極私的 少女論 あるいは聖少女幻想
「少女」とは定義すれば、
子宮と乳房を感じさせないようなある年代(幼女期)から
それが感じられる季節への過渡期の、未完成の、揺れ動く女性の束の間のほんの一時期をいう。
具体的に言うならば12歳前後の少女前期から少女中期の15歳~少女後期の18歳前後ということになろうか?
これはまさに過渡期であり幼女性から女性性への過渡期である。
この時期の女性としての未完成の美、、それが少女である。
そして、18歳を超えるころから女性は、次第に女性性が完成されて、おんな (フェミニン)らしくなりすぎてきて
もはや少女(過渡期)ではなくなってしまうのである。
12歳以下ではまだ、少女というよりは幼女といった方がより近いだろう。
中性的で、まだ未分化で、女性的要素 (フィーメイル)があまりないのである。
幼女から少女への第一段階が12歳前後からはじまる。
、12歳ころから次第に女性性の萌芽が芽生え始めて、それが顕著になるのが15歳前後である、
12から15まで、これが前少女期である。少女準備期である。
少女全盛期は15歳ころから18歳前後まで。
このころになると、女性性が次第に浸透されつつある。
しかしまだ、このころはいまだ未分化の幼女性と女性性が混淆して
未分化の不安定な魅力に満ちています。
少年のようでもあり
幼女のようでもあり
時としてお色気がちらりとかいまみれたりと、
とにかくいろんな要素がまじりあって複雑な魅力になるのです。
こういう少女という、過渡期の混淆性が、男にとっては非常に妖しい。まぶしい、とらえどころのない
魅力になるのです。
つまりは、
成人女性の女性性の完成した、落ち着いた魅力にないものがあるのです。
ですから昔から文学などでも少女のこういう危うい魅力を描いた作品も多いのです。
ゲーテの描く「ミニヨン」(ウイルヘルムマイスター)
アイヒェンドルフが描く「エルヴィン」(予感と現在)
ナボコフの描く「ロリータ」
キャロルの描く「少女アリス」
まだまだいくらでもあります。
男たちは昔からこういう少女の不可解な魅力にはまりそれを描き続けてきたのです。
つまり男というのは大なり小なり、
まあ、今風に言えば広義のロリコンだということなのです、
大人の女性になる直前の 、不安定な,中性的な妖精のような、ある、1時期の少女時代は、女性の一生の中で特異な位置を占めている。
それはたとえば、つげ義春描くところの、「紅い花」の少女のように、メランコリックで夢見がちで、あったりもする。
たとえばミニヨンあるいはノバーリス描くゾフィーという形貌によって永遠化された、ドイツロマン派の少女たちはどうだろうか?
「ウイルヘルムマイステルの修業時代」に登場する謎の美少女ミニヨン、思春期の不安定さに満ちたこの少女は
その生い立ちも定かでなく、旅芸人一座で虐げられている。
ウイルヘルムによって助けられたミニヨンは、淡い恋心をはぐくんでいくことになる。
朧な記憶のかなたに立ち上る生まれ故郷のイタリアへの思いを歌った、ミニヨンの歌「君よ知るや南の国、レモンの花咲き~」それは憧れと恋心と
予感と、郷愁に満ち溢れたものだ。
またミニヨンはこんな歌も歌っている。
「ミニヨンの歌」ゲーテ作
憧れ知る人だけが
私の心の苦しみを知ってくれるのです。
ただ一人で私は幸福からも見放され
かなたの空を見晴るかすのです。
ああ
私を愛し、私を知る人は
はるかかなたです。
眼は回り
胸は張り裂けそうです。
憧れ知る人だけが
私の心の苦しみを知ってくれるのです。
ミニヨンの歌
君知るや南の国
レモンの木は花咲き くらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわわに実り
青き晴れたる空より しづやかに風吹き
ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く
雲にそびえて立てる国や 彼方へ
君とともに ゆかまし
(森鴎外 : 訳)
(以下私の拙訳です)
君知るや、かの屋敷。列柱の屋根は高く、
広間は輝き、居間は明かるく、
大理石像はわが顔を見つめ、、
あわれ子よ、いかなるつらきことのありや、と。
問いかける。
君知るや。
かなたへ、かなたへ
君と共に行かまし、わが頼みの方よ。
kennst du das land ,wo die zitronen bluhn.
im dunkeln laub die goldorangen gluhn.
ein sanfter wind vom blauen himmelweht.
die myrte still und hoch dre lorbeer steht.
kennst du es wohl?
dahin dahin
mocht ich mit dir, o mein geliebter ziehn.
