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昭和日本陸軍の歴史  作者: 練り消し
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一夕会・陸軍学閥エリートたちの「満州事変」 ① (簡易説明版)

川田穣『昭和陸軍の奇蹟 永田鉄山の構想とその分岐』(中公新書)を中心に、一夕会の石原莞爾や板垣征四郎、永田鉄山らが主導した「満州事変」の大まかな流れについて。

◆ 「満州事変」の顛末 ① (簡易版)



● 満州事変発生後の経過


 「満州事変」とは、昭和6年(1931年)9月18日午後10時ころ、柳条湖付近の満鉄線路が爆破される「柳条湖事件」が発生したことをきっかけとして、関東軍と奉天軍との間で軍事衝突が発生し、それから満鉄沿線の日本人居留民の安全を守ることを名目に遼東半島の駐屯地から関東軍(関東軍の任務が関東省の防衛および南満州鉄道の保護だった)が出動を行い、当時は「東北三省」(遼寧省、吉林省、黒竜江省)と呼ばれていた旧満州領域内に駐留していた張学良率いる国民党の奉天軍閥を攻撃して追いかけ回し、最終的に満州外に追い出して代わりに日本軍が占領したという事件。

 張学良軍を駆逐した後、東三省にはそれぞれ日本軍によって親日の傀儡政府が樹立され、事実上、日本の支配下に収められてしまう。


 そして最終的には、先ず「事変不拡大方針」を決めていた民政党の若槻内閣が閣内不一致で総辞職となった後、昭和6年(1931年)12月13日に成立した犬養毅内閣(立憲政友会)によって、軍部の求めに従い満州に「独立国家」を建設することが容認され、そして昭和7年(1932年)3月1日、国家元首にあたる「執政」に清朝の廃帝・愛新覚羅溥儀を招き、「満洲国」の建国が宣言されるに至る。



● 満州事変は単に関東軍だけが暴走したのではなく、関東軍と陸軍中央に在籍していた「一夕会」所属の中堅幕僚グループたちによる協同謀議で引き起こされたもので、現地と中央で共同して、最終的に軍上層部と政府に対し、満州の地に傀儡の独立政権をつくることを承認させることが目的だった


 満州事変が発生したときの内閣総理大臣は若槻礼次郎(立憲民政党)内閣で、外務大臣は幣原喜重郎。

 一方、軍部のほうは、陸軍省は南治郎陸軍大臣、杉山元陸軍次官に、小磯国昭軍務局長、永田鉄山軍事課長、中村孝太郎人事局長、岡村寧次補任課長といった顔ぶれで、南、杉山、小磯ら三名はいずれも山県系長州閥・宇垣派の門閥グループに属する者たちで占められていた。

 また陸軍参謀本部のほうも、金谷範三参謀総長、二宮治重参謀次長、建川美次作戦参謀らトップはいずれも宇垣派だった。


 宇垣一成大将は維新の元勲である山県有朋から桂太郎、寺内正毅、田中義一と続く陸軍長州閥の後継者とみなされていた人物で、すでにこれまで幾度も陸軍大臣を歴任し、満州事変派生のころには次期首相候補が就く朝鮮総督の地位にあり、後は総理大臣のポストを狙うばかりという状況にあった。


・陸軍 長州山県系門閥グループ ① (宇垣派)

挿絵(By みてみん)


・陸軍 長州山県系門閥グループ ②(宇垣派)

挿絵(By みてみん)



 この事件は、一般には石原・板垣らの過激派関東軍中堅将校が、陸軍中央の命令を無視して独断専行で暴走した事件ととらえられているが、しかし実は、この事変の実行に当たっては、石原・板垣らと同じ「一夕会」と呼ばれる陸軍若手将校の集った革新グループのメンバーだった陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐、陸軍省補任課朝・岡村寧次大佐、参謀本部欧米課長・渡久雄大佐、参謀本部支那班長・根本博少佐、参謀本部欧米課員・武藤章少佐らといった者たちによって、協同して進められていた事件だったということが川田穣氏の書かれた『昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐』という本の中で説明されている。



