめとする陸軍中央中堅幕僚グループは、関東軍の行動を擁護しつつ、陸軍上層部のトップたちに訴えて、「南満軍事占領」(錦州方面を除いて)および「満州新政権樹立」までは何とか認めさせることに成功したが、しかしここにきて、さらなる進撃行動の展開によって、ついにそれも限界のときをむかえることとなった。

 関東軍による北満チチハル占領や錦州侵攻、および独立国家建設の問題を巡っては、ソ連との軍事衝突と英米との利権の対立を危惧する陸軍トップの軍事戦略方針と決定的に対立し、それ以上、永田ら中堅幕僚グループも陸軍首脳部を動かすことはできなかった。


 が・・・、陸軍上層部からの抑圧に、今度はとうとう、陸軍中央内の若手過激派グループの中から、直接クーデターを起こして政府の顚覆を狙おうとする者たちが現われ、その結果、計画は未然に発覚して未遂に終わったものの、彼らのテロが政府首脳に大きな脅威を与えることとなり、そしてその後、まるで道連れのように事件不拡大に努めてきていた若槻内閣が倒閣に追い込まれる事態となってしまうのだった。


 「十月事件」の政府転覆クーデターを計画したのは、陸軍参謀本部ロシア班長だった橋本欣五郎中佐で、橋本中佐は自ら立ち上げた「桜会」のメンバーを中心に、近衛師団・第一師団より兵力を動員してクーデターを起こし、一夕会および皇統派のリーダー格として慕われていた荒木貞夫教育総監を首班とする軍事政権を樹立しようと計画した。

 昭和6年(1931年)の10月下旬に決行予定だったが、計画が事前に露見し、10月17日、 橋本中佐ら首謀者が憲兵隊に保護検束され、事件は未遂に終わる。


・橋本欣五郎

挿絵(By みてみん)


 橋本は岡山生まれの、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業したエリートで、その後参謀本部の情報将校となったが、トルコ公使館付武官として在任中、トルコ共和国初代大統領ケマル・パシャと親交をもち、彼の影響を受けて、軍事クーデターによる政権奪取に心酔するようになったという。


 そして満州事変発生の前年昭和5年(1930年)10月に「桜会」を結成。発起人は橋本の他に、坂田義明(陸軍省調査班長)、樋口季一朗(東京警備司令部参謀)などの中佐以下約20数人の軍人が名前を連ねた。

「桜会」とは参謀本部の橋本欣五郎中佐らによる、日本の軍事国家化と翼賛議会体制への改造を目指して結成された超国家主義的な秘密結社、軍閥組織で、その発足にあたっての「趣意書」には、


 “ 現今の社会層を見るに、高級為政者の悖徳行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家、華族、国家の将来を思はず国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、糜爛文化の躍進的台頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の自己保存主義、等々邦家のため、まことに寒心に堪えざる事象の堆積なり。

 ・・・・・・更に之を外務方面に見るに、為政者は国家百年の長計を忘却し、外国の鼻息を窺うことのみきゅうきゅうとして何ら対外発展の熱を有せず、維新(明治)以来、積極進取の気概は全く消磨し去り・・・・・・、内外外交の政策上の行き詰まりは政党者流が私利私欲の外一片の奉公の大計なきに由来する・・・・・・

 吾人固より軍人にして直接国政に参画すべき性質に非ずといえども、一片皓々たる奉公の至誠は折に触れ時に臨みてその精神を現わし、為政者の革生、国勢の伸張に資するを得べし ” (田原総一郎『日本の戦争』P.270)


と記されていた。

 つまり彼らはここで、「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じた「軍人勅諭」や陸海軍刑法などに背いても、「直接国政に参画」すると、堂々と宣言をしていたのだった。


 そして彼らは満州事変の発生する約半年前となる昭和6年(1931年)3月にも既に一度、「三月事件」と呼ばれる軍部による最初の政府打倒のクーデター計画を画策し、決行しようとしていた。

 このときの計画では、クーデターの実施予定日を1931年(昭和6)3月20日ころとし、当日、日比谷公園でボクシング大会を開いてそこに多数の同士浪人を入場させ、大会終了後、警視庁に乱入させるというものだった。

 この三月事件のこのクーデター計画には、民間から大川周明、清水行之助といった大物右翼のほか、左翼からも亀井貫一朗、赤松克麿らの労働団体や農民組合が参加しており、また、資金も貴族院議員の徳川義親から出されていたという。