いかにもロマン派的な情調に満ち溢れた詩ではある。
詩人にその霊感を与えてくれる少女という図式は古今東西ありふれた構図?であろうか?
「それを人はミューズ「詩の女神」と呼ぶ。」
詩人に限らず小説家とか画家にもそれはある。
まあ一種のアニマとでもいいえるものだろう。
古くはダンテのベアトリーチェとか、
まさにダンテにとってのミューズであった。
しかし少女を普遍化して、描いたのは
ドイツロマン派である。
ゲーテのミニヨン、(ゲーテは その初期はロマン派だった)
ノバーリスのゾフィー、
ホフマンのアウレーリエ
ヘルダーリンのディオティーマなどなど、
すべて少女像を永遠化した作品である。
ただし現代の小説家の描く「ロリータ」とか
そういう系の小説とは一線を画す。
少女はドイツロマン派では聖別化されて聖なる昇華を遂げて詩人のミューズとして
救済の女神になっているからだ。
ところが聖別されなかった少女は現代では
JKビジネスの、春をひさぐ、肉化した俗化した現実態としてしか存在しないのである。
その走り?が
ナボコフの「ロリータ」であり、そこでは少女はあくまでも肉化された存在で
聖別される由もない存在として描かれているばかりだ。
実際問題、少女なんてものは、そんなドイツロマン派の詩人たちの描くような
聖別化されうるものではなくて肉化されただけの存在なのだが、、、
あえて詩人はそれを聖別して昇華させてミューズに祭り上げたわけなのだろう。
そういう意味ではミニヨンもゾフィーもアウレーリエもアリスも妄想の産物?でしかない。
まあしかしこれも芸術のたまものであり
たとえば藤田嗣治描くところの「猫を抱く少女」みたいな少女が現実にいるはずもないからと言って
それでフジタ芸術が貶められるわけもないとの同一であろうか。
そんなこと言えば
アリスだって
ドロシーだって
現実にはありえない少女たちですからね?
まあ作家の妄想の産物
というかその作家のアニマそのものでしょうね。私の潜在意識の中にもそういう
妄想の聖別された「永遠の聖少女像」ってありますものね。それは完全に清められた
聖別された犯すことができない聖少女像ですよ。
jkビジネスのような、売り買いできる「商品」としての肉化した現実少女ではないです。
現実の生身の肉なるものとして少女ではないです・
いわゆるロリータ趣味とは隔絶した
まあいってみれば聖母マリア信仰みたいなものでしょうか?
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
というわけでだいぶ少女論から脇道にそれてしまったが、、
さてもしも
39歳の落ち着いた知恵も気配りもある成人女性と、、
17歳の妖精のような奔放な少女と、、
その、どっちを選ぶか、といえば、、
一般的に男は、、おそらくは、(本能的に)17歳の方を選んでしまうのです。
このように男は本質的にはほとんどが、広義のロリコンです。
さて、厳密に定義すれば15歳から18歳までが本当の、少女期であるといえるのではないだろうか?
