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昭和日本陸軍の歴史  作者: 練り消し
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永田鉄山の軍事戦略構想 ② 「国家総動員体制」化構想

川田穣『昭和陸軍の奇蹟』等より、永田鉄山陸軍将校の軍事戦略構想について。② 「国家総動員体制」化構想編

◆ 永田鉄山の軍事戦略構想 ② 「国家総動員体制」化構想


 昭和初期の日本陸軍の軍事戦略を担った永田鉄山の構想には、大きく「生存権」獲得構想と日本の「国家総動員体制」化の二つがあった。

 「生存権」獲得構想は、資源の乏しい日本が海外の資源や市場の獲得を目指して、その後の日本の満州事変や華北分離工作、そして支那事変(日中戦争)といった対外侵略戦争へ向かう方向性と現われていったが、では日本の「国家総動員体制」化とはどのようなものであったのか?


・永田鉄山

挿絵(By みてみん)


「国家総動員体制」化とは端的にいえば、プロシア軍参謀本部方式の特徴だという、


「国家のすべての機能を国防の一点に集中するという思想」


を、制度化したもの。


 第一次世界大戦では、戦車や航空機、機関銃などの機械化兵器が本格的に登場し、膨大な人員と物資および、巨額の戦費が消尽される激しい消耗戦となった。

 戦争の勝敗は、兵員だけでなく、兵器や軍需物資をどこまで生産できるかという国ごとの工業力や技術力、国力で決まり、戦争は、国の総力をあげて戦争遂行を行う「国家総力戦」の時代へと移り変わっていった。




● 資源を海外に求め、工業生産力と技術力を高め、兵器を近代化する


 永田鉄山は、ドイツ駐在武官として滞在中に経験した「第一次世界大戦」を目の当たりにし、今後、人類の戦争は、戦車、飛行機、大口径長距離砲といった新軍事技術の出現によって「物質的威力」が飛躍的に増大し、それへの対応が喫緊の課題として迫られることになると予測した。

 それらの新兵器はきわめて強大な破壊力を有し、その威力に対しては、旧来の兵器のままでは、いかに十分な訓練を受けた優秀な将兵でも、まったく対処できない。したがって、新兵器など装備の改良とそれに対応する軍事編成の改変、強力な兵器の大量配置によって、「軍の物質的威力の向上利用」を図らなければならないと。

 このように永田は、大戦における兵器の機械化、機械戦への移行を把握し、それへの対応が国防上必須のことだと認識していたが、それらの指摘はまた、日本軍旧来の肉薄白兵主義、精神主義に対する批判でもあった。


 だが、このような軍備の機械化・高度化を図るには、それらを開発・生産する科学技術と工業生産力を必要とする。ことに戦車、航空機、各種火砲とその砲弾など、莫大な軍需品を供給するには「大なる工業力」が必要となる。したがって、「工業の発達」が「国防上重大」だと、永田は考えた。永田は、機械化兵器や軍需物資の大量生産の必要を重視していた。


 永田によれば、第一次世界大戦休戦時、飛行機は、フランス3200機、イギリス2000機、ドイツ2650機などに対して、日本は約100機。欧州各国と日本との格差は、20倍から30倍だった。その後も日本の航空界全体は、「列強に比し問題にならぬほど遅れている」状況にあり、じつに「遺憾の極み」だという。

 また戦車は、昭和7年(1932年)初期の段階でも、アメリカ1200両、フランス1500両、ソ連500両などに対して、日本は40両。


 それと、それら新兵器を生み出す工業生産力についても、第一次大戦前の1913年時点で、鋼材需要で、日本87万トン、アメリカ2840万トン(日本の32.6倍)、ドイツ1450万トン(日本の16.7倍)、イギリス495万トン(日本の5.7倍)、フランス404万トン(日本の4.6倍)だった。