 そしてその右翼、左翼双方から3000名が街頭に出て、浪人・大衆約1万人を動員し、議会に向かってデモを実施しつつ、さらに第一師団の部隊をもって議場を包囲し、軍首脳の数人が議場に赴いてクーデターを告げ、内閣を総辞職(このときは、負傷した浜口に代わって幣原喜重郎臨時首相代理)させ、大命が宇垣一成陸軍大将(このとき陸軍大臣)に降下するよう仕向ける、という計画だった。


 しかしこの「三月事件」のクーデター計画の異常さは、何と橋本ら桜会に擁立された宇垣一成陸軍大臣と、および宇垣派に属する杉山元(陸軍次官)、二宮治重(参謀次長)、小磯国昭(陸軍省軍務局長)、建川美次参謀本部第二部長)といった現役の陸軍首脳たちがこの計画の仲間に加わっていたという点だった。


 このころ、宇垣派の小磯や杉山らは、政友会の幣原協調外交排撃と内政の失態による政局不安に乗じて宇垣擁立に動いていたが、そんな折に橋本ら桜会メンバーのクーデター計画が持ち込まれ、彼らの計画に乗ることにしたのだという。

 しかも宇垣派のメンバーだけでなく、陸軍現役トップの宇垣一成本人までもが、桜会の計画を聞いて有頂天となり、当時の日記に、


「今や政党も官僚も元老も大衆の信用を失し権威を堕して居る。中心権威者の実力は消失しつつある」

「匡救の大任それ余を煩わすに至る如く感ぜられる」 (保坂正康『東條英機と天皇の時代』p.111)


などと記しただけでなく、自らの権威充足のために将校の計画に加担することにしたと、広言していたという。


 宇垣はまた大川周明にも会って、

「政党の腐敗から国民が自暴自棄になって行くから、この際起とうと思う、 君もその時は一緒に死んでくれ」などと、国家改造運動に乗り出す意志をほのめかしていたという。


 しかし、この「三月事件」のクーデター計画は、結局未遂のまま終わった。その理由は、宇垣や軍首脳が次第に橋本たちの計画の杜撰さや性急さに懐疑的になったのが原因だった。

 さらに宇垣一成自身が、復帰の見込みのなくなった重傷の浜口首相の後継に、自分が推されそうだという噂を聞き込むと、もはやクーデター計画に乗るなどというリスクを冒す必要はないと判断して変節し、そして、最終的には、肝心の宇垣が拒否したためクーデターは不発のまま終わる結果となったのだという。


 宇垣の変心について、司法省刑事局の「思想研究資料」(特輯五十三号、昭和十四年)には 次のように書かれている。


「宇垣陸相は始め大川に対して天下の形勢を論じ、一生一度の御奉公がしたい旨の事を言い、政党の腐敗から国民が自暴自棄になって行くから、この際起とうと思う、 君もその時は一緒に死んでくれ、と言って改造運動に乗り出す意志をほのめかし、小磯、建川等にも同様の意志を示しながら、その後、政界の有力なる方面から 宇垣陸相を首班とする内閣樹立の政治的陰謀が持ちかけられ、これによって憂国の至情よりする改造運動より変心し、政権獲得の後に改造を図る考えとなって、小磯、建川との接触を避け、計画より脱退したといわれる」


 しかも、このクーデター事件は、陸軍内で極秘にされていたものの、夏になって政財界に伝わり、大きな騒ぎになった。

 ところが、それでなお、橋本以下一人も何の処分も受けないままで終わったという。




● 実はこれも現地関東軍と陸軍中央との間で、政府の事変不拡大奉方針を阻止するために連動していたのではないかと疑われる関東軍参謀・石原莞爾による「錦州爆撃」と、桜会の橋本欣五郎らによる「十月事件」


 「三月事件」のクーデター計画から9月に勃発した満州事変を挟み、関東軍が東三省の占領を終えたころ、昭和6年(1931年)10月24日の国際連盟理事会で、日本軍の満州からの撤退勧告が出されるが、その直後に巻き起こったのが、関東軍参謀・石原莞爾による「錦州爆撃」と、桜会の橋本欣五郎らによる「十月事件」だった。


 石原の錦州爆撃は、国際連盟と交渉していた日本外交団の話し合いをぶち壊しにするためで、それと、日本国内で行われた「十月事件」のほうも実は、高橋正衛氏(昭和歴史研究家)の『昭和の軍閥』によれば、満州の戦線縮小に大反対だった日本の軍首脳部が、政府を威嚇するために、あえてこのタイミングで、桜会が進めていたクーデター計画を摘発して露呈させたのだという。