18歳を過ぎると、この辺りから成人女性的に完成されてきて統一されてくる。
18過ぎればだんだんと、もう少女ではなくなってくるのである。
18歳から22歳くらいまでが若い女性期。
動物学的に言うと「若メス」の時期である。
「成熟メス」への見習い期間ということ、
22歳から26歳くらいまでがいわゆる女性完成期
動物学でいえば「成熟メス」、、生殖期である、。
生殖繁殖に最も適した時期である。
26歳から30歳くらいまでが後期成熟期である。
30歳から35歳くらいまでが晩期成熟期
35歳から40歳までが最晩期女性期、
40歳からいわゆる更年期の初期
45歳から更年期後期
45歳から50歳、老年期初期
50歳から55歳M老年期中期
55歳から60歳、老年期後期
60歳からは老年期晩期が始まる。
この区分は男性もほぼ同等であると理解されたい、
さて少女論に話を戻す。
12歳~14歳 前少女期
15歳~17歳 少女全盛期
18歳~20歳 少女晩期
女性はこの3期でもっとも大きく変貌する、
まるで
幼虫からさなぎへ 12歳
さなぎから蝶々へ 15歳
蝶々として羽ばたく 18歳
と大変身するように、劇的に変化する
同時に精神的にも大きな不安と、期待に揺れ動く。
少年についても
ほぼこの3期で、変身するといえる。が、男は女性の変貌ほどには
それほどの見かけ上の変貌は感じられない。
というかまあ男の子への関心はない?ということでしょうか?
両親にしても
女の子はかわいいし
這えば立て
立てば歩めと
乳母日傘で育てるし
日々愛くるしさが増してくるのは
歓びですからね、
12歳
15歳
18歳という
大きな変化が顕著に表れるのも、女の子ならでは、です。
目につく変化ということでしょう。
男の子は12歳でも15歳でも18歳でも
あまり劇的な変化はないですから。
徐々におとこらしくなったなあ、
くらいでおしまいです。
一般論として
女性は15歳まではいわゆる幼女状態がまだ色濃く残り、、
中性的要素が強い、もちろん個人差はあるが。
15歳前後を境に、女性化?フェミニン化?へと
変貌し始まる。
その過渡期状態を「少女」と呼ぶのである。
18歳を過ぎるともう女性として完成形に近づき
少女の不安定さ
過渡期は20歳くらいで、おわってしまう。
さて、では少女とはいったい何だろう?
よく、
「夢見る少女」という表現で少女像を現すことが多い・
が、、実はそもそも女性というものほど現実的な存在はないのであって。
少女にしてもその本体は非常に現実的です。
女性というのは非常に現実的な存在です。
少女にしても、ロマンティックな存在なんかじゃあありません。
ただ、、男が少女をロマン化してるだけである。
実際女性ほど現実的な存在はない。
なぜなら
そもそも女性がロマンや幻想に浸りきってたら、
現実から浮き上がってしまって、妄想や異世界に固執するようであったとしたら、
動物学的に
現実の出産、子育て、などできないからです、。
そういう現実的な生殖作用
出産育児などが現実的にできるように
だから、神は女性を現実主義者にしておいたのです。
その点男は気楽なものですよね?
出産も育児も、いわば他人事です。
だから男って、空想や。異世界に簡単にはまってしまうんですよ。
マニアとか
ゲーム廃人とか
オタクとか
圧倒的に男が多いのはそういうわけなんですね。
ただ少女期にはまだ女性としては未完成ですから、
ロマンティック要素も残っています。
そして中身は女の子です。
ロマンと女性性が同時にあるという稀有な一時期
それが少女の魅力なのです。
だから男の生来のロマン性にも呼応できる余地はあるのですね、
だからより一層男のロマン性をくすぐるともいえるわけです。
39歳の女性に、ロマンティシズムはまず皆無ですからね。
落ち着いた現実一辺倒だけの女性です。
でも、39歳の男はまだ、少年期の夢が十分残存していて
心はまだまだ夢見る少年なんですよ。
男と女が永遠に理解し得ないって
こういう祖語、、解離があるからなんですよね。
男は永遠に心の中に聖少女像を保持し続ける。
それをユングは≪アニマ≫と名付けた。
女も心の中に永遠の王子さま像を描いている、というか秘めている。
それを「アニムス」と、ユングは名付けた。
だが女はやがて出産や育児という現実に凌駕されてソンナ夢物語は捨て去らざるを得ないのです。
で、私は男なのでここではアニマについてだけ述べたいと思う次第だ。
男の心の中に秘めていてそれが悪さをしたり?