 永田鉄山は、こうした日本と世界の深刻な「工業生産力」および「科学技術力」の格差を認識し、その欠点を克服すべく「工業生産力の助長・科学工芸の促進」が必須だと考えた。

 そしてそのために、平時においては、「国際分業」を前提とした対外的な経済・技術交流の活発化によって工業生産力の増大、化学技術の進展を図り、さらに「国富を増進」させるようにしていかなければならないと。


 だが、戦時になればそうもいかない。平時においてなら、工業生産力の発達を図るために、欧米や金輪諸国との国際的な経済や技術の交流が必須だが、ただしそれは政策上職務上のことであって、もし実際に戦争が予想される事態にもなれば、我が国として純国防的な見地から、国家総力戦遂行に必要な物的資源を確保して「自給自足」の体制を確立すべく、前もって、なるべく「帝国の所領に近い所」に、この資源を確保しておくことが必要になると、永田は説く。

 そして具体的に、この不足資源の確保・供給先としては、満蒙を含む中国大陸の資源を念頭に置いていた。

 永田鉄山は、国防に必要な資源については、国内にあるものは努めてこれを保護するようにするが、一方、国内でまかない切れず不足する資源については、とにかく何らかの方法で対外的に「永久または一時的にこれを我の使用に供しうるごとく確保」することが、国防上緊要の課題だと主張した。


 そしてこれは後に実際、「満州事変」、「華北分離工作」、「支那事変」(日中戦争)などといった日本軍による対外侵略戦争という形で実行へと移されていった。




● 永田鉄山の「国家総動員体制」化構想


 永田鉄山の唱えた国家総動員論の具体的内容は、大きく分けて、


①、「国民動員」

②、「産業動員」

③、「財政動員」

④、「精神動員」


の四点からなっていた。




①、「国民動員」


 ・「国民動員」とは、軍の需要および戦時の国民生活の必要に応じるため、人員を統制・調整し、有効に配置することをいい、つまり戦争に必要な死後とそうでない仕事に分けて、効率よく人員を活用できるようにすること。必要な場合には、国家の強制権によって労務に服させる強制労働制度の採用も検討するという。また、女性の労働力も活用できるように、託児所の設立の充実などにも取り組んでいく。

  それと、軍人による学校での「学校教練」や「青年訓練所(学校生徒以外の一般少年に兵式教練を行う)」を通じて、平時戦時を問わず国家に十分貢献のできるような精神と体力を有する人材を養成していくようにする。




②、「産業動員」


 ・「産業動員」とは、兵器など軍需品および必須の民需品の生産・配分のため、生産設備・物資・資源を計画的に配置するようにしていくこと。産業組織の大規模化・高度化が、平時における工業生産力の上昇、国民経済の国際競争力の強化にもつながる。

  永田鉄山は、平時の国家総動員中央統制事務機関として「国防院」を設置することを構想していた。長官には大臣格の人物を任用し、そのもとに国民動員・産業動員その他の総動員業務を主管する部局を置き、その職員には、それぞれ文官とともに陸海軍からも適任者を任命する。ポイントは、軍部の側から行政に対して、産業動員に関わる要求を伝える人員を送り込むことができるようにすること。



※ 「内閣軍需局」「陸軍省整備局」「内閣資源局」「内閣調査室」と経て、そして「企画院」、「国家総動員法」の成立へ


 日本における「国家総力戦体制」構築についての動きは、先ず第一次世界大戦時における「シベリア出兵」に備える必要性から、大正7年(1918年)6月に、内閣管理下に「軍需局」が作られたのを始まりとして、その後、軍縮の時代に入って余り整備が進められなくなるが、大正14年(1925年)の加藤高明内閣で宇垣一成陸相は、「宇垣軍縮」を断行しつつ、同時に人員整理で浮いた金で軍制改革を行い、その際に「軍事教練」の導入などによって独自に国家総力戦体制化についての整備を進めた。