 もしも、政府が不拡大政策に固執したら、そのままクーデターで主要閣僚たちを殺し、政府をぶち壊す。いつでもそれが出来るぞ、と示したのだと。


昭和4年(1929年)10月 「世界恐慌」の始まり。

昭和4年(1929年)11月 浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相により「金解禁」が実施される。

昭和5年(1930年) 「昭和恐慌」と「農業恐慌」の発生。

昭和5年(1930年)1月 「ロンドン海軍軍縮会議」開催。

昭和5年(1930年)4月 「統帥権干犯問題」の発生。

昭和5年(1930年)11月 浜口首相、東京駅で右翼青年に狙撃される。

昭和6年(1931年)3月 桜会によるクーデタ未遂事件となる「三月事件」の発生。

昭和6年(1931年)4月 第二次若槻内閣発足。大蔵大臣・井上準之助、外務大臣・幣原喜重郎、陸軍大臣・南次郎。

昭和6年(1931年)9月 「満州事変」勃発。

昭和6年(1931年)10月8日 関東軍による「錦州爆撃」。石原莞爾参謀の作戦指導による関東軍の爆撃機12機が、奉天を放棄した張学良が拠点を移していた遼寧省錦州を空襲。

昭和6年(1931年)10月 再び桜会によるクーデタ未遂事件となる「十月事件」が発生。

昭和6年(1931年)12月 犬養毅内閣の高橋是清蔵相により「金輸出再禁止」の実施。日本の経済不況がインフレ政策により立て直しへ向かう。

昭和7年(1932年)2月 「血盟団」事件。前蔵相井上準之助、血盟団員によって射殺される。

昭和7年(1932年)3月 「満州国」建設。

昭和7年(1932年)5月 「五・一五事件」で犬養毅首相が、海軍中尉・古賀清志率いる海軍士官や昭和維新に共鳴する民間の右翼青年らのクーデターによって射殺される。

昭和8年(1933年)2月 関東軍による「熱河作戦」の開始。

関東軍は、満州国内にて国民党の張学良と内通していた湯玉麟を討伐するとの名目で熱河省へと軍を進めてこれを制圧。これにより満州から長城を超えて北支へと侵入する一歩手前のところにまで日本軍が進出。

昭和8年(1933年)3月 日本、国際連盟脱退。

昭和8年(1933年)4月 関東軍、山海関を、抗日運動を展開していた国民党軍との戦いを通じて占領し、長城を超えて北支那内へと入り込むポイントを抑える。

昭和8年(1933年)4月 「塘沽協定」の締結。満州事変の終結。日本は中国側に、日本の東北三省と熱河省の占領を黙認させ、同時に日本が建国した満州国の存在も認めさせた。


 「十月事件」とは、三月事件に続いて、同じ桜会の橋本欣五郎らによって画策されたクーデター未遂事件だったが、今度は首謀者が憲兵によって一斉検挙されるという事態になりながら、それでなお、やはり事件関係者の一人もまともな処罰をされずに終わったという事件だった。


 橋本たちが十月事件を計画したのは、満州事変不拡大方針の若槻内閣を倒すためで、その内容は次のようなものだった。


①決行の時期・・・・・・10月21日

②参加兵力・・・・・・将校約120名、兵は歩兵10個中隊、機関銃二個中隊(近衛、第一師団)

③外部からの参加者・・・・・・大川周明、西田税、北一輝らの一派(大川以外は決起の前に離反)、海軍抜刀隊約10名、海軍爆撃機13機、陸軍機3~4機

④攻撃目標

 イ、首相官邸の閣議を急襲、首相以下を斬殺

 ロ、警視庁の占領

 ハ、陸軍省、参謀本部を包囲、幹部に同調を強要する

 ニ、報道、通信機関の占領

 ホ、不良人物、将校の制裁

⑤新内閣の陣容・・・・・・宮中に東郷元帥を参内させ、予定内閣に大命降下を工作する(閣僚予定の名簿には、荒木貞夫首相兼陸相、建川美次外相、橋本欣五郎内相、大川周明蔵相、長勇警視総監の名が見られる)


 橋本たちは、前回の三月事件が失敗に終わったのは、軍首脳や民間人に頼ったためだとして、十月事件では参画者の範囲をきわめて限定したというが、しかしその行動は前回と同様、連日連夜、料亭で芸者をはべらしながらクーデタ計画についての討議や憂国談義、国家改造論に気炎を上げて大騒ぎをするといういい加減なものだった。