 満州の統治を巡っては、田中義一首相の時代には、田中首相自身が満州の支配者である奉天軍閥の張作霖と親しい関係にあったため、友好的な関係が築かれていたが、やがて張作霖が日本の手を離れて独立の気配を見せたことで、関東軍によって暗殺される事態となる。→「張作霖爆殺事件(満州某重大事件)」

 張作霖を暗殺した犯人は一夕会のメンバーだった河本大作大佐で、事件後予備役に編入されるが、一夕会では河本に続けとばかりに、奉天軍閥に戦争を吹っかけて強引に武力侵攻によって満州の地を日本に領有にしてしまおうとする画策が秘かに練られていった。


 永田鉄山ら一夕会の中堅将校たちは、陸軍のトップを占める門閥グループの宇垣派に対し、陸大を優秀な成績で卒業した荒木貞夫中将(満州事変時に教育総監部本部長)、真崎甚三郎中将(満州事変時に台湾軍司令官)、林銑十郎中将(満州事変時に朝鮮軍司令官)ら将軍を、門閥に代わる新たな学歴閥のリーダーとして担ぎ上げるとともに、彼らの力も借りながら、満州の地で引き起こした満州事変を、宇垣派の軍のトップたちに事後承認させていこうと様々に暗躍することとなる。


 石原莞爾の満州事変での行動については有名で、他の媒体でもさまざまに語られているところではあるが、石原莞爾よりも世間一般的にはマイナーな、永田鉄山をはじめ、他の一夕会メンバーの者たちが、はたして一体どのようにこの「満州事変」に関わっていたのか。



・陸軍 学閥派トップ三将軍

挿絵(By みてみん)


・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・皇道派グループ)

挿絵(By みてみん)


・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・統制派グループ)①

挿絵(By みてみん)


・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・統制派グループ)②

挿絵(By みてみん)


・陸軍 中堅将校学閥グループ(一夕会・関東軍メンバー)

挿絵(By みてみん)


・陸軍 その他「一夕会」メンバー

挿絵(By みてみん)



※ 「東北三省」(旧満州)周辺地図

挿絵(By みてみん)


※ 「東北三省」(旧満州)地形地図

挿絵(By みてみん)



● 「満州事変」発生から終結までの流れ


 ~陸軍若手将校により、陸軍内の門閥打破と軍制改革を目指す「一夕会」が結成される~


・ 大正12年(1923年)、陸士16期の永田鉄山、小畑敏四郎、および東条英機ら陸軍若手の中堅将校らによって、軍内における長州系門閥打破と軍隊の近代化および国家総動員体制構築を目指した「二葉会」が結成される。


・ 昭和2年(1927年)、二葉会にならって、陸士21期から24期を中心に陸軍少壮の中央幕僚グループによって「木曜会(無名会とも呼ばれる)」(鈴木貞一、石原莞爾、根本博、村上啓作、土橋勇逸、武藤章ら)が結成される。


・ 昭和3年(1928年)6月、二葉会の会員だった関東軍高級参謀・河本大作によって張作霖爆殺事件が引き起こされる。当時、「東三省」(寧遼省、吉林省、黒竜江省)と呼ばれていた満州一帯の地は、袁世凱の北京政府から分かれた奉天派(奉天軍閥)の張作霖によって支配されていたが、張が日本の手から離れて独立しようとしたため、関東軍の陰謀によって暗殺される。

 張作霖死後、奉天軍閥は息子の張学良に引き継がれるが、張学良は日本に対抗すべく、蒋介石率いる南京国民政府の傘下に入ることを決断する。


・ 二葉会や木曜会の間で「満蒙問題」に対する議論が活発化する。二葉会では、ロシアと戦うための資源獲得と干渉地帯の確保をめざして、「満蒙に完全なる政治的勢力を確立する」ことを確認し合う。


・ 昭和4年(1929年)5月、「二葉会」と「木曜会」が合流して「一夕会」が発足する。

 この一夕会では、(一)陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める、(二)満蒙問題の解決に重点を置く、(三)荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を盛り立てる、という三つの方針が定められた。