 次いで加藤高明内閣後の第一次若槻礼次郎内閣になると、 昭和元年(1926年)4月に「国家総動員機関設置準備委員会」が設置され、今度は機関設置の本格的な準備が開始されるようになる。

 永田鉄山はこの機関設置準備委員会で陸軍側の幹事に任命される。次いで同年に「陸軍省整備局」が設置されると、今度は同局の初代動員課長となる。

 永田鉄山が自身で考えていたような国防院構想は、昭和2年(1927年)5月、若槻内閣後の田中義一政友会内閣のもと、整備局に代わって設置された「内閣資源局」として初めて実現される。この資源局では、離隔軍からも各課にスタッフとして人員が配置され、翌々年から毎年「国家総動員計画」を作成。この資源局の設置は、「フランス国家総動員法」成立、「イタリア国家総動員令」制定、「アメリカ国家総動員法」議会委員会提案などといった欧米の動向に対応したものでもあった。

 1927年(昭和2)の「内閣資源局」の誕生後、さらに1935 年(昭和10年)には、永田の働きかけにより岡田啓介(後備役海軍大将)内閣のときに「内閣調査局」が発足。

 この内閣調査局とは、陸軍が求める国策を総合樹立するための機関であり、「統制経済主義」を基調とし、また、同局は陸軍の国家統制論に共振する革新官僚たちの拠点ともなっていった。

 永田らの考えていた政治介入方式は、陸軍省内に、軍事のみならず国策全般について総合的に検討する機関をつくり、そこで立案された具体的政策を、陸軍大臣を通じて(恫喝も含め)内閣に実現を迫るというものだった。

 「内閣調査局」(政務調査のための政府諮問機関)は岡田内閣のときに一緒にできた「内閣審議会」(重要国策審議のための政府諮問機関)とともに、革新官僚たちの受け皿となった。


 そして永田の死後、この内閣調査局は、1937 年(昭和12年)の林銑十郎(予備役陸軍大将)内閣のときに、改組されて「企画庁」となり、さらに、「支那事変」勃発後の1937 年(昭和12年)10月に、内閣資源局と統合して「企画院」となる。

 この企画院は、国家総動員機関と総合国策企画官庁としての機能を併せ持った強大な機関で、重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後は、戦時下の統制経済諸策を一本化し、各省庁に実施させる機関になっていった。


 そして日本が「日中戦争」(支那事変)を開始してから約7ヶ月ほどたった1938年(昭和13年)2月になって、近衛内閣のときに「国家総動員法」が成立。

 この国家総動員法とは、

「戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含む)に際し国防目的達成のため国の全力を最も有効に発揮せしむるよう、人材および物的資源を運用する」

ために、政府にあらゆる部門に渡って強力な権限を与えることを決めた法律で、この法律は、戦時、あるいは戦争に準ずべき事変となった場合に、政府は、国民の徴用から物資、不動産、商業取引、投資、物価、そして言論・表現まで、すべてを管理、統制できることとなり、運用によっては帝国議会さえほとんど有名無実化することが可能になるというほどの法律だった。


 そのため民政党の斉藤隆夫議員や、政友会の牧野良三議員などからは、「憲法違反」だとの批判も出されたが、「二.二六事件」から二年目を迎え、青年将校たちがさらに大規模なクーデターを画策しているとの噂が広まったり、実際に政友・民政両党本部が右翼に占拠されたり、社会大衆党の安部磯雄委員長が右翼に襲撃されるなどの事件が相次ぐ状況のなか、法案成立となった。


 また、「国家総動員法」の成立と同じ年、「電力国家管理法」も議会で成立。

「電力国家管理法」とは、全国に散在する民営の電力事業を、軍事および国民経済の必要に即応できるようにすべて国家の管理下に置くことを目的にした法律で、いずれの法律も、日本という国家の体制を、自由経済から統制経済に変革しようと図る革新官僚と軍部が結託し、ゆるがない近衛人気を利用して、政友・民政両党、そして経済界の強い抵抗を抑え込んで実現させたものだった。




③、「財政動員」


 ・「財政動員」とは、戦争の遂行および戦争の準備のために必要な予算を財政から獲得すること。日本の軍事予算は昭和12年(1937年)の「支那事変」(日中戦争)を境に急激に増加し始め、太平洋戦争の末期には、日本の税収における軍事費支出の割合は8割を超えるほどまでになった。


(単位 1000円)

「期又は年度」 「軍事費総額」 「国家財政に占める軍事費の比率」


昭和 2年度(1927)  4億96,630円 28.1%

昭和 3年度(1928)  5億19,735円 28.6%

昭和 4年度(1929) 4億96,405円 28.6%

昭和 5年度(1930) 4億44,302円 28.5%

昭和 6年度(1931) 4億61,204円 31.2% ←「満州事変」

昭和 7年度(1932) 7億 1,033円 35.9%

昭和 8年度(1933) 8億81,056円 39.1%

昭和 9年度(1934) 9億48,391円 43.8%

昭和10年度(1935) 10億39,235円 47.1%

昭和11年度(1936) 10億85,454円 47.6%

昭和12年度(1937) 32億93,989円 69.5% ←「支那事変」(日中戦争)開始、「国民精神総動員」運動(「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ!」・・・)の展開

昭和13年度(1938) 59億79,059円 77.0% ←「国家総動員法」制定

昭和14年度(1939) 64億89,572円 73.7%

昭和15年度(1940) 79億63,490円 72.5%

昭和16年度(1941) 125億15,349円 75.7% ←日中戦争と同時進行で「太平洋戦争」突入

昭和17年度(1942) 188億36,742円 77.2%

昭和18年度(1943) 298億28,910円 78.5%

昭和19年度(1944) 735億14,945円 85.3%

昭和20年度(1945) 552億42,895円 72.6%


〔資料〕大蔵省「決算書」




④、「精神動員」


 ・「精神動員」とは、国民に国際安全保障環境の悪化を訴え、国防意識を高揚させて積極的に戦争へ協力するような状況をつくりだすこと。

 永田鉄山は、陸軍省軍務局長時代の昭和9年(1934)10月1日に、同じ統制派で陸軍省軍事課員だった池田純久中佐らに命じ、『国防の本義とその強化の提唱』と題した「陸軍パンフレト」を作成させて一般向けに配布する。

 そこでは、「たたかひは創造の父、文化の母」といった内容のことが書かれ、広く国民に対し、今後いっそう厳しさを増すであろう国際安全保障環境の悪化に備え、国は権限を強化して経済の統制まで関与し、国民も国防の意識を高めて積極的に協力していくようにしなければならないということがしつこく説かれた。



 “ 半藤一利『昭和史』P.145~より


「たたかひは創造の父、文化の母」


 戦争があらゆるものをつくりあげる父であり、文化の母である。そうした戦争にいつでも応じられる日本にしなければならないというのです。

 今読むとものすごい文章で、「国防、国防」のオンパレード、日本人はもっとしっかりしなければならないという激励で埋まり、全編にみなぎるのは濃厚な好戦的な軍国主義思想で、それを粉飾するために厚化粧の美文が書かれているのです。

「国防は国家生成発展の基本的活力の作用なり」

「国民は必勝の信念と国家主義精神を養い、それには国民生活の安定を図るを要する」

と、それを実に厳かに書いています。

 そして現在の日本の資本主義は誤っている、修正しなければならない、そして、

一、国家観念の強調ー天皇制国家の強調ですね。

二、社会政策の振興ー資本主義をもう一度考え直すということ。

三、統制経済の提唱ー後に戦争に入ると統制経済が中心になりますが、この時から考えられていたのです。

 要するに日本が国家総力戦体制、高度国防国家をつくるためには自由主義ではだめだ、ナチス・ドイツのように資本主義経済体制をこわして統制経済にせねばならないのだと説くわけです。

つまり軍が統制する国家です。

 この「陸パン」が出ると新聞などマスコミも驚き、経済界などは「なに?おれたちのやっていることの全否定か?」と一番びっくりしました。

 ところが陸軍内部では、皇統派の青年将校らもこの文書を大歓迎し、これがそのまま実行されるのならわれわれが考えている国家改造など無理に強行しなくてもいいのではないか、統制派のエリート佐官クラスが全部やってくれるのなら任せようではないかという気持ちにもなったのです。 ”




● 宇垣一成の日本列島「国家総力戦体制」化政策 ~「宇垣軍縮」時に既に実施されていた国民皆兵の「兵営国家」作り~


 永田鉄山は、資源を求めて「生存権」を海外に拡大し、工業生産力と技術力を強化して兵器の増産と近代化に努め、そして日本の「国家総動員体制」化を進めていくという軍事構想を抱いていたが、実はこれらの点において、永田とまったく同じ考えを持って、そして永田よりも早く、その実現へ向け、軍政改革に着手していた人物がいた。

 それが、大正末期から昭和初期にかけて、旧長州山県閥に代わって陸軍の実権を握り、「宇垣閥」と称される勢力を築いて陸軍をリードしていた宇垣一成。


・宇垣一成

挿絵(By みてみん)


 宇垣一成は、大正14年(1925年)、加藤高明内閣において、軍事予算の削減を求める世論の高まりを受け、「宇垣軍縮」とよばれる大規模な軍縮を実行したが、しかしこのとき彼が行った軍縮では、軍縮によって浮いた予算で代わりに、戦車隊や航空機隊を新設し、機関銃などの兵器を増やすなど、装備の古くなっていた日本軍隊の近代化を図った。


 宇垣一成が陸相として行った「宇垣軍縮」は、兵員の人数を減らす代わりに軍隊装備の新式化を図ったものだったが、しかしその軍縮内容は、単に兵隊の数を減らして装備のリニューアルをしただけではなかった。

 宇垣は自身の行った軍縮について、


「今回の軍備整理は、国民世論の先手を打って軍縮を断行し、併せて国防の改善を図り、軍民一致融和して挙国国防の端緒を開く。この三点を狙ったものである」


と語っていたという。


 永田鉄山が、「国民動員」のために有用だと語っていた軍人による学校での「学校教練」や「青年訓練所」の設置は、これも実は宇垣一成によってつくられたものだった。

 宇垣は軍縮に先立って、大正14年(1925年)4月に、「陸軍現役将校配属令」を制定。

これは、男子の中学以上の学校に現役の将校を配属させ、そこで生徒たちに「軍事教練」を施すというものだった。

 当時の徴兵制度は、満20歳以上になった青年男子が徴兵検査を受けて「甲・乙・丙」に分けられ、その上位者から現役徴収されて戦場へ送り込まれるというシステムだったが、宇垣軍縮ではそれを、学校教練によってまだ召集前の子どもたちに施すことで、事前に日本男子の誰もが兵隊として使えるようにしようとした。

 しかも、その予算は、陸軍の予算ではなく、文部省の予算で賄われた。


 宇垣一成は「山梨軍縮」が行われたとき、大正11年7月の日記に、


「ますます国民の国防精神を高揚し、国防実力の充実を図らねばならぬ。即ち国民の協同一致の精神、国家皆兵の精神、国家総動員の精神の充実を図らねばならぬ。軍備の縮小さるるだけ、その反対にこの精神は高潮せねばならぬ」


と語ったが、これは「陸軍パンフレト」に書かれた永田鉄山の「国民精神総動員」の思想とまったく同質のものだった。


 宇垣軍縮は、関東大震災で、もっと軍隊を減らせという声が高まる前に、軍縮をやっただけでなく、中学校に軍事教練を導入して、国民の国防意識を改善し、国家総動員体制を構築していったが、それは陸軍主導で、陸軍独裁を狙った、政治色の強いもの(「軍ファシズム」)だったといい、そういう点でも永田鉄山の理想とする軍事構想と性格を同じくするものだった。


 “ 現代史に学ぶ 永原実歴史講座 - 「第17回 陸軍の軍縮と軍国化への道」より


 宇垣は軍縮に先立って、まず大正十四年四月、「陸軍現役将校配属令」というものを作りました。これによって、男子の中学校以上に二千人の現役将校を配属したのですが、軍縮で余る将校の央業対策でした。私が中学に入った時の軍事教官も、この宇垣軍縮でクビになった少佐と大尉でした.思ったほど規則一点張りでなく,暑い時の教練など'すぐ「疲れたろう.少し休め」と云って、木陰で休憩をとらせてくれたものです。ところが翌年'士官学校出、バリバリの現役の若い中尉がやってくると、もういけません。精神主義の塊で、訓練'訓練に1変してしまいました。三八式歩兵銃というのは大変重たい、中学生の肩にはずしりと重さがこたえる鉄砲で、うっかり落とそうものなら大変です「菊のご紋章がついているのに何事だ」と、軍刀で殴るのです。少佐、大尉の教官は階級では上なのに、予備役では現役には頭が上がらないのか、この中尉に小さくなっていました。軍刀で殴られた私の同級生は、本当は海兵志望だったのに、「あいつを見返すには、陸軍に入ってあいつより偉くなるしかない」と云って幼年学校に入りましたが、半年も経たないうちに終戦になってしまいました。

 実はこの配属将校制度は、失業対策以上に、いざ戦争になった時に大隊長、中隊長として先頭に立つ要員、一番大切な少佐、大尉クラスの中堅幹部を定員外で温存する狙いがあったのです。それも陸軍の予算ではなく、文部省の予算によってですから、うまいことを考えたものです。こうして中学、高等専門学校では軍事教練が必修科目になり、一週に二、三時間、各個教練とか部隊教練のほかに射撃も教えるようになりました。 

<略>

 宇垣軍縮のもう一つの大きな特徴は、大正十五年四月、小学校を卒業しただけの勤労青少年のために、青年訓練所を作ったことです。市町村のほか、大きな工場や鉱山、商店などでも、文部省の許可で設立出来ました。対象は十六歳から二十歳まで、期間四年の定時制です。ところがその訓練内容となると半分は軍事教練なのです。修身公民百時間'普通の学科二百時間、職業課程が百時間に対して、軍事教練には四百時間もとっています。ここでも教練検定に合格すれば、現役を半年短縮出来ました。

 このように宇垣軍縮と云うのは、軍隊は減らした代わりに、軍隊の外で学校教練、青年訓練を組織化し、文字通り「国民皆兵」を実現したものだったのです。 ”



 ただ、宇垣一成が導入したこの「軍事教練」によって、日本の学校が「軍隊化」され、そのために、これが後々、日本の学校で常習となる「体罰」が伝統として植えつけられる始まりにもなってしまったという。


 “ 尾木直樹「尾木ママ、どうして勉強しなきゃいけないの?」より


「一方で、日本で学校制度が発足したのが明治5年(1872年)のこと。それ以降、戦前戦後も含めて、体罰を認めるという法律ができたことはありません。ただし例外としては、戦前の感化院――いまでいう少年院のようなものですが、そこの『感化法』で「暴力はふるってもよい」と一瞬だけ出てきますが、戦後はもちろん、すぐにこの記述はなくなりました。それ以外に教育界で体罰は認められたことがないにもかかわらず、「昔は先生にバンバンやられたよ」なんて、振り返る人が多いのも事実です。

 それは軍事教練で、戦中に学校教育の中に軍人さんが入ってきたことが大きく影響しているんですよね。軍部のやり方でビシバシと子どもたちを殴り始めて、それが教育だと勘違いをして、軍人ではない教師たちも殴って言うことをきかせるようになってしまったんですよ。” 






◆ 戦前の「国家総動員体制」が戦後の日本に与えた影響


● 統制経済の「選択と集中」による効率化が生む劇的な効果と負の側面


 社会学者の小室直樹氏によれば、戦後日本の、


・護送船団方式

・官僚主導体制

・企業労働組合

・下請け制度


などといった「1940年体制」と呼ばれる国家による統制経済体制は、戦後の復興期、日本経済の快進撃期、高度成長期を通し、一貫して日本経済を支える根幹のシステムとして活用されてきたが、これらの諸制度は、実は戦前の日本で、「国家総動員体制」が築かれていく過程でつくられたものなのだという。


 さらに、日本は未だ、この半「国家社会主義」というべき国家による統制経済体制(戦時動員体制)からの脱却を図れぬままの状態になってしまっているのだとも。



 “ 小室直樹『日本の敗因―歴史は勝つために学ぶ』(講談社プラスアルファ文庫)より


・日本の経済システムは1940年(昭和15)にできあがった。1940年の戦時動員体制が、戦後も残り、政治や経済の分野で「1940年体制」「15年体制」と呼ばれるような体制をつくりあげていった。

(※1940年は、日本のすべての政党が自主的に解散して体制翼賛会となり挙国一致体制が完成した年。)


・「戦時動員体制」とは、「上からの命令で、すべてが動くという体制」のこと。


・日本の経済は、役人の命令で動くものにしてしまった。


・役人がすべてを決める経済を「統制経済」と呼ぶ。


・日本は資本主義社会だといわれるが、その内実は、政府によって統制された部分がきわめて多く、金融業界は、業界が横並びで、競争もなく、一団となって日本の経済、産業を支えていくという政府主導の「護送船団方式」が採用されたり、あるいは、ほんとうは放漫経営の銀行であっても、天下り先がなくなるから、「預金保護のため」という名目で、「銀行は、絶対につぶさない」などという、ばかげた話が出てきたりもするようになる。


・戦後のお金のなかった日本では、ひ弱な産業を育てるための「重点投資」として意味のある側面もあったが、しかし、ここまで産業や経済が育ってきたら、だんだんと自由化していくべきだった。


・金融には「間接金融」(銀行などが広く預金を集めて、それを投資に回す)と「直接金融」(企業が株や社債などの証券を広く金融市場に売り出し、それを資金とする)があるが、日本の産業界では、計画的にまとまった融資を受けやすく、また、政府が業界の手綱を握り、それぞれの銀行の判断とは別に、成長の必要な産業、道路や鉄道網などといったインフラに、効果的に投資のしやすい間接金融のほうに偏って資金の調達をしてきた。


・経済の発展に合わせ、間接金融だけでなく、直接金融の発達を促すべきだったが、日本では逆に、大蔵省が、1965年(昭和40)に、証券不況が深刻化したのを機に、証券市場まで役人が握り、証券会社を許可制にしてしまった。


・「証券市場はマーケット・メカニズムで動くのではなく、役人の命令で動くのだ」ということにされてしまった。


・日本で株式投資というと、一種の投機という側面だけが強調されて、予想収益だとか配当率だとかが、まったく関係ないところで価格が決まってしまう。株式ブームでいえば、それが投機ブームになってしまい、そのため、ウジやシラミが湧くように役人が湧いて出てきて、「おれの命令でなんとかしてやるぞ」ということになる。


・戦時統制下では、「会社もまた、天皇陛下からお預かりしたものである」などといわれていた。

だから、日本では官僚が企業を統治したがる。


・戦前はまだ下っ端だった官僚が、戦後、追放されないで実権を握ってしまった。彼らに「私的所有」などという概念はない。国民にもそういう意識がない。だから、株式市場は役人の命令でうごくもので、会社はそこで働く社員のものだなどというヘンなことになってしまった。(会社はあくまで株主のもので、会社の整理や売却も「所有者」である株主が自由に決めること。それが資本主義。)


・日本の資本主義は結局、戦時経済以来、資本家不在のままできてしまった。「資本家なき資本主義」である。


・そして挙句の果ては、「市場」も成立しなかった。市場が、市場の原理で動く。それが市場であって、役人の統制で動く市場は、市場とはいえない。


・資本主義が日本に根付かなかった背景には、国民の意識の問題が大きい。「滅私奉公、天皇陛下の御ために働くのであって、利益のために働いてはならない」という意識が、昔から根強く、現在まで尾を引いている。


・戦争の少し前に、「自分の利益をいうような奴は国賊だ」という空気が作り上げられていった。そのころ威張っていた革新官僚がその後の日本の実権を握った。だから、戦後になっても、「利益が第一」なんていうと、悪いことをしているような感じになる。そういう空気が根強く残った。


・資本主義社会では、利益第一主義で当然。利益を第一に考えて、はじめて存在価値があり、社会で役割を果たす。それが資本主義で、資本主義の理念は、マーケット・メカニズムを通じて、利益の最大化を合理的に達するということ。


・織田信長は、自由な商業を発展させることが国を富ませるポイントだと証明し、豊臣秀吉もそれを受け継いだ。

ところが徳川時代は士農工商の身分制を敷いて、商業をはじめとしたあらゆることを統制してしまった。


・明治以降の日本は必死に資本主義を進めて、戦前はあるレベルのところまできていたが、それを戦時統制で押さえつけて、その統制的なやり方がいまも続いている。


・マーケット(市場)がないので、モラル・ハザードを起こす。つまり、道徳的な節度をなくした行動をとってしまう。マーケットがあれば、マーケットが監視してくれる。マーケットにはルールがあり、そのルールを破る者がいれば、マーケットが罰を与える。

 大和銀行がアメリカで損失隠しをやったとき、アメリカ金融市場から追放された。


・日本には、本当の意味でのマーケットがないので、この監視機能が働かない。監視しているのは大蔵省だから、ある金融機関のやり方がルールに沿ったものであるか、そうでないかは、大蔵省の胸三寸。だから、大和銀行のときは、大蔵省も一緒になって「損失隠し」をやった。 ”



 資本主義国を標榜しながら、実はずっと「統制経済体制」を敷いてきていた戦後の「国家社会主義」国日本。

 「統制経済」は「選択と集中」による効率化で壁的な効果が得られる反面、しかしそこには、一時の成功によって見えにくくなる、大きな欠陥も孕んでしまっているようだ。



 “『池上章の 世界を変えた本』第二回 “経済書の古典” カール・マルクスの「資本論」より


―― マルクスの資本論から生まれた社会主義国家の試み、その多くが失敗に終わった。


森田 「社会主義の問題点がここまであるにも関わらず、(ソ連が)70年以上も続いたっていうことがむしろ不思議に思えてきてしまうのですが」


池上 「あ、なるほどね。あの、資本主義に代わる理想の社会を作ろうじゃないか、という当時の理想に燃えていて、で、事実、ソビエトにしても中国にしても北朝鮮にしても、最初はね、経済力が劇的に成長するんですよ。

 ところが、それがある程度まで来ると、結局はああやって、持続可能ではないというふうになってくる。

 しかし、そうなってからもかなり長いんですが、これはやはり、言論の自由をずーっと抑圧をし、報道の自由を徹底的に抑え込んだ結果、人々の不満というのが表に出なかった。あるいはちょっとでも不満を言うと、直ちに捕まってしまう。それによって、ここまでずっと、持ちこたえることができた、ということでもあるのだろう。

 また逆に、資本主義だってあんまり人のこと言えないわけですよね。様々な矛盾点があるわけですよね。資本主義のほうがずっと素晴らしいとも、必ずしも言えない部分も、それはそれであった、ということなのだろうと、思うわけですね」 ”






































手直ししながら書き足していきます

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