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昭和日本陸軍の歴史  作者: 練り消し
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永田鉄山の軍事戦略構想 ① 「生存圏」構想

川田穣『昭和陸軍の奇蹟』等より、永田鉄山陸軍将校の軍事戦略構想について。① 「生存圏」構想編

◆ 永田鉄山の軍事戦略構想 ① 「生存圏」構想


 昭和初期のころ、陸軍中堅幕僚の中心的存在となり、満州事変以降の日本陸軍の軍事戦略を主導した人物の一人として知られる永田鉄山ながた てつざん


・永田鉄山

挿絵(By みてみん)



● 永田鉄山、岡村寧二、小畑敏四郎ら陸軍「十六期の三羽鳥」による「バーデン・バーデンの密約」


 永田は長野県諏訪市出身で、陸大卒業後、第一次世界大戦を挟んで断続的に計約6年間、軍事調査などのためヨーロッパ、とりわけドイツ周辺に滞在した。

 そして同じ頃、永田は、やはりヨーロッパに赴任していた陸軍士官学校同期の岡村寧二おかむら やすじ少佐、小畑敏四郎おばた としろう少佐らと、1921年(大正10年)10月27日にドイツのバーデン・バーデンで会合し、明治維新のころから続く古びた陸軍長州派閥の解消や軍制改革の実現をめざした「バーデン・バーデンの密約」と呼ばれる約束を取り交わし、これが後の日本の「挙国一致体制」と「対外侵出」を方向づけるものへとなっていった。


 当時、岡村は歩兵第十四連隊付で欧米視察の途次、永田はスイス公使館付武官、小畑はロシア大使館付武官の身分だった。

 彼ら三人はいずれも陸軍大学校を優秀な成績で卒業し、天皇から恩賜の軍刀を授けられた「軍刀組」と呼ばれるエリートたちで、当時、陸軍で「十六期の三羽鳥」と呼ばれていた。

 中でも永田鉄山は「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評されたほど陸軍きっての秀才で、いずれ間違いなく陸軍大臣になるであろうと目されていた人物だった。


 そして実はこのときにちょうど、同じくドイツのライプツィヒに駐在していた陸士17期・東條英機も岡村寧二に誘われて仲間に入り、密約は四人のものとなった。

 東條英機は彼の父親が陸軍大学校一期の首席卒業者でありながら、南部藩出身で長州閥ではなかっために冷遇されたことを非常に恨みに思っている人物だった。

しかし東条はその後、個人的に永田鉄山に激しく私淑し、東条は永田にとっての盟友、あるいはその軍事思想の継承者といった存在へとなっていく。


 彼らがバーデン・バーデンで話し合った内容とは具体的には、


・派閥の解消

・人事の刷新

・軍制の改革

・総動員体制


といった事柄についてで、そして彼らが日本に帰国後、最初に手をつけたのが、陸軍士官学校や陸軍大学校を出た人材で若い有能な将校集団を作り、そして薩長閥に閉ざされたコネ主体の派閥人事を、彼ら専門の軍事教育を受けた「学歴閥」によるエリート・グループで刷新していくことだった。


 四人は帰国後、相次いで陸大の教官に就任したが、その際に、彼らが試験で悪い点をつけて、先ずは陸大から徹底的に長州出身者を排除していった。




● 「一夕会」の結成


 さらに永田・岡村・小畑・東条らの四三人は帰国後、大正3年(1923)ころ、陸士16期を中心に同様の考えを持つ陸軍幕僚同士で「二葉会」(河本大作、山岡重厚保、板垣征四郎、土肥原賢二、山下奉文など)を結成。

 その後、二葉会にならって、昭和2年(1927)ころ、陸士21期から24期を中心に鈴木貞一参謀本部作戦課員ら少壮の中央幕僚グループによって「木曜会」(鈴木貞一、石原莞爾、根本博、村上啓作、土橋勇逸ら)が結成されるが、昭和4年(1929)、二葉会と木曜会が合流して「一夕会いっせきかい」が結成される。