「料亭で連夜のごとく宴会が行われ、美技を侍らせて盛宴がつづけらた。さながら明治維新の志士が京都の鴨川河畔に流連荒亡せるに似ていた」(大谷敬二郎『落日の序章』)


 青年将校たちは、酒食の資源は陸軍から出ているとか放言したり、クーデター決行後の大臣予定者の名前まで公表するといった乱脈ぶりで、憲兵や警視庁の注意を引くこととなり、その結果10月17日朝までに、橋本、長たち幹部12名が憲兵司令部に検束収容されることとなった。


 ところがその最終的な処分はまたしても、橋本が20日の重謹慎、長、田中弥助などは10日の重謹慎で済まされるというものだった。

 「三月事件」、「柳条湖事件」(満州事変)、「十月事件」といった、日本の軍事国家化および対外侵出の容認を求めた一連の軍人たちが引き起こした事件では、重大な法違反を犯した犯罪者たちは誰も罰せられることなく終わった。


 政府が、クーデターを計画した幹部たちに、処罰らしきものを科さなかったのは、さらに広範囲の将校たちの暴発を恐れたためだったという。


 その以前の張作霖爆殺事件(満州某重大事件)においても、河本大作ら、あきらかな軍紀違反者の首謀者、関係者たちは処分らしい処分を受けず、反対に田中義一内閣のほうが崩壊させられた。

 そして今回の「十月事件」でもまた、反対に若槻内閣のほうが軍人テロの脅威に追い詰められていく結果となった。


「昭和の前半というのは、裏から見ると、テロの脅威に責任者が屈していった過程で、つまりテロによる威嚇で動いていった歴史だ」(秦郁彦)


 一方、この「十月事件」の発生に関しては、永田鉄山ら一夕会は全く関与していなかったという。反対に、橋本らの計画を知った永田鉄山軍事課長、東条英機編成動員課長、渡久雄欧米課長、小畑敏四郎陸大教官ら一夕会のメンバーは計画阻止の方向で動いた。


 このとき永田は、

「抜かずに内閣にすごみをきかせる方が得策だ」(川田穣『昭和陸軍の軌跡』P.54)との発言を残していた。

 しかし彼らがいざ逮捕された後は、極刑を求めたという。


 橋本欣五郎や桜の主張や志をみれば、永田たちが賛同しても良さそうな感じがするが、しかしこれは永田鉄山に限らず、他の「統制派」のメンバーはみな、若手将校たちの暴発や下克上を完全に否定していた。

 「抜かずに内閣にすごみをきかせる方が得策だ」といって力を用いた政治への干渉は認めながら、しかし軍内の下級士官たちが軍の鉄壁の統率を乱すことは微塵も許さない。

 そこが彼ら「統制派」と呼ばれるところのゆえんでもあった。



 

● 軍部との協力も求める安達謙蔵内相の唱えた挙国一致内閣構想に、幣原外相、井上蔵相らが反発し、閣内不統一で民政党若槻礼次郎内閣が総辞職


 右翼活動家・佐郷屋留雄の銃撃に倒れ重傷を負った浜口雄幸内閣を引き継いだ民政党の若槻礼次郎内閣では、組閣以来、昭和6年(1931年)9月の「満州事変」に続き、10月には桜会による「十月事件が発生するなど、国内における軍人たちの不満が爆発した形でのテロ事件が相次いで巻き起こった。

 軍人たちの政党政治に対する不満には、井上準之助蔵相の断行した金解禁の影響による経済悪化もあったが、若槻内閣ではその経済面においても、解決策を見出せず、行き詰まりを見せていた。


 こうした状況の中、内相を務めていた安達謙蔵議員は、野党の政友会と協力しあって連立内閣を組み、軍部とも提携した挙国一致内閣で難局を切り抜いていくことを若槻首相に提案した。

 しかし、「協調外交」(対外進出できない)を主張する幣原外相と、「緊縮財政と金解禁」(軍の予算を抑え込まれる)の維持を主張する井上準之助蔵相らは安達の意見に断固反対の意を示した。

 安達は辞職を促されるが、安達もまた譲らなかったため、結果、若槻内閣は閣内不一致で総辞職に追い込まれることとなった。


 しかしこれにより、今度は軍部の求める満州独立政権の樹立に寛容な憲政会の犬養毅総裁を首相とする犬養内閣が、昭和6年(1931年)12月13日に誕生することとなった。


・犬養毅首相

挿絵(By みてみん)




● 犬養内閣の下で満州の主要都市の征圧を終え、同時に陸軍人事で軍内のトップを一夕会の推す皇統派の荒木貞夫陸相ほか学歴閥グループのメンバーで独占し、宇垣派の面々を一掃する