低次元な奴はロリコンで事件を起こしたり
あるいは、もっと高次元な奴は、昇華して詩人のミューズになったり、
その男のレベル?によってさまざまな現れ方をする。
すごい低レベルだと、、少女誘拐犯?ロリコン、幼女殺し、ベドフィリア、、、、、。
すごい高いレベルだと、聖少女像にまで昇華して、詩人のミュウズ、世界との和解の仲介者としての永遠の女性性、になるのだろうか。
まあそれもこれもその男のレベル次第でしょうね。
さて、、、、
藤田嗣治の少女像、レオナール・フジタの絵画で良く見かけますよね?
あの独特のエキセントリックなおよそ、現実には存在しないだろうような、うすクリーム色の少女たち。
猫を抱いていたりくるっと瞳を回転していたり?
ただどう見ても、こんな少女が現実に実在するとは到底思えない少女ですね。
それはただちにフジタのアニマの投影であり、彼の心に浮かんだ
幻想の少女像でしかないだろう。
アニマとは?
男性の原風景として常に心の中にある理想の女性像のイメージ?である。
女性ではそれはアニムスと呼ばれる理想の?男性像である。
単純に言えば「白い馬に乗った王子様がいつか私を迎えに来てくれるはず、、、。」
という、、、あれである。
男にとってはそれは『永遠の女性』「聖少女」「聖処女」という形になる。
芸術家は、自分のアニマ(アニムス)をしばしばその作品に表出している。
特に男性作家はその傾向が強いように私は思う。
永遠の少女といってもいいだろう。
実際ゲーテは老年(確か80歳?)になってから16歳の少女に求婚しているくらいだ。
ETA・ホフマンもそう。家庭教師で行った家の少女(14歳?)に夢中になり
求婚したが断られて失意のどん底に落ちている。このときホフマンはすでに妻帯者である。
こう見てくると「それって、ただのロリコンだろ?」ということにもなろうが
それを高次元で止揚して昇華して永遠化した?のはさすが?ホフマンであり、、ゲーテだったね?
たとえばゲーテ、「ファウスト」を救ったのは永遠化された聖少女?グレートヘンではなかったか?
あるいは、ダンテはその神曲でベアトリーチェに具象化されるような永遠に女性的なものが
女性的な愛の概念が世界を回転させうると断言しているではないか?
そしてあの狂詩人、ヘルダーリンにおいては、混迷の退廃のそしてあまりにも乏しい乏しすぎる
この時代を救ってくれるのは、ディオティーマという理想化された永遠の女性像である。
ファンタジー小説の世界でも、アリスは、永遠の少女像の化身?であるし、
赤ずきんちゃんは男の永遠のあこがれ?である。
詩人にその霊感を与えてくれる少女という図式は古今東西ありふれた構図?でもあろうか?
それを人はミューズと呼ぶ。詩人に限らず小説家とか画家にもそれはある。
まあ一種のアニマとでもいいえるものだろう。
古くはダンテのベアトリーチェとか、
まさにダンテにとってのミューズであった。
すべて少女像を永遠化した作品である。
もっと上げましょうか?
銀河鉄道999のメーテル(これなんて、まさに、鉄郎の心の中にだけいる永遠の女性ですものね)
騎士道物語の、、あこがれの君、まだいくらでもありますよね。
ロバートネイザンのたぐいまれな作品、「ジェニーの肖像」においては
売れない三流画家?のエブンに一代の傑作肖像画を描かせるのは幻想の少女であるジェニーなのである。
少女はドイツロマン派では聖別化されて聖なる昇華を遂げて詩人のミューズとして
救済の女神になっているからだ。
ベアトリーチェ、
ディオティーマ、
ゾフィー、
グレートヒェン、
これらの女性は詩人たちに霊感を与え鼓舞し偉大な創作へと向かわせた詩の女神たちなのです。
もしこれらの女性に巡り合わなかったら詩は開花せず、
詩人も生まれなかったかもしれません。ただこれらの女性たちは詩人のフィルターで
かなり誇大妄想的に聖別化?女神化されている節もあります。
これらの現実の女性は、、詩人の心の目で見ると
飛んでもない崇高な女神に変身させられてしまうのでしょうね。
詩人のフィルターで聖別された、
詩人の昇華作用で聖少女になった。
ただこれらの女性は尽きせぬ詩の泉となって詩人の発想を高めたことは事実です。
ということは詩人は巡り合う前から
その永遠の女性像を心に持っていたということにほかなりません。つまりアニマに出会うべくして出会ったということに過ぎないともいえます。
あるいは心の中のあこがれの君を現実の女性に仮託?投影しただけ?
ダンテがベアトリーチェにもし出会わなかったら?いいえ、出会うように決まっていたのです。
それが宿命だったのですから。
さて、、いらぬ補足かもしれませんが
ベアトリーチェとはあの「ディヒナコンメーディア」(神曲)に絶大なインスピレーションを与えた
ダンテ・アリギエリの永遠の女性です。
ディオティーマは狂気のギリシャ憧憬詩人ヘルダーリンの永遠の女性です
ゾフィーとはドイツロマン派の思想的な中心人物であるノヴァーリスのアニマ(ミューズ)です。
グレートヒェンはあの「ファウスト」に登場する薄幸の少女ですね。
こうした詩人たちにインスピレーションを与えた永遠の女性はほかにもたくさんいるでしょう。
というか詩人が100人いれば100人のこうしたミューズが存在するのです。
なぜならそれは現実に存在しようがすまいが結局のところどうでもいいことなのですから。
心の中にいるアニマが現実化しようが夢の中だけで存在しようが同じだからです。
私にも、実はアニマがいます。つまり永遠の女性です。それはイシス女神であり
幽界の妻であり、おとぎ話の幼馴染の少女であり、要するに、、、、私の「アニマ」です。現実に存在しているかって?
いいえ、それは夢の少女たちです。
現代というややこしい時代にはそれはむしろ夢の女性のほうがいいのです。
もしそんな少女が現実に存在したら?下手すれば私は取りつかれて、ストーカーとして犯罪者?になっていたかもしれませんからね。
詩人の思い込みがアニマを投影したその現実女性に通じればよいですがもし一方的な思い込みだったとしたら?
現代ではそれをストーカーと言って犯罪行為なのですからね。低次元なたとえで、申し訳ありませんが
もしダンテが他の男と結婚したベアトリーチェを付け回しでもしたら
現代ではそれは犯罪なのですから。
夢の中にいるだけの永遠の女性のほうが、、ややこしい?現代では好都合?なのです。
夢の中だけの永遠の女性はまさにあなただけのものあなただけのミューズ(詩の女神)でしょうからね。
ただし
現代の小説家の描く少女像はより写実的、現実的なものがほとんどだ。「ロリータ」とか要するにそういう系?ナボコフの「ロリータ」では少女はあくまでも肉化された存在で
聖別される由もない存在として描かれているばかりだ。
実際問題、少女なんてものは、そんなドイツロマン派の詩人たちの描くような
聖別化されうるものではなくて肉化されただけの存在なのだがあえて詩人はそれを聖別して昇華させて
心の中で、、、ミューズに祭り上げたわけなのだろう。そういう意味ではミニヨンもゾフィーもアウレーリエも、アリスも妄想の産物?でしかない。
まあ、、しかしこれも芸術のたまものであり
たとえば藤田嗣治描くところの「猫を抱く少女」みたいな少女が現実にいるはずもないからと言って
それでフジタ芸術が貶められるわけもないとの同一であろうか。
そんなこと言えば
アリスだって
ドロシーだって
ロートケップヒェン(赤ずきんちゃん)だって
現実にはありえない少女たちですからね?
まあ作家の妄想の産物というか
その作家のアニマそのものでしょうね。私の潜在意識の中にもそういう
妄想の聖別された「永遠の聖少女像」ってありますものね。
それは完全に清められた聖別された犯すことができない「聖少女」像ですよ。
現実の生身の肉なるものとして少女ではないです・
いわゆる俗化したロリータ趣味 (ロリコン)とは隔絶した
まあいってみれば聖処女マリア信仰みたいなものでしょうか?
まあ
だいぶ話があちこちと、飛んでしまったが
フジタの少女像も彼の心に常在する永遠のアニマ永遠の女性像の具現であるのであろう。
こういう少女の典型というかいわゆる永遠のアニマ
としてはたとえばアリスであり赤ずきんでありドロシーであり
これらがより堕落した?現代の世俗系では「ロリータ」でであり
「プリティベイビー」であるのだろう。
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