 一夕会では、「陸軍人事の刷新」、「満州問題の武力解決」(対露戦争の準備のため、満蒙に完全なる政治的勢力を確立し、満州における中国の主権を否定する)、「荒木貞夫あらき さだお真崎甚三郎まさき じんざぶろう林銑十郎はやし せんじゅうろうら非長州系三将官の擁立」という三つの目標を取り決め、今後はさらに、陸軍中央内の重要ポストを自分たちの学歴閥グループで埋めて掌握していこうということになった。


 荒木と真崎は陸軍士官学校第9期の同期で、このあたりから陸軍では、従来の薩長藩閥から離れた一夕会ら学歴罰側のメンバーたちと近い、専任軍事技術者としての意識をより強く持ちはじめるようになってきたといい、それが彼らが一夕会に担がれた理由だった。


 しかし、永田ら一夕会で行われた長州グループ出身者の派閥打倒運動は、明治以来の古い大きな派閥の打破に成功したものの、その代わりに、あるいはそれ以上にもっと厳格で柔軟性の低い、がんじがらめの「陸大エリート閥」を形成するというマイナス面を生み出すことにもなってしまうのだった。


 一夕会が結成されたのは、維新の元勲・山県有朋を頂点とする陸軍長州閥を引き継ぐ田中義一内閣の末期、浜口雄幸内閣成立約1ヶ月前で、その後、この陸軍長州閥・田中派は、昭和3(1928年)になって、岡山出身の宇垣一成うがき かずしげが引き継いで新たな陸軍藩閥主流派のトップとして収まる。

 しかしこの宇垣一成という人物は、旧来の藩閥グループを率いながら軍人としては進歩派で、宇垣一成は加藤高明内閣の陸軍大臣として「宇垣軍縮」を実行して人員整理を断行する一方、その分の浮いた金で旧式の日本陸軍の装備を新式のものに変えるなど軍隊の近代化を図った。


 宇垣の軍に対する考えは、永田ら一夕会のメンバーたちが実現を目指していた「総力戦」時代を勝ち抜くための「国家総動員体制」の構築という点でも一致していて、当初は一夕会から支持されていたが、しかし宇垣は陸軍大臣という政治家の立場では、政党政治家たちの協調外交と同調し、軍の対外進出を抑える方針を取ったため、軍縮で人員整理を強行したという恨みも合わさって、やがて一夕会から排除されるようになっていく。


 そして一夕会結成から3ヵ月後の昭和4年(1929)8月に、岡村寧次が、全陸軍の佐官級以下の人事に対して大きな権限を持つ陸軍省人事局補任課長のポストを得ると、この岡村補任課長を通して、一夕会の陸軍中央ポスト掌握が本格化しはじめ、さらに翌昭和5年(1930)に、永田鉄山の陸軍省軍務局軍事課長(予算配分に強い発言力を持ち、軍政部門のみならず全陸軍における最も重要な実務ポスト)への就任が決まると、このころには彼ら学閥エリートグループが、軍の主流を形成するようになる。


 一方そのころ、政治の世界のほうでは、濱口内閣とそれに続く第二次若槻内閣において、協調外交を掲げる幣原外相と、緊縮財政を進める井上蔵相のもとで軍縮が進められ、軍人たちにとっては「冬の時代」を迎える。

 しかし、政党政治家たちによる緊縮路線は、昭和4年(1929年)に発生した「世界恐慌」の発生と重なって日本にも「昭和恐慌」という深刻な経済不況をもたらす結果となってしまい、こうした状況に軍内若手将校らの不満が遂に頂点に達し、現役閣僚に対する襲撃事件や政府転覆を画策したクーデター未遂事件が続発するような時代へと突入していってしまう。




● 「満州事変」の決行


 そして、そのような状況の中、引き起こされたのが、昭和6年(1931年)9月18日の「満州事変」だった。

 この事件は、協調外交で列強に迎合し陸軍の対外進出を抑え込もうとする政党政治家たちを無視した「軍部の暴走」によって引き起こされたものだったが、この事件を主導したのが永田らの一夕会に関わるメンバーたちで、そしてそのグループの最も中心にいたのが、永田鉄山という陸軍将校だった。


 では、この永田鉄山という陸軍軍人は、具体的には一体どのような軍事思考および軍事戦略構想の持ち主だったのだろうか?