 犬養内閣成立のおかげで軍部は、若槻内閣では止められていた満州での進撃行動を再開。関東軍の要請に応じて本土と朝鮮から満州に兵力を増派すると、12月28日より、約二個師団の兵力で錦州を攻撃し、翌昭和7年(1932年)1月3日に錦州を占領する。また、2月5日にはハルビンも占領。

 こうして日本軍は、柳条湖事件より4ヵ月半ほどで、満州の主要都市のほとんどを支配下に置くこととなった。


 また、新内閣の発足に合わせて閣僚人事も一新され、それに伴い昭和6年(1931年)12月13日、新たな陸軍大臣に一夕会ら学歴閥ブループが推していた皇統派トップの荒木貞夫が就任。

 荒木は陸相に就任するや、皇族の閑院宮載人親王かんいんのみやことひとしんのうを参謀総長に据えるとともに、翌昭和7年(1932年)1月には、荒木にとっての盟友というべき真崎甚三郎を参謀次長に置き、以後、参謀本部の実権はこの真崎に握られることとなった。真崎もまた荒木と並ぶ皇統派リーダー格の一人で、一夕会が推す三将官の一人でもあった。(もう一人は林銑十郎朝鮮軍司令官)

 

 そして、陸軍のトップを占めた荒木と真崎のコンビは、昭和7年(1932年)2月には、今村均作戦課長を罪人半年で強引に更迭して、後任を荒木・真崎と同じ皇統派リーダー格で一夕会の小畑敏四郎に就かせ、陸軍省軍務局長にも一夕会の山岡重厚を任命。4月にはさらに永田鉄山を参謀本部情報部長に、山下奉文を陸軍省軍事課長に任命し、また小畑を在任わずか2ヶ月で運輸通信部長に転じさせると、後任の作戦課長に鈴木率道を就任させるなどして、部内をことごとく一夕会の学歴閥グループで独占する。

 

 と、同時にこれで、杉山元、建川治重、小磯国昭らといった宇垣派の門閥グループが陸軍中央職からすべて排除される結果となり、こうして陸軍における権力転換が行われ、これにより、かつて永田、小畑、岡村ら「十六期の三羽鳥」がバーデン・バーデンで取り交わした目標が、人事面においてはほぼ実現される結果となった。

 ただしここからまた、今度は同じ学歴閥グループ同士の「皇統派」と「統制派」とで、新たな派閥争いが激化してゆくことにもなっていってしまうが。


 加えて、荒木陸相就任直後の昭和6年(1931年)12月23日に、陸軍省と参謀本部で「時局処理要綱案」を作成し、その協定案では、「満蒙(北満を含む)は、これを差当り支那本部政権より分離独立せる一政権の統治支配領域とし、逐次帝国の保護的国家に誘導す」とされることとなった。

 つまり、陸軍中央でついに公式に満蒙独立国家建設が具体的プログラムにのぼり、これまでの「中国主権下での新政権樹立」から、中国の主権から切り離した完全なる「独立国家建設」へと、軍部の公式的な立場が切り替えられる結果となったのだった。

 また、中国本土についても、排日琲貨の根絶を要求するとともに、反張学良、反蒋介石勢力を支援し国民党の覆滅を期し、さらにもし必要があれば重要地点での居留民保護のために出兵を断行する、とした。


 さらに昭和7年(1932)3月12日には、犬養内閣が「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定し、日本政府として、軍部が求める満州国家建国方針を正式に承認する決定を下した。


 なお、永田鉄山はこのとき、個人的には「満州は逐次(日本国の)領土となす」べきだと考えていたという。




● 高まる国際連盟における日本への非難と「上海事変」(第一次)の発生


 「満州事変」の発生により日本軍から侵攻を受けることとなった南京国民政府の蒋介石は、日本軍の行動を昭和6年(1931年)9月21日に国際連盟に提訴。そして9月22日に、連盟理事会がこれを正式議題として取り上げ、日中双方に対し事態の不拡大と両軍の撤退を求める通告を行う。

 これに対して日本政府は9月24日、正式に「不拡大声明」を発表し、連盟の芳沢謙吉日本代表も漸次撤兵の意向を明らかにした。

 が、その後、10月8日に、関東軍による錦州爆撃が行われたため、連盟は態度を硬化させ、10月16日に、アメリカをオブザーバーとして連盟理事会に招聘することを決定。そして24日には理事会で、日本がただちに撤兵を開始し、11月16日までに撤兵を完了させるよう求める決議案が提出される。評決では日本のみの反対で、全会一致の原則から決議は成立はしなかったが、その後、若槻内閣総辞職の前日12月10日、連盟理事会は現地への調査派遣を決定。