 ~「一夕会」によって満州の武力奪取が画策される~


・ 「協調外交」を推進する幣原喜重郎外相によって、「満蒙五鉄道」のうち三鉄道までが「支那側の自弁敷設に委せ」ることが決定される。これに反発した一夕会の陸軍若手将校らによって、武力行使による満蒙問題の解決が画策されるようになる。


・ 昭和6年(1931年)6月、満蒙問題解決のため、陸軍の「省部」(陸軍省と参謀本部)に「五課長会議」が発足。

 メンバーは永田鉄山陸軍省軍事課長(一夕会)、岡村寧次補任課長(一夕会)、山脇正隆参謀本部編制動員課長、渡久雄欧米課長(一夕会)、重籐千秋支那課長らで、その後8月からは山脇に代わった東条英機(一夕会)に今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長(一夕会)が加わって「七課長会議」になる。

 「五課長会議」では「満州問題解決方針の大綱」が決定され、満州における排日運動が激化に対し、「約一ヵ年すなわち来春まで(昭和7年春)」を目途として対策にあたるが、もし沈静化されない場合には「軍事行動のやむなきに至る」ことを確認し、陸軍省、参謀本部首脳の承認を得た上で、関東軍にも伝達される。すなわち約一年後の「満州事変」決行の内部決定だった。


・ 昭和6年(1931年5月)、関東軍の主任参謀・石原莞爾中佐や高級参謀・板垣征四郎大佐らは独自に、「謀略により機会をを作製し軍部主導となり国家を強引」して「満蒙を我が領土とする」ことで満蒙問題の解決を図ろうとする「満蒙問題私見」を作成。


・ 昭和6年 (1931年)6月、「中村大尉事件」の発生。


・ 昭和6年 (1931年)7月2日、「万宝山事件」の発生。


・ 昭和6年(1931年)8月1日、関東軍の新司令官として本庄繁大将が着任する。


・ 「中村大尉事件」や「万宝山事件」など相次ぐ反日事件の発生を受け、一夕会のメンバーで関東軍参謀だった石原莞爾中佐や板垣征四郎大佐らは、「満州問題解決方針の大綱」で決められた満州の武力奪取を、予定された来年の春よりも前倒しして決行することを、永田鉄山ら陸軍中央の中堅幹部たちと示し合わせた上で決断する。



 ~柳条湖事件発生を機に「満州事変」が勃発する~


・ 昭和6年(1931年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外、柳条湖付近の南満洲鉄道の線路が爆破される「柳条湖事件」が発生。→「満州事変」の勃発。

 関東軍ではこれを南京国民政府の張学良率いる東北軍による破壊工作だと発表(実は石原らによる自演工作)すると、直ちに反撃に転じ、柳条湖近くにあった国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」を攻撃して占拠。

 さらにその後、旅順から本庄繁司令官率いる関東軍の本隊が出撃して、翌9月19日までに、奉天、長春、営口の各都市も占領。

 しかし19日の御前6時ころには、政府の「不拡大方針」が決定し、関東軍は一旦、軍を休止させる。

 ただし、厳密にはすべて彼らの独断であって、大元帥である天皇の命令なしで下した攻撃命令は、天皇の「統帥権」に触れる行いだった。


・ 昭和6年(1931年)9月20日、兵力不足の関東軍では朝鮮軍からの援軍が受けられるようにと、石原がさらに吉林省で爆破事件を起こさせる。


・ 陸軍中央では、一夕会を中心とした中堅官僚グループは関東軍の行動を「全部至当の事なり」として是認するも、旧来の長州系宇垣派で占められた陸軍トップの門閥グループは政府の不拡大方針に同調し、関東軍にも「すみやかに事件を処理して、旧態に復す」よう命令を下した。

 これに対し、一夕会員の永田鉄山陸軍省軍事課長は、同じ一夕会の課長同士で「七課長会議」を組織すると「時局対策」を作成し、陸軍トップの「三長官会議」(南次郎陸相、金谷範三参謀総長、武藤信義教育総監)を説得し、関東軍の進撃および朝鮮軍の越境を認めるよう、政府に要求することを承認させる。

 

・ 昭和6年(1931年)9月21日、閣議で朝鮮軍の満洲派遣問題が討議されるが、同意する者は若槻首相のみで否決される。金谷参謀総長は天皇に奏上して許可を求めたがやはり却下される。



 ~朝鮮軍が独断越境して関東軍の増援に向かう~


・ 昭和6年(1931年)9月21日、軍と内閣の許可のないまま、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で混成第39旅団に越境を命じ、国境を越え満州の関東軍に合流させる。


・ 昭和6年(1931年)9月22日、林朝鮮軍司令官は軍を独断で越境させてしまったが、しかしこの報に若槻首相は「すでに出動した以上はしかたがない」と容認すると、他の閣僚たちも皆首相に同意し、朝鮮軍の満洲出兵に関する経費の支出も決定される。天皇の承認も得られ、朝鮮軍の独断出兵は事後承認によって正式の派兵となる。


・ 若槻首相は朝鮮軍の増援は認めたものの、それらはあくまで「帝国自衛権の発動」のためのもので、不拡大方針は変わらず、治安が回復されたのなら兵も引かせようと考えていた。

 また、陸軍トップの南陸相や金谷参謀総長内閣の方針に従い、関東軍に対し「満鉄の外側占領地点より部隊を引揚ぐべきこと」という命令を与えた。

 が、なおも関東軍は進撃を止めず、北方は爆破事件の発生を理由にハルビンへ進撃し、南方は逃げた張学良軍を追って錦州方面へ軍を進めようとした。


・ 昭和6年(1931年)9月25日、一方、陸軍中央のほうでも石原らと同じ一夕会メンバーである永田鉄山軍事課長ら中堅幕僚同士で組織した「七課長会議」は「時局対策案」を作成し、南陸相や金谷参謀総長に向かって、満蒙新政権の樹立を要求する。


・ 昭和6年(1931年)9月30日、永田鉄山はさらに「満州事変解決に関する方針」を作定し、満蒙に「独立政権」を設けて中国本土より「政治的に分離」させ、「帝国は裏面的にこの政権を指導操縦」することで、満蒙問題の解決を図るべきだと主張。

  だけでなく、日本軍は満州からさらに飛び出して南下し、華北・華中における張学良の勢力を一掃し、同時に親日の反蒋介石勢力に独立政権を樹立させて蒋介石の南京政府を崩壊に追い込むべきだと訴え、彼らが軍上層部の決めた撤退方針に従うどころか、石原ら関東軍の暴走を後押しして逆に政府への決断を迫った。



 ~国際連盟に事件が提訴される~


・ 昭和6年(1931年)9月21日、蒋介石によって、事件が国際連盟に提訴される。

 9月22日、連盟理事会派でこれが取り上げられ、日中双方に対し事態の不拡大と両軍の撤退を求める通告が、全会一致で承認される。

 9月24日、国連の決定を受け、日本では政府の立場として改めて正式に「不拡大声明」を発表し、連盟の芳沢謙吉日本代表も、漸次撤兵の意向を明らかにした。


・ ところが国際連盟の場で「不拡大方針」を日本政府が発表したにもかかわらず、これまでは若槻内閣の不拡大方針に同意していた陸軍トップの南陸相、金谷参謀総長らが、ここで反対に、永田ら中堅幕僚からの執拗な抗議を受け、「撤兵拒否」「新政権工作承認」へと転じるようになる。



 ~関東軍の「錦州爆撃」で、国連からの非難が強まる~


・ 奉天を追われた張学良軍が逃げた遼寧省西武の錦州に対し、これまた軍中央の許可なく、関東軍が「錦州爆撃」を敢行。これにより、

日本政府が国連で出していた「事件不拡大」「漸次撤兵」表明が信用を失い、国連からの非難が強まる。


・ 関東軍はさらに軍を進めて、北満黒竜江省都のチチハルに向けて、南は遼寧省西武の錦州へと向けての進撃を企図するが、ところがこの関東軍の行動に対し、事変不拡大方針から軟化の姿勢を見せ始めていた若槻首相および、陸軍トップの南陸相、金谷参謀総長までが、ここでまた現地関東軍と陸軍中央部内中堅幹部たちからの要求に対し、再び慎重な態度をとるようになる。