● 永田鉄山の軍事戦略構想 ①:「国家総動員体制」の構築


 永田鉄山が軍事改革の必要に目ざめたきっかけは、彼がヨーロッパ滞在中に体験した「第一次世界大戦」の衝撃だった。

 1914年(大正3年)7月から1918年11月まで、4年半近くの長期にわたってつづいたこの戦争は、戦死者900万人、負傷者2000万人という、それまでの戦争とは比べ物にならないほど未曾有の規模の犠牲者と破壊をもたらす凄惨な戦争となった。


挿絵(By みてみん)


 永田は、この大戦によって戦争の性質が大きく変化したことを強く認識した。


 戦車や飛行機といった新兵器の出現とその大規模な使用による機械戦への移行、また通信・交通機関の革新による戦争規模の飛躍的拡大。そしてそれらを支える膨大な軍需物資の必要と、それらの兵器を生み出す工業生産力の重要性の高まり。

 これらのことによって人類の戦争が、今までのように陸海軍の兵士たちだけで戦うのではなく、もっと「国家社会の各方面」にわたって、国民のすべてが戦争遂行に関わる何らかの動員のために借り出される、すなわち「国家総動員」が行われるような「国家総力戦」時代へと変貌したのだということを彼は強く実感した。

 

 そして、その国家間同士の総力戦に、いずれ日本が巻き込まれていくに違いないという激しい危機感を永田は抱いた。

 フランスの軍人フェルディナン・フォッシュは第一次世界大戦終結後、

「これは平和などではない。たかだか20年の停戦だ」と語ったが、永田もまた、勢力圏の錯綜や国際的な同盟提携など国際的な政治経済関係の複雑化によって、再び欧州の列強同士による世界大戦が誘発されることは間違いないとみていたという。


 そのため永田は、日本も来たる総力戦時代に備えるべく、「国家総動員」体制の構築を急がねばならないと考えた。




● 永田鉄山の軍事戦略構想 ②: 第一次大戦後の「国際連盟」体制の脆弱さを指摘し、次期大戦の発生は不可避で、日本もアジアで大戦に巻き込まれると予測し、その解決法として、資源不足の日本が資源を獲得するために満州および中国内陸部へ進出することを画策


 第一次世界大戦後、「欧州大戦の恐るべき惨禍」の教訓から、欧米の各国では、戦争の防止、世界平和の維持を目的として「国際連盟」をはじめ、その他連盟の存在とその機能を補完し、平和維持にかかわる多層的多重的な条約網(中国の領土・門戸開放に関する九ヵ国条約、ワシントン海軍軍縮条約、不戦条約、ロンドン海軍軍縮条約など)の制定など、いくつもの戦争防止策が講じられた。


 しかし永田鉄山は、いくらこのような条約網をつくっても、近代工業国間の戦争を防止することはできず、したがって次期世界大戦の発生も回避することはできないという「戦争不可避論」の見地に立っていた。


 かたや、原敬や浜口雄幸といった当時の代表的な政党政治家たちは、次期大戦の防止を主要目的として創設された国際連盟の戦争防止機能を積極的に評価し、その役割を重要視した。

 彼らもまた、もし次に世界大戦が起きれば、その戦争は高度の工業生産力と膨大な資源を要する国家総力戦になるとみていた。

 だがそれだけに、もし次の大戦が起きれば、日本は財政・経済・資源の現状から、きわめて困難な状況に陥ることは明白だった。

 だからこそ彼らは数々の条約によって構成された大戦後の「ベルサイユ体制」(欧州における平和維持体制)および「ワシントン体制」(アジアにおける平和維持体制)を尊重し、それらによって国際関係の安定化に努めようとした。