 そして翌昭和7年(1932)2月3日、「リットン調査団」がヨーロッパを出発し、2月29日に来日する。

 また、アメリカのスチムソン国務長官は、1月7日、満州に関して中国の領土保全や不戦条約に反するような事態は一切認めないとする、いわゆる不承認宣言スチムソン・ドクトリンを発表した。


 こうした日本の満州侵略に対する国際批判の声が高まるにつれ、関東軍参謀の石原莞爾と板垣征四郎は、彼らの仲間で当時、上海日本公使館付きの武官だった田中隆吉中佐に頼んで、国際線論の非難の目を満州から背けるため、事件を引き起こしてもうらように依頼を行った。

 彼らは満州事変を起こした直後のころに、事前に中村中佐を呼んで、「なにかあった時は、頼むから上海で事件を起こしてくれ。そうすると世界の目がそっちにいく」(半藤一利『昭和史P.92』)と頼んでいたという。


 そして、板垣から「決行せよ」との電文を受け取った田中隆吉中佐は、昭和7年(1932年)1月18日に、上海で信徒を連れて托鉢していた日蓮宗のお坊さんと信者ら5人を、金で雇った中国人に襲撃させるという事件を引き起こす。

 日本側ではこの事件発生に、海軍が日本の居留民保護のために治安維持のための守備隊を出すが、1月28日になって、そこに南京政府の正規軍十九路軍からの攻撃を受け、以降、そこから3月3日まで、思わぬ大戦闘へと発展していってしまう。


 軍事衝突発生を受け、日本海軍は第3艦隊の巡洋艦7隻に、駆逐艦20隻、航空母艦2隻および陸戦隊約7000人を上海に派遣するが、犬養毅内閣は2月2日に、さらに2個師団(兵力約3万)の派遣を決定。


 また、この事件はもともと満州の騒動から世間の目を背けるために行われたものであったはずなのに、関東軍の本庄繁司令官なんと、上海で起こった事件を知ると「しめた」といって北満のハルビンを取ってしまおうと攻撃を開始したという。


 しかしここにきて天皇も拡大の一途をたどる関東軍の暴走を非常に憂慮して、世界の厳しい目が満州問題だけでもこれほど日本に注がれているのに、そのうえ上海で戦闘など許されない、とにかく早くやめるようにと、何度も陸軍中央に命じたという。

 さらに新たに上海へ派遣されることに決まった元陸相の白川義則大将にも、「今度こそなんとか上海事件を拡大しないよう、とにかく条約を尊重し、国際協定を守るように」といい、さらに「もう一つ頼みがある。上海から十九路軍を撃退したら、決して長追いしてはならない。計三個師団という大軍を動かすのは戦争のためではなく、治安のためだということを忘れないで欲しい。とくに陸軍の一部には、これを好機に南京まで攻めようとする気運があるときく」と付け加えたうえで、「私はこれまでいくたびか裏切られた。お前ならば守ってくれるだろう」といって白川大将を軍司令官に任命して送り出したという。(半藤一利『昭和史』P.94、95)


・白川義則

挿絵(By みてみん)


 命を受けた白川司令官の率いる上海派遣軍は、中国の十九路軍をあっという間に撃退し、上海付近を包囲していた中国軍をすべて追っ払って元通りの状態にし、同時に停戦命令を出して上海での軍事衝突を終結させた。


 しかしその一方で、東京の参謀本部のほうは、「えっ!?勝ってるのになんでやめるんだ?行け行け」と白川大将に追撃命令を出すほどだったという。




● 「五・一五事件」の発生で犬養首相が殺害され、元朝鮮総督の斉藤実(海軍大将・後備役)内閣が成立 → 中国の主権を認めない満州国独立の容認=満州事変の完成と政党政治の終焉へ


 白川司令官が上海事変を終結させた後、昭和7年(1932)4月29日に、日本と中国軍側とで停戦協定が結ばれたが、この和平ムードの高まりに、陸軍中央その他、血気の者たちにとっては逆に不満を募らせていったという。


 昭和6年(1931)12月に若槻内閣から犬養内閣に変わり、それから年が明けて昭和7年(1932)1月になって、国連で満州事変を調査する「リットン調査団」が結成されるが、日本に対する国際的な非難の声が高まるに従い、日本国内ではどんどんと右翼の過激派や、血気の若手青年将校らによるテロ行為が度を増していくような状況へと変わっていった。