 その理由は、チチハルの進撃はソ連軍との衝突を招きかねず、南部錦州への進撃もイギリスとの関係の悪化をさせる危険性があったからだった。

 満州事変からさらに進めて中国内陸部への進撃を求めた一夕会メンバーを中心とした中堅幹部たちに対し、陸軍のトップは内閣の大臣たちと同様、それ以上、進撃の手を広げて、ソ連や英米の権益を侵害して紛争になることのほうを恐れた。



 ~「桜会」による「三月事件」が発生~


・ 昭和6年(1931年)10月17日、 陸軍参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐のつくった「桜会」により、若槻内閣を打倒し、一夕会に慕われていた荒木貞夫教育総監を首班とする軍事政権の樹立を画策した「十月事件」が発生する。

 事件は未遂に終わったものの、政府に向けられた軍部の強烈な不満は、若槻内閣に大きな動揺を与える。


・ 昭和6年(1931年)12月10日、国際連盟理事会で、「満州事変」調査のため、現地に調査団を派遣することが決定される。



 ~「若槻内閣」が倒れ「犬養内閣」が成立~


・ 軍部の不満を受け、軍部とも提携した挙国一致内閣にするべきだと主張した安達謙蔵内相に対し、「協調外交」(対外進出を許さない)を主張する幣原外相と、「緊縮財政と金解禁」(軍の予算が抑え込まれる)の維持を主張する井上準之助蔵相らは断固反対の意を示し、これにより若槻内閣が「閣内不一致」で総辞職に追い込まれる。


・ 昭和6年(1931年)12月13日、若槻礼次郎内閣(立憲民政党)に代わって、今度は軍部の求める満州独立政権の樹立に寛容な犬養毅内閣(立憲政友会)が誕生する。

 

・ 新内閣の発足に合わせて閣僚人事も一新され、新たな陸軍大臣として一夕会の学歴閥ブループが推す荒木貞夫大将が就任。

 その後、部内の宇垣派も一掃され、陸軍中央のポストは一夕会中心の学歴閥グループのメンバーで独占されるようになる。


・ 昭和6年(1931年)12月23日、荒木陸相就任直後、陸軍省と参謀本部で「時局処理要綱案」が作成され、これまでの「中国主権下での新政権樹立」から、中国の主権から切り離した完全なる「独立国家建設」へと、軍部の公式的な立場が切り替えられることとなった。

 また、中国本土についても、排日琲貨の根絶を要求するとともに、反張学良、反蒋介石勢力を支援し国民党の覆滅を期し、さらにもし必要があれば重要地点での居留民保護のために出兵を断行する、とした。


・ 犬養内閣成立のおかげで、軍部は若槻内閣では止められていた満州での進撃行動を再開。昭和7年(1932年)1月3日には錦州を占領し、2月5日にはハルビンも占領。

 こうして日本軍は、柳条湖事件より4ヵ月半ほどで、満州の主要都市のほとんどを支配下に置くことに成功する。


・ 昭和7年(1932年)1月7日、アメリカのスチムソン国務長官によって、満州に関して中国の領土保全や不戦条約に反するような事態は一切認めないとする「不承認宣言」(スチムソン・ドクトリン)が発表される。



 ~「上海事変」(第一次)の発生~


・ 昭和7年(1932)1月28日、「上海事変」(第一次)が発生。国連における日本への非難の高まりを受け、関東軍の石原と板垣は、柳条湖、吉林での工作に続けて、今度は上海で日本人に対する支那人暴行事件を引き起こさせる。

 日本海軍は居留民の保護に陸戦隊を派遣するが、南京国民政府の正規軍である十九路軍との戦闘に発展する。

 この事件の衝突をきっかけに、陸軍参謀本部では、満州事変と平行して中国内陸部への侵出を窺った「支那事変」への突入まで意識するが、天皇からの意を受けた白川義則司令官率いる陸軍上海派遣軍が戦闘を終結させ、日本軍を撤兵させて事変を収束させる。



 ~「リットン調査団」が派遣されるも、日本は単独で満州国建国を承認~


・ 昭和7年(1932)2月3日、「リットン調査団」がヨーロッパを出発し、2月29日に来日する。


・ 昭和7年(1932)2月9日、井上準之助前蔵相が、右翼団体の血盟団によって襲撃を受け、殺害される。


・ 昭和7年(1932)3月1日、関東軍は政府の正式承認を待たず、独自に「満州国」建国の宣言を行う。清朝の旧皇帝溥儀を執政とする民主共和制の国で、「五族協和」(漢、満、蒙、朝鮮、日本の五族が平等の立場にたつ)を旗印としたが、内実においては、日本がその実権を掌握する傀儡国家だった。


・ 昭和7年(1932)3月5日、三井合名会社理事長の団琢磨が右翼団体の血盟団によって襲撃を受け、殺害される。


・ 昭和7年(1932)3月12日、犬養内閣が「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定し、日本政府として、軍部が求める満州国家建国方針を正式に承認する決定が下される。



 ~日本に対する国際的な非難の高まりとともに、日本国内で右翼の過激派や、血気の若手青年将校らによるテロ行為が増加していく~


・昭和7年(1932)5月5日、海軍将校山岸宏、三上卓、黒岩勇らが中心となって起したテロによって、犬養毅首相賀が射殺される「五・一五事件」が発生する。

 犬養首相は「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定し、日本政府として軍部が求める満州国家建国方針を正式に承認する決定を下したにもかかわらず、中国の宗主権までは否定しなかったために殺害された。



 ~犬養内閣に代わって元朝鮮総督の斉藤実(海軍大将・後備役)が首相を務める斉藤内閣が発足し、「政党政治」が終焉を迎える~


・昭和7年(1932)5月22日、犬養内閣に代わって元朝鮮総督の斉藤実(海軍大将・後備役)が首相を務める斉藤内閣が発足。


・昭和7年(1932)9月15日、斉藤実内閣は「日満議定書」を調印し、日本国政府として満州国を正式に承認。



 ~日本が国際連盟を脱退~


・ 昭和7年(1932)10月2日、日本軍の行動および満州国は承認できないとするリットン調査団による国際連盟「リットン報告書」が公表される。


・ 昭和8年(1933)2月14日、リットン報告書の審議を付託された連盟十九人委員会が、リットン報告書採択、満州国不承認の報告案を決定。


・ 昭和8年(1933)2月24日、連盟総会で、十九人委員会の報告と日本軍への撤退勧告案について、賛成42、反対1、棄権一票で採択された結果、松岡洋右以下日本代表団は即座に退場し、そして3月27日、日本の国際連盟脱退が正式に通告される。



 ~国連を脱退した日本軍が、さらに進撃の手を広げる~


・ 昭和8年(1933)2月25日、連盟を脱退した日本軍がさっそく本格的な「熱河作戦」を開始し、3月4日には省都の丞徳を占領。10日前後には長城線にまで達した。

 ところがそれでもまだ日本軍の進撃は止まらず、4月10日にはとうとう万里の長城を越えて、河北省内部へと侵入。5月3日にはさらに軍を進めて北京、天津方面へと向かって突き進んでいった。日本軍では北支那政権を屈伏させるべく、熱河省を含む満州国の安定的統治のため、北京、天津地区で親日満政権の樹立を促しながら敵地を侵略していった。



 ~万里の長城を越えて河北省に侵入し、そこで漸く停戦協定が結ばれ「満州事変」が終結する~


・ 昭和8年(1933)5月31日、日本軍と中国軍との間で、河北省東部に非武装地帯を設けることなどを定めた「塘沽停戦協定」が締結される。

 南京国民政府の蔣介石は、このとき対共産党作戦(囲剿作戦)を優先していたため、ひとまず日本軍の進撃を止めるべく、停戦に踏み切ったが、この協定により、日本軍は長城線まで撤退するが、中国側は日本の東北三省と熱河省の占領を黙認し、満州国の存在を認めさせられる結果となった。


 しかしこの「塘沽停戦協定」をもって、 昭和6年(1931年)9月18日の「柳条湖事件」より始まった満州事変は、ようやく終結を迎える。








手直ししながら書き足していきます。

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