 また、近衛文麿や北一輝、大川周明といった右翼の政治家や活動家たちは、国連体制は欧米列強による世界支配のシステムにすぎないとして激しい拒絶感を示した。


 が、永田鉄山は、もっと単純に、第一次世界大戦後につくられた国際連盟が、加盟国に対し連盟の決定を強制するだけの「力」、つまり紛争国に対し、その主張を「まげさせる」ことができる「権力」を持っていないことを理由に、連盟は世界平和維持の「完全な保証たり得ない」と判断した。

 

 永田のみるところ、第一次大戦におけるドイツの敗北は、軍事的敗北によるというよりは、全面的な破滅から自国を救い、将来の再起を期すために選ばれた講和の道で、その意味でドイツは未だ、国家の生存発達に必要なる弾力を保存しており、またドイツの「軍国主義」「外発展主義」は彼らの民族固有の性質で、そんなドイツが「大いなる恨み」を抱いたまま戦勝国から戦後賠償の圧迫に晒されている限り、いずれ暴発の危険性は高く、対するイギリスやアメリカの「自由主義」「平和主義」も、一面彼らの「国家的利益に基く主張態度」でしかなく、今後将来にわたって彼らが互いに抗争してゆくことは免れない、と推察していた。


 永田もフランス軍人のフォッシュと同様、現状を「長期休戦」状態とみて、そしてまた彼は、もし欧州のほうで世界大戦が勃発すれば、列強の権益が錯綜している中国大陸に死活的な利害を持つ日本も、否応なくそれに巻き込まれることになる、と予測した。


 しかし「物量」で勝敗が決まる「総力戦」時代の到来に際して、一番の問題は、日本が戦争遂行に必要な資源をほとんど自国内で産出しないということだった。

 永田もこのような日本の状況を「重要国防資源の自給を許さぬ悲しむべき境遇」といって歎いたが、そんな彼が、自国のこの不足資源の供給先として目を向けたのが、満蒙を含む中国大陸の資源だった。


 日本にとって「ボトル・ネック」となる「主要軍需不足資源」について、永田は、昭和2年(1927年)の時点で、鉄鉱石、鉄、鋼、鉛、錫、亜鉛、アンチモン、水銀、アルミニウム、マグネシウム、石炭、石油、塩、羊毛、牛皮、綿花、馬など17品目を取り上げて検討をしている。

 この17品目は当時重要とされた軍需資源をほとんど網羅していたというが、永田が調べたところによれば、石油を除けば、それら不足軍需資源のほとんどを、「満蒙」および「華北・華中」からの供給によって確保することが可能だといい、また、


「これを子細に観察せば、帝国資源の現状に鑑みて官民の一致して向かうべき途、我国として満蒙に対する態度などが不言不語いわずかたらずの間に吾人に何らかの暗示を与うるのを感じるであろう」


と、永田はつまり、それら日本にとっての不足資源を獲得するため、日本は満蒙および華北・華中に進出する必要があると結論づけた。




● 永田鉄山の軍事戦略構想 ③:ドイツにならった「生存圏」(レーベンスラウム)戦略を模索


 資源不足の問題を対外征服活動によって解決するというこの永田鉄山の考えは、彼が長年赴任していたドイツのナチ党ヒトラーの唱えた「生存圏」(レーベンスラウム)構想と思考を同じくするものだった。


 ドイツも日本と同じように資源が乏しく、また、つねに陸上国家と海洋国家の大国に挟まれ、いざ戦争となった場合、その存立を維持することが地政学的に非常に困難な国だった。

 ドイツの地政学者ハウスホーファーは、そんな資源不足のドイツが独立国家としての自給自足を行うためには、その不足資源を網羅したより広大な政治的支配の及ぶ領土「生存圏」(レーベンスラウム)の拡大と、また、戦争状態になったとき、敵国から輸出入を遮断されても大丈夫なような独自の市場を形成する貿易圏「アウタルキー」(自給自足経済)の確保が必要だと説き、ヒトラーはこのハウスホーファーの唱える説に大きな感銘を受け、そしてそれが第二次世界大戦において、現実に実行に移される結果となった。