 昭和7年(1932)2月9日に井上準之助前蔵相が、3月5日には三井合名会社理事長の団琢磨が右翼団体の血盟団によって襲撃を受け、殺害されるという事件が発生。


 昭和7年(1932)3月1日には、関東軍は政府を無視して独自に「満州国」建国の宣言を行う。清朝の旧皇帝・溥儀を執政とする民主共和制の国で、「五族協和」(漢、満、蒙、朝鮮、日本の五族が平等の立場にたつ)を旗印としたが、内実においては、日本がその実権を掌握する傀儡国家だった。


・溥儀

挿絵(By みてみん)


 そうしたなか、3月12日に、犬養内閣が「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定し、日本政府として軍部が求める満州国家建国方針を正式に承認する決定を下すが、にもかかわらず、その後の5月15日、海軍将校山岸宏、三上卓、黒岩勇らが中心となって起したテロによって、犬養毅首相賀が射殺されるという「五・一五事件」が発生するに至る。


 代わって昭和7年(1932)5月22日、誕生したのが元朝鮮総督の斉藤実(海軍大将・後備役)が首相を務める斉藤内閣が発足。

 

・斉藤実首相

挿絵(By みてみん)


 日本では大正13年(1924年)6月の加藤高明内閣発足以来、衆議院で一番多くの議席を持った第一党が内閣を作る「憲政の常道」による政党政治が運営されてきたが、その政党政治がここで終焉を迎え、以後は敗戦の日を迎えるまで、軍部出身の総理を中心とした「挙国一致内閣」(協力内閣)の時代へと突き進む。


 なお、犬養首相が暗殺されて斎藤内閣が成立するまでの間、永田鉄山は、原田熊雄、近衛文麿、木戸幸一といった西園寺側近グループと会合を行い、その席で、


「現在の政党による政治は絶対に排斥するところにして、もし政党による単独内閣の組織せられむおするがごとき場合には、陸軍大臣に就任するものは恐らく無かるべく、結局、組閣難に陥るべし」(川田穣『昭和陸軍の軌跡』P.61)


と述べて、政府に対する脅しをかけたという。


 「二・二六事件」後に、広田内閣によって「軍部大臣現役武官制」が復活し、それにより、軍部はもし内閣の決定に不満な場合、大臣を辞職させ、後任の大臣を推挙しないことでそのまま内閣を倒閣に追い込むことができるようになるが、永田鉄山のこの発言は、まさにその「軍部大臣現役武官制」の復活を、今の日本の統治制度の理想として望むということを意味するものだった。


 しかし、満州国の独立を認めた犬養首相がなぜ暗殺されなければならなかったのか。それは、犬養首相は満州国の独立を認めても、中国側の主権までは否定しなかったからだという。




● 満州事変は終焉を迎えず、国連を脱退し、長城を踏み越えて「支那事変」(日中戦争)へと突き進む


犬養内閣に代わって発足した斉藤実内閣では、昭和7年(1932)9月15日、「日満議定書」を調印し、日本国政府として満州国を正式に承認。


 しかしそのすぐ後、10月2日に、日本軍の行動および満州国は承認できないとするリットン調査団による国際連盟「リットン報告書」が公表される。

 さらにその翌年の昭和8年(1933)2月14日には、リットン報告書の審議を付託された連盟十九人委員会が、リットン報告書採択、満州国不承認の報告案を決定。


・リットン調査団

挿絵(By みてみん)


 が、この報告案を入手した斎藤内閣は、もしこの報告案が国連総会で可決された場合には連盟を脱退することを閣議決定し、陸軍中央もまた、日本側の主張が認められなければ、連盟脱退もやむなしとの判断を下したという。

 そしてその結果、昭和8年(1933)2月24日、連盟総会において、十九人委員会の報告と日本軍の満州からの撤退勧告案について、賛成42、反対1、棄権一票で採択されると、松岡洋右以下日本代表団は即座に退場し、そして3月27日、日本の国際連盟脱退が正式に通告される結果となった。


 国際連盟を脱退して帰国した松岡洋右を、日本国民は「ジュネーブの英雄」といって讃え、また日本の国連脱退を「栄光ある孤立」を選らんだのだと前向きにとらえたが、永田鉄山もその国連脱退の原因となった満州国独立の承認について、『外交時報』10月号に、永田は「満蒙問題感慨の一端」と題する文章を寄稿し、次のように論じたという。

「事変は、多年にわたる『非道きわまる排日侮日』のなか、『暴戻なる遼寧軍閥〔張学良〕の挑発』に対して、余儀なく『破邪顕正の利刃』をふるったものである。『東洋の盟主』をもって任ずる日本が、『民族の生存権を確保し、福利均分の主張を貫徹するに、何の憚る所があろうぞ』」(川田穣『昭和陸軍の軌跡』P.62)


 そして、連盟脱退を決断した日本は即座に新たな侵攻を開始。日本が承認した「満州国」の領土は、内モンゴル東部の熱河省(長城北側)も領域内に含むかたちになっていたが、しかしそこは、実際上はなお張学良の強い影響下に置かれていた。そのためここで日本軍はもはや誰に対しての遠慮もなく、その地を満州国に編入しようと進撃を開始したのだった。

 日本軍は、国際連盟における撤退勧告案が決議された2月24日の総会の翌日2月25日には早くも本格的な「熱河作戦」を開始し、3月4日には省都の丞徳を占領。10日前後には長城線にまで達した。

 

 ところがそれでもまだ日本軍の進撃は止まらず、4月10日にはとうとう万里の長城を越えて、河北省内部へと侵入。5月3日にはさらに軍を進めて北京、天津方面へと向かって突き進んでいった。

 日本軍では北支那政権を屈伏させるべく、熱河省を含む満州国の安定的統治のため、北京、天津地区で親日満政権の樹立を促しながら敵地を侵略していった。

 5月の下旬はじめには、北京(北平)数十キロの地点にまで迫ったが、5月25日になってようやく、中国軍側からの停戦要求を受け入れ、昭和8年(1933)5月31日、河北省東部に非武装地帯を設けることなどを定めた「塘沽停戦協定」が締結された。


 そしてこの「塘沽停戦協定」をもって、 昭和6年(1931年)9月18日の「柳条湖事件」より始まった満州事変はようやく終結を迎えることとなる。


 だがその後、今度は昭和12年(1937年)7月7日に、北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である「盧溝橋事件」という、満州事変における柳条湖事件とよく似た日中の武力衝突事件をもって、日本はいよいよ本格的な中国内陸部への侵攻を開始していくこととなる。


 この「支那事変」(日中戦争)はその後ドロ沼化して、なんと日本が敗戦を迎える昭和20年(1945年)まで終わらずに続く戦争となってしまうが、しかし満州事変を主導した永田鉄山の狙いはもともと華北・華中に存在する中国の資源にあり、終始、日本軍は目標を目指して止まることなく、中国内陸部へ向けて進撃を続けていて、その中止も、永田が止められることによって終わったといえる。

 

 日本軍は昭和8年(1933)の国際連盟脱退後、いよいよ南進のスピードを速めるが、このころより同じ学歴閥グループ内で分離した「皇統派」と「統制派」とで激しい派閥争いが巻き起こるようになる。

 そのきっかけは「バーデンバーデンの密約」を交わした永田鉄山と小畑敏四郎との、北進か南進かを巡る対立から生じたが、華北・華中に日本の自給自足経済圏を獲得すべく、あくまで反日の蒋介石政権の屈伏を狙う「統制派」の永田に対し、ソ連との戦いを念頭に、米英の権益の集中する中国には手を出させまいとする小畑らは「皇統派」でまとまって永田の南進を阻止しようとした。それでそれ以上の南進が止まった。


 が、勢いを止められた永田は、かつて宇垣派を軍中央から排除していったように、邪魔者となる皇統派のグループを軍中央から排除しようと工作した。

 しかしそのために皇統派青年からの恨みを買って、斬殺されるという結末になるのだが、既に中央の人事を掌握していた統制派はさらに皇統派への圧迫を強め、追い詰められた皇統派青年が「二・二六事件」を起こして巻き返しを図るが失敗に終わり、軍中央における統制派の支配権が確立。

 その後は永田鉄山の意志を受け継いだ東条英機、武藤章らといった者たちによって、再び中国内陸部へ向けた進撃が再開されるが、そんな彼らの行動範囲にはもはや限界が存在しなかった。


 満州事変では、満州国国内の統治と国境地帯の安全のためという名目を設けて、ひたすら外にいる敵の排除へ向けて突き進んだが、支那事変(日中戦争)においても、親日支那政権樹立の妨げとなる敵を排除すべく、米英を相手に西はインド、南はインドシナ、東は太平洋まで戦域を拡げて、余りに戦域を広げ過ぎて戦力の分散を招き、ただでさえ少ない兵力が各個撃破で徐々に減らされて敗戦を招くという結果に終わった。






























手直ししながら書き足していきます。

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