 ヒトラーの理想は、戦後、世界を4つの広域地域ブロックに分割し、アメリカ、日本、ドイツ、ソ連とでそれぞれの地域秩序の主導者となることだった。


 また、永田鉄山が構想していた日本の総力戦体制化も、それは第一次世界大戦をドイツの参謀として指揮したルーデンドルフによって書かれた『総力戦』を参考にして考えられたものだった。



※ 宇垣一成の「生存圏構想」と永田鉄山の「生存圏構想」のちがい


 1920年代後半から1930年代初頭にかけて、複数の内閣で陸軍大臣を務め、当時の陸軍主流派をまとめていた宇垣一成は、永田鉄山と同様に軍隊の近代化や国家総力戦隊の構築および対外生存圏の獲得を目指すという考えを持っていて、そして永田ら統制派による改革に先んじてその実現に手をつけた人物だった。

 ただし宇垣は永田と違って、日本が獲得すべきその生存圏のなかに、中国内陸部(華北・華中)までは含めなかったというのが大きな違いだった。


 宇垣はソ連との戦争を念頭に、中国本土を含めないかたちでの、日本・朝鮮・満蒙・東部シベリア

を範域とする自給自足圏の構築を考えていた。

 宇垣にとっての敵はあくまでソ連で、そのため中国人を敵に回すことはせず、また、ワシントン体制を前提に、米英との衝突も避けるべきだという考えを持っていた。

 宇垣にしてみれば、無い無い尽くしの日本では「生存圏」といっても、完全な自給自足体制の確立など非常に困難な課題で現実的ではなく、そのため不足軍需物資については米英などからの輸入に頼る方向を想定していた。

 日本と同様、米英も中国本土には強い利害関心をもっていたが、宇垣は彼らを排除することなく、不足資源の調達以外にも、より協同して経済的な発展を図るべきだという姿勢で、もし次期大戦が起こったとしても、宇垣の場合は米英とは一緒に提携していくことが想定されていたという。


 が、いっぽう永田にとっての満蒙とは、華北・華中奪取へ向けた「橋頭堡」という位置づけだった。

 また、永田は、不足軍需物資を米英に頼れば、それは大戦にさいして、国防上「独自の立場」、自主独立の立場が維持できなくなるとして反対だった。

 米英との提携関係を強要されれば、「国防自主権」、国防上の方針決定のフリーハンドを確保することができない。

 宇垣のスタンスと異なり、永田の場合は、米英との対立の可能性も考慮に入れ、中国の華北華中を含めた自給自足圏形成を構想していた。




● 永田鉄山の軍事戦略構想 ④:「中国一撃論」(武力で相手を従わせて日本の国益を確保する)の提唱と「華北分離工作」(中国内陸部への進出)の推進


 永田は、もし日中関係が安定していれば、戦時下においても必要な資源の供給も受けることが可能だが、しかし当時、中国国民政府によって展開されていた「革命外交」と排日運動のもとでは、とても困難だと考えた。

 永田は国民政府に対し、やむをえなければ、「無理に〔も〕自分〔日本〕のものにする」方法をとらねばならぬと考え、場合によっては、軍事的手段など一定の強制力による中国資源確保、すなわち満蒙・華北・華中を含めた自給圏の形成が想定されていた。


 永田によれば、当時の中国の排日姿勢の背景には、政党政治家によって行われていた英米に対する「協調外交」路線による日本の国防力の低下が原因としてあるということだった。

 日露戦争によって日本が獲得した満蒙権益はその後に米英など圧力によって削減され、さらにワシントン会議における九ヶ国条約によって、日本は中国大陸での行動に強い制限がかけられ、米英と比較して日本は国防力の低下を招いた。

 そしてそのことが、中国国民党の「革命外交」による排日侮日運動、および張学良が支配する奉天軍閥の反日姿勢を激化させ、日本にとって中国内陸部進出のための橋頭堡となる満蒙の既得権益を脅かしているのだと。

 こうした現状では、戦時下に日本が中国から必要な軍需資源の供給を受けることなど困難であり、とても「通常の外交交渉による方法」では、日本はきわめて困難な状況に追い込まれてしまうだけになってしまうと永田は判断した。




● 永田鉄山の軍事戦略構想 ⑤:「軍部の力」を用いたファシズム的手法による政党政治の支配を推奨


 永田鉄山は、宇垣一成ら旧陸軍派閥グループ、あるいは永田ら統制派と同じ学閥エリート集団である皇道派のグループたちとも、近代軍制改革の点において同じ方向性の考えを持ちながら、あくまで彼らと合同しなかったのは、中国進出に対する考え方に違いがあったからだった。


 宇垣らのグループは政党政治家と組んで協調外交・軍縮路線を推進し、またかつて「バーデン・バーデンの密約」を交わした小畑敏四郎とも、永田は中国に対する方針を巡って激しい論争となり、やがてその両者の対立が「皇統派」(小畑側)と「統制派」(永田側)というグループへの分裂を生み出す原因ともなってしまった。


 永田は陸軍部内では「合理適正居士」と呼ばれるほど頑固で理屈っぽく、絶対に自分を曲げないという性格で、小畑もまた永田に負けないくらい直情径行の人物だった。

 満州事変後の昭和7、8年ころから両者の争いは激しくなり、特に当時の日本にとっての最大の難敵だったソ連に対する日本軍の対応の仕方をめぐって決定的に決裂した。

 小畑は「予防戦争論」を唱え、革命後のソ連が「五ヵ年計画」でより強大化する前に叩いておくべきだと主張したのに対し、永田はソ連を叩く前に、隣りでさんざん反日侮日を煽って日本を敵視している中国のほうを先に叩いておかなければ、もしいざ満州でソ連と戦うことになったとき背後から襲われるかもしれないとして、「中国一撃論」を唱えて譲らなかった。


 両者とも、ソ連が日本にとって最大の敵国であるという認識は変わらなかったが、そのソ連と戦うために、中国を先に叩いて、中国からの資源を確保してソ連との戦いに備えるべしと主張した永田に対し、小畑のほうは、ソ連と戦うのに中国を敵に回すなどとんでもないと反論した。小畑はまた米英との関係も悪化させないことを第一とすべきだとし、これも永田と激しく対立した。



 “ 半藤一利『昭和史』p.129、130より

 

 小畑「今ならまだ間に合うのである。極東ソ連軍があまり強力にならぬ前に、機会をちらえてソ連軍を撃破しておく。それは、北方(満州)最重点の『予防戦争論』ともいうべきものである。そのためには、いかに抗日の姿勢をみせようとも中国とはことを構えず、アメリカやイギリスとも静謐を第一義とする」


 永田「ソ連に手を出せば全面的な戦いとなる。今の日本の国力と軍事力をもってしては、単独ではとうていソ連に抗しえなくなる。それよりも、満州事変の戦果を拡大して、謀略をも併用したうえで、まず抗日、侮日、排日の方針を堅持する中国との問題を一気に処理することが緊要である。すなわち中国を一撃をもって屈伏させ、大陸に後顧の憂いをのぞいたのちに、それらの資源を利用して、日本の国力を推進したうえでソ連に当たるべきである」


 小畑「ソ連一国を目標とする自衛すらが困難と予想されるのに、さらに中国を敵とすることなどとんでもないことである。中国を屈伏っせるべく全面的に戦うことは、わが国力を極度に消耗させるばかりでなく、それはアメリカ、イギリスの権益と衝突し、世界を相手とする全面戦争になる恐れがあろう。短時日に屈伏、戦争終結など至難のことである。ひとしく東洋民族たる中国とは、実力によらず、あくまで和協の途を求めるべきである。それよりもソ連が強大になる以前に、好機を求めてこれを打倒すべきである」

 ”


 皇統派の将校たちは米英との協調のために、彼らが求める利権の集中する中国は侵さないとしたが、その点は協調外交を推進する政党政治家と変わらない立場だった。


 永田鉄山は、そうした、軍部による自由な作戦意思と行動を妨げようとしてくる政党政治家たちや軍内における他のライバルグループの動きに対しては、「力」で排除し、そしてその力によって敵対者たちを自分たちの意のままに服従させるという、まさにドイツのファシズムのような政治支配システムの確立を希求した。

 ただし、日本の場合は一国一党の政党による政治の支配ではなく軍部の独裁による政治の支配、および挙国一致体制の構築が必要だと永田は考え、そしてそのように実行した。


 永田は、政党政治の方向に対抗して、「純正公明にして力を有する軍部」が国家動動員論の観点から政治に積極的に介入すること、すなわち軍部主導の「力」による政治運営が必要だと主張した。


 永田は、「近代的国防の目的」を達成するには、挙国一致が必要であり、それには政治経済社会における幾多の欠陥を「芟除せんじょ」しなければならないといい、そして、そのためには、「純正公明にして力を有する軍部」による「非常の処置」によって、「為政者を督励」することが不可欠の要事になると思い至った。


 しかし最終的な結果としては、日本はまさに小畑敏四郎の主張した通りの結末となった。



永田の軍事構想 ①:「国家総動員体制」の構築 → (日本が挙国一致の全体主義に)


永田の軍事構想 ②: 第一次大戦後の「国際連盟」体制の脆弱さを指摘し、次期大戦の発生は不可避で、日本もアジアで大戦に巻き込まれると予測し、その解決法として、資源不足の日本が資源を獲得するために満州および中国内陸部へ進出することを画策 → (第二次大戦は永田の予想通り起こったが戦場はヨーロッパがメインで、極東アジアで日本がその大戦に巻き込まれるというまでではなかった。また、米英仏にとって彼らの求める利権が集中する中国内陸部への進出を狙い、むしろ自分のほうから大戦に巻き込まれていくという結果に)


永田の軍事構想 ③:ドイツにならった「生存圏」(レーベンスラウム)戦略を模索 →(ドイツと同じ結果に)


永田の軍事構想 ④:「中国一撃論」の提唱と「華北分離工作」の推進 → (日本の中国侵略および日米開戦の原因となる)


永田の軍事構想 ⑤:「軍部の力」を用いたファシズム的手法による政党政治の支配を推奨 → (軍部の暴走化を引き起こす)



 永田鉄山は来たる次期世界大戦を予測し、そして実際に「第二次世界大戦」(1939年~1945年)が発生したが、永田自身はその大戦の勃発を見ることなく、昭和10年(1935年)8月12日に、皇統派との争いのもつれから、恨みを抱いた皇統派将校の相沢三郎中佐によって斬殺され死亡を遂げる。


 が、相沢事件の裁判が非公開にされたことに不満を抱いた皇統派青年たちは、さらに過激な「二・二六事件」という政府変革を求めた実力行動に出て、これが失敗して「皇統派」は壊滅し、事件後陸軍内は一気に永田鉄山の意志を受け継ぐ東条英機ら「統制派」グループによって独占さることとなった。


 皇統派の若手青年将校たちは、軍の武力を用いた強硬手段によって政治決定を変えさせるという方針を持っていたが、その点では永田らの統制派と変わらなかった。

 ただし永田鉄山の考えでは、それをするのはあくまで軍首脳の人間たちがすることで、下部組織の兵士たちが勝手な実力行動を起こすことは、軍の秩序を乱す「下克上」的行為として激しく嫌悪していた。

 そのため永田ら統制派のグループでは、なんとか皇統派青年将校たちの暴発を防ごうと、人事異動で要注意人物たちのいる部隊をまるごと海外の任地に飛ばしてしまおうとしたりだとか、そのようなことをしていて、それがまた、両者の対立を激化させる要因にもなっていたのだった。

 「二・二六事件」とはまさに、軍の上層部(統制派)が、「危険分子」たちの巣窟となっていた第一師団をまるごと満州に移駐させてしまおうとしたことを察知した皇統派青年の村中孝次、磯部浅一らによって強行された事件だった。


 なお、永田鉄山が、皇統派青年将校の相沢三郎中佐から恨まれて斬殺された原因も、それは永田が軍務局長時代に、陸軍大臣となった林銑十郎を動かして、そのとき軍中央に残っていた皇統派のボスの一人・真崎甚三郎大将を教育総監の地位から追い落として排除したことが引き金だった。


 しかしその後、ライバルの皇統派を排除して軍内の支配権を確立した東条英機、武藤章、田中新一、服部卓四郎、辻政信らといった永田直系の「統制派」グループによって、満州事変から続けて、敵からの襲撃を受けたということを名目にした中国内陸部への侵攻作戦となる「支那事変(日中戦争)」(1937年~1945年)が引き起こされるに至る。

 日中戦争の作戦を担当した参謀の武藤章は、戦争をすぐに終わらせると豪語していたが、やってみればかつて皇統派の小畑敏四郎が危惧した通り、ドロ沼化して収拾がつけられなくなり、なんと支那事変は戦争の開始から8年後の日本の敗戦まで終わらせることのできない戦争となってしまった。


 米英との「太平洋戦争」も、実はこの「支那事変」(日中戦争)を解決するために引き起こされたものだった。

 日本軍は中国国内の資源その他の権益を狙って日中戦争をしかけたが、日本軍による中国侵略を警戒した米英仏ソら列強が、軍需物資を送るなどして間接的に中国軍を支援する側に回ったため、日本がそのまま支那事変を完遂するには、米英仏ソを一緒に叩き潰さねばならないという必要性が、ここで初めて生じてくることとなった。


 といって、米英に貿易の多くを依存していた日本が彼らを敵に回すことは非常に困難なことだったが、ところがそこで幸いにも、「第二次世界大戦」が勃発し、日本の同盟相手だったドイツがあっという間にフランスやオランダを降伏させ、イギリスも征服寸前のとこにまで追い詰めるという奇蹟の事態が訪れた。それで一気に流れが変わった。


 アメリカはもし同盟国イギリスがヒトラーに滅ぼされればアメリカも危くなると考え、日本がドイツと組んで南進し、イギリスにとっての最重要植民地であるインドとの補給路を断つ行動に出ることを最も恐れ、各種の経済制裁を課すとともに、もはや日本との戦争開始も覚悟のうえで日米交渉を同時に開始するが、日本のほうもこの頃にはもう開戦の覚悟は決めていたも同然だった。

 日本とアメリカが交渉を始めた頃には既に日本は「日ソ不可侵条約」(昭和16年、1941年)を結び、日独伊ソの四国同盟で米英に対抗することを決め、そしてもはや中国内陸部を突き抜けて、日本にとって最大のネックとなる石油資源の豊富なオランダ領インドシナまで征服してしまう作戦の準備を進めつつ、日本もアメリカとの交渉に臨んだ。


 ところがその途中でヒトラーがイギリス本土上陸を諦めて、「独ソ不可侵条約」を破っていきなり「独ソ戦」(1941年~1945年)を開始するという大ハプニングも発生したが、日本にとって北の安全は一応、確保はしているという状況で、ほぼ南進で決まりという方針は変わらなかった。


 アメリカは「ハル・ノート」で日本に対して最後通牒を突きつける形となったが、「ハル・ノート」における最大の争点は、「日本軍の支那からの撤兵」にあった。


 最終的に、日本はアメリカからのその「支那撤兵」要求を受け入れることができずに、日米開戦へと至ったが、支那撤兵とはまさに、かつて永田鉄山が宇垣一成や小畑敏四郎らの意見と衝突させて激しく争って拒絶をし続けた、統制派グループの他のメンバーたちにとってもそれは、日本の「生存圏」構想を打ち砕き、「国防自主権」を喪失させ、日本の自主独立を阻むという、彼らにしてみれば致命的「亡国の策」に他ならない行為だった。








手直ししながら書き足していきます